CAT POTION
赤い弓兵ことエミヤが消えた。
その事実は一瞬でカルデア中を駆け巡り、其処此処で人間達もサーヴァント達も阿鼻叫喚のありさま。
からんからんからん。
プラスチックのトレイが床に落ちて、乱暴な扱いに抗議の声を上げた。
「そんな……今日は君が好きな唐揚げだから楽しみにしていてくれと……言っていたのに……」
トレイを取り落とした本人であり、絶望的な表情でがくりと膝をついた青の騎士王を、誰が責められようか。
カルデアの食堂。その配膳カウンターの前で崩れ落ちた彼女の眼前には、噂の人物がいつも身につけているエプロンがくたりと横たわっている。
はしりとそれを抱きしめた彼女の頬はしとどに濡れていた。状況からはエミヤを心配してのことだと思われる行動だが、付き合いが長い者達は呑気そのもの。
そんなに唐揚げが食べたかったのかと気安く声をかけた青の槍兵が、瞬きほどの間に吹き飛んで逆側の壁にめり込んだ。一瞬のやりとりが見えない人間達はただぽかんと口を開け、しっかりと目撃してしまったサーヴァント達はやれやれと溜息を落とす。
当の本人は痛ぇじゃねぇかとぼやいただけでピンピンしているため、状況がわからない人間達もたいしたことではないという認識で落ち着いたらしい。そっと槍兵から視線を外した彼らは、どちらかというとまだ失意の中にいるらしい騎士王に注目していた。
「アーチャー。何があったかはわかりませんが、必ず助けますから」
待っていてください。
そっと涙を振り払い、決意を新たに顔を上げた彼女は、抱きしめたままのエプロンを胸に、遠巻きに見守っている面々を振り返った。
ざっ。
人垣と化していた列が一斉に一歩下がったのは本能だっただろうか。そうして消極的に身を守った彼らは、彼女がずんずんと食堂を後にするのを見守ったのだった。
「……それはそうと、唯一の手掛かりと思わしきモノをむざむざ持ち去られてよかったのかネ?」
誰もが呆然としている中で上がった呑気な声は歳を重ねた男性のもの。騎士王に声を掛けようとしていたらしい女性がタイミングを失って溜息を逃しながら振り返る。
「教授……いらしていたのですね」
珍しいと笑ったアイリスフィールに、教授と呼びかけられたアラフィフ紳士はウィンクをひとつ返す。
「いらしていたとも」
面白そうだったからと笑う彼の目に輝いたのは、不穏に大匙三杯ほどスパイスを混ぜ込んだ色。ほどほどに、と。呆れた呟きを返した彼女はことりと首を傾げた。
「それにしても……妙ね。こんなに唐突に魔力が途切れているなんて」
基本的にサーヴァントは、同じサーヴァントの気配を察知できる。それは個別の能力ではなく、存在に根ざしたものだ。そこから先、どこまで見極められるかが、個別の能力による範囲だった。
この分野では、主にキャスタークラスのサーヴァント達が秀でている。ただし、カルデア式の召喚の場合、魔術とは碌に縁のない作家であってもキャスターのサーヴァントとして悠々と存在しているため、一概には言えないところではあるが。
基本的に霊体であり、死人であるサーヴァントが持つ魔力はそれぞれの存在ごとに固有の波動が存在している。
聖杯の器として造られたものであり、同化した聖杯の一部がこぼれ落ちて分霊化したものという出自を持つアイリスフィールは、決して高名な魔術師ではないが、設定が生きているが故に気配には聡い。その彼女をしてエミヤの魔力の気配が無い、と言うのだから事実なのだろうと場に居る全員が納得した。
「まあ、彼女ならばそれでも持ち前の直感でなんとかしてしまうかもしれないけれど……」
何を思い出したのか、楽しそうにくつりと笑う。
「そうは言っても、アイツだけに任せておくって選択肢はねぇわな」
青の騎士王と畏敬を込めて呼ぶのが躊躇われるほど大袈裟に泣き崩れたアルトリアの嘆きは一夜の恋も冷めるほどの破壊力ではあったが、最初から彼女に夢など見ていない面々は至って通常通り。
その中には、先程吹っ飛ばされたはずのランサークラスのクー・フーリン、そして同一存在であるキャスタークラスのクー・フーリンも含まれていた。
先の宣言はランサーから発せられたものだが、行動に出たのはキャスター。
「魔力を辿れねぇなら別のものを辿るだけってな。よし、来い」
ぶわり。男の足元から広がった魔力から姿を見せたのは二匹の白い犬。
何人かが好き勝手な名前で彼らを呼んだが、主人と共にある今、犬達は反応を示さない。命令らしい命令も受けないまま周辺を嗅ぎまわる彼らを好きにさせて、キャスターのクー・フーリンはアイリスフィールに向き直った。
「何か他に気になることはあるかい?」
「……いいえ。私ではこれ以上はお役に立てそうにないかしらね。後はお任せするわ」
首を振るアイリスフィールの側に並んだ小柄な影が妙に鼻をひくつかせてるのを見た男が問いの相手を変える。
「んじゃそこの鷹の魔女さんはどうよ?」
「ん? 私に聞くのかい?」
「気付いたことがあるんだろう?」
水を向ければ、ふふと笑った彼女は今のところは秘密だとはぐらかした。
「そうだね。私の不肖の弟子を連れてきてくれたら喋ってもいいよ」
「不肖の弟子ねぇ……了解。お、なんかわかったか?」
周辺を調べていた犬達が戻り、主人に頭を擦り付けるようにして結果を伝える。背を撫でながらそれを受けた男は受け取った情報の違和感に首を傾げた。
「猫……?」
「どういうこった? 猫に縁があるようなのは思い当たらねぇが……だからこそ手掛かりになり得るパターンか?」
投げられた問いはランサークラスの己から。
「この状況だとそうなるんじゃねぇの? ん、ここで二手に分かれてんな」
犬達に連れられるまま食堂から出てすぐの廊下。左右に伸びるそこで気配は綺麗に分かたれていた。
「手分けするか?」
「ああ。匂いを辿るなら必要だろうから一匹預ける。ついでにいつぞやの時に柳洞寺を根城にしていたキャスターを見かけたら一緒に確保してくれ」
「あいよ。まかせとけ」
それじゃあまた後で、と。軽く手を挙げた二人は、それぞれ一匹ずつ白い犬を伴って真逆の方向に足を踏み出す。
「さあて……どうなるのかな」
男達の背を見送る声は、わくわくといった文字が見えるほど弾んでいる。頬杖をついたまま二人のクー・フーリンを見送った鷹の魔女が楽しそうに笑みを零した。
両手にカップを手にした通りがかりの巫女狐が、差し出がましいようですがと前置きして言葉を落とす。
「何かご存知なら教えて差し上げればよかったんじゃありませんこと?」
「うーん。それもそうなんだけど、確信はないことだから混乱させたくなくてね。ま、どちらかが見つかればはっきりすることさ」
別にずっと黙っているわけでもないと続ける鷹の魔女の言葉に、それ以上の口出しは野暮だと判断したのか、一瞬肩を竦めた巫女狐は何事もなかったかのようにその場を離れた。
厨房では突然消えたエミヤの代わりにブーディカとタマモキャットが忙しなく立ち回っている。割烹着に袖を通しているところを見ると、バーサーカークラスの源頼光も参戦するつもりだろう。
騎士王は絶望していたが、実のところ下拵えは終わっている。残る揚げ作業も、弓兵の特訓を受けた面々が揃えばどうとでもなり、夕食時には何の問題もなく赤の弓兵特製の唐揚げが並ぶはずなのだが、あの状況で彼女にそれを伝えられる者は誰も居なかった。
***
僅かに爪が地面を滑る音とそれを追う足音が揃って廊下を駆けて行く。
途中までは軽快な足取りで進んでいた犬に迷いが出たあたりで、男も気付いた。
「やっぱり持って行かせるんじゃなかったかね」
犬が惑うのは、現在辿っているのと同じ匂いをさせたエプロンを抱えたまま騎士王が動き回るためだ。
それでもなんとか歩を進めた先は男性用の大浴場。
日本スタイルに魔改造されたそこはカゴ付きの棚が並んだ脱衣所とそれに続く浴室とで構成されている。
成人男性の目線の高さほどある高さの棚のひとつ。なにか見慣れない大きな塊が見えた気がして、ちらりと中を覗いた男はその場で硬直した。
瞬時に確認の必要性を判断し、犬と共に体を内側に滑り込ませ、ルーンで簡易的に施錠する。
ちらりと犬と視線を合わせれば頷いた気配。やはり食堂から辿ってきた猫の気配の正体は棚の上の毛玉らしい。
「……アーチャー、なのか?」
驚かせないようにと距離を置いたまま。できるかぎり落ち着いた声を響かせる。
ぴくりと動いたのは耳か。
ゆっくりと身を持ち上げた毛玉が振り向き、体を追うようにゆらと揺れる長い尻尾がくるりと前肢に乗って。
棚の上にちょこんと座る、全身茶色の毛を持つ姿が露わになった。正面を向けば毛には僅かに白が混じっているのが見てとれる。
じ、とこちらを伺う瞳には鋼の硬質さを含む色。それは確かに、彼のものと同じ。
もう一度呼びかければ低い声でにゃうと鳴いてぱたりと尾の先が揺れる。
猫が居るのは男が立つ入り口から一番奥の棚の上だ。
一瞬考え込んだ彼は、眉間にシワを寄せて。だがそれを厭うように指を押し当てた。
「いやいやいやいや、待て待て。落ち着け」
ちらり。指の間から窺っても姿は変わらない。前肢を揃えて座るよくある猫の座り方だ。それはいいのだが、見間違いでなければ相当に大きい。一般的に猫と言われて想像するレベルを遥かに超えている。
落ち着こうと一度深呼吸。何度か繰り返した後で、近付いても構わないかと声をかければ、ぱたりと振れた尾が戸惑いを伝えた。拒否はされていないことを感じた男はゆっくりと一歩を踏み出してみるが、猫側に動きはない。
可能な限り慎重に音をたてないように歩いて近付く一挙手一投足をじっと見られているさまは多少の居心地の悪さを感じるものの、その視線はどこまでも動物めいていて、弓兵に見られているという実感は薄い。
にゃう。
もう一度猫が鳴いた。
「よお。さすがにオレに動物会話スキルはねぇから、おまえさんの言い分を聞くためにコイツをココに上げても構わねぇか?」
とんと軽く棚を叩きながらの男の言葉に、前肢を棚の途中にかけて立ち上がった犬がにょきりと顔を出す。
一瞬強く振れた猫の尻尾はすぐに動きを止め、許すとでも言うようにちょい、と差し招くような動作をした。
にかっと笑って礼を口にした男が合図をすれば、一度頭をひっこめた犬が身軽に跳び上がって棚の上に着地する。
そうして横に並べば、ほぼ同じ大きさの二匹は、鼻先を付き合わせてお互いを確認しているらしい。
急ぐこともないと思っている男は、特に口を挟まずに待つことを選択して腕組みしたまま隣の棚に背を預けた。
この猫は本当に弓兵なのか。外見と反応だけでは確証になり得るものがなくてもどかしい。
ぼんやりと思考に沈む。
犬と並んでほぼ同じくらいの大きさということは元の大きさのままで姿だけ猫になったということなのだろう。
おそらくきちんと頭の先から尻尾の先まで測れば元の弓兵と同じはずだ。頭の中で比べてみたときに小さく見えるのは尾が長いためか。
猫側にどれだけ弓兵としての意識が残っているか不明だが、話を聞く相手として棚に上げた犬の方も、明確な会話ができるわけではない。ただし、彼らには接触することで伝達の魔術を発動させることができるようにしてあった。相手の魔術適正を問わず、触れてさえいればある程度の意思疎通が可能になっている。犬の姿を取っているために人の言葉を話さないからこそ必要だった能力の発動は、相手が人間である必要もない。
ぴくり。耳の先が震える。
犬側は最初から緊張しておらず、焦る様子も無い彼は戯れに噛み付かれたり前肢の攻撃を受けても泰然と受け流して待っている。しばらくそんな動作を繰り返した猫のほうが信じる気になったのか、それとも飽きたのか。警戒し、窺うようだった仕草は擦り寄るようなものに変わり、お互い首を相手の体に預けるような形で落ち着いたらしい。
そのまま時折尻尾だけをゆらりと動かす二匹を見守ったまま暫く。
「お。終わりか?」
ふるり。身を震わせて離れた二匹は揃って男を見た。その仕草がまるきり同じ。思わず吹き出す男に、ぱしんと猫の尾が抗議を示す。
「怒るな怒るな。深い意味はねぇよ。んじゃ、ま。取り敢えず言い分を聞こう」
言いながら視線を己の犬に向ければ、把握している犬のほうがすぐに行動を起こして棚から飛び降り、足元に寄り添った。
男は無言で伝えられる情報を己の中で整理していく。
明確な言葉ではない、大雑把な情報は肝心のところはわからないが、目の前の猫が赤の弓兵エミヤであることと、どうしてこんなところにいたのかは把握できた。
「とりあえず、思考回路もだいぶ姿に引き摺られてんのはわかったわ。仕方ねぇけどな」
先にそれをどうにかしねぇと原因がわからんな。しっかし、それでも残った意識が見られたくない……ときたか。
入手した情報を口に出し、考えを纏める。誰にというところまでは得られなかったが、予想自体は簡単にできた。
直感に従い周辺をうろうろしていたであろう青の騎士王をはじめ、この場にはあの冬木で弓兵が保護対象と見ていた人物が多い。本人そのものではなく、依り代としてあるとしても、その言動には元の人物の名残が見え隠れすることを知ってしまえば自然と意識も引っ張られることは想像に難く無い。
該当する人物は全員女性。猫の体ではロックがかかっている場所への出入りは不可能という要因が加われば、行き先に男性浴場という場を選んだのもわかる気がした。
彼女達は、本当に切羽詰まれば男性用だろうと踏み込むのを躊躇わないだろう。現状ではそこまでいっていないものの楽観視はできない。
「取り敢えず移動しようぜ。希望通りアイツらは入ってこられない場所に連れて行ってやるよ」
言葉はわからないだろうが、敵意がないことは理解済みのはずで、手を伸べて誘えばなんとなく意図は伝わるだろうと判断。予想通り一拍を置いて立ち上がった猫は軽快に棚の端を蹴った。
「待……ッ!」
ぐえ、と。潰れた悲鳴がひとつ。
傍らに控えていた犬が視線を下げた先には、猫を抱き留めた状態で地面と仲良くしている主人の姿。棚の間だったにも関わらず綺麗に地面に伸びていることを称賛すべきか悩む図である。
「ったく……わざとかそれとも本当に自分の体の大きさをわからずにやってるのかどっちだテメェ」
床に倒れたままでぼやく声ににゃあと判断に困る返事が重なり、行き場のない感情は溜息となって宙に逃げた。
痛いと言いながらもそれを感じさせない動きで身を起こし、素早く猫の額にルーンを描く。
魔術師およびその適正がある者が多いこの場所では、魔術によって姿を隠したり誤魔化したりするのは容易では無い。だからそれはただ見失った時のための目印のようなものだった。彼を拘束するつもりなどない男が贈るのは、引き止めるためのものではなく、現在の居場所を問えば答えが返る、そんな単純な繋がり。
「うっし、そんじゃ行くぞー……ってどかねぇのかよ!」
腹の上に乗ったままの体は元の人型ほどではなくともそれなりに重い。だが、なんとなくその場所が気に入った様子を見せた猫に、文句を言う気にはならなかった。
動物としての姿に引き摺られてはいても、繰り返し刷り込まれたことは覚えているらしい。綻ぶ口元を誤魔化すように仕方ないと零して、退くつもりが無いらしい猫を抱えて立ち上がる。するりと身に絡む尾に、抑えてはいても笑みが浮かぶのは仕方がないだろう。必死に噛み殺して、ゆるりとひと撫で。
扉にかけたルーンを解除して犬を先に出す。
「先行してくれ」
端的な命令は腕の中の彼の願いを叶えるためのもの。
特にこちらを探しているだろう騎士王と廊下でばったりという事態は避けたいがための言葉だと心得ている犬のほうも了承するように高く鼻を上げてから歩き出した。
距離をあけて男も続く。
途中、もう少しで部屋だという場所で一度だけ遭遇しそうになったものの、犬が気を引いている間にやり過ごすことに成功した男は危なかったと呟きを落とした。
腕の中で固まっている猫の背を撫でてやってから素早く己の部屋に滑り込む。大役を果たして戻ってきた犬を迎え入れてからロックをかけ、そのまま奥へ。
工房として拡張してある場所に入ったあたりから腕の中の毛玉がソワソワしているのに気付く。
問いが先だったか、それとも身を捻って腕を抜け出したそれが地面に足を付けるのが先だったか。少なくとも、どうしたと伺う声が音になった時には、猫の体は下生えの草の中に消えていた、
がさり。
周囲の枝が揺れ、その葉擦れの音が見慣れぬ姿を誘う。
「あー……完全に遊ばれてんなー……」
重くはない溜息を逃して苦笑する。普段働きすぎなくらいだ。自我のしっかりしている普段の状態であれば絶対にないだろうから、これもいいだろうと判断して、傍に控えていた犬の額に触れる。
残すのは猫に描いたものと同じ、繋がりの文字。
「辿れるな? 面倒なことにならんように相手をしてやってくれ。最終的にはおまえさんの寝床に引っ張り込んでおいてくれりゃいい。その間に片割れを回収してくる」
わふん。
いい子の返事を残して走り去っていく犬を見送った魔術師は、背に広がる清流の髪を掻き回しながら踵を返した。
迷わず食堂を目指した彼は、途中で力尽きていた騎士王を拾い、弓兵は見つかったが厨房に立てる状態ではないから今居る厨房担当代理の弓兵レシピ唐揚げで我慢しろと伝えてやる。
じとりとした抗議の視線になんだと返せば、貴方まで私が夕食の為に必死になってると思っているのかとの問い。
「いや、んなこたぁこれっぽっちも思ってねぇけど。きっかけの会話としちゃ自然だろ」
「はぁ……まったく。しかし、アーチャーはそんなに厳しい状態なのですか?」
「いんや、別に現界に支障があるような状態じゃねぇよ。ただ、ちと意識が無いだけだ。監視は付けてあるから何かあってもすぐにわかる。心配すんな」
見られたくないと告げてきた弓兵の意思を尊重して居場所は告げず、ただ無事である旨だけを伝える。心配させることは本意ではないだろうと思うが故のサービスだ。
気負わないまま落とされる男の言葉に嘘はなく、納得したように頷いた騎士王がそれならいいと目を細める。
その腕がゆると持ち上がった。
「ではこれはアーチャーに返しておいていただけますか。汚してはいないと思いますが、床に落ちていたものなので洗濯したほうがいいかもしれませんね」
「なんでそこでオレに頼むんだよ。自分でやりゃぁいいだろうが。それこそ洗濯でもなんでもして」
言葉はそんなに意外だっただろうか。
少女の姿のまま外見の時を止めた騎士王は、その歳相応に見えるほど純粋な表情でぱちくりと目を瞬かせ、呆然と男を見上げる。
「……あんだよ」
「いえ。ありがとうございます、ラン……キャスター?」
「そこで言い直すのかよ!」
しかも疑問形で。
男のツッコミにむうと頬を膨らませた騎士王は、仕方がないでしょうと溜息を落とした。
「ここの生活も長くなりました。普段なら努めて意識しているのでそんなことは無いのですが……こんな時、たとえクラスが変わってしまっていても、貴方はあの街に溶け込んで生活していた頃のままの行動をするのです。私とて、多少は引き摺られます」
「そんなモンかい」
「文句なら無駄に増えたご自分の霊基にお願いします」
いやいやいや、お前がそれを言うのかと誰もが突っ込みたくなるところだが、自称知的さが増した魔術師は賢明にもそれを口にしなかった。
***
ごお。
音と風が響いて会話の欠片を吹き飛ばした。
ひょいひょいと位置を変えながら動くノズルと、乾き具合を確かめるかのように触れていく指。最初は普通だった猫の表情が段々と険しくなっていく。
『う……』
『どした?』
止めてもらうか。問えばそのままでいいとの応え。
だが、無意識に彷徨って伸ばされた前肢が服ごしに足先に触れる。僅かに食い込む爪。
ああ、と。溜息。
『そうか。そりゃそうだよなあ……体弄られてるのと同じだもんな……気付かないで悪かった』
猫としてある時に感じる人間の手と、人としての意識があって感じる猫扱いする人間の手は違うだろう。大丈夫だと主張する青年の意見を黙殺して、二人に一度離れるように視線で指示する。そのままでは聞こえないと、一度止められたドライヤーを手にした槍兵が疑問を落とした。
「どうした?」
「オマエらまで姿に引き摺られてんぞー。風だけ当てろ風だけ」
「あー……悪ぃ……」
確かに完全に猫として扱っていたと謝罪して。今度はドライヤーから吐き出される風だけが青年の毛を揺らす。そこまで長いわけでもない被毛は、それだけでも十分に水気を払えているように見えた。
『……すまない。手間をかけさせた』
『謝るようなことじゃねぇだろうが。そこは主張しろ。今更オレらに遠慮するようなこともねぇだろうが』
オレに手間をかけさせたくなかったのならそれこそ触れてくる手を蹴ってやってもよかったのだと笑う。
『そうだな。次はそうしよう』
安堵とともに笑みの気配。こんなもんかと轟音の中でランサーの唇が動くのを見て、そのまま中継する。
『濡れている感じがするとか、どこか気持ち悪いところはねぇか、だとよ』
今度は無遠慮に触れるのではなく、しっかりと本人に確認するあたり、目の前の猫が弓兵なのだと意識を切り替えたのだと知れた。
沈黙の後で大丈夫だとの応え。
受け取った言葉を伝えるために軽く頷いてやればドライヤーの轟音が止む。
そっと覆っていた彼の耳から手を滑らせ、首元に添えた手を辿って視線を転じた先に違和感。
キャスターはそのままの状態で眉を寄せた。
『どうかしたかね?』
「んー……合わねぇな、と思ってな……」
気のせいか?
悩むキャスターの横に距離を詰めた二つの影。
「おい弓兵。言っていることはわかるんだったな」
呼びかけはオルタ。ぴくりと動いた猫の耳が声を拾ったことを告げ、続けて振り向くことで聞こえていると反応を示す。次に零れた問いはあまりにも意外で、驚きに目を見開く羽目になった。
触れてもいいか、と。問うた相手は狂王。
槍兵ならいざ知らず、その在り方と声音からして揶揄いや冗談は有り得ない。困って視線を流した先で、ランサーも同じ表情なのが見て取れる。
オルタから告げる方が有効だと考えて言葉を譲ったのだと一瞬で把握できてしまったエミヤはぷす、と溜息のような音を落とした。
「好きにしろ、だとさ。ただ何を考えているのかくらいは教えろだと」
通訳するキャスターの声には笑み。
許しを得た二人がそっとエミヤの背に触れ、それに触発されたらしい犬達までもがキャスターの両脇から鼻先を伸ばしてもふりと重なる。犬達の行動は、そこまでは想定していなかったと一同を苦笑させたが、彼らの有無で結果が変わることでも無いとあっさり容認された。
その状態になればキャスターとて彼らが聞きたかったことに気付く。先ほど気付かなかったのはエミヤの異常を検知するのと、会話とに集中していたためだ。
「アーチャー。この状態での魔力の蓄積はどうだ? さっきと何か変わるか?」
『唐突だな。少し待ってくれ』
弓兵が己の状態を探る様子に気付いたのだろう。
声を掛けずとも頷いて状況を把握していると伝えてくる二人にキャスターもまた無言で頷くことで返答とする。
そのまま待てば、少ししてふわりと弓兵の緊張が解けて呼気が逃げた。
『君達が何を気にしたのかわかったよ。確かにこの状態だと先ほどよりも明らかに魔力の蓄積量が多い。となると、彼女が設定した必要魔力の判定はキャスターの君限定ではなく、クー・フーリンという存在なのだな』
「やはりか。魔力酔い等に相当する不調は……ねぇな?」
『ああ。今は外に蓄積するという特性を付加されているからか、特に問題があるようには思えない』
「となると、やることは一つだな。おまえさんが厨房に戻るのを心待ちにしている奴もいることだし、さっさと解決するほうがいいだろ」
三対の瞳が燃える。
弓兵の焦りをよそに、その場に集まったクー・フーリンはもう決めてしまったらしい。
どうせなら若い自分にも声をかけるかとランサーが口に出し、試してみる価値はあるとオルタが応える。
『ちょっと待ってくれ。さすがに効率がいいとはいえ君達全員を拘束するような真似は……』
「ああ? テメェ……今すぐこの手を離して普通の猫として犬達と疲れて寝るまで遊ばせてやってもいいんだぞ」
どこまで走っていくかわからねぇし、疲れて寝た後はどうせ同じ状態になるだろうが。
なんとも珍妙な脅し文句だが、弓兵に対する効果は抜群のようだ。
だらだらと額から汗しそうな様子でそれだけは勘弁してくれと念話が告げる。
猫になったことで丸くなった瞳が心なしか潤んでいる気がしないでもない。
絶対に気のせいだが。
「さて、そんじゃ移動するか……タオルは使えるな」
ばさり。広げたそれで改めて体を覆い、抱き上げる。僅かに抵抗の気配を見せた弓兵を、四足歩行して変な癖が付くと面倒だから大人しく運ばれておけと諭せば、それだけで中途半端な抵抗は霧散した。
『……ままならないものだな』
「仮にオレがそっちの立場なら同じようにするだろうが、テメェは」
応えを期待しなかった呟きはやはり黙殺される。だがそれこそが明確な答えに他ならず、魔術師は緩んだ表情を慌てて取り繕った。