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 来客を示すチャイムが響いたのに気付いて、部屋の主である赤の弓兵は書き物をしてた手を止めた。モニタで確認しても来訪者の姿は見えない。首を傾げたものの、年若い姿で現界している者も居るのを思い出し、彼女達だった場合は身長が足りない等の理由で映らない可能性があるかと思い至る。
 少しだけ警戒をしながらも扉を開けた彼の視界に飛び込んできたのは、白い毛のかたまり。
 瞬間、思考が停止する。
 勢いよく部屋に雪崩れ込みはしたものの、奥の壁に激突するような愚行は回避した白い毛玉は、円を描くように壁沿いに室内を一周して部屋の主人の前に立った。
「は……?」
 しゅいん。呆然としている間に扉が閉まる。
 きちんと足を揃えて座った影は二つ。
 ふわふわの白い毛。はっは、と息を零す生き物には、覚えがあった。
「君達は……キャスターのところのか……?」
 黒の騎士王と、マスターである少年から請われて食事を作って以来、そう頻繁にではないが施設内のあちこちで見かけた姿であり、その後も食事を請われることがあったため、よく覚えている。
 部屋を認識されていたというのは驚きだ。
 カルデアに喚ばれた者の中には与えられた部屋を好きに弄っている者もいるようだが、その必要性を全く感じていない弓兵の部屋には、一切の物が無い。
 あるのはせいぜい備え付けの飲料ディスペンサーで使用するためのカップくらいで、それすらほぼ使用されずに片隅に追いやられている。
 日々のほとんどをマスターである少年の傍か厨房に居る弓兵にとって、部屋とはただ魔力温存のために寝る場所であった。
「ここではなにも出せないが、食堂に行くかね?」
 使い魔の類だと彼らの主に教えられた犬達は、言葉を話すことこそ無いものの、こちらからの問いは理解している節がある。だが、普段ならば喜んで尻尾を振るだろう犬達は、なぜか警戒するように姿勢を低くした。
 何か警戒させるようなことをしただろうか。首を傾げた弓兵の耳に、壁越しでもわかるほどの声が届く。
 どこに行ったと叫ぶその持ち主に覚えがあった。
「……なるほどな。彼女達から逃げてきたというわけか」
 ならば外に出るのはやめておこうと苦笑する。
 聞こえる声は二つだが、元を同じくするためか、とてもよく似ていて、注意しなければ壁越しにどちらがどちらの声かを判別するのは難しい。
 弓兵が先の一瞬で相手を把握できたのにはもちろん理由があった。四六時中厨房に詰めていれば嫌でも噂話の類は耳に入る。
 声の主は、騎士の王と誉の高い、ブリテンの英雄。ただし、英霊という存在の微妙さ故か、このカルデアに存在する騎士王は一人ではなかった。
 元を同じくするものでも、サーヴァントとして召喚される者はその一側面にすぎない。そして複数の適正があることを見せつけるかのように、クラスも性別も超えて現界した霊基は少なくとも五つ。その中で犬達を巡って争いを繰り広げているのは、セイバークラスの二騎だった。
 人類の物語において一番有名であろう聖剣を持ち、青の装束に身を包む『青の騎士王』
 同じく聖剣を持つが、ありかたが反転しているため、黒の装束に身を包む『黒の騎士王』
 伝承上の性別と違い女性として現界している二人だが、根本の部分では同じ。
 弓兵は直接目にしておらず話を聞いただけだが、亜種特異点のひとつと定義された新宿において、黒の騎士王は真白い野良犬に対し、かつて自分がお気に入りだった犬の名をつけ、二世としてかわいがっていたという。
 特異点が修正された後、その犬の行方を気にしていた黒の騎士王が、めざとく発見したのがいま目の前にいる犬達だった。
 生身ではない犬達だが、ふわふわの毛を持つその姿を見れば、好きな者なら撫でたいという欲求にかられるのも無理はないだろう。
 それはサーヴァントであれ、人間であれ変わらない。
 最初に彼らに手を伸ばしたのは誰だったのか。名までは知らないが、職員のうちの一人だったと記憶している。出会う人ごとに違う名前で呼ばれていた犬達だが、最初の出会いがあったためか、騎士王のことは避けていた。
 しかし。彼女達の執念がそれを上回ったのか、必然とも言える日は訪れた。しかも青と黒の騎士王、二人同時に相対してしまったからなお悪い。
 彼女達はそれぞれの言い分をもとに犬達を同じ名前の二世と三世と呼んだが、犬達にとっては、ほかの誰にでもそうするようにいくつもの名前の一つでしかなく、彼女達が単語一つで争う理由がわからない。
 我関せずを決め込み、いつものように要件だけを済ませて立ち去ったため、追われることになった。
 主のところに戻ろうとしたものの、先回りをされていたために果たせなかった彼らは、以前食事をくれた弓兵の気配を察知し、逃げ込んだ。
 というところがここまでの顛末であった。
 事情がわからないなりにも、なんとなく察している弓兵はどうしたものかと首をひねる。
「キャスターに引き取りにきてもらうのが一番手っ取り早いが……」
 使い魔の類ということは、命令を達成したとなれば待機状態になり、それ以上留まっている必要が無ければ姿は解けて術者に戻ることは予想できた。お使いだったのであれば、主の元に結果を持ち帰れば達成となる。帰れないのなら主人のほうに来てもらえばいい。
 だが、おそらくそんなことをしたら一発でこの場にいるとばれる。そうなった場合、次回以降何かあった時に避難場所をひとつ失うことになることが考えられた。
 とりあえずは彼らの主か、マスターの少年かどちらかに連絡をとるべきか、と考えたところで、部屋に備え付けの通信端末が呼び出しを告げる。
 お決まりの文句で応答すれば、画面に映ったのはまさにいま連絡を取ろうとしていた二人。
「よかった……二匹とも無事だったんだね」
 心底良かった、という表情で胸を撫で下したマスターの少年は、簡単な事情説明をしたあと、もうしばらく彼らと部屋に籠っていてほしいと要請してくる。
「承知した。本日は戦闘も厨房詰めも禁じられているから問題はないよ。レシピを写すくらいしかやることもない」
「うん。こっちで彼女達と話をして落ち着かせるから、お願いね」
「あー……どうせならおまえさんはそいつらを存分にモフモフするといいんじゃねぇか。ほら、あれだ。アニマルセラピーってやつだ」
 申し訳なさそうな顔で告げる少年の横から、どこか面白がっている男の声が割り込む。おまけにそれを聞いた少年まで心底うらやましそうな表情でいいなあと言い出すものだから、面と向かって即時拒否するのは躊躇われた。
「……君は私を何だと思っているのかね」
「いつでもよく働く厨房のヌシ様だろ。追い出されて手持無沙汰なんじゃないかと思ったんだが違うかい?」
 悪びれもなく告げる光の御子に気付かれないよう大げさに溜息を落とした弓兵は、自らの答えを放棄し、傍で行儀よく控えていた二匹に判断を委ねた。
「主はこう言ってるが、君達の意見はどうかね?」
 首を傾げるような仕草をして眼前の人物と端末の画面を見比べた犬達は、直後に響いたかまわんからやっちまえとの声に一斉に青年に飛びかかった。
「ちょ……ま……ッ……」
 引き倒され、全力でモフモフされる羽目になった弓兵の口から、こんな時でも外に漏れないようにと配慮しているどこか控えめな悲鳴が上がる。
「ねえキャスター、あれっていいの?」
「ほっとけほっとけ。アンタもしてほしいなら次の時あいつらに言ってみればいい。そんじゃま、オレらは暴走する獅子二頭を宥めにいくかねぇ……」
「あ、待ってよキャスター!」
 唐突にバタバタした気配が画面の向こうで漂って、ふつりと通信は切れた。
 床に倒され、今も全力で毛玉に顔を埋めている弓兵には明確に終話を確認する手段はない。ただ通話終了時に上がる独特の切断音が響いたのを辛うじて捉えただけだった。
 この身が只人であったのなら素直に温もりと捉えるのだろうか、と。
 いいようにもみくちゃにされながら弓兵は考える。
 しきりに擦り付けてくる体から、じわりと彼らの主の魔力が滲んだ。
 本来なら代謝も排泄もない、魔力で編まれた体でも、食事をすればそれは魔力に変換されるため糧となる。
 一般的な温もりのかわりに感じる魔力はどこまでも優しい、見守る者の温度。
 それならば、サーヴァントに対するアニマルセラピーというのも効果ありなのかもしれないと笑って。
 誰も見ていないのをいいことに、弓兵は犬達に手を伸ばすことを自らに許した。
 
  * * *
 
「つっかれたぁ……」
「おー、随分と手こずったなあ」
 廊下の所々に備え付けられた小さな休憩スペースにあるソファには、だらりとだらしなく溶けた影が二つ。
 彼らの髪は、重力に従って逆さまに地面を向いていた。しばらく呻きともぼやきともつかない声が上がり、それが途切れると盛大に落ちる溜息、という状態を繰り返す。
 起き上がるのも怠い、と零した声に同意が返る。
 時刻はもはや夜半過ぎ。騒ぎがあったのが夕方だから、と思い返すと何時間費やしていたのかと遠い目になった。
 唯一の救いは午後一番からシミュレーターでの戦闘訓練に籠っていたため、切り上げてすぐに夕食をとっていたおかげて食いっぱぐれなくて済んだことくらいか。
「ほんっと、ありがとうキャスター。俺だけじゃ無理だったよあれ……」
「おう、おつかれ。まあ、オレはあいつらを回収するって用がまだ残ってるから、弓兵にはついでに解決したと伝えておいてやるが、アンタはこのまま部屋に戻って休むといい。立ち上がれないなら嬢ちゃん呼ぶか?」
 男の言葉に、さすがにそれはどうかと思うからいいと返した少年はよろよろとしながらも立ち上がる。肉体的というよりも精神的な疲労が多分を占めるからか、多少危なっかしいながらも思ったより足取りはしっかりしている。
 ふわ、と。その口から欠伸が零れた。
「じゃあおやすみキャスター。エミヤによろしく」
「ああ。おやすみ」
 気安いやりとりには信頼が滲む。
 ふらふらしながらも歩き始めた少年の傍に、どこからともなく現れたフォウ君と呼ばれている獣が並走する様子を見て、男は苦笑を落とした。あれがついているなら、まずちゃんと部屋まで辿り着くだろう。
 精神的な疲労度は少年とそうそう変わらないが、年の功で問題ないという結論を無理矢理張り付けて、男は発端となった己の手足を回収すべく歩き出した。
 そういえば自分達と違い、巻き込まれた弓兵はずっと部屋に籠っている羽目になったかと思い当たって、食堂に寄り道。
 翌日の食事の仕込みをしていた厨房担当に軽食を分けてもらい、目的の部屋の前に立った。
 チャイムを鳴らせばすぐに応えがあって扉が開き、部屋の主である弓兵が姿を見せる。
「わざわざ来てくれたのか。解決したのなら呼び出してくれればよかったのに」
「それでも良かったんだがな。騒ぎのどさくさでおまえさんメシ食いそびれただろ? どうせ状況を説明する必要があるからその間に食ってもらおうと思ってな」
 ついでに持ってきたと言って笑った男に、面食らったように瞬きをして表情を崩すと、青年はそのまま半歩引いて男を部屋に招き入れた。
 来客を想定されていない部屋には落ち着いて向かい合える場所などはないが、彼らは気にしない。
 作り付けのデスクに持ってきた食事を置くと、男は勧められるままに寝台に腰を落ち着けた。
 主の気配を察した犬達が寄ってくるが、そちらの確認は後回しだとばかりに待機を命じる。
「とりあえず食べながら聞いてくれ」
「そうさせてもらおう」
 用意してくれた人物のことを考えると、残すと後が怖そうだ、と。おにぎりと味噌汁、漬物というラインナップを見ながら、そんな日本人大歓喜の夜食を用意するであろう人物の顔を思い描く。
 からからと笑う男は同意した後、マスターである少年とともに数時間にわたって展開された対獅子戦について語り始めた。
「ってことなんだが……なに笑ってんだよ」
「いや、すまない。だが、なんとなくその時の状況が目に見えるようでね」
 疲労困憊のマスターには明日にでも何か菓子を差し入れておこうと続ける。
 オレには何もないのかよと拗ねる男への返答は沈黙。とたんにジト目になって男は弓兵を見た。
「オイ……」
「いや、だって君はそんなに得意ではないだろう」
 まさか強請られるとは思わなかったと続ける。
 カルデアに現在居るクー・フーリンは全部で四人。クラス違いも多少の年齢の違いもあるが、根本的なところは変わらず、食の好みは似通っていた。そんな彼らは進んで菓子を口にするような好みをしていないと把握している。
 そう告げること自体が持つ意味を、弓兵は自覚していない。反対に、キャスタークラスで現界している男は、自分の分の菓子を最初から用意しないという意味を正確に把握できてしまった。
 だからこそあえて突いてやりたくなる。
「確かに酒や肉のほうが好みだが、おまえさんの作る菓子は嫌いじゃねぇよ」
 視線を外し、待機していた犬達を呼び寄せながらの言葉には、隠しきれない苦笑が混じる。
「そうなのか。それは……すまなかった」
 他意のない素直な好意の言葉を向けられるのに弱いのを知っている。
 同じ目的のために召喚された全員がこの場を拠点とし、生前と同じように生活しているとも言っていい状況でなければ不要な情報。
 歴戦の戦士が酒が飲みたいと告げるのも。
 年若い姿の者達がお菓子が欲しいと強請るのも。
 英霊という存在である以上、不要なはずのものを欲しがるという点では同じ。
「だからといってやたら欲しがるってこたぁないがな」
 普段は不要だと思っていても、たまには欲しいと思うことはあるだろう。
 さらり。零した言葉とともに手元の犬達の額を撫でる。
「キャスター。その……気持ちはわからなくもないが……今の君に槍は無理だと思うぞ……」
「なんでそうなるんだよ!」
 確かに普段からしきりに槍が欲しいと漏らしている自覚はあるが、今はそういう話ではない。
 どこかずれている弓兵には肝心なところで何も伝わらないという、顔を合わせる度に何度も繰り返されたことを、この流れでやられた男はがっくりと肩を落とし、逃避するように首を傾げた犬達と目を合わせる。
 自分の魔力で形作ったそれらの表面に僅かに混じる別の魔力に、内心だけで笑みを零した。
 撫でる、という行為は思いを残す。
 つまりそれは弓兵が犬達にとった行動の証。
「テメェなんぞもう一度モフモフにされてしまえ」
「うわ、ちょっと待っ……キャスター!」
 けしかける言葉。
 主の意図を汲み取って即座に動いた二頭は椅子から弓兵を引き摺り下ろして文字通りぎゅうぎゅうもふもふとやりたい放題。
「待て、顔は勘弁してくれ。こら!」
 あちこちをべろべろに舐められながら、エミヤは犬達に手を伸ばす。
 宥めるために仕方なくだ、と言い訳が聞こえてきそうな撫で方に、寝台の上で高見の見物を決め込んだ男は目を細めた。
「なんだぁ? 随分と楽しそうじゃねぇか。そういえばアニマルセラピーの感想を聞いてなかったが、どうだい?」
「どうも、なにも。待て、そこはだめだ!」
 狭いところに鼻先を突っ込みたがる犬達を押し留めて、それ以上の行動を封じるようにぎゅむ、と首筋に抱きつくような体勢になる。
 犬達もそれ以上は強引な手段に出ず、抱き込まれたまま弓兵の腕に鼻先を乗せて動かなくなった。
 果たして癒されているのは弓兵か。それとも満足気な犬達のほうか。
「本物ではなくても一定の効果は保証される、というのは認めざるを得ないというところか。だがキャスター、これ以上は私には不要だ。他に必要としている者のところに派遣してやってほしい」
 例えばマスターの少年。通信越しに聞いた羨ましそうな声を思い返す弓兵の穏やかな笑みは、いつも通りの、自分を幸せの範疇から外に置くためのもの。
「そうかよ。だがまあ、そいつらの意志ってモンもあるからな。現状をオレに言ってもどうにもならんぞ」
 自ら考えて行動する高度な使い魔は、複雑なことをこなせるかわりに好みも存在する。
 そんな知識だけは中途半端に弓兵の頭にあった。犬達にとっては嫌なことをせず、おいしい食事をくれる彼は好きの部類に入るのだろう。主人が制止せず、積極的にけしかけるという背景もある。
「そいつらはだいぶおまえさんを気に入ったみたいだからな。しばらく玩具にされる覚悟はしておけよ」
 男は楽しそうに笑う。自分に止めるつもりはないと告げながら。
「む……君達の主人はああ言っているが、言いなりでいいのかね?」
 腕の中でぴくぴくと耳を動かしている犬に語り掛ける弓兵の表情には不満の中に好奇心が滲む。
 大きく首を振って青年の腕から逃れた犬達は器用に寝台に上がると、男の背を押して床に転がした。
「痛ってぇ……何しやがる!」
「うわっ、私もか!」
 ある意味でそれは青の魔術師の思惑通り。
 床に落とされた男と青年は、隔てなく一緒にモフモフされ存分に玩具にされた後、満足気に寝転がる犬達に膝を提供する羽目になっていた。
「自分で体験してみた感想はどうかね?」
「あー……まあ、それ自体は悪くねぇ……が、なんだってこんなことになってやがんだ?」
「それは私が聞きたいのだがね」
 互いの背に背を凭れさせながら、気持ちよさそうに寝そべる犬達の額を擽る男二人。
 お互い背を向けているのをいいことに、笑みを零して。
 青年は犬達を起こすのは忍びないと言い、動けないことを言い訳に、触れた背から感じる相手の温度を振り払うことはしなかった。
 触れたところから伝わるのは温もりであり、滲む相手の魔力。それが不快ではないことを示され、気を良くした男はぐいぐいと体重をかける。
「重いぞ」
「ケチ臭いことは言いなさんな。なあ、アーチャー」
「いらん。それに彼らが起きてしまうだろう」
 僅かに声色が変わったことを察して何かを言う前に牽制してくる弓兵に気付かれないように溜息をひとつ。
 ぷすぅ、とどこか間抜けな寝息がそれを後押しする。
「使い魔みてーなモンなんだからそんな心配は無用だろうが。それに……」
 自分の分の菓子を作る気がないなら別のものをよこせと言って笑う男に弓兵は眉を寄せた。
「君が食べるというのなら作るのは嫌ではないと言ったはずだが?」
「他のもののほうが好みだとも言ったよなあ」
 なあ、アーチャー。
 意図的に熱を孕ませた声でもう一度呼ぶ。
 器用に体重をかけたまま体勢を変えた男は、背後から抱きつくようにして青年を拘束すると、喉元に唇を寄せた。
 軽い愛咬。
 青年が息を飲む。それでも抵抗を悩んでいる様子なのは詫びのつもりか。
 肝心な所で伝わらない鈍さに辟易することもあるが、詰めの甘さに笑うこともある。僅かな逡巡の後、青年から零れたのは呆れを多分に含む溜息だった。
「……悪食め。腹を壊しても知らんぞ」
「へいへい。ありえねえから心配すんなよ」
 笑う男と対照的に青年は仏頂面。
 意趣返しとばかりに、少しは犬達を見習えなどというどうでもいい小言が落ちた。
 それならば本当に犬達に倣ってやろうかと考える。
「ステイもできないとは犬達よりもタチが悪い」
「野生の犬が従順にヒトの言うことなんぞ聞くかよ」
「ふむ。それもそうか」
 どうにも甘やかにならない会話に痺れを切らして、男はもう一度青年の首筋に噛み付いた。そのままべろりと舐め上げてやる。
 まるで犬のような仕草に、彼は擽ったいと身を捩った。
 さんざんけしかけたおかげか、青年にとってはどうにもまだ犬にじゃれられているような気がするのだろう。
 元が同じなのだから当然だが、触れて感じる魔力は先ほどまで弓兵にじゃれていた犬達も、今のしかかっている男も同じ。だからこそ普段なら鉄壁のはずのガードが少しだけ綻んでいる。それならそれで好都合だと、気付かれぬように男は笑みを落として。次はどの手でいくかと思案を巡らしながら、とりあえず満足するまで目の前の獲物を堪能することに決めた。
 三回目の愛咬。
 前回よりも少しだけ強く歯を立てて痕を残す。
 もっとも、今の一瞬だけ痕になって見える程度の軽いものだ。だからこそ大げさに溜息を落とした青年がまだ余裕の表情で牽制を仕掛けてくる。
「じゃれつくのはほどほどしてもらいたいのだが?」
「痕なんざ残さねぇから心配すんなって。約束は守るヤツだって知ってんだろ?」
「そちらの心配はしていない。単に君の髪が触れて擽ったいだけだ」
 きっかけはなんであったのか。
 初めて体を重ねたのはまだ人理修復前だった。
 最初は雪山遭難的な魔力供給。
 情を伴った行為ではないのだから極力痕跡を残さないように、と。約束をしたのもその頃だ。
 どんなに繋がっても甘くならない関係を楽だと好んでいたのはお互い様か。必要に迫られての行為は実益を優先したもので、それに付随する感情は置き去りになっている。
 だからこそ、ここまでしても会話だけはいつも通りの温度で、熱が篭る気配も無い。
「ふむ。私は問題ないし、君も魔力が足りて無いようには見えないが、これは必要なことかね?」
 だからこそこういう言葉が出てくるのだとわかってはいても、脱力するのは隠しようが無かった。
「あほう。魔力じゃなくて別のもんが足りてねぇわ」
「そうなのか。難しいな」
「難しく考える必要なぞねぇだろうが。テメェも男ならなんかの拍子に勃っちまうことくらいあんだろ」
 不機嫌を前面に押し出した声で唸れば、曖昧な表情で瞳を隠す。
「そうだな……いや、あいにくとここに居る私はそういうものはすべて擦り切れてしまったのでな」
「テメェはいつもそれだな」
「君のお気に召す答えではないだろうが、事実なのだから仕方ないだろう」
 それでも長く現界すれば裡に溜まるものは増え、揺らがぬはずの思考を惑わせる。
 それは時折、記録としては鮮やかすぎるほどの眩しさで浮かんでくる過去の出来事だったり、何と言ったかも思い出せない決意の感情であったりした。
 本当に全てを擦り切れさせてきたのだろう弓兵が多少なりとも情を意識するようになったのはごく最近だ。
 だからこそ男は青年の言葉が真実であること自体は疑っていない。
「まあ、今はいいさ。で、付き合ってくれんだろ? つか付き合ってもらうぞ。オレの疲労を癒せや、オラ」
「……どういう理屈だそれは」
 青年は肩を竦めて意味がわからないと零すものの、行為そのものは拒否しない。
「簡単な話だ。テメェが気前よくケツを提供して善がってくれればいいってだけの話さね」
「君な……もうちょっと言い方というものがあるだろう」
「オレに今更そんなモンを期待すんのか?」
 光の御子と呼ばれ、英雄として崇敬を集める存在であるはずなのに、本人は無頓着だ。
 至極あっさりと純粋な疑問を返された青年はただ嘆息するしか無かった。聞いた自分が馬鹿だったとばかりに呆れの表情を浮かべて、纏う礼装を魔力に溶かす。
 言葉代わりの了承に気を良くした不埒な手が肌を辿り、唯一残した下着の端ぎりぎりを掠めて、浮き出た腰骨を弾いていく。それだけのことだが、楽しんでいる様子が伝わる触れ方だった。
 ローブと長手袋、手甲と指輪までを外して適当に放り投げた男の行動に、青年は苦い顔見せる。そんなことをしたら指輪などどこかに転がって行ってしまうだろうに、などと考えるのは性分だから仕方ない。
 こうして体を求められるのも、いつもの喧嘩も。手段が違うだけで、この男にとっては同じことなのだと気付いたのはいつだっただろうか。
 青年は体を弄られながら思考に沈む。
 思い出すのは今までのこと。
 黒く燃える冬木から無事にマスターとなる少年達が戻った直後、半壊した箱舟に取り残された人々は、その冬木の縁を頼りに召喚陣を起動させた。
 応じたのは鮮烈な赤と青。
 ほぼ戦力がゼロだった状態の時から一緒にマスターを支え、あらゆる敵と戦ってきた二人である。
 最初は必死すぎて喧嘩などと言っていられなかった。
 召喚直後は多少の皮肉を投げて軽い口論になったことは何度かあるものの、カルデアの生活水準が最低を大きく下回り、マスターになった少年がほぼ一般人という状態を見てしまえば、個人に絡む因縁の発露など、優先順位は大きく下がる。まして打開のために協力する必要があるとなっては、いくら青の槍兵……ひいてはクー・フーリンという存在と反りが合わないと自称する弓兵と言えども選り好みはしていられない。
 結果。彼らとはほどほどに友好的な関係で落ち着いた。
 真っ先に落ち着いてしまったキャスターの存在に引き摺られでもしたのか、珍しいことに見慣れた槍持ちの彼をはじめ、他の霊基で現界した彼らとも軽口程度の皮肉のやりとりで適度な距離感を保っている。
「い……ッ!」
「おいおい、乳繰りあってる時に考え事かぁ?」
 唐突な痛みに顔を顰めると、胸元で猛烈に不満そうな声が響いた。
 痛みの正体は本来の意味ではなく、言葉通りに受け取って胸を捏ねている指のせいだろう。
「……本当にもっとマシな言葉を使えないのか君は。しかも意味を間違えているぞ」
「そうでもねぇよ。まあ、今のはちょっとした文句だが、情を交わしている仲なのに変わりはねぇだろうが」
 ゆる、と。今度は掠める程度の刺激で触れられて、跳ねそうになる体を抑え込むのに必死になる。
 そんな反応などお見通しだとばかりに首の後ろにかしりと歯を立てられて、今度こそ弓兵の肩が震えた。
「君と、私がか? そんな甘い関係だったとは初耳だ」
「どうやら前戯無しでぶち込まれたいらしいな?」
「そんな事を言っても君は実際にはやらんさ。そういう約束の関係だからな」
 どうでもいいところに信頼を置いているらしい言葉に撃沈させられた男は呆れを通り越して頭を抱えたくなる。
 クー・フーリンという英雄は嘘と裏切りを是としない。そんな、本人にとっては当たり前である根本を素直に受け入れている弓兵は突然無意識に爆弾を投げ込んで来る。
「はー……テメェってやつはまったく……もういいわ。オラ、ベッドに乗りやがれ」
「やれやれ、乱暴なことだ」
「優しくさせねぇのはテメェの言動だろうが、たわけめ」
 心外だと言いながらも、青年は言われるがままに寝台に手を伸ばす。
 床から浮かせた腰を追って男も一緒に乗り上げて来るのを感じ、それでは横になれないだろうと文句を零した。
「必要ねぇよ」
「森の賢者殿は獣の体位がお好みかね」
 皮肉と呆れを貼り付けた青年のこめかみにひとつ、唇を触れさせる。
 息を感じる距離で笑いかけると、視線が泳いだ。
「おうよ。あいつらを見習えと言われたからな」
「そういう意味では……」
 視線を流した先には、完全に我関せずを決め込み、寄り添って丸くなっている犬二匹が寝息を立てている。おそらく何があっても全て見ないふりをしてくれるのだろうその様子に、弓兵の緊張が少しだけ溶けた。
「まあ、そりゃ冗談だ。今日はそういう気分なだけさね」
 上から伸し掛かるような体勢のため、ひたりと背を覆う体温と、逃がした視線に絡む清流の髪。手を伸べずとも感じる少しだけ高い体温と魔力は近く、自分がしたいからだと言いながら、触れる自由を許さず、柔らかく閉じ込めるような体位を選択するのは、魔力供給という名目のない交わりに及び腰な相手を気遣ったものに他ならない。
 青年は情の交わし方など知らないと言う。
 己の情を示すために相手の背に縋ることすらできないのなら、顔を隠し、シーツを握って構わないから、ただ受け取っておけ、と。
 言葉で何と言おうと、仕方がないと折れるところまで見越して先回りをするように気遣う。そんなところに無駄に知性を発揮せずとも良いものを、との文句はさすがに飲み込んで、弓兵はただ短く承諾の声を投げた。
「君がそうしたいのなら構わないさ。もっとも、落ち着かないのは認めるが……」
 言葉通り、置き場に困ったらしい手が落ちかかる男の髪を掬う。見た目に違わず重く流れる青は光を纏うように艶やかで、森の奥深くに眠る湖のように美しい。
 青年は掬い上げた髪の一房を引き寄せて、引っ張らないように注意しながら抱き込んだ。
 よく見れば褐色の肌にはうっすらと朱が刷かれ、瞳はゆるく隠される。
 男の瞳が細められ、唇は緩く弧を描いた。
 髪を掴むだけでそこまで安心されると多少良心が咎めるぞと軽口を落とした男は、青年の背に密着したままで腕を回すと、悪戯でもするように胸元に触れる。
 息を飲む音。
 刺激されたことで尖りをみせる先端を弄びながら肩口、首元と唇を落とし、舌を伸ばす。
 胸から腹へ。さらに下着の上から主張し始めた欲をなぞれば、褐色の体はシーツに額を懐かせて身動いだ。
 ひそり。熱を孕んだ息が逃げる。
「あー……ワリィ。思ったより余裕ねぇわオレ」
 こういう場合に先に限界を告げるのは必ず男のほうだ。
 じりじりと下着に染みを作る青年の体を追い詰めながら残っていたインナーを魔力に溶かし、無造作に取り出した自らの欲を押し付ける。
 返答は無い。それでも下着を引いた時に抵抗はなく、脱がそうとしたのが合図だとでもいうように溶け消えた。
 獣の体勢のまま、引っ張り出した己の物と、青年のそれを合わせて熱を煽る。
「……ッう……ふ」
 僅かに上がった声もすぐにシーツに埋もれて押さえ込まれたのがわかるが、それを無理矢理暴く真似をする必要は無い。今はまだ。
 はじめに時代も境界も超えて引き合うほど、己の存在を刻みつけた。
 心ではなく、体に魔力の味を教えた。
 因果をつきつける一方で、逃げ道を提示した。
 今回は、快楽を媒介に、魔力のかわりに情を交えることだけを告げればいい。
 気持ちがいい、と。男は自らの状態を言葉に出し、反応は無くても聞こえているはずの相手を伺う。
 きつく握られたシーツ。手探りで引き寄せられた枕に埋められた顔。それでも、握り込んだ髪の一房は手放す気もないらしい。
 声を聞くことも表情を伺うことも叶わないが、その体は快楽を認めていないわけではなく、震えは密着した肌に伝わった。
 そう時間を置かずに先端から滲んできたものに笑みを零し、背に唇を落としながら改めて膝を立てさせる。
 灯りを落とさなかった部屋。白く浮かぶシーツに濃色の肌が映える。顔を伏せ、シーツに縋る弓兵の背は獣のようなしなやかさで弧を描き、触れる男の欲望を煽った。
「たまんねぇな」
 唇を触れさせたままの囁きは肌をゆるく温め、振動を直接伝える。
 男の興奮に当てられたのか、つられるように青年の体温も上がり、シーツに吸わせきれない息が零れた。
 ぬるりと触れる感触。
 驚きに跳ねた体と、くぐもった悲鳴。
 双丘を割り開いて外気に晒した後蕾に舌先で触れた男はそのまま自らの唾液を塗り込むように舌を這わせた。
 尖らせた先を差し入れ、指を添えて開かせると、縁がひくつく様子を眺めながら唾液を零し、わざとらしく水音を上げて熱を煽る。
 震える肌を痕が残らない程度に強く吸い上げ、同じ場所をゆったりと舐め上げる。その一方で自らの欲に片手を伸ばし、同じように熱を高めた。
 合間に零す男の息にも熱が篭る。
 唾液を絡め、舌と一緒に忍ばせる指。何度も暴いた体は容易にそれを受け入れた。
 思わず崩れ落ちそうになった腰をぎりぎりで保持したのは青年の意地か。
 こんなところでまで負けず嫌いだと内心だけで笑う。ただ、おそらくその行動が相手をどれだけ煽ったかはわかっていないだろう。
「あーもう、これ以上はこっちが保たん」
 ちとキツイかもしれんが許せ。落とす声色は自分でもかなり余裕が無いのがわかる。
 くちゅりと水音。
 指を引き抜き、かわりに限界を訴える己の欲の先端を触れさせた。
 熱を擦り付けるようにぬるぬると蕾の周囲を遊び、身を折って背に唇を触れさせる。
 流れた髪が同じように背に触れ、そのままシーツの間に流れた。
 髪の檻は小鳥を閉じ込める役目すら果たさない。
「いいか」
 拒否されても辛いが、男はあえて問いを落とす。
 一瞬の間の後、握り込まれたままの髪が引かれた。
 伏せられたままの顔を覗き込むように伺えば、かすかに頷いたのがわかって自然と笑みが落ちる。
 相手の背に額を懐かせたままで、殊更ゆっくりと先端を埋める。内の熱さに耐えるように、触れさせたままの額を強く擦り付けた。
 欲と熱に浮かされた息と、飲み込んだ小さな声に応えるようにゆると内側が蠕動する。
 時折慣らすように小刻みに動かして、無理がないかを確かめながら少しずつ奥まで。
 完全に溶けきるまで解せたわけでもないが、思っていたより無理なく入りきったのは、相手が拒否せず受け入れることを選んだからだとわかる。
 とん、と。奥に先端が触れたのを合図に完全に覆いかぶさって肌を触れ合わせ、外と内の熱に酔う。
 胸元に手を回し抱き寄せるように密着すれば、シーツから引き剥がされると思ったのか、汗に濡れた体が素直に緊張を伝えてきた。
「そんなつもりはねぇよ。そのままでいい」
 触るぞと前置いて胸から臍を撫で、さらに下へ。滑らせた指先で青年の欲を握り込む。
 正直に言えば。顔を見て口付けたいと思わなかったわけではない。
 お互いに魔力は足りている。
 常であれば。行為を求める際は魔力不足のことが多く、対魔力の低いこの弓兵は男の魔力にあてられて酔ったような状態で受け入れている。
 だが今はそれも無く、意識はしっかりしているだろう。
 男はそれ以上無駄口をたたくのはやめにして、奥まで埋めた己を軽く動かした。
 最奥への刺激は弱く、軽くだけ。同時に握り込んだものを扱き、まだ違和感があるであろう後ろの刺激を誤魔化すようにわかりやすい快楽を注いでやる。
 ぎち、と。
 握り込まれたシーツがひときわ大きな悲鳴を上げた。
 そろそろか、と。浅いところまで楔を引き戻すと、吐精を促す動きを止めず、内にある己を一番感じるであろう部分を狙って打ち付ける。
 押さえつけられてなお殺しきれなかった悲鳴が散った。
 前を慰めていた指先を掠めた白が、シーツの上に欲の花を咲かせる。
「く……ッ! ちょっと、待て……!」
 急いで埋めていたものを引き抜くが、間に合ったかどうか微妙なところで男は吐精した。閉じきらない蕾を愛撫するかのように白濁が流れ落ちて、濃色の肌に鮮やかな欲の証を描く。
「にゃろう……魔力は足りてんだろうが。今日はナカで出すつもりはねーっての」
 荒い息が二つ。解放の余韻に浸りながら力の抜けた背に額を落とす。
 僅かに戸惑いが背を震わせた気がしたのは、先の宣言のせいか。
 確かに菓子のかわりは貰ったぞと、男は戸惑う背中を眺め、もう一度抱き寄せながら体重をかけて笑った