軽くですが欠損表現を含む傷の描写がありますので苦手な方はご注意下さい。
焔の視線
濃い夜の気配がさらにその暗さを増す時間。
その場所には、ささやかながらも必死に闇を和らげようとでもしているようなランプの光が灯され、動いているものの息遣いがはらはらと零れていた。
熱病に冒されたかのようなひどく荒い呼気がひとつと、まるで死人との境界に居るほど静かな呼気がひとつ。
持ち主は、それぞれ簡素なベッドとその傍らでじりじりと夜を食いつぶして過ごしていた。
ぱた、ぱた。
音など聞こえるはずもない。
それは、ベッドとは名ばかりの、堅い寝台に寝かせられた若い男の傍らから。
彼の片腕は肘から先が無く。
大腿は半ばで裂けて白いものが覗いていて、見るからに痛々しい。
思わず目を背けたくなるほどの怪我だが、寄り添うように蹲る青年は気にした様子も無く、ランプの明かりが弱まるのを気にしていた。
時とともにあたりを浸食し、床に落ちてかすかな声を上げているのは横たわった彼の身から逃げ出した血液達。
本来纏っていた色が分からなくなるほど彼は全身を赤で汚していて。拭うこともできずにいるその端は黒く固まりかけている。だが、まだ鮮やかな傷口は、いくらきつく布で縛っても無駄だと、嘲笑うかのように新しい赤が滲んでは、ぱたぱたと奇妙な音を立てて静かな空間を汚した。
「バッツ……」
声音には、深い痛みが滲む。
呼びかけは寝台の傍で息を殺していた青年のもので。相手は彼の目の前で荒い呼吸をしている人物。
名を呼ばれたことが分かったのか。
バッツと呼ばれた彼は、薄く笑みを浮かべた。
ひゅうひゅうと空気を通すだけで精一杯の咽喉が不自然に震えたことで、青年は彼が自分の名を呼んだのだと気付く。
スコール、と。
耳に返るのはいつかの声。
晴れた空を渡るぴんと張った空気のような、聞いているだけで心地よさを感じる響きを思い出して。
スコールはもう一度彼の名を呼んで、口元に逆流してきた赤を拭ってやる。
ここまで来れば、スコールとて覚悟を決めていないわけではなかった。それでも、理性と感情は別物で。
縋り付くようにして血の気の失せた白い体に腕を回す。
ぱた、ぱた、ぱた。
流れ落ちていく血が踊る。
ひゅう、と。
外からは長く尾を引く魔法独特の音が聞こえていた。合わせるように、隙間から入り込んだ風が渦を巻いて、奇妙に音楽的な響きへと変える。
強く、弱く。
風に乗るようにして聞こえてくるのは笑い声。
剣戟の音。
もはや殆ど光を写さない瞳を半分開いたままで、バッツはそれらを聞く。
剣とともに踊るのは、尻尾を揺らして器用に空中でバランスを取る小柄な人物。ジタン、と。唇の端だけが動いて、彼は仲間の名を呼んだ。
そんなジタンと対するように自らの魔力で空を裂き、曲を奏でるのは彼の因縁の相手であるクジャ。
ぱた、ぱた、ぱた。
くる、くる、くる。
二人は踊る。
奏でられる曲は、血の赤と光球の白に彩られた悲鳴の円舞曲。
剣の先に切られたクジャの体から赤が舞い、光球に囲まれたジタンの視界が白に染まる。
風が運ぶ光景に、見えない目を細めてバッツは薄く笑った。
ぱた。ぱた。ぱた。
傷の先から墜ちる水滴が、外から聞こえる音楽にあわせて拍を刻む。
ジタンも、クジャも、そしてバッツも。
旋律を奏でるのは己の命。
流れて墜ちていく赤は、確実に己を死へと誘うものだというのに、バッツの表情は穏やかで、傍で見守るスコールの眉のほうがひどく険しい。
風が吹き抜けて、幻の光景を運ぶ。
何をしていたときなのかはもう思い出せない。
忘れられたような、朽ちかけた酒場の端の舞台で。
楽しそうにジタンが笑う。彼に引っ張られるようにスコールの体が円を描き、中央に引き出されて。
くる。くる、くる。
最初はぎこちなく。だが、すぐに緩やかな音に乗った二人は流れるように床を滑って、舞台を回った。
「お? スコールって踊れるんだ」
ちょっと意外。
ジタンの言葉はもっともだろう。普段のスコールは、そんなものとは無縁に見えるのだから。
最初はリードしていたジタンが一歩引けば、役割が交代したこともあってより自然に流れが出来る。こればかりは体格差の問題があるから仕方ないだろう。
自らもそれを自覚しているジタンは、おどけた調子でドレスの裾を軽く持ち上げる仕草をする。
悪のりしたバッツが伴奏の速度を上げるが、紡ぎ出されるピアノの音は盛り上がりの最高潮で不意に途切れた。
止めたのは、悪戯に伸びるジタンの尻尾。
まだ鍵盤に指をかけたままで、バッツは首を傾げる。
「どうしたんだ?」
「やっぱりここはバッツにも踊ってもらわないと、ってな」
「おれが入ったら誰が伴奏やるんだよ」
まだ固まったままでいるバッツに、ジタンはにやりと笑って。無言のまま隅の棚の前に移動する。
下段に置かれたケースを開けば、中から出てきたのは、予想通りの弦楽器。
「もちろん、オレが弾くんだよ」
まだ呆然としているバッツを椅子から追い落として、ジタンはピアノの前に立った。
しばらく手を触れられていなかったのだろうそれを、慣れた様子で調弦する彼に、バッツもスコールもまだ呆然としている。
「ジタンが楽器できるっていう方がびっくりなんだけど」
バッツは素直に己の感想を洩らす。
もちろん、スコールが踊れるというのも随分と衝撃的ではあったのだが。
ジタンは、自分は劇団員だと言い、実際芝居がかった仕草をすることも多いが、楽器を扱うどころか、歌うことも避けていたような節があった。
「できないなんて言ってないぜ。ただ、芝居と比べたらこっちはオレの役割じゃないから」
それでも。時折、街頭で次の舞台を宣伝したり、一人芝居する仲間のためにそういった演奏を引き受けることがあった。
「ピアノじゃ持って歩くのに都合が悪いからな」
ジタンが抱える小さな楽器は、彼の言うとおりの意味で都合がよかったのだろう。
悪戯を思いついたかのようにジタンは弓を滑らせ、こんにちはと音で告げる。
これに反応をしたのは、バッツよりも寧ろスコールだった。無表情ではあるのだが、それなりの時間を彼と一緒に居た二人は、些細な変化にすぐに気付く。
一瞬だけ視線を合わせて笑った彼らに、スコールは気付けなかった。
「じゃ、頼んだぜ。ジタン!」
「おう、任せろ!」
踊る側は久しぶりだと笑い、バッツはスコールの前に立つ。
「なあ。エスコート、してくんないの?」
おれが男役とっちゃうよ?
バッツが笑って首を傾げれば、対するスコールは、やれやれと言うように肩を竦めて首を振った。
にやにやと笑うジタンが、早く決めろと言うように指で弦を弾いた。
ぽん、ぽん。
ぽん、ぽん、ぽん。
ひっそりと笑うように零れる音。それは次第に踊りのための拍を刻み。
溜め息を吐いたルコールが諦めたように手を伸ばす。
嬉しそうに笑ったバッツが、己の指をその先に触れさせた。
瞬間。
弓に導かれた声があたりに響いて、スコールとバッツは勢いのままに踊り出す。
くる。くる、くる。
楽しそうにジタンが続く旋律を呼び、彼に応えて小さな楽器は高らかに声を上げた。
ほんのひとときの戯れの時間。
ジタンが紡ぐのは少し砕けた街の民の舞踏曲。堅苦しい形式を必要としないだけ、バッツにはこちらのほうが馴染みが深く。逆にスコールは戸惑ったように眉を寄せて、ついて行くので精一杯。
「あははっ。スコール変な顔してる」
誰のせいだ、とは。思っていてもスコールは声には出さない。だが、それはバッツにもジタンにもしっかりと伝わっていて、二人の笑みを濃くさせただけだった。
空気を揺らす弦の響きと。
床を踏む靴の音と。
音に乗って混ざり合う笑い声。
ぱた、ぱた、ぱた。
楽しそうな声に混ざって奇妙な音がする。
漂うのはじりじりと芯を焦がすランプの揺らぎと、風の声。
もう柔かな笑みを纏った音も、物騒な剣戟の音も聞こえなかった。
ああ、現実だと。
半分朦朧とした意識で気付いた瞬間にすべては掻き消え、一瞬の静寂。
こつ、こつ、こつ。
居るはずの無い訪問者に、スコールはバッツを背に庇うようにして己の剣を腕に抱いた。
「……誰だ」
静かに問う。
「おれだよ、スコール」
「バッ……ツ?」
まさか。
肩越し、振り返れば全身を赤に染めたバッツが横たわっている。だが、聞こえた声も紛れもなくバッツのもので。
眉を寄せたまま、警戒を解かないままで居るスコールを他所に、静かに扉は開いた。
ランプの灯りが勢いよく吹き込んで来た風に悲鳴を上げる。
扉の前に立っていたのは赤い、色。
寝台に突っ伏しているバッツに劣らず全身を血で染めたバッツの姿だった。
「なぜ……」
ぱた、ぱた、ぱた。
彼が手にした剣からは乾かぬ雫が流れ落ちて、小さな水溜りを作っている。
暗さと、全身を染める血の色のせいで判別が付きにくいが、焔の色をした瞳が細められたことで、彼が笑ったのだと判別出来た。
「だって、それはおれだもの」
「は?」
許しも無いままに踏み込んで来た影は、音を立てることも無くスコールの目の前に立つ。
薄暗いランプの灯りが彼の身に付けている飾り玉に反射した。
からん、と。彼の手から握られていた剣が落ちる。
縫い付けられたかのようにスコールはその場から動けず、近付いてきた男が寝台のバッツに触れるのを見る。
「おれのひだりうではこいつの右腕」
ぴちゃり。水音だけが響いて。本来なら触れるべき指先はそこにはない。
おれのみぎあしはこいつの左足。
歌うように彼は告げる。
よく見れば、彼は鏡に映したかのようにバッツと同じ姿を持ち、同じように赤に濡れている。
「同じ存在だから。おれも、バッツ……だから」
言葉にほんの少しの違和感。それはすぐに肩当ての位置だと気付く。
同じ存在だというのなら、向かい合った時に同じ側に肩当があるのはおかしいのだ。
寝台に横たわるバッツはもう見えていないだろうが。
二人の瞳は同じ色で。
揺らめく焔のような。
白茶に少しだけ甘い蜜を混ぜたかのような。
赤とも、黄とも付かぬ色。
違うのは赤に染められた間から見え隠れする本来の色か。
片方の髪はやわらかな茶で。
もう片方は白とも銀とも付かぬいろ。
お互いの額を飾っている石が触れ合うほど近く距離を詰めて。
スコールの見ている前で彼らはそっと唇を重ねた。
ふ、と。
バッツの姿が揺らぐ。
解けて消えるように彼らの姿は重なって。二重写しになったようなバッツがその場に立つ。
動くことも出来ないスコールはただ見上げるだけ。
ふわりと笑った顔に血の気は無く。
呆然としたままのスコールの額の傷に唇で触れて。彼はもう一度笑った。
「返してほしかったら追いかけてくると良いよ」
おれが壊してしまう前にね?
もう途切れた腕から雫は落ちず。赤い足跡だけを残して彼らは風に乗った。
こつ、こつ、こつ。
扉を叩く音。
やってきたのは、誰だったのか。
クジャとの戦いを制したジタンがその場に辿り着いた時には、残り少ないランプの灯りが瀕死の悲鳴を上げているだけだった。
2010/03/13 【DFF】