Eisblume
「この扉を出た瞬間から、お前はタークスだ」
すぐ目の前を歩く男は振り向きもせずにそう告げた。
工業地特有の黒い排気の匂いが地下の湿った空気と混ざり合う。
二人が進む継ぎ接ぎだらけの通路は、土や鉄や石などがおかしな具合に足音を反射して、気まぐれに遠くに吸い込まれていった。扉を開けば、もうそこは外。
先立って体を清めることを許された青年の身を包むのは着慣れない漆黒のスーツ。先導する男に渡されたそれを言われるがままに身につけてタイを結んだ。時を持て余していた間に伸びていた前髪が歩くたびに視界の端で揺れる。薄いガラス越しの世界はほとんど分からないほど僅かに屈折して、やはり慣れない視界を形作っていた。手にはまだ真新しい刀。僅かのあいだ瞳を伏せて、それを託してくれた人を思う。
扉の隙間から侵入してくる風が、もう踏み出せと告げてスーツの裾をはためかせていった。
同じ風に攫われそうになるタイを苦笑と共に押さえると、前から伸びた手がそれに触れた。自らのものからタイピンを抜き取り、青年の胸元に滑らせる。
「ヴェルド……主任?」
戸惑う青年に、ヴェルドと呼ばれた男は僅かに口端を上げた。
「少しは窮屈な思いをしていろ」
「それは服装のことですか。それとも立場の?」
問いはしたが、青年は特に答えを求めているわけではなかった。返る言葉の予想は簡単に付く。
「暴走しすぎるなということだ」
さしずめきっちりと留められたネクタイは手綱だろうか。青年は己の視界を薄く覆うレンズの縁に触れた。
二重の鎖は束縛するものではなく、過分な優しさで出来ている。
「お前はタークスだ。常に頭を冷やして行動しろ」
忠告めいた言葉の後に続いた、期待している。という呟きに青年は笑みを零した。
「お任せを」
言葉の後を追う様にかちゃりと刀が鳴く。どちらの言葉を受け入れたか。ヴェルドは一瞬だけ目を細めて再び先に立って歩き出した。もう扉まではそう距離もない。
「待ってください、主任」
「何だ」
「折角ですから、自分で開きたいと思いまして」
「……いいだろう」
そう多くの言葉が交わされるわけでも無いが、最初からそんなものは不要だった。行為自体は下らない感傷だが、それが必要だということも理解している。
男の返答に滲んだ感情は、そういった類いのものだ。
「ありがとうございます」
笑顔を崩さぬままで礼を言った青年の指が軽く扉に掛かる。軋みを上げた扉は、それでも思ったよりは随分と滑らかに境界を繋いだ。
堰き止める邪魔者が居なくなったとばかりに一気に風が吹き抜けていく。
外は人口の光に満ちて青年を出迎えた。
空は遠く、遥か上空の地面のさらに向こう。
都市の名はミッドガル。
機械化が進んだ神羅の本拠地の闇は果てしなく暗く。たとえ扉の先がプレートの上に繋がってたとしても、あたりに満ちる太陽など望めないだろう。
青年は少しだけ安堵して息を吐いた。
再び戻ってきた世界に感動などはなく。ただ一度、手にした刀をきつく握り締める。
最初に指示された行き先はこの巨大な都市の中心。神羅カンパニー本社ビル。
青年は、数歩ほど遅れて出てきたヴェルドに再び先を譲って、近くに止められているはずの車に向かって歩き出した。
深いジャングルとせりたった岩山の間に挟まれるようにひっそりとその村は存在していた。
石を積み上げ、窓を小さくとった家々。昼夜の寒暖差が厳しい一因は、大きく張り出した岩が吸った熱をそのまま村に吹き下ろすせいだろうか。双極のようにそびえるそれが熱に耐えられなくなる夕方にはよく激しい雨が降った。
定期的な降水のために、乾いた土地だという印象はない。むしろ豊富すぎる緑に阻まれて、外との行き来が途絶えることがままあった。
そんなジャングルと、村の中間。長閑な田舎の風景にそぐわない塊がそびえたっている。
神羅カンパニーによる新世代のエネルギーを利用した電力供給施設、魔晄炉。
そこから多少ジャングルの緑に隔てられて、他の家とは距離を置くように一軒の家があった。
さらに距離を置いてもう一軒。
魔晄炉に一番近い二つの家は綺麗に手入れこそされているが、村の中心からは外れていることもあって近辺に人の姿は見えない。周囲には高く金属を打つような音だけが響いていた。
そんな家の前に座り込んでいる人影がある。
柔らかな雰囲気を纏わせた青年だ。その服装は風を通すようにゆったりとしたもので、開けられた襟元にも装身具の類は見当たらない。少し長めの黒髪は普段は軽く流されているのだろうが、今は俯きぎみの体勢でいるために頬にふれかかっている。
瞳は閉じられていたが、眠っているわけでは無いらしい。まるで寛いだ姿勢で音楽を楽しむかのようにうっすらと笑みを刷いて、彼はそこに居た。
この辺は魔晄炉に近いせいか、それなりの頻度でモンスターが出現する。青年もそれを分かっているからだろう。片手で抱え込むように一振りの刀を握っていた。表情こそ笑んではいるが、敵意を持つものが近付けば即座にその雰囲気は一変する。そんな印象。
空を流れる雲がゆるく太陽を覆い、さらに時を置いて再び光を解放する。
不意にそれまで響いていた音が途切れた。