つきあかり

 冬の夜は冷える。
 ましてや屋外に湯を張ってあれば、立ち上る湯気で視界がけぶるほど。
 ぼうと浮かぶ白が見知った男の背だと気付いたのは、そこに流れ落ちた青に遮られてからだ。
 口元から上がった白は溜息か。
「上手くいかんな……」
 何をしていると問う暇もなければ回れ右をしてその場を後にする余裕もない。
 一瞬後には姿が掻き消え、眼前に裸体の男が生えていた。何もない場所に人体が生えるわけはないがそこはそれ。そう思えるほど唐突に場所を移動した男が、楽しそうに目を細めて笑う。
「よぉ、アーチャー」
「……何の用だ、ランサー」
 いかにも不本意だという響きの青年の声にも動じることなく、おまえさんならできるだろうと男は笑ったまま。
 だから何をだ。重ねた問いの答えは、軽く挙げられた指で示された案内用の張り紙だった。
 掲載されているのは一般的な温泉の諸注意だ。
 古今東西の英霊達に対応するため急遽作成したのだということが見て取れるそれは、文字だけではなく絵で示してあり、作成者はこれまた青年の知っている人物のものだというのはこの際置いておこう。
 タオルを入れるな、掛け湯をしてから入れ。このあたりは定番だ。だが、その中にひとつ、男湯にはあまり掲載されない注意書きが紛れていた。
「髪を湯につけるな……か。なるほど。つまり君はそれができずに途方に暮れていたというわけかね」
「意識して上げたことねぇからな。それなら武装を変えればと思ったんだが、それができねぇときた」
 この場に足を運ぶことになった経緯は星見の場で頂いたマスターとの縁だ。
 そこでの彼には短髪姿の武装があったと記憶しているが、なぜか記憶はあれど座から直接訪問した身ではままならないらしい。
「わかった。結べばいいのだな。しかしとりあえず何か羽織りたまえよ」
 見ていて寒いと告げれば喉の奥で笑う響きが空気を揺らす。
 言うほうも、言われるほうも。影法師である身にには必要ないと理解している上での戯れのやりとり。
 冷えた風が湯気を攫って、同時に男の髪を遊んだ。
 脱衣所には屋根がかかっているため薄暗く灯る明かりは外の月の光に負けている。その中でも引き出されていた籠から迷わず浴衣を手に取って青年は男に投げつけた。
「乱暴だな」
「うるさい。さっさと羽織れ」
 くつくつくつ。笑いが散る。
 それでも大人しく浴衣を広げて肩に掛けた男に溜息をぶつけながら背後に立った。
 手にする男の髪は流水のようで、気を抜けば指先からさらりさらりと逃げていく。少し思案してから、青年は器用に纏め上げて装飾もなにもない木の簪で固定した。もちろん投影品である。
「これでいいだろう。あまり暴れると解けるからな。せいぜい大人しく湯に浸かっておくことだ」
「んー……それはつまり結いなおすやつがいるなら暴れてもいいってことだよな?」
 とん、ととん。数歩進んで屋根から出た男の上に冷えた冬の月。夜半どころか明け方に近い時間に、この場にいるのは二人だけ。
 陰になった表情は見えないが、笑っていることだけは把握できた。
「……たわけ」
 それ以外に何を言えというのか。
 遠回しなお誘いを叩き落して。それでも青年は自らの帯に手を掛けた。

2020/01/07 【FGO】