願いは音ならず天に舞う
飛行中のストーム・ボーダーの甲板には常に強く風の音が響いているものだが、今は飛ばされそうな感覚はない。
それもそのはずだ。よく目を凝らせばうっすらと粒子のようなものが周囲を漂っている。
「ふむ。甲板に来いと言われた時には何をと思ったものだが……」
ゆらゆらと揺れる光が溢れているのは、甲板中央に目視できる物体からだ。
高速艇の甲板に笹。しかも明らかに生えてはならないところから生えている。
明かりがあるわけでもない場所で、今は夜の中。甲板上は全体的に薄暗くはあるものの、あたりに漂う細かな光のおかげで、サーヴァントでなくとも歩行に支障はないだろう。
ゆっくりと近付いていけばその場に集まっている面々の表情が見えてきた。
同時に残響がほとんどない玩具のピアノの音がその麓から流れている。
きらきら、きらきら。
星が瞬くように。周りの粒子が音に合わせて踊る。
近付くにつれて口を噤んだ青年は、目が合った男に視線だけで場所を指示されて、音を立てぬように腰を下ろした。
演奏しているのはアマデウス、少し空けた隣には老王姿のプトレマイオス。向かいには笹が聳え、キャスタークラスのクー・フーリンが根本を支えるように腕を伸ばしている。
ちょうどその隣にぽかりとひらいている空間に腰を下ろすと、プトレマイオス老の両脇には可愛らしいクッションが所在なさげに佇んでいた。
疑問符を浮かべながら視線を巡らせれば、老王の足元あたりに鮮やかな色が覗いている。
よくよく見ればプトレマイオスの上着に半分ほど包まれ、その膝を枕に寝息を立てているのはマスターとマシュだ。彼の上着が届かないあたりにかけられているのはアマデウスの上着とクー・フーリンのローブである。
どうりでなにか物足りないと思った、と。最初に見かけた時から感じていた違和感の正体がわかって、青年は苦笑を零した。
言いたいことはあるがまだ演奏中。声には出さず、ただ細く息だけを吐き出す。
強風に邪魔されることもないようにと作られたのあろう、うっすらした光が障壁のようなものを作っている空間では、穏やかに笹が揺れ、それに遊ぶように音が散っていた。
ぽん、と最後の音が弾けて。壁を隔てたような淡い風の声だけが残響として渦巻く。
男達は無言のまま視線を交わし合い、頷いたプトレマイオスが両腕にマスターとマシュを抱えてその場を後にした。
今は老いた姿をしているが、元は戦士である。見かけよりもずっと体力がある彼が少女達を落とす心配などないだろう。
「マスター達もさっきまでははしゃいでいたんだけどね。流石に眠そうだったからさ」
くつり。笑いながら零すのはアマデウス。
それだけで彼の演奏が良い子守唄だったことが伝わる。
同じように笑ったクー・フーリンが、ひょいと紙の束を青年の前に置いた。
「随分と遅かったな、アーチャー。嬢ちゃん達、お前さんを待ってたんだぜ。絶対願い事を書かせる、ってな」
「どうしてそう……ああ、七夕か」
「そうそう。ちゃんと僕達も書いたんだよ。マスターの時代は面白いねぇ」
願い事を短冊に書いて吊るす。同じように笹飾りを作って飾る。
現代の学生だったマスターが思いつきで提案したこの行事そのものが、日常生活の象徴だ。
戦いの間のささやかな息抜き。皆が理解しているからこそ反対するものはなく、かわりに今あるもので実現できる範囲で協力を惜しまなかったからこそ穏やかな時間になった。
笹も、飾りも。全てが魔術でできていて、夜が明けた時に一切の痕跡を残すことはない。
彼らが囲んでいる中央の空間にはいくつもの作りかけの飾りがあった。
ゆっくりとアマデウスが立ち上がる。中央にばらけていた紙の中から扇を模した飾りを選んだ彼はそのままいくつか足して完成させ、クー・フーリンが支えている笹にくくりつける。
直後、ふわりと光を纏ったそれはあっという間に溶け消えて、あたりに漂う光の粒子に姿を変えた。
「この通り、すぐに消えてしまうから誰にも見られる心配はない。だけど、マスターと一緒にこの行事を楽しんだという事実が大事なのさ」
仮に眠ってしまっても自分達が見届け人になるからと説得した事実を告げた男は青年に対してもさあ書けとばかりに身を乗り出す。
「わ、わかった。わかったから!」
勢いに負けた青年は押し付けられたペンを手に紙の束と向き合う。
焚き付けたアマデウスも人の願いをどうこう言うつもりはないようで、書く気があるならよしとばかりにおもちゃのピアノの前に戻って行った。
ぽん。ぽぽん。
手慰みのような音が響く。
少し迷った挙句、青年はいつかどこかのマスターにも告げたことのある願いを選択した。
あえて日本語で漢字四文字を書き、そのまま立ち上がって笹に結ぶ。
ふわり。
己自身のことではないささやかな願いはすぐに光となって天に昇っていった。
「うんうん。確かに見届けたよ。それじゃあ僕はこれで」
おもちゃのピアノだけを抱えて去っていくアマデウス。うっかりその背を見送ってしまってから我に返った男は逃げやがったなと毒付く。そんなになっても動かないところを見ると、笹を維持しているのはクー・フーリンの魔術らしい。
変わらずさらさらと音を響かせる葉が、強いはずの風を遠ざけている。
「逃げ……? ああ、片付けなら私が手伝おう。待たせてしまった詫びだ」
告げながらも手は勝手に置き去りにされたクッションや上着、筆記用具などを集めていく。
僅かに表情を歪めた男は、解除した瞬間全部飛ばされてくだろうから手伝ってもらえるのは助かると溜息を吐いた。
青年の手が全てのものを集め終わり、レジャーシート代わりに敷かれていた布で包んだところで準備は完了。指先だけで近くに来いと告げられて、布を抱えたまま隣に並ぶ。
「術式を解除したら反動で結構な風がくるから必要なら掴まっておけ。あとはコレも結局光になって全部天に昇ってくんだ。風の音にかき消されて聞こえやしねぇから個人的な願いでも口にしろよ。叶うかもしれねぇぜ?」
「人の願い事には関知しないのでは?」
「それはちゃんと短冊に書いた場合の話だろ」
弓兵の応えを聞く前に男は笹から手を離した。それまで一体を避けていた風が渦巻き、ごうごうと激しく歌いながら髪を、礼装を巻き上げてはためかせる。
包みが飛ばされないようにしっかりと内側に抱え込んで、反射的に青年が掴んだのは男の服の端だ。笹を手放して自由になった男の腕が庇うように背に回る。
「よかったのか?」
「構わないさ。なにせこの現界では個人的な願いを勝手に叶えていく人達が近くにいてな」
言葉にする必要はないのだと笑う。ふうんと、どこか訝しげな声を零した男はそのまま距離を詰めて次に青年の唇から次の言葉を奪った。
荒れ狂う風に吹き飛ばされて、水音すら上がらない。
「どうせならオレもその中に入れてくれよ」
「……たわけ」
反動のような強風が僅かに弱まったのを逃さず、男の腕のなかから抜け出した青年はそそくさと艦内に戻る扉に向かいながら口端を引き上げた。
筆頭者がよく言う、と。零れ落ちた言葉は誰にも聞かせることなく風が攫っていく。
その後追いついてきた男が腰に手を回して。二人は後処理のために取っておいたのだという部屋に消えて行った。
2025/07/20 【FGO】