water drops

 ぱた、ぱたり。
 掌から零れる水滴が肉厚の葉に触れて大きく揺らし、落ちる。
 たっぷりと水を吸う土を見ながら、青年は深く息を吐いた。少し乾いていた土が湿りを帯び、受け皿に沁みるまで水を与えてから、葉と茎の状態を確認する。
 小さな鉢植えの植物は、大きな窓から入る日差しを受けて、気持ち良さそうにすこし色の褪せた葉を広げたように見えた。
「これでよし、と」
 適当に拝借して水を汲んで来た食器を抱えて立ち上がると、彼は窓の外を眺める。オリエンスと呼ばれるこの世界の中でも、朱雀の気候は温暖で、今日も一日いい天気が期待できるだろう。
 見回してもほとんど生活感の無い部屋は、彼の部屋であると同時に住人がそこに居ないことを如実に語る。
 ベッドは一度も使われた形跡がなく、床に敷かれたラグも草臥れるほど踏まれていない。
「ナギ?」
 疑問を伴った呼び声が響く。
 真昼の太陽で温められすぎた部屋を冷やそうと、風を通すために開きっぱなしにしていた扉から覗いた顔は、どこか警戒を滲ませて中を伺っている。
 それが同じ組の仲間だと気付いて、ナギと呼ばれた青年は軽く手を上げた。
「よう。どうした?」
「それはこっちのセリフだ」
 院内では秘境マニアの通り名で知られている彼は、長めの赤毛を揺らして首を傾げる。
 扉が開けっ放しだかったから侵入者かと思った、と。呆れ声を出した相手の表情が苦い。
 他の組から隔離された『落ちこぼれクラス』の学生寮は、表からは隠しておきたいものが多すぎる。
 彼らの部屋もその一つで、この地上にある部屋には彼らの表の顔に必要なものしか置いていない。実際の彼らは移動魔法を使うことでしか辿り着けない地下の部屋に居ることが多かった。
 そちらには裏の資料が山ほどある……というのは一部しか知らない事実であった。
 9組に限らず、クラスごと割り振られたフロアには結界が張られており、教室に移動するものと同じような小型の魔法陣でしか移動手段が無い。
 そのため、そう簡単に隠しておきたいことが明るみになるはずもなかったが、彼らは刷り込まれた用心から、一度地上の部屋に入ってから移動する習慣があった。
 髪を無造作に掻き回す彼が問いたかったことを悟ってナギは笑う。
「あいつ、やっぱり日にあててやらないとダメらしくてな。仕方ないからずっとこっちで育てようかと……」
「あいつ?」
 本当はちゃんと目の届くところがいいんだけど、と。言いながら示したものは、どうみてもただの鉢植えだった。男は何かを言いかけて、止める。
 心の恋人なんだよ、と。語尾にハートマークが付きそうな言葉がナギの口から飛び出して、男は嫌そうに表情を歪ませた。呆れ顔で悪ふざけも大概にしろと告げられた青年は、わざとらしく唇を尖らせる。
 癒しのひとつくらい別にいいだろうと反論する彼を適当にあしらって、男はひらりと手を振った。
 9組に所属する者達は、たとえどんなに近しい友人であっても相手の行き先を詮索しない。
 寮の入り口には、フロア用の魔法陣とは別に、魔導院内を移動するための魔法陣が置いてある。
 彼らはそこまで来ると、いつものようにお互い何も言わないままで別れた。
 男が先に移動するのを見送って、自分も入ろうとしたところで、青年は先客の存在に気付く。数歩離れると、移動してきた影が魔法陣の中に見えた。
「あ、ナギだ〜」
「おや、奇遇ですね」
「よう、おまえら」
 魔法陣の中から顔を見せたのは同じ寮に暮らす0組のメンバー。ジャック、トレイ。名前を読んで、ナギは軽く手を上げる。
 表向きは突然だったからという理由で、0組は9組と同じこの古い学生寮を使っている。
 実体はもちろんどちらも裏の仕事を任される立場であるためだが、長く院内最強と言われていた1組を軽く飛び越える実力へのやっかみを牽制する意味も含まれているとナギは考えていた。
 予想はそう遠くもないだろう。面倒臭さが半分、本当に場所が無かったのが半分、といったところか。
 そこに魔法局局長であり、0組全員の保護者でもあるアレシア・アルラシアと、八席議会の各人の思惑が入り交じった結果、今の状態がある。
 まだ授業中なのにどうしたと聞かれれば、ナギはサボりだと誤摩化して口元に指を立てる。
 はいはいと笑ったジャックの肩を軽く叩いて、トレイの小言攻撃に晒される前にと、ナギは彼らと入れ替わるように魔法陣に乗った。
 
 ※
 
「……長期になるな」
「何か問題でもあるのかね」
 思わず出た声に不機嫌そうな声が返って、余計に刺激すれば面倒な事になると分かっているナギは内心で舌を出しながらなんでもないと答えた。
 ふてぶてしい態度に舌打ちをした中年男は、眉を顰めて、これだから落ちこぼれと言われるんだと毒づく。
 『クリムゾン』として依頼してくるくらいだ。目の前で偉そうにふんぞり返っている依頼人は、9組の実体がお気楽な落ちこぼれでは無いと知っている。だが、平気で貶める発言をする空気はもはや魔導院全体に蔓延していて、普通に生活していたとしても嫌でも耳に入ってくる状態になっていた。それに文句を言う気力もすでに本人達には無い。
 あとは無言で作戦の内容を聞いて、短く了承の言葉を返した青年は、そのまま特に何も言わずに男の部屋を後にした。
 数日ならともかく、週単位になる作戦への参加は、避けられないこととはいえ、遠慮したいのも確か。
「ちょっと失敗したかねぇ」
 どうするかと考えながら半ば無意識に院内を歩き、寮に足を向ける。
 ぼんやりと考え事をしながら魔法陣を出ると、長身の背中が視界に入った。朱のマントは0組の証。
「よっ! キング」
「……ナギか」
 軽く声を掛ければ、すぐに応える0組の長兄に、ナギは内心で手を打つ。咄嗟の思いつきではあるが、彼ならなんとなく受け入れてくれる気がした。
「ちょっと頼みがあるんだけどさー」
「変なことじゃないだろうな」
 眉を寄せて、厳しい表情を見せたキングに、心外だと笑って、ナギは肩を竦める。
 それなら部屋で聞こうと告げられて、ますます笑うしかなくなった彼は、苦笑いのままで口を開いた。
「おいおい。一応クラス外の人間は入れないことになってるの、忘れてないか?」
「今更だろう」
 キングの返答はにべもない。言った青年の方も特に引きずることなく、それもそうだと流した。
 伝令役という立場上、知らない者の目がなければ、ナギは公式に0組フロアに入ることが認められている。
「じゃあ先に行っててくれ。頼みごとを回収したら行くからさ」
「わかった」
 気安い声に頷いたキングが移動する。それを見送ってから、ナギは己の部屋があるフロアへと移動した。伝えた言葉通り、頼みごとを回収してすぐに踵を返す。
 相手がキングなら、ため息だけで許してくれるのが分かるだけに、移動魔法を使う手もあった。だが、魔法に集中するのも面倒だと言うようにナギは魔法陣に足を向ける。
 誰にも会うことなくキングの部屋の前に立つと、軽くノック。特に待つこともなく開いたそれに、思わず苦笑を落とした。
「……おいおい、確認もせずに開けるなんて不用心じゃないか?」
「たまたますぐそこにいた。それだけだ」
 部屋によって左右の違いはあるが、扉を入ってすぐには、水周りがまとめられている。
 上着を脱いで、首にタオルをかけたキングの姿を見れば、彼が顔でも洗っていたのだと分かった。
「まあ、いいけどな」
 言いながら、招かれた部屋の中に足を踏み入れる。
 ナギは0組男子の部屋すべてに入ったことがあるが、お仕着せの部屋で、置くものなどほとんどないにもかかわらず、彼らの部屋はそれぞれに個性を主張していた。
 中でもキングの部屋は全く個性が無いのが逆に個性となっている。
 他のメンバーの部屋は、快適さを求めてレイアウト調整に勤しんだのが一目で分かるが、キングだけは支給されたまま、まったく物を動かした気配が無い。
 その疑問が解けたのは、いくつかの作戦を経て、多少なりとも0組全員と仲良くなってからだった。
 見た目に反してメンバー内のことに関しては細やかに気を使う長兄だが、彼らが関わらない場合には極度のめんどくさがりだなどと、誰が想像しただろう。
 その中にはキング自身も含まれており、部屋がいつまでも初期配置のままなのも、そのせいであった。
 彼の頭では、己の部屋は寝ることができればそれでいいという認識で、快適に過ごすためにレイアウトを好みに変更するという考えが抜け落ちている。他のメンバーの部屋を見て、好きなように移動すればいいことに気付いても、動かす位置を考えるのが面倒臭いから別に良いと言い放った彼を見て、爆笑したことをナギは憶えていた。そんな感じであるから、キングの部屋は、己の使っている痕跡を出来るだけ残さないようにしているナギの部屋に酷似している。
 そんなあれこれを思い出して、青年は気付かれないようにうっすらと笑みをのせた。