Booby Trap
ざわざわと風を通す木の間を縫うように進む影がひとつ。
背の低い草や細い枝が張り出す、人の手がほとんど入っていない森を足早に移動しているにしては、奇妙なほど音がしない。先を急ぐ影は、体重を感じさせないかのような動きで倒木を跳び越え、少しだけひらけた場所で視線を上げた。
被っていたフードを押し上げて、空の様子を確認する。
どんよりと暗く、低くなった空は、今にも雨粒が落ちそうな色をしていた。
軽く舌打ちをひとつ。
「急がねえと降られるな」
雨はあまり好きじゃない、と。続けられた声は低い、成人済の男性の声。
じわりと沁みるような疼きが右肩に走って、もう一度舌打ちを落とした。
はたり。
堪えきれずに落ちて来た水滴は、あっというまに視界全てを遮るほどの勢いで地面を叩き始める。水滴自体の被害は森の中にいるだけまだましだが、強い雨は葉を叩き、その音は周りの気配をかき消してしまう。かといって雨宿り出来るような場所も見える範囲にはなく、男は雨の中、少しだけ速度を落として歩を進めた。
この地方では珍しいほどの雨はさらに激しさを増し、外に居る者の体温を容赦なく奪っていく。
降り掛かる大粒の水滴が鬱陶しい。
濡れて重くなり、深く張り付くフードを度々押し上げて周囲を確認するが、雨の音以外に聞こえる音は特に無い。確か情報によればこのあたりは虫と獣型のモンスターが多い。この雨ではそれらも息を潜めているのだろうか。
空はまだ暗く、雨が上がる気配は無い。むしろさらに強くなる雨脚に嫌気がさしてもう一度舌打ちを落とすと、男は比較的大きな木の傍に身を寄せた。
こつり。
葉を叩く雨の音に紛れて軽い音がしたが、彼の耳には入らない。
「……さすがにまだ上がらねぇか」
しばらくはかなり強く降っていたそれが多少弱まるのを見計らってから、木の傘から踏み出す。
心底面倒そうに溜め息を吐いたところで集中力も途切れたか。次の瞬間、視界が反転した。
「捕獲しました」
「あぁ!?」
普段とは逆に地面が頭上にあるという状況の中、背後から冷静な声が聞こえて思わず声を荒らげる。
濡れた服から顔に向かって流れていく水が気持ち悪い。
口を開く度にうっかり飲み込みそうになって、男は不本意ながら唇を引き結んだ。
足首にひっかけられた縄で宙吊りになった上に駄目押しとばかりにぐるぐるまき状態にされて腕の自由まで奪われてしまっては逃れる手段も、振り向く手段も無い。
「ちょっと待っていて下さい。このままでは会話も出来ないので今おろしますから」
聞こえて来たのはやはり聞き間違いではなく声変わり前の子供の声。
頭を引いていて下さいと言われて、このまま落とすつもりだと知れる。吊っている縄を切ることで容赦なく地面に叩き落され、彼は低く呻いた。
これではおろすじゃなくて落とすだろうともっともなツッコミを入れても、相手の反応は鈍い。
「すみません。でも下の地面が柔らかいので大丈夫だと思います」
「泥濘んでるだけだろうが!」
泥だけになった己の姿に、盛大に溜め息を落とす。それまではマントに遮られていた雨水がじわじわと中まで染みてくるのが余計に気持ち悪い。
足場の悪い中、足先から肩近くまでぐるぐるまきの状態では上半身を起こすのが精一杯。
見上げた先で軽くフードを持ち上げた影は、予想に違わずまだ子供だった。
「なんだ。やっぱりガキじゃねぇか」
「子供扱いしないでください。これでも軍属ですから」
「あぁ? ガキはガキだろうが。文句なら俺の身長を追い越してから言いやがれ」
まあ、あと十年経っても無理だろうがな、と。
馬鹿にしたような口調で少しだけ気分を害したような少年の物言いを笑い飛ばす。
「……分かりました。ではそのままで聞いて下さい」
「テメェ……それが話をするって態度かよ」
「あなたは無駄に身長があるのでこの方が視線を合わせやすいですから」
堂々と毒を吐いた少年に思わず青筋を浮かべながらも、とりあえず微妙に這って移動することで大粒の雫が落ちて来る場所からは退避する。
「なんかそういう虫みたいですね」
「誰のせいだと思ってやがる!!」
この自分が、こんな単純な罠にかかるなんて。
一瞬の気の緩みを悔いるも、おそらくは単純すぎるが故に知覚出来なかったであろうことも分かっているため、男の口から出る言葉はあまり強く無い。
彼が文句を言いたくなるのは仕方ないだろう。悪意が無い毒を放つ人物は、相手をするだけ疲れる。早々に抵抗を放棄した男は、話の先を促した。
「自分は朱雀軍、諜報部所属のナギと言います。かつては白銀の豺虎と言われたあなたに、上からの提案です」
懐かしい呼び方だ。男は少年が告げた呼称をわらう。
「白虎からも朱雀からも指名手配されているあなたは、今のところ落ち着ける場所も無いはずです」
少年の口調は淀みなく、相手について入念に下調べしているのが伺える。それでも、男は余裕のある笑みを見せた。
「それで? 別に困らねぇよ」
実際、匿ってやるから白虎の情報を寄越せと言われたところで、頷くような男ではない。それはナギと名乗った目の前の少年も最初から分かっていたのだろう。
ぱたり。
落ちた水滴が男の右肩、先の無いその端を叩く。
「そう言うと思いました。先にあげた状況は、秘密裏に接触しやすくするためにあなたの居場所を固定したいという意図からのものです。実際に交換する情報の対価は、氷剣の死神の現状になります」
「……どういうことだ」
「そのままの意味です。あなたはもう白虎も朱雀も……世界すらどうだっていいのでしょう」
どこまで知っているのか。判断に困った男は沈黙する。
「クラサメ候補生は朱雀に……魔導院に残るようです。だとすれば、あなたが情報を追うのは難しいでしょう」
「その情報と引き換えに、このモルス様にスパイでもやれってのか?」
「いいえ」
明確に否定して首を振った少年は、もう白虎に戻ることはかなわないでしょうからと、男の傷口を広げるようなことを平気で言う。話しはじめた最初から先の否定まで、声音が全く変わらない様子を見れば、悪意が無いどころか、ただの事実を口にしているだけなのだろう。狂った英雄の仮面で誤魔化せる相手ではない。からかいがいのない、つまらないガキだと、男は内心だけで溜め息を落とした。