on tiptoe with …
「あ、いたいた。エミヤ!」
元気よく響いた少年の声に顔を上げる。案の定、ぶんぶんと手を振って存在を主張しているのは見知った顔であった。
「セタンタ? 今日はマスターに同行して素材採取に行ったのではなかったのか」
時計を確認すれば夕食時までにはまだ時間がある。
帰還予定よりもかなり早いようだが、いつ戻ってきたのだろうか。
当然の疑問に、戻ってきたのはついさっきだと少年が笑った。夕食の準備で忙しいのはわかっているが、伝えなければならない話があるから手伝いをしてもいいかと問われる。
拒否する理由もないことから二つ返事で了承を返した。
勝手がわかっている少年は即座に邪魔になりそうな装備を外し、予備のエプロンを装着。
石鹸できちんと手を洗ったことを確認してから、二人は大きめの作業台に向かい合って食材の下処理を始めた。
エミヤは野菜を担当することにし、少年には肉の処理を頼む。
部位ごとにこのくらいに切り分けて欲しいと一通り見本を見せれば、セタンタはすぐに理解して包丁を握った。
さすがと言おうか、ナイフの扱いには慣れた様子で、ほぼ丸ごとだった魔猪を指示通りに切り分けていく。
「今はここも最低限で回しているからね。助かるよ」
これくらいなら任せとけと笑った少年は、それでも毎日同じように料理できる人達はすごいと声を上げた。
「オレには無理だな。細かいことは向いてねぇし、一回二回ならいいけど、長くなると途中で投げ出しそう」
「私だって君達のように喜んで食べてくれる人がいない場合は続かないから、その気持ちも分かるよ」
そんな会話を昔誰かとしたような気がする。
生前に思いを馳せた青年は、一人の場合、食事すら抜く傾向にあることを心配した姉のような存在を思い出して表情を緩めた。
「これが食べたい、次はあれとかどうだ、と。次々言ってくるくせに自分で作ろうとしない身内の存在が有り難かったな」
年若いころは特にだが、料理をしている間はそれにいっぱいいっぱいになるため他のことを考える余裕などない。命令と紙一重のリクエストでも、他人に求めてもらえるのは存在を許されていることと同義だ。
エミヤは穏やかな表情のまま。手だけは休まず野菜を切っていた。流れるように切り方を変えながらトレイや鍋に振り分けていく。
「今日のメシはなんだったんだ?」
「マスターの戻り時間が読めなかったので保温や再加熱が楽な煮込み料理にするつもりだったんだが、もう戻っているのならば話が変わってくるな」
保存の魔術をかけておく手もあるが、可能なら時間に合わせて出来立てを提供したい。
これは出来立ての食事を目の前で盛るという行為そのものが日常を思わせるため、今を生きる人間達の精神安定に寄与するからだ。
全員で持ち場を離れるわけにはいかないため、多少の前後はあれど、マスターも含め同じ時間に食べられるならば多少の保温を考えれば済むし、焼くだけにしていたとしても下味をつけてからの時間経過で味がぼやけてしまうのを防ぐことができる。
「やっぱ普段から色々考えてんだなー。あ、マスターなら多分、今日は盾の嬢ちゃんと一緒にくると思うぜ」
戻ってきた時に一緒に食べられると告げる嬉しそうな声を聞いたから、と。デジタルネイティブ世代の現代人でもないくせに、ファクトチェックを気にする少年はソース元を開示するのを忘れない。
「そういった情報はありがたい。どうも今日は君に助けてもらってばかりだな」
「こんなの助けたうちにはいらねぇだろ。よし、こっちの切り分けは終わったぜ。話があるからって入らせてもらったのに、思ったより作業に集中しちまった」
横に置いてあった袋とトレイを目敏く見つけ、どこに何を入れるのかを聞いてくるあたり流石である。エミヤのほうも手が離せなかったため一気に説明したが、ちゃんと全部を覚えて的確に振り分けていく姿は頼もしいの一言しかない。おまけに袋入りを指示した方から作業を開始し、促さずともいくつか終わらせては劣化しないうちに纏めて保管場所に持っていくあたりも流石である。
「オレのルーンじゃ気持ち程度かもしれんが一応消毒しておいたから、多少日持ちするといいなー。そしたらその分アンタらが楽になるんだろ?」
「そんなことまでしてくれたのか。ありがとう」
「礼もなにも、自分のメシのためだぜ?」
からりと笑う少年の言葉には裏も表もない。
「それでもだよ。ついでにもう一つ頼まれてくれるか?」
もちろん。即座に頷いた少年を手招く。疑問符を浮かべながらも近付いてきた彼に、小皿を差し出した。
形を崩しすぎずに潰したジャガイモとハム、ゆで卵にきゅうりとたまねぎ。マスターがいたら懐かしいと喜ぶだろうポテトサラダは、日本で王道なマヨネーズと塩胡椒の味付け。
もう一種類はジャガイモを潰さず切り、マヨネーズも卵も使わずピクルスを追加し、マリネ液も利用した酸味のあるもの。
「味見を頼む。ジャガイモだから少しは腹に溜まるのではないかな?」
保存に制限がかかる肉や魚、葉物野菜などと比べれば根菜類はいつだって優秀な保存食である。
顔を輝かせて即座に食べ切ったセタンタは、きちんとそれぞれに対して感想を告げた。
「……と、ここまでが味見の仕事な。オレ的にはどっちもうまいけど、マスターは絶対こっち好きだろ」
マヨネーズ側を示して、自信たっぷりに笑う。
別のカルデアから獣を追って移動して来たと告げた彼が、今のカルデアにやってきてからはまだ日は浅い。おまけにこちらのマスターとは出会い方はビースト絡みで敵対していたところからだった。
最終的にこちらに残ることにしてからもしばらくはかなり気を使って過ごしていたらしいが、最近は素材採取でも頼られてすっかり打ち解けたらしい。
わかるかと笑うエミヤの表情は穏やか。
「こちらの方が日本式というか……マスターにとっては故郷の味ということになるかな」
「林檎を入れるのも?」
「そちらは好みだが、魔術と無縁の生活だったマスターに対してだけでいえば、作り置きをしないおかずを出せるのはご褒美のようなものかな」
魔術で解決できると忘れそうになるが、基本的に水分量が多い生の食材は痛むのが早いため作り置きには向かない。好みは人によって分かれるだろうが、エミヤはごく一般的な家庭の手作りの味という要素として取り入れていた。
「ああ、そうか。アンタをはじめ、ここのキッチン担当はマスターに対していつも日常を提供してるもんな」
おしゃれで気取った料理よりもどこかほっとするものを。手がかかっていても悟らせないものを。話の切っ掛けとして新しく召喚されたサーヴァントにまつわるものを。
キッチンを預かる面々が優先して選ぶものはそんな、給食のような料理達だ。そして現代全世界の料理に広く通じているエミヤの果たす役割は大きい。
「そんな風に伝わっているのなら幸いだ」
少年の呟きには穏やかに笑う。
ただし特別なことではないと笑みを含んだままの声が続ける。
それはキッチン担当だけではなく、サーヴァントや元々いた人間のスタッフ達を含めてほぼ全員の共通認識で、南極にいた頃から変わらない。
魔術とは無縁の、ごく普通の学生だったマスターがカルデアという家に戻ってきた時に精神を休めてもらうために必要なこととしてごく自然にそうなった。
和やかな会話を交わしながら手だけは着々と準備を進めていく。
副菜、主菜、汁物に主食。
食材の備蓄具合と、担当者はほぼ一人で回すことになる手間を考え、基本は定食スタイルでの提供にしているため、主菜が選べるが副菜は共通という形式に落ち着いている。
もちろん時間的に余裕があり材料が揃っていれば別途好みのものをオーダーすることもできるが、マスターもマシュもそのあたりあまりこだわりはないのかそれとも楽しんでいるのか、提示されたメニューから選ぶことが多かった。
「さて、これで一段落だな。すっかり手伝わせてしまったが、あとは直前の作業だけだから君の話を聞こうか」
「すっかり忘れてたぜ。まあ、そこまで改まってするような話じゃねぇんだけど」
洗い物と片付けをしながら水を向けたエミヤに少年は苦笑を返す。話と言っても事後報告の連絡のようなものだ。
素材回収から早く戻ってきた原因と今後の話である。
「システム不調のため、解決までの間、実体化しているサーヴァントの霊体化及び霊基グラフ待機への移行禁止とその逆が通達されてるんだが聞いてるか?」
「いいや。だが、区切りがついたら連絡してくれと管制室から通信がきていたから、そのことかもしれないな。確かにこちらに入っている間はどちらも自発的に行うことはないから後回しになっていてもおかしくはない」
「なるほど。だからオレがここに来る時、ついでに伝えてくれたら手間が省けるって言われたのか。納得したぜ」
セタンタは続けて管制室から通達されるはずだった注意事項を羅列していく。
ストームボーダーで過ごすようになってからリソースの問題もあり、常時実体化しているサーヴァントのほうが少ない。
ダ・ヴィンチやネモ等絶対に必要な人員は論外として、他は精神が人間寄りのため常時実体化し部屋を割り当てられている擬似サーヴァントと類似サーヴァント、人間達のために必要だからと交代で実体化し、食堂を運用するキッチン組。それらに加え、任務または素材採取に向かうマスターへの同行者と交代で実体化する番になっている者が追加される程度だ。
他は霊基グラフでの待機状態が標準となっており、基本全員が実体化していた過去のカルデアに比べれば静かなものである。
夕食の仕込みで手が離せなかったエミヤを除けば、一度に呼び出して説明してしまえば終わりだろう。実際遅れて伝えられたところで、待機状態と実体化を切り替えられないのならば明日の朝食も自分が担当かなどと思っただけである。
現状実体化している自分達が気を付けることは霊体化しないことと霊基グラフ待機状態に戻らないことだけ。サーヴァントであるならば食事も睡眠も不要であるし、あれば節約になるという程度で、休むための時間と場所も必須ではない。
それならいつもできない場所の掃除でもするかと考え始めた青年を制するように明日の朝食担当はネモ・ベーカリーだと笑いを含んだ少年の声が飛んだ。
むう、と。若干不満を表す声が漏れてしまったのは不覚である。
「そこまで予想通りの反応されると笑いたくなっても仕方ねぇだろ? オレの話は終わってねぇよ」
かちゃり、かちゃり。洗い上がった鍋やトレイをラックから取り出しながら少年は笑みから一転。嫌なことでも思い出したのか、唇を尖らせた。
まだ何かあるのかと問うエミヤは、待機していた予洗い済みのラックを食洗機に入れながら首を傾げる。
乾燥まで終わったものは種類ごとにわけて重ねておくのを忘れない。
深い溜息を吐いて。唇を尖らせたまま、今日一緒に行った面子がセイバーの伊吹童子、女教皇ヨハンナ、水着のほうのモルガンだと告げたセタンタの表情に疲労が滲んだ。
「なんというか……凄まじいメンバーだな」
「アンタもそう思うか? まあそれはいいんだ。変な動きするコインをしばくのはもう慣れたしな」
問題はこの後だと重々しく告げるセタンタが続けたのは、トラブルにより彼女達も待機状態に戻れなくなった事実である。
マスターとマシュをはじめ、人間達が最優先であることは変わらないが、現状の拠点は過去に比べればそれはもう狭い。待機状態になっているサーヴァントが多いためどうにかなっているが、かつてのような一人一部屋など夢のまた夢だ。
そこから導き出される答えは。
「休むための場所ならなにも食堂でなくともよかっただろうに」
「ちげーよ! トラブル解決までの間、部屋割がアンタオレになったからそれを伝えにきたんだっつーの。管制室の奴らは早めになんとかするとは言ってたけど、どれくらいかかるかわからねぇからな……って、あからさまに部屋なんかいらないってカオすんな。マスターからも頼まれてっから、仕事が終わるまできっちり待ってるぜ」
必要ならさっきみたいに手伝いに使っていい。
そんな提案まで受けてしまえば断れるはずもない。
「……わかった、君の提案を受け入れよう。私だってマスターに心労をかけたいわけではないからな」
「最初から素直にそうしとけよな! そんじゃ臨時上司としてよろしくエミヤ」
ある程度のことはこなせると思うから好きに使ってくれ。
(中略)
「どこまでアンタが知ってるクー・フーリンと同じなのか、興味ねぇ?」
もちろん、アンタが嫌じゃなければだが。
ぱちん。片目を瞑って見せた少年は、それ以上無理に距離を詰めてくることもなく答えを待っている。強引なくせに最終的な選択肢を投げてくるところがすでに同じだと青年は内心で苦笑を落とした。
「……君の常識ではそうかもしれないが、残念ながら私の倫理観ではアウトだよ」
少しも興味がないとは言えないが、現代日本の感覚で客観視すれば未成年に手を出す危ない大人だ。
学生同士の戯れのようなやり取りや成人年齢が低かった昔ならばともかく、見た目だけとはいえ、どうしても意識してしまう歳の差を覆すのは容易ではなく、嘘は言っていない。
「ちぇ。うまいこと逃げられたな。そんじゃキス……いや、経口経由で魔力渡すだけなら許されるか?」
「どこからそういう知識を……」
通常ならば拠点にいる限り魔力に不自由することはないが、システムの復旧を優先する以上、サーヴァントに回せる魔力は減る。
ギリギリの魔力量でいることは不測の事態を考えればあまり良いこととは言えず、余っているというのなら多少融通してもらうのは問題にならないだろう。提示された方法に多少の抵抗はあるが、投影以外からっきしの魔術使いとしては代替手段を提供できないのも確か。
青年は白旗を上げて、セタンタの提案を受け入れる応えを返した。
それでいいと告げる少年の声は低く、色を含んで名を呼ばれる声と息が首筋に触れる。
「エミヤ」
「……ッ」
ふわりと重なった唇はすぐに離れた。
ちろりと遊ぶ舌が引き結ばれたエミヤの唇を軽く叩いて受け入れることを促す。
なんでもないように振る舞っていても、飢餓状態に片足を突っ込んでいる身では、差し出された魔力の誘惑に抗うのは難しい。
おそらくはそんなところまでお見通しなのだろう。
俺様に見えて気遣いのできるクー・フーリンという英雄は、自分が迫ったのだからと相手に逃げ場を用意しながらも大胆に行動に移す。
さり。さりり。くちゅ。くちゅり。
僅かな隙間から差し込まれた舌が歯と歯茎を撫でて、反射で溢れた唾液と絡む。
最初は舌先だけでそっと探り、重なった唇は軽く喰む仕草。
徐々に口付けが深くなるにつれて舌同士が絡み合い、溢れた唾液を掬っては塗りつけるように動く。
唇を、歯茎を、口蓋を。
擽っては舐り、絡ませた舌は表面から裏までを執拗に擦り上げて。
腰を抱く腕はそのまま。腕を捉えていた手はいつの間にか後頭部に回され、しっかりと固定されていて動かせない。
強く、弱く。甘噛みを交えながら何度も吸い上げられた舌先と溢れる唾液は少年の口内で彼のものと混ざり合って返される。
幾度となく交換される体液は体勢的に流し込まれた後も嚥下することが難しく、溜まり続けたものは己のそれと丁寧に混ぜあわされたことも手伝い、口内全てを同時に蹂躙されているような不思議な感覚があった。
「……ぁ、ん……ぅ」
まるで喘ぎのような己の声に驚いても口を閉じられない。少年の舌が動くたびにくぐもった声が漏れ、何度注がれても取り込めない魔力が甘く凝った。
さり。後頭部に回った指先が襟足を擽る。そのまま耳後ろから耳朶、耳殻を辿ってこめかみのあたりを遊び、首筋に遊んだ。
エミヤ。
声にならぬ息だけの囁きを飲まされて。含まれる強烈な色気にかくりと腰が抜けた。
しっかりと支えられていたことで地面にへたり込む無様は避けられたが、囁きと同時に喉奥へと落ちた魔力が身を灼く。