Flavor
無意識に伸ばした指先で耳元を抑える。そんなことをしなくても響く音声を聞き取るのに支障は無いはずなのだが、気分的な問題だろう。
わずかなノイズの後に繋がった通信機からは、室内ではあり得ない風の音が聞こえた。
本来ならこの後、通信相手の部屋に行くはずだった青年は、口端に苦笑をのせて名を呼ぶ。
「キング？」
「……ナギ、すまない」
第一声は謝罪。外かと聞けば、肯定が返った。
強い風の向こうから途切れがちの声が理由を告げる。
「急ぎの依頼で断れなかった。部屋は多少散らかっているが適当に過ごしていてくれ。いつも通り中のものは好きに使って構わない。夜中過ぎには戻る」
青年が部屋に来るのは疑っていない口調で、一方的に言いたいことだけを告げた通信は唐突に途切れた。最後に聞こえたわずかな音から戦闘区域に入ったのだろうと推測は出来る。
「不在の部屋にホイホイ他人を招き入れるのはどうかと思うけどな……」
切れた通信の向こう側にぼやきを投げて、青年は笑みを深くする。
そもそも、通常なら主が不在の部屋に入ることなど出来ない。候補生達の過ごす寮は、教室と同じく明確に組によって入れる場所が決まっていた。
それは旧棟を使う０組と９組にも当てはまる。例外は９組に所属するものたちは移動魔法によってある程度自由に入れないはずの部屋に侵入できる事だった。さらには当の０組がそれを当たり前として受け入れてしまっているため、時折こんなことを平気で言う。
まだ雫の落ちる髪を首に掛けていたタオルで拭って、青年は大きく息を吐いた。
「戻りは夜中過ぎ、か」
呟きながらちらりと時間を確認して少し考える。
今日の任務は報告も含め全て終わっているから、自分の部屋に居ようがキングの部屋に居ようがやれることと言えば体を休める努力をする程度しか無い。ならどちらに居ても一緒かと結論を下した彼はシャツとスラックスだけを身に付けたまま、上着とマントをクロゼットに仕舞い込んだ。
ナギ・ミナツチは、今日は遂行可能な全ての任務を終えて自分の部屋で休んでいる。
扉を開けて移動しないということは、つまりそういうことだ。候補生が常に身に付けているマントは、本人に関するあらゆる情報を記録し、管理するための媒体であるから、本来なら身につけずに外に出ることなど許されない。発覚すれば謹慎ではすまないが、青年が密かに担当する諜報という仕事がそれを可能にしている。
彼が背に纏う色は、朱になったばかり。
諸々の思惑で部屋を移動することは無いが、所属は表向き０組に変更されている。
もっとも、ナギが内偵のために０組に編入した事実は昼間のうちにクラス全員の知るところとなっているのだが、彼に命令を与えた上層部は知らない。
今のナギは、堂々と０組として彼らの元を訪れることもできるし、諜報員として密かに忍び込むこともできるという便利な身分だった。
色々と詮索されるのが面倒だという理由で正面からの訪問を選択肢から外したナギは、軽装のままで移動魔法を使う。
目的地は主不在のキングの部屋。
普段はナギの部屋とそう変わらないほど片付いているはずの部屋だが、よほど急いで出て行ったのか、乱れた毛布の上に直前に着ていたのだろうシャツが無造作に置かれていた。
ナギは職業柄部屋を乱さないが、キングは片付けるのが面倒だからという理由であまり物を出さない。だからこそこの部屋はナギの部屋に似て落ち着く気がする、とは決して言わないが、居心地が良いのも確か。
違いといえば、匂い。
ナギの部屋はほぼ無臭だが、キングの部屋はどこか火薬と整備油の匂いがする。
持ち主に一番染みついているそれは、すでにキングの一部として自然にそこにあった。
最初は顔をしかめたナギも、今ではすっかり慣れてしまい、特段反応を示さない。ただ、そこにキングがいるのが分かりやすいと思うだけだ。
ひょい、と。脱ぎ散らかされた衣服を持ち上げたところで強い香りがして、意識もしていなかった欲を刺激する。一瞬硬直したナギは、苦く笑ってそのまま乱れた寝台に倒れこんだ。
既に温もりは残っていないが、抱き込んだシャツと、背にしたシーツからは深く持ち主の香りがする。ゆるくまぶたを落として、ふわりと漂うそれに身を委ねるように深く息を吐いた。
敵地を示すものだったはずのそれが、ここまで安らげるものになるとは知らなかった、と。苦笑したまま独語する。
キングの銃はケイトのそれとは違い、構造的なところでは白虎兵の使っているものと大差ない。
火薬自体もほぼ同じはずなのだが、ナギには、全く別物として認識されていた。
魔法による武器の制御が入るために違いが出るのか、それとも精神的なものが介在してそう感じるだけなのかは確かめようもないが、ナギにとってその匂いが、穏やかに眠ることが出来る場所を示す役目を担っているのは確かだった。
自分の部屋で待つのもキングの部屋で待つのも同じだと判断させた原因でもある。
外での任務が続けば当然だが魔導院には戻れない。当然この部屋に来ることもなく、外ではゆっくりと体を休めることはかなわない。
睡眠や食事だけでなく、基本的な欲求や感情をすべて押し殺して任務にあたる諜報員達は、自らも気付かないうちに病んでしまうものも多かった。
魔導院内ですら落ちこぼれを演じて罵られる日々を送る９組のメンバーは、平時にはそれぞれ意識的に基本的欲求を満たすように努めている。
「別に餌付けされたからってワケじゃないと思うんだけどな」
ぼやいた理由のひとつは、よく言われる欲求の満たし方の一つ。食事と睡眠は人として一番基本的な欲求であるが故にここを落とされると大概のことを許してしまうものは多い。もっとも、そう簡単には許すはずがないと思っているため、うまく回っているのなら歓迎するべきこととして口出しをするものは居なかった。
見ている周りが多少警戒していればいい、というスタンスは、根底として９組の誰にも当てはまる。
おそらく自分が０組と接する時もそう思われているのだろう。幾度となく関わった中で、そんな機会が何度かあった。
キングの作る食事は確かに美味しい。個性の塊のような０組面子の中にあって、ずっと長兄として下の弟妹達の生活面のサポートもしてきた彼は、意地を張る相手にこそ、ごく自然に自らの要求を通してしまう。
一緒に食事をすることも眠ることもすっかり慣れさせられてしまい、ナギは自分の人間らしい部分にほっとすると同時に怖くもなる。だからこそ、彼にとって今回の訪問の誤算は、訪れていなかった時間の長さにあった。
意識していないところで安全だと認識しているのか。 この部屋では己の意志に反して欲求が抑えにくくなる。青年にとってたまたま一番楽な相手がキングだったといえばそれまでだが、こればかりは少しだけ罪悪感が思考の端を掠めた。
※
「さすがに疲れたねぇ～」
「そうだな」
夜中であることを考慮して、顰められた会話は任務が終わった開放感にあふれている。
今回、急な依頼に応えたのは、キングとジャックとセブン。キングとセブンは作戦の要である人物と近しかったため、そして残るもう一人はそのへんで暇そうにしていたために捕まったのだが、その人選は当たりだったのだろう。
ジャックは周りを見るのが上手いのもあって、暴走することもない。作戦に必要な設置を現場で行なっている間、索敵と邪魔者の排除を行なっていた。
自然と戦闘になった回数が多かった彼は、疲労度も高いだろう。衣服も他の二人より汚れているが、それに文句を言うことも無い。
彼のお陰もあって作戦はつつがなく終了し、男二人はセブンと別れ、人気の無くなった廊下を歩く。
各部屋に意識を向けてみても、動いている人の気配は無い。おそらくはもう皆寝ているのだろう。
ふわあ、と。大きく欠伸をしたジャックは軽く伸びをして手を振った。
「じゃあねぇ～」
「ああ、もう遅い。お前もさっさと休め」
「わかってるってぇ」
笑って答えながら去っていくジャックを見送ってから己の部屋の前に立った男は、不思議そうに首を傾げた。
なんとなく気配を感じる。
来訪者に思い当たる節はあるのだが、彼ならば自分が扉に立った時点で全力で中に居るぞアピールをしてくるはずだと思っているキングは、不信に思いながらも扉を開けた。
入り口から中をほぼ一望できる作りになっている寮の部屋は、隠れられる場所は少ない。
せいぜい扉を閉められる浴室かクロゼットが該当するだろうが、ちらりと視線をやった浴室の扉は開いたまま人の気配はなく、換気扇の音だけが響いている。
何よりも盛り上がった寝台の毛布から見える頭がわずかに動いて表情が見えたことで、キングは安堵の息とともに扉を閉めた。
「ナギ？」
呼びかけに返事は無い。気配の薄さは本人の意識が無ければ当然だろう。
「眠っているのか……」
珍しい、と思う。
彼が手放しで休むことは少ないことを知っているだけに、目の前の光景はかなり貴重なことだと認識出来た。他人の気配がある場所で、しかもその気配が動いている状況で、変わらず眠っているのはかなり珍しい。
キングのほうも特に気配を殺しているわけではないため、いくら眠っているとはいえ気が付いてはいるのだろうが、起き上がる気配も無い様子を見ると、少しだけ口端は緩む。今のナギの状況は、この部屋とキング自身に慣れたという証明でもあった。
そっと近付いて寝台に片手を付くと、掠めたのは青い匂い。
「……キング？」
「もう少し寝ていろ」
ぼんやりとした声が零れて瞳をあげたものの、反応が鈍い青年の髪をくしゃりとかきまわしてから、キングは浴室に足を向けた。
着ていた服は適当に汚れ物入れに放り投げて、これまた適当にシャワーを浴びる。タオルを使っているあたりで、そういえば部屋着を寝台に放り投げたまま任務に出たことに気付いた。戻った時に見た記憶が無いために忘れていたが、おそらく寝るのに邪魔だったために移動したのだろう。寝ていて構わないと言った手前気が引けるが聞いてみるか、と。いまさら裸を見られたとしても構わないと思っているキングは下着を身に付けただけで髪の雫を拭いながら浴室を出た。
本当に眠ってはいないだろうとは思っていたが、近付けば、ぼんやりと漂う視線と合う。
浮かぶのは苦笑に近い笑み。
「……おかえり。寝ててごめんな」
「いや、好きにしていていいと言ったのは俺の方だ」
手招かれるままに近付けば、伸ばされた腕に柔らかく拘束される。
近くなった体から、強く雄の匂いがした。
「ナギ？」
「しようぜ。そういう気分なんだ」
ナギのほうから積極的に誘ってくる機会は少ない。
わざわざそれを指摘するような愚を犯すことなく、キングは誘われるまま寝台に乗り上げた。