♯LOGS
■闇夜の足跡 – 初デート[槍弓]
街には静寂が落ちている。
猛スピードで遠ざかる僅かな気配を追いながら、音もなく夜の闇に溶け込んで移動する弓兵は、感覚の端に違和感が触れたのに気付いて足を止めた。
現在の己は霊体のまま。それは相手も同じはずだ。
この状態では物理的な攻撃を受ける可能性や、一般人に目撃される心配は少ないが、もちろん万能というわけではない。聖杯戦争が魔術師同士の戦いである以上、警戒すべき対象は無数に存在する。
油断はなかったのかと問われれば黙るほかない。
追う相手は槍兵だという認識、それ自体が罠であった。
直感に従って警戒態勢を取ろうとした瞬間を絡め取られる。
「なッ……ぐ!」
零れた苦鳴を聞いた者は居ない。そもそも声ではないのだから聞こえるはずもない。
「油断大敵ってやつだぜ、アーチャー」
からり。そんな笑いの気配を伴った揶揄を弓兵は受け取った。
直前まで気配すらなかったはずの場所にゆらと魔力が遊ぶ。
姿はなく、ただ気配だけを感じる状況に、お互い霊体のままだと認識できたが、逆に言えばそれだけだ。
ちらりと己を絡めとっているものに意識を向ける。
今ここにいる彼が意図的に発動したものではなく、予め敷設され、自動発動するトラップ的なものだと判断できた。
結界の一種ではあるのだろうが、敵の足止めのみに特化しているため、力業での脱出が面倒なつくり。おおよそランサーというクラスからは予想できぬ魔術である。
「一方的に戦線離脱しておいて今更搦め手かね?」
この場で決着をつけるかと続ければ笑いの気配は消え、周囲が緊張を帯びる。
空気が冷えた、というほうが正しいだろうか。
「嫌な言い方しやがる……だが否だ」
逆だと告げられて、お互い霊体のままという状況に拘っている相手の思惑が見えた。
追手を押し留めるのにわざわざ罠じみたものを使ったのは、手札を一つ見せてやるからこのまま引いてくれと告げたのと同じである。
静かな怒りと共に告げられた、ランサーのマスターを把握してこいという赤い少女からの命令はもう達成できないだろう。令呪で縛られでもしているかと己自身の境遇を思い出して自嘲してみるものの、選択肢は存在しない。
「さて、私が自力でこれから脱出するのにあとどのくらいかかるかね」
「五分もありゃ十分だろ。戦の時間はまだ始まったばかりだぜ? あんまり他人のケツ追っかけ回してマスターを放置するもんじゃねぇ」
お互いに。
「物言いは不快だが、一応警告として受け取っておこう」
「そういうのは嫌いじゃねぇぜ。テメェの戦い方は心底イラつくがな」
「不得手ながら近接戦をするのならばそれも作戦だ。そもそも私の矢など君には届くまい」
ふ、と。魔力が流れる。
お互いの姿は今も周囲に溶け、霊体故に触れ合うこともない。だが、そんな己という認識の一部が揺らいだ。
「な、に?」
「次に会った時は全力だ。その心臓、きっちり穿ってやるよ」
触れ合うはずのないものが触れ合ったのだと理解する頃には、とっくに相手の気配は消えている。
宣言通り五分ほどで戒めは解け、同時に敵を追う手段は断たれた。
思い立って触れたのは心臓の位置。
つい先程、なにかが触れたと感じた場所だ。
槍を示した指先が深く裡に沈み込む様を幻視する。混濁した記憶に針を刺すようなそれに思わず顔を歪めた。
ああ、と。声にもならないものが零れ落ちる。
乱暴な召喚の余波で記憶に混乱があるのは事実だが、それでも能力に制限がかかっているわけではなく、主人の名を聞いたことで明確になったこともいくつかある。
マスターである彼女にすら語っていないが、性質上、武装を目にできれば弓兵にとって相手を推察するのは容易い。
基本的に英霊とはその名を残した逸話、武具とセットで語られるものだからだ。
だからこそ彼は校庭での一戦では即座に真名に辿り着いており、明確にはしなかったものの槍兵もそれを否定しなかった。
己の名と武器の性質を仄めかせての行動の意味は正確に伝わる。
次に相対するときは本当に全力なのであれば、あの槍への対処を考えなければいけなくなるだろう。
だが今は。
英雄の名に恥じない相手の、わざわざ手の内を一つ見せてまで行われた警告に対し、どこか高揚している己を自覚していた。
「……光栄だよ、ランサー」
弓兵は振り切るようにそれだけを落として。
主人の元へと戻るためにそっと夜に溶けて。吹き抜ける風と共に空を滑っていった。
■本音は硝子のむこう – 眼鏡/スーツ[キャス弓]
かたん。
かすかな物音は夜の闇に紛れて、静かに消えていく。
少し間があってゆらと灯ったのは作業用の手元灯の明かりだ。
それひとつでは全体を照らすには到底足りない。かろうじて浮かび上がるのは、仕立屋の一角を模したセット。そのさらに一部。
机の上に置きっぱなしだったメジャーを手にしてから一歩。明かりを背に、可能な限り静寂を壊さないようにと気を使った控えめな靴音を響かせて長身の影が立つ。
ふ、と。息を吐いて。くるりと振り向くと手を伸べてなるべく柔らかく微笑む。
「いらっしゃいませ。どのような物をお求めでしょうか?」
低く、穏やかにこぼれ落ちる声はほんの少しだけ硬い。青年は表情を曇らせ、溜息を挟むと、首を振って項垂れた。
なんでも可能だと大見栄をきったわりには情けないことだと苦笑する。
闇に沈む天井を見上げてもう一度溜息を逃し、そのまま瞼を落として迷う瞳を隠した。
こつ、こつり。
あり得るはずもない自分以外の人物が近付くのを感じはするものの、隠さない音と気配で相手は即座に把握できる。
ちりん。
鳴るはずもないドアベルが音を立てて、扉が開く様子を幻視した。
「あー……腕のいい店だと聞いてきたんだが、ひとつ頼めるかい?」
帽子がわりにフードの先をちょいと持ち上げて、見慣れた姿の男が笑う。
いらっしゃいませ。
青年の口からは先ほどまであれほど固かったはずの言葉が自然に滑り落ちた。
「やりゃできんじゃねぇか」
フードを背に落としながらくつと笑った男はそのまま歩を進めて青年の前に立った。
目を細め、似合ってんなと素直な感想を零して全身を眺めやる。
今の青年の服装はいつもの戦闘用の礼装ではなく赤のシャツと薄茶のスーツだ。先に手にしていたメジャーは肩を渡る形で首に掛けられ、胸ポケットからはポケットチーフが覗く。
「……知っていたのか?」
「いんや。ただ、浮かねぇ顔してんなとだけ」
おおかた色々と考えすぎてたんだろうと続けられて応えられず、そっと視線を外す。
「撮影は明日だったか」
「ああ。せいぜい背景で立っているだけだと思っていたのでな……困惑しているというのが正直なところだ」
礼装のための撮影、というと聞こえはいいがそのために毎回セットや衣装を作るのもどうなのだろうと思わなくはない。だが、それが暇を持て余した一部のサーヴァント達やストレスを溜めている人間達のためであることも知っている。
閉鎖空間の娯楽の一種だと思えば、強くも言えないというのが本当のところであった。
実際のところ、青年自身も恩恵に預かっており、そのための協力もしているので同じ穴の狢である。協力の礼として彼の端末に蓄積されていく画像データを見るものがいればそれをネタに強請れるほどであるのだが幸いなことに今のところは誰にも知られていない。
「メンツがメンツだ。仕方ねぇんじゃねぇの。一番下っ端のエミヤさんよ」
「痛いところを突いてくれる」
実際の年齢はともかく、英霊としての成り立ちを考えれば青年など下っ端も下っ端だ。
遅かれ早かれ、一番面倒な立ち位置が回ってくるのは避けられないことであっただろう。
「ところでキャスター、それは……どうしたのかね?」
「んー……変装?」
首を傾げて曖昧な言葉を投げた男は、似合うかとブリッジを押し上げてみせる。
「似合うというか……ものすごく胡散臭いな」
「ひでぇ」
似合っていないわけではない。ただ、エミヤは言葉を濁したが、実際問題マスターなどが見たら言ってはならない言葉を発しそうな雰囲気を醸し出していた。
「メガネだけしているから問題なのでは? それこそこういうスーツを……あ」
「おう。ま、そういうつもりできたからな。実際、さっきは客だと認識したからこそ自然に言葉が出たんだろ?」
キャスターの口元が緩み、フリじゃなく見立ててくれるのかと軽口を叩く。
答えるエミヤの表情も柔らかい。
お互いサーヴァントではなく、人間として街の仕立て屋で働いていたとしたら君のような客なら着飾らせ甲斐があるだろうと素直な言葉を落とす。
自然な動作で首にかけていたメジャーを手にとり、まずは採寸からかなと軽口を返せば、お互い堪えきれずに吹き出した。
「……もっと器用なつもりだったのだがな。どうにも調子が狂うらしい」
「そんなモンはやめとけ。気を張らなくていいってことだ、いい傾向だろうよ」
ふむ、そんなものかと首を傾げたエミヤの胸元に男の手が伸びる。するりと引き抜かれたのは綺麗に畳まれていたポケットチーフ。
「キャスター?」
「まあ、明日は深く考えずにカメラマンを客だとでも思ってやれよ。自己暗示が必要なら直前にコイツを畳み直してみるといい」
ふわりと男の手からチーフが舞って小さな光が遊ぶ。くるりと宙で一回転して戻ってきたそれは彼の手で畳み直され、青年の胸に戻された。
「これは……」
少しだけ雑なところが堅苦しいばかりだったスーツの印象を崩す。同時に、どこか森を思わせるような爽やかな香りが立ち上った。
「多少のリラックス効果くらいはあんだろ。じゃあな。練習もほどほどにしとけー」
ひらり。本当にそれだけを言いにきたのだとばかりに踵を返した男に慌てて手を伸ばした青年が掴んだのは長い髪であった。
痛ぇと情緒もない声が上がる。
「す、すまない……それと、ありがとう」
「……礼を言われるようなことはしてねぇよ。だが、そうさな」
明日撮影が終わったら首尾を報告しにくるくらいはしてくれと抑えられた低音が耳元に要求を残していく。それが色を伴う誘いであることに青年が気付くのは、すっかり男の姿が見えなくなってからであった。
たわけ、と。静寂に溶けた文句は誰にも知られず、頭を抱えて崩れ落ちた彼の肌がほんのりと上気していたことを知る者もまた存在しなかった。