Beast glasses

 全身を支配する怠さを無視するように身を起こす。
 ゆっくりと現状を、続けて経緯を思い返し、盛大な溜息とともに脱力した青年は、決して柔らかくはない寝台の上で苦鳴を零した。
「ッ……く。さすがにきついか」
 身を起こしただけとはいえ、どうも今の肉体には相当な負担だったらしい。乱れた息を多少落ち着かせてから、改めて枕をクッション代わりに壁に凭れて周囲を見回した。
 古い宿だ。
 窓は外から板を打ち付けることで塞がれているため時刻どころか昼夜も不明。天井の一部は変色しており、雨漏りくらいはしていてもおかしくなさそうな場所だが、反して室内はそこまで荒れていない。
 さらに、照明はオイルランプだが、灯しても中身の油が減った様子はなかった。
 部屋全体に保全の魔術がかけられていると告げたのは、今はこの場にいないバーサーカークラスのクー・フーリン。その彼は、取り急ぎだと青年に応急処置をした後で、用を済ませてくると外出していった。
 現状この場所にはエミヤしかいない。
 落ち着いたことでゆると思考が回り始める。
 レイシフト直後にあった襲撃は唐突だった。マスターを庇って負傷したエミヤは、その後弄ぶように敵生体に引き摺り回され、なんとかその場は撃退はしたものの、通信手段もなければ思いのほか損傷が酷かった霊基を把握して早々に強制送還の覚悟を決めていた。
 そんな彼を回収しに現れたのが狂王と呼ばれるクー・フーリンである。
 今にも消えそうな状態でありながらマスターは無事かと問うた弓兵に対し、誰かさんが思い切り空中にぶん投げたたからなと冗談めかして笑った男は、即座にペガサスを召喚したメドゥーサが回収していったから大丈夫だと続けた。
 同じようにレイシフトしてきた残りの一人は水着霊基のブリュンヒルデ。
 彼女はその気になれば原初のルーンを行使し、かつての権能も限定的ではあるものの扱えるので、空中を移動したとしてもマスターを追いかけるのは容易であっただろう。
 つまりエミヤを探しにきたのが狂王だったのはただの消去法だ。
 不慮の事故ではぐれはしたが、レイシフト完了まではカルデア側でもきちんと観測されていたはずである。マスターとの魔力パスも感じることができるため悲観してはいなかったが、言葉として聞けば安心できた。
 無意識にだろうが気が緩んだのを覚えている。
 もう限界のようだから後を頼んだ。そんな願いを断るの一言で斬って捨てた男は、珍しくルーン魔術を行使した。
 普段は身体強化と回復に全て回されているが、それは同時にその気になれば外向きにも扱えるということで。冷凍保存の魚よろしく問答無用で霊基を繋ぎ止められ、荷物のように担ぎ上げられてこの場所に連れ込まれた。
 さらにその後のことは嵐のようだった、との感想しかない。
 迂闊に詳細を思い出すと危険だと思考を打ち切って深呼吸を繰り返す。
 強制送還を回避できた以上、マスターとの合流を急ぎたい気持ちはあるものの、土産に敵を引き連れていくほど愚かでもない青年は、ぼんやりと天井を見上げたままどうにも思考が纏まらないなと苦笑を落とした。
 かちり。
 彷徨わせた手にぶつかったのは黒縁の眼鏡。忘れていったのかそれとも置いていったのかは不明だが、自分のものではないそれの縁をゆるりと撫でる。
「理性的であろうとする……だったか?」
 どこかの特異点解決の際に使われ、そのまま簡易的な霊衣として取り込まれた魔術礼装なのだと聞いた。
 ごく普通の眼鏡だ。特に珍しいものではない。また特定の霊基に紐づいてしまったそれを拝借して効果があるとも思わなかったが、なんとなく興味を惹かれた青年はそっとつるをひらいた。
 度の入っていないレンズだが、厚みの分だけほんの少し世界は湾曲する。
 眼鏡を掛けていると知的に見える。そんな曖昧な概念を昇華させたものは、外見を取繕うことで内面にもたらす効果を増幅させるものでもある。
 ただし。
「……やはり微妙だな」
 試しに手に持ったままで顔にあて、窓ガラスに映った己の姿を認めて苦笑した。
 大きめのフレームが厚く下りている前髪と相待って童顔を強調してしまう形状をしており、どうにもコンプレックスを刺激される気がする。
 苦し紛れに半分ほど前髪を撫でつけてみてもさほど状況が変わるわけでもなく、目を細めて遠ざけた眼鏡を持ち直し、今度は正面から眼鏡そのものを眺めやった。
 ほんの少し歪んでいる。原因に思い当たって誰にも聞こえない程度の文句をひとつ。
 背を預けたはずの壁との間で押しつぶされていた枕が軟弱にも役割を放棄し、体勢を崩した青年は重力に引かれるがまま倒れ込んだ。
「く……ッ」
 唇から漏れるのは苦鳴。もう一度起き上がる気力はない。
 今回のメンバーは全員眼鏡でいけるだとかなんとか。些細な発見を嬉しそうに語ったマスターから夏の霊衣でのレイシフトを乞われたため、普段の礼装より気持ち堅苦しくないことが多少なりとも影響しているのだろうと思う。
 乱れた寝台の上でぼんやりと他人の眼鏡を覗き込んだまま、その持ち主はあとどのくらいで帰ってくるのかと考える。
 出て行くときに他にも言い残していた気がするのだが、聞こえてはいても他のことで一杯になっていた脳はそれらを記憶していなかった。
 横になったまま少しだけ手にした眼鏡に慎重に力を加えて歪みを正そうと試みる。
 思いつきの行為は、普段と違いしっかりと調べてから行ったものではない。結果、壊すことはなかったが多少ましという程度になったところで諦めて力を抜いた。
「きみも雑に扱われて大変だな」
 そこで気付く。
 自分が気を失う前、この寝台は血液体液その他諸々で大変にひどい有様だったはずだが、その面影は一切ない。傷の有無は真っ先に確認していたが、薄いシーツに包まっている体の表面には何の痕跡も見当たらなかった。
 幻ではないと感じられるのは、辛うじて己の裡に巣食う熱があるため。
 一定以上汚れない、壊れない。保全の魔術というのはおそらくそういうことを含めてのことだろうと納得する。
「……なるほど」
「なに一人で百面相してやがる」
 唐突な声に苦労しながらも首を回す。
 視界の中で逆さまに立っていたのは、予想通り狂王と呼ばれるクー・フーリンであった。
「そんなことをしていたつもりはないのだが……しかし随分と血生臭いご帰還だな」
「皮肉のひとつも言える程度に復活したのならば何よりだ」
「おかげさまで……私の尻拭いをさせてしまってすまなかった。怪我は?」
 皮肉と言われたが、青年のほうにはそんなつもりはない。付け足された言葉に少し驚いたような表情を見せた男は、無いと言い切った。
 流石にこのまま無様に転がっているわけにはいかないと無理矢理身を起こそうとしたところを止められる。
「どうにもうまく回ってねぇな。燃料不足か」
「狂王?」
 ぱちり。一瞬目を離しただけだというのに、男の全身から汚れが消えているのに気付いた。
 青年は呆然としながらも何度か瞬きを繰り返したが状況が覆るようなことはない。
 辛うじてそれもこの場所のせいかと声を上げる。
「そうだ。テメェの汚れも消えてただろ」
「そう……か。君が何かをしたわけではなかったんだな」
「したほうがよかったか」
 これも珍しいことに、あからさまに揶揄だとわかる声音が降った。脱力した青年を覗き込むように乗り上げてきた体重に貧弱な寝台が悲鳴を上げる。
 間近になった姿に違和感を感じた青年は、すぐにその原因に思い当たってああと息を吐いた。
「私の眼鏡は君が掛けていたんだな」
「そうか、吹っ飛んでて聞こえていなかったか」
 声に非難の色はなく、すぐにただの確認だとわかる。
 すまないと言いかけた言葉は強引に重ねられた唇に塞がれ、行き場を無くして喉奥へと引き返して行った。
 くちゅりと絡んだ舌先が遊んで、青年の喉が動く。唾液に含まれる魔力が内側で燻っていた熱に薪をくべた気配。
「……ん、ぁ」
 謝罪の代わりに飛び出したのはどこか甘い呻き。
「多少は炉に火が入ったか」
 またも温度のない声音が落ち、するりと体を撫でた指先が腹の上あたりで跳ねた。
 もしや起き上がれないのは気付けないところで不調をきたしているからなのかと悩み始めた青年の手から眼鏡が奪われる。それまで男が掛けていたものは持ち主の元に返され、男の目元は彼のものである眼鏡で覆われた。
「狂王……?」
 『最初から一度離れるのが前提だったからな。結界の起点をこいつにしてあった。持ち出すわけにはいかねぇし、存在を重ねておけば非常時の通信手段にも目印にもなる』
 こつり。眼鏡のつるを軽く叩いた男の声が頭に響く。
 眼鏡を媒介にした念話の類だということにすぐに気付いた青年は、キャスタークラスでなくとも、面倒がらなければその程度のことはやってのけるクー・フーリンという男を見て苦笑した。
 他人の持ち物を勝手に借りたことに対する謝罪が今度は肉声で落ちたのに気付いて、謝る必要はないと表情を崩す。
「ちと上品すぎたか……」
「え、あ……ちょ、また、ゆがむ……ッ」
 名を呼ばれるのと舌が忍んでくるのが同時。
 勢いでぶつかり合った眼鏡が上げる抗議を黙殺した男は、更に深く舌を差し入れ、青年の口腔内を蹂躙していった。
 くちゅり、くちゅ。上がる水音が狭い部屋に散り、火を灯された腹の奥が蠢く感覚に喉を晒して息を乱す。
「続きだ、弓兵」
 薄暗い部屋の中でもはっきりとわかるほど薄硝子越しの瞳が燃えているのに息を呑んで。それでもなんとか口端を引き上げると、自ら脚を開き、獣は眼鏡をしないだろうと言い放った。
「道理だ」
 お互い視界を歪ませる相手のそれを抜き去ってもう一度深く唇を合わせる。
 サイドテーブルに押しやられた二つのフレームがかつりとぶつかったのすら耳に入らないまま、性急に体を重ねて。
 食らいつくような、それでいて跡を残さない絶妙な力加減の愛咬を獣がすることじゃないと笑うと、腕を回した背に爪を立てて先を促す。
 ぶりかえした熱を持て余すように自らも相手の肌に歯を立てて、言葉の代わりに獣の作法で先を強請った。

2022/03/27 【FGO】