朔望の晦

「まさかこんなことになるとは……」
 さて、恨むべきは己の幸運値か、それとも。
 眼前に広がるのは、以前のカルデアであればある意味見慣れた光景だ。
 見渡す限りの吹雪。違う点を挙げるならば、あまりにも唐突だということだろうか。
 建物とその周囲には何の影響もないが、境界に近付くと酷い吹雪に歩みを阻まれるため越えることができない。
 女将の留守を預かる雀達によれば長くても数日ほどで晴れるということだったため、仕方なく部屋を借りる事態になった。
 それでももしかしたらという思いは、日に何度も青年を境界に向かわせる。
 地上の迷い家。雀のお宿。女将である紅閻魔がサーヴァントとして召喚されたためにマスターとの縁が強化されて移動が容易になったこともあり、最近は食材の仕入れ先としても重宝されていた。今は周囲一帯を覆い尽くす吹雪を眺めながら溜息を落とし、途方に暮れる青年がわざわざ足を運んだのも、頼んでいた食材が調達できたため検分してくれと請われてのことで、向かった事実はカルデアの誰もが知っている。また、閻魔亭と紅閻魔は概念的に繋がっているため、戻れなくなったことも伝わっているだろう。
 キッチンにはブーディカや紅閻魔をはじめ、いつも通りのメンバーが揃っている。
 いくらチーフと呼ばれようが青年一人が抜けたところで問題はないはずだが、どうしても気が逸るのは仕方のないことであった。
「また境界を見ているのでチュン?」
「ああ。どうしても気になってしまってね」
 苦笑とともに振り返れば、ふよと宙を滑ってきた雀の一羽が肩に降り立った。
 おそらくあと二日ほどは続くと思うとの言葉にはそうかと溜息混じりの声を返して。気を取り直すように何か用があったかと問いかける。
「部屋の用意ができたので呼びに来たチュン!」
 準備があるため、まずは部屋で一服してから約束していた食材を見てもらいたいと思っていると続けられて頷く。
「では一度戻ろう。ちなみに今こちらに来ているのは私だけかね?」
「一人、獣狩りのお手伝いをしてもらっている人が居るチュン。よくわからない周回で忙しいらしいフィンマの代わりに来てもらったチュン!」
「なるほど。それなら好都合だな。味見役をしてくれそうな人がいるのならば少しキッチンを借りたい。構わないかね」
 普段は使っていないほうで構わないと告げれば喜んでと応えがあった。
 今の閻魔亭の形は紅閻魔と縁を結んだ時にマスターが奮闘して作り上げたもの。その時に各部屋をはじめ、大宴会場から大厨房、第二厨房と整備されたことはカルデアに居る者ならば誰もが知っている。
 要するに暇なのだ。
 紅閻魔がヘルズキッチンと称した料理教室を開催していることもあり、キッチンに足を踏み入れる事に対する心理的抵抗の低さも、弓兵に言葉を続けさせる理由となった。
「じゃあそちらの準備が終わったら呼びにくるチュン。それまで寛ぐチュン?」
「ああ。そうさせてもらうよ」
 今は客がいないからと準備された部屋は景色のいい上階に位置しており、広縁に出れば裏山や滝のほうまで広く見渡せた。ただしその先が閉ざされているのは相変わらず。
 おそらくは部屋からも様子を確認できるように選んでくれたのだろう。念のためと視界に入る限りの景色を確認してから部屋の中へと戻り、設備を一通り確認する。
 このあたりはもう癖だ。
 最終的には付属のお茶セットでお茶を淹れて寛ぐことに決める。
 外を眺めるついでに開けた窓から入り込む風が気持ちいい。こんなにも晴れているというのに足止めとは、と。もう一度深く溜息を落としてから、せめて今できることをしようと気分を切り替えた。
 雀達に余計なことを頼んだ身ではあまりフラフラ出歩くのは憚られる上に、部屋で出来ることもなく、呼びに来るのを待つ以外やることはない。
 落ち着かないのは確かだがどうにもならないと諦めてぱたりと畳に頬を付けた。
 どこか懐かしい、イグサの匂い。カルデアではできないことだなと考えれば少しだけ愉快になって口元も緩む。
 そうしてしばらく畳に懐いていると、軽やかな羽音が耳に届いた。続けてぺたぺたとおそらくは裸足で床を踏む音。
 フィン・マックールの代わりに手伝いをしているという例の人材なのだろう。しかしどこかで聞いたことがある気がする音だとぼんやりした頭で考える。
 せめてと身を起こして乱れた髪を軽く整えたところで扉の向こうから名を呼ばれ、どうぞとお決まりのように告げれば、引き戸になっているそこがゆるりと開いた。
「失礼しますチュン。頼まれていた第二厨房の用意ができたので呼びに来たチュン!」
「お。そんな気はしてたがやっぱりテメェか、アーチャー」
「……ランサー」
 予想通りだと笑った男はいつもの礼装ではなく、閻魔亭お仕着せの作業着姿である。ところどころ葉の汁や土で汚れているのは作業の跡なのだろう。
「そんな格好で入ってくるな。あと裸足もだ。床が痛むだろう」
「細けぇこと言うなよ。雀の嬢ちゃんは何も言わなかったぜ?」
 からりと笑った男に続いて、そもそもここを訪れる者の中には足すらない者も居るのだから気にする必要などないと雀にまで言われては押し黙るしかない。
「しかしお互い災難だな。しばらく帰れなくなった、ってのは雀達から聞いたんだろ?」
「ああ。だが私は客として来たわけじゃない。戻れるようになるまでの間はこちらでできることをさせてもらうつもりだ」
「ま、そうだろうとは思ったぜ」
 それならばちょうどいと告げて何やら雀に耳打ちする男を尻目に、ひとつ咳払いをして気を取り直すと、手早く茶道具を片付けた青年は立ち上がった。
「聞き捨てならないな。ちょうどいい、とはどういう意味だ?」
「ああ、雀達が対応できないからってことでオレが狩ってた鶏どもが結構な数でよ。下処理すら間に合わねぇから一旦ルーンで凍結して持って帰ってきたんだわ」
 この後どうせ食材としてカルデアに持ち帰るのなら、せっかく居るキッチンの守護者殿に一歩踏み込んだ処理の方法を聞くのは理にかなっているだろうと告げられる。
 言われたことは至極真っ当で、断る理由もない。
「下処理も追いつかない、というのはつまりそのままということか?」
「あー……見てもらった方が早い。獲物を入れた袋は裏口に置いてある。まずそれを運ぶかその場で処理するかを決める必要があるんだが……」
 仲が良いのか悪いのか。声に多少刺はあるが、慣れた者特有の気安さも同時に滲む。
 連れ立って廊下を歩きながら、血抜きをして羽根を毟るところからかと問えば、血抜きだけは仕留める過程で済んでいるとの応え。
 獣を獲って調理することも多いこの場所では野外調理場も充実していた。資材の搬入口でもある裏口近辺に積んである袋を確認していれば、飛んできた雀が一羽、外の竈門でお湯を沸かしているからそちらに移動してほしいと声を上げる。
 確かに外のほうが色々処理はしやすいだろうと頷いた二人は、それぞれ中身がパンパンに詰まった複数の袋を手に雀の後を付いていく。
 大型の鍋いっぱいに沸くお湯の前で薪の様子を見ながら昔ながらの方法で酸素を送る雀の姿に目配せし合った彼らは無言のまま。次の瞬間、男のほうが一歩先に立った。
「おつかれさん。交代するぜ」
「お仕事交代チュン?」
「おう。オレはこういうのの扱いは慣れてるからな、任せとけ。その代わりと言っちゃなんだが、アイツの手伝いを頼む」
 くいと指を立てて示したのは作業場の端に置かれた袋の口を開いていく弓兵の姿。時間そのものを凍結しているために見た目はそこまで厳しくはないがとにかく数がある。
 必要があれば相手が何であろうと殺すのがサーヴァントというものだ。ランサーと呼び掛けられたクー・フーリンもアーチャーと呼ばれたエミヤも今更死体に動揺したりはしない。
 だが、しばし黙祷しながらも一番美味しく調理しようと決意する姿勢は自分には持ち得ないものだなと一人苦笑して、ランサーは自分の作業環境を整えた。

(中略)

「そんな慌てて食うなよ。詰まらすぞ」
 くつくつと楽しそうな笑い声が上がるが、慌てていた青年はそれどころではない。
 男の指摘通り詰まらせかけて無理矢理飲み込んだ後で、これでは焼いてくれた君に申し訳なかったなと零す。
「それは別に気にしねぇけどよ。で、どうだ?」
「ああ。しっかりと中まで火は入っているのに硬くもなく、ちょうどいい……いや、そうではないな」
 もう一度串に残った肉を今度はゆっくりと味わう。
 ああ、と。溜息のような声が落ちた。自然と口角が上がる。
「美味しいよ、ランサー」
「お、おう……まあ、焼いただけなんだがな」
「焼くだけというのは、下手な誤魔化しがきかないということでもあるさ」
 少しだけ残っていた杯の酒を干して深く息を吐けばもう少しはいけるかとの問いが耳朶を打った。
「……そうだな、あと一杯くらいなら」
 君のほうは足りているかとついでに問いを投げてみる。
 もはや手酌で注いでいるのは知っているが、他に誰がいるわけでもない。
 冷酒向きだからと氷の入ったワインクーラーで冷やされた瓶から時折冷酒器に移すついでに注ぐ以外は好きにさせていた。
 実はその他にもいくつかの銘柄を用意をしているのだが、今のとこは告げていない。
「問題ねぇよ。食べる順番がとか、野暮なことは言わねぇだろ?」
「ああ。好きにしたまえ。そもそも私が用意したものとて手順を踏んではいないしな」
 最初だけは腹が空いていたからがっついちまったがと笑う男は、今はかなりペースを落としてゆっくりと味わうように酒も料理も楽しんでいる。
 時間ならばたっぷりあるし、他にすることもない。
 少しずつ、ゆっくりと酒を舐めるように過ごすのもいいと続けて。言葉通り酒気に緩められた空気の中で他愛もないやりとりが重なっていく。
 囲炉裏上にあるために温かいままの湯豆腐と、しっかりと冷えたままの酒の対比がまたいいとご満悦なランサーは、それでも他のものと一緒に少しずつ味わって、最終的には綺麗に皿を空にした。
 その白い肌に酔いの気配が上ることはない。
「なあ、アーチャー。ひとつ聞いてもいいか?」
「私に答えられることであれば」
「なんでここで食事にしようと思ったんだ?」
 以前のマスター達の頑張りもあり、立て直された閻魔亭は立派な大型旅館だ。
 宴会場から食事処、または各個室までその気になれば食事をする場所も選び放題のはずだが、あえてこの場所を指定したのは弓兵だと語られずとも把握できる。
 囲炉裏のあるこの休憩所は少し奥まった場所にあり、雰囲気はあるが少し暗い。
 炎の様子を楽しむためなのだろうが、今は派手に炎を上げるというよりも炭でじんわりという程度なので尚更だ。補助灯として表面の和紙にうっすらと雀が遊ぶ絵柄の風覆い付きの小さな行燈が灯ってはいるが、器が置かれている場所が浮かび上がる程度で、しっかりと姿勢を正した弓兵の頭のあたりはすでに闇に浸食されている。
 おまえさんが用意するのであれば、器もそれに盛り付けられた料理の色も愛でるようにしそうなものだろうと男の言葉に追い討ちをかけられた弓兵は、一瞬視線を泳がせてから静かに瞼を落とした。
「……たいした理由ではないが」
 強い酒を選んだ自覚はあるからおそらく赤くなる顔色を誤魔化したかったのだと。早口で告げてそろそろシメを出してもいいかと立ち上がる。
「大丈夫か?」
「ああ。君がきちんと酒の量を調整してくれていたからな。少し外すが、火の番でもしながら待っていてくれ」
 火を見ていろと言われれば強行に手伝うとも言えず、男は予想したよりもしっかりとした足取りで厨房に向かっていく青年を見送った。
 からり。氷が鳴いてまだ酒が残っているぞと主張する。
 シメと言っていたから、酒もこれで最後ということだろう。ギリギリまで杯を満たして指に付いた滴をちろと舐め取る。
「誤魔化されたなぁ……」
 いっそ煙草が欲しいと思ったものの、宿内は喫煙所以外禁煙だ。どうにももやもやしたものを持て余したまま最後の酒をちびりちびりと舐めていると、ぱたりと羽音が響いた。
「お片付けチュン!」
「お片付けするチュン! 失礼するチュン!!」
 予想通り、続くのは賑やかな雀達の囀りだ。
「全部持ってっちまうのか?」
 自分が片付けをして、誰かが火を見ていてくれてもいいのではないかとの提案は満場一致で却下された。器用な連携プレイで吊り下げた盆に皿を乗せて運んでいく様子に危ういところは見当たらないために手を出すのも憚られる。そう思っているうちに目の前は綺麗に片付けられ、残ったのは飲みかけの杯と箸のみ。
「ヒマなら何が出てくるか当ててみるチュン?」
 どこか笑いを含んだ声と共に新しく眼前に置かれたのはお新香と七味唐辛子。最後に残っていた酒を干す間だけの時間で答えを出して、杯を置くのと同時に口に出した。
「蕎麦、だな」
「言い切ったチュン。どうしてそう思ったチュン?」
「まずはメシの前に最後はできたてを出したいってアイツが言ってたから、すぐに食べないとまずいものだというのは確定だ。んでもって、現代日本においてシメに食べるならラーメンあたりが定番だが、それなら七味は出てこねぇだろう」
 理由を説明しながら、男は数年ほど穏やかに過ごしたどこかの地で、商店街の年配軍団に付き合って日本酒を呑んだ時のことを思い出していた。
 そのうちの一人は蕎麦をツマミに一杯やるのが好きなのだと言っていて、その話を当時の弓兵に話した際に、地域的に日本酒を好むとは珍しいとどこか穏やかに告げた様子をなぜか覚えていた。
 厳密に言えば酒はすでに空であるからツマミというわけではないのだろうが。
 こちらからも聞いていいかと、空いた杯の近くに降りた雀の一匹が嘴を伸ばして男を見上げた。
「おう。なんだ?」
「火の傍で一緒に食事をするのは特別なことチュン?」
「そうさな……特別と言えば特別かもしれん。オレの生きてた時代は今みてぇにどこにでも明かりがあるってわけじゃなかったから、食事を用意する火は安息の象徴だ」
 好いた女を娶るのに炉端に来てくれと言うくらいだと続けてから、何かが引っかかって男は考え込んだ。
 その間にも、頭がくりんと回る鳥独特の動きは見ていて少しおもしろい。
「ああ……オレにとってこうやって火の傍で語らうってのは、姫さんとのあれこれもそうだが、それ以前に野営の印象が強いのか……」
 日が昇れば敵として戦う相手であったとしても、火を囲んで食糧を分け合う一瞬だけは友として過ごせるひとときだった、と。もはや遠い昔のような記憶が告げている。
 そしてそれは生前だけではなく、サーヴァントになってから。それこそあの弓兵相手でも当てはまるのだろう。
 この現界があとどれだけ続くのかはわからないし、今すぐに敵になる予定はないが、時間的な概念のない英霊の座のこと、こうしている間にもどこかの世界では敵として相対している可能性は高い。
 今更ではあるが、こうしていられる時間は貴重なものだと意識する。
「答えは出たチュン?」
「ああ。ま、あっちがどう思っているかは知らんが、オレは勝手にそう受け取るだけさね」
 男の宣言を身勝手だと詰りながらも人とはそういうものだと笑った雀は、飲み終わった杯を持って飛び去っていった。
 入れ替わりについ先ほどまで考えていた相手が重そうな盆を手に近付いてくる。
「待たせた」
「そんなに待ってねぇよ。いい匂いだな、これは鳥か?」
「ああ。本来は豪勢に天婦羅といくべきなのだろうが……ここには海老がなくてね」
 代わりに沢山狩ってくれた鳥肉があるから鳥南蛮そばにしたのだと告げて置かれた器の中には焼いた葱と鶏肉が泳ぎ、ちょんと中央に乗せられた三つ葉と柚子皮が色を添えている。
 冷めないうちに食べてくれと告げられれば、まずは目の前の器を干すのが礼儀であろう。
 いただきます、としっかり手を合わせてから箸をとり、スープの海に漂う麺を捕まえてずぞ、とひとくち。
「うめぇ!」
 誤解のしようもない明瞭な一言だけを吐き出すと、ランサーはそのまま夢中で出された蕎麦を完食した。
「そんなに急いで食べずともよかったのだが……」
「美味すぎて止まらなかったんだよ。しかしこいつは今日のどれとも感じが違うな。もしかして出汁も鳥か?」
 スープまで綺麗に干した器に鼻先を近付けて鳴らした男はそこで初めて傍に置かれていた七味の存在に気付く。
 あからさまに残念そうな顔を見せたため、呆然としたまま一部始終を見ていた弓兵は思わず吹き出した。笑うなよと唇を尖らせる様子すらおかしいらしく、笑いが止まらない青年の箸はなかなか進まないままだ。
 このままではせっかくの蕎麦がのびてしまうだろうにと考えれば、口内に先程まであった出汁の旨味が返った気がして、きゅうと頬の内側を噛んで視線を逸らす。
 緩み切った、でもどこか飢えたような表情をしている自覚があった。
「なあアーチャー、そいつを食べて少し休んだら散歩行こうぜ」
 提案は意外だったのか、首を傾げた青年に対し、温泉まで繋がっている遊歩道があるのだと説明してやる。
「さみぃけど、ちと面白い景色が見られるからな」
「私に見せたいということか? ならば付き合おう」
 思ったよりもあっさりと頷いたのは、あとはゆっくりしろと片付けを雀達に取り上げられたからだろうか。そうこなくちゃなと片目を瞑ってみせた男は、体勢を変えようとしたところで改めて弓兵の全身を眺めやった。
 ランサーは汚れを落とした時に洗濯するからと作業着から客用の浴衣に着替えさせられたため、二人が並んだ時の見た目はちぐはぐ。
「……なんだ?」
「どうせなら着替えて行こうぜ。部屋に浴衣あっただろ」
 こういうのは雰囲気も大事だと主張する男に対し、必要ないだろうと一度は断った青年だが、格好から入った方が肩の力が抜けるだろうという言葉には抗いきれず、結局は承諾して立ち上がる。
 何事も格好から入りがちな自覚はあるのだろう。釣りに行くとなったときにフル装備を整えてくるのなんかがいい例だ。
 着替えてくるから少し待っていてくれと告げて去る背中を見送るのにも、このまま帰ってこないのではないかという不安はない。雀達に手伝って貰わずとも一人で着付けができることもなぜか知っている。
 囲炉裏の炭を灰に埋める作業をしていれば待たせたと静かな声が響いた。
「おう。じゃあ行くか」
 当然のことではあるのだが、女性用の色とりどりのものと違い、男性向けの浴衣はそうバリエーションがないらしい。
 揃いになってしまった濃鼠の浴衣に濃緋の帯を合わせた姿は、その色のせいか槍兵よりもよほど似合った。
 近付いた時に渡されたのは羽織らしい。
 こちらも濃緋で、羽織ると随分と派手な色味になる。
「派手じゃねぇ?」
「私に言われてもな……女将の着物も赤基調だということを考えると、場所柄ということだろう。それにしても、君が赤を纏うのは見ていてなんともむず痒いな」
「特に違和感はねぇけどな。赤枝の頃はそれが普通だったし」
 緑の丘が続く風景の中にあって、遠くからでも目立つ色だ。敵として目にした者にはさぞ恐怖を与えただろうと笑う。
 含みのある言い方だなと文句を言いながらも話題を続ける気がない男は、さっさと下駄を引っ掛けて外に出た。昼よりもだいぶ気温が下がっているらしく、吐く息が白く凝る。
「おー。さすがにだいぶさみぃな」
 口調ほど寒さを感じていない足取りで、からんと足下の歯を鳴らした。