which is which

取り決めは二つ。
ひとつ、お互い真名で呼ぶこと。
もうひとつは……

ゆるゆると時間をかけて高められ、今も煽られる熱を息に混ぜてそっと逃がす。
くつりと笑みの気配。
仰け反る際に閉じてしまった瞳にはその姿を映すことはできず、ただ気配だけを捉えて背に流された髪を握りこんで軽く引いた。
抗議の意思は正確に伝わったらしい。だというのに、ますます深まる笑みの気配が落ちて、諦めるように熱を溜息に差し替える。
男の舌先が耳朶を舐り、そのまま首筋の浮き出た部分に触れた。青年は、わざとらしく唇で食む仕草に条件反射で緊張する己の体を感じる。
思わず唇から零れたのは、呼び慣れた普段の呼称。
本来であれば器としてのクラス名を示すのものだが、同クラスのサーヴァントが多数居るのこの場ですら特定の個人を示すものとして周囲に認知されるほど浸透してしまったそれ。
意識して呼吸を深め、力を逃す。
「エミヤ。約束、忘れてんぞ」
「……ッ」
咎めるはずが逆に諭され、続けるはずだった言葉を飲み込んで。
「……クー・フーリン」
「おう。なんだ?」
改めて真名を口にすれば、楽しそうな笑みの気配はそのままに、熟れた果実のようにどろりとした欲をにじませた応えが返った。そんな風に呼ばないでほしい、と思う。同時にクラス名での呼称はほんの僅かに焦点がずれて響くために随分と心地よかったのだと気付いてしまった。
普段からどちらかというと真名呼びを避ける傾向のある男であるだけに、こんなにも続けて名を何度も呼ばれる機会などそうないだろう。夕飯のメニューを訪ねる時と同じ軽い調子で振られ、期間限定だからと承諾した己を早くも後悔する羽目になったがもう遅い。
注意して聞けば名を呼ぶ際に一瞬の間が入ることから、相手も慣れないのだろうとわかるだけに辛うじて許容できているという現状に溜息をひとつ。
下肢の間、己でもそうそう触れぬ場所からひっきりなしに上がる水音から意識を逸らすために思考を逃がそうとするが、快楽と思わしきものを得れば得るほど頭の芯は冷えていく。
ごとり。
己の裡で思考と感情に蓋が落ちたのがわかった。
「今日はここまでだな」
「……なぜだ」
唐突な宣言とともに躊躇無く指が引かれ、未練など無いと告げるように笑みが落ちる。
問いを投げてしまったのはその表情のせいだろう。
手探りに触れた彼の欲は、熱を持って天を仰いでいるのがわかる。それでも今日はここまでだと言ったはずだと外させてから、男は首を傾げた。
辛いなら前はイっておくか、と。言葉と共に撫で上げられる感触。己の熱の状態を見せ付けられる仕草に肌を粟立たせる。
「私よりも貴様のほうが限界に見えるが?」
「別にどうってこたねぇよ。あー……おまえさん風に言うなら生理現象だ、ってな」
痩せ我慢かと問えばそういうことだと返すくせに、それ以上触らせることはなく、体を起こした男は即座に見慣れた礼装を纏う。
「じゃあな、エミヤ。おやすみ」
ひらり。あまりにもあっさりと軽く手を振って立ち去った男を見送ってしまい、エミヤは呆然としたまま己の体に視線を落とした。
暴かれた下肢の中心で未だ熱を持つ欲が揺れる。
舌打ちをひとつ。
中途半端に高められた体だが、元々そこまで性欲が旺盛な方では無いのは幸いか。無視して休むことは十分可能だろうと判断し、念の為と敷かれていた大判のタオルを片付けるついでに体を清め、適当な服を編む。
改めて寝台に横になっても、纏わり付くような男の魔力の気配が鬱陶しい。
睡眠、食事。そして各種娯楽。サーヴァントにとって本来ならば必要が無いはずのことは、人間達に合わせた生活をしていれば嫌でも意識させられる。霊体化すればいいだけだというのに、わざわざシャワーを浴びたのもそのうちのひとつ。
壊滅状態に近かった生活を立て直すために、昼夜関係無く活動していたのは召喚されてからどれくらいの間だったか。熱を意識から追い出すために、青年はぼんやりと思考に沈む。必要がないはずの睡眠にゆるりと意識を任せながら、記憶が途切れる瞬間までそんな他愛もないことを考えていた。

***

「これで……何度目だ……」
絞り出すように青年の喉から声が零れた。
未練も無くぱたりと閉じた扉。今日に至っては触れることすらなく彼は部屋を去った。
誘う、誘われるまでは特に変化はない。青年から手を伸ばすことはないため、いつも楽しそうに笑ったまま男のほうから触れてくる。
拒絶する理由はない。戯れのような触れ合いでも、欲を滲ませたものでもそれは変わらず、求められれば応えるのはごく自然なこと。礼装を解かして裸を晒すのにも特に抵抗は無い。体を這う唇も、内を探る指も、物好きだと思うだけだからこそ黙認できた。
元々、彼の欲がこちらに向くのなら他の者を煩わせなくていい、という程度の認識で応じた関係。
だが。
一体何を考えている。溜息と共に吐き出した声は、がらんとした部屋に思ったより大きく響く。
唇を噛み締めて、彼は視線を落としたことで目に入った己の体を、瞼を下ろすことで視界から追い出した。
すでに本人が居ないことをいいことに約束したはずの真名ではなく、呼び慣れたクラス名の方を口にして、問いにもならない呟きを零す。
取り決めは二つ。
ひとつ、お互い真名で呼ぶこと。
もう一つは……
「快楽、か……そもそもあの男はなぜそんなことを言い出した?」
少なくとも先ほど何もせずに部屋を去った彼が、徐々に手を引く時間が早くなっていたのには気付いていた。
個人の好みとは関係なく触れられるのは構わない。必要だと求められれば全てを明け渡す用意もある。
だというのに、求められているのはそういったものではないと、ここまで繰り返されれば認めざるを得ない。
もっとも、欲しいのは快楽なのだと最初に男は語っていた。ならばそれが全てだろうと頭では理解できる。
「快楽……オレ、の?」
果たして。決して旺盛ではないが、人並みに快楽はあるはずだがと考える彼は。幸福も快楽も己には必要なく、誰かのために存在する覚悟をとうに定めてしまったために無意識が働く防衛機構に思い当たらない。
つまりは怖いのだと。この場に男がいれば指摘できたかもしれないが、一人では思い当たることもなく、疑問だけが無数に千切れて部屋を満たした。
深く零れる溜息がそれらを掻き回す。
考えたところで答えは出ない。潔く諦めるのも手だろうとエミヤは男が置いたまま忘れていった瓶に手を伸ばす。
とぷりと揺れた琥珀色の液体は己には強すぎるとわかっていたがあえて喉を灼いて。
そのまま寝台に沈みこんだ。

「腹減ったわ」
「……言うに事欠いてそれか」
「テメェがなんかいい匂いさせてるから悪ぃんだろうが」
すん、と。首元で鼻を鳴らす男は、先ほど自らの礼装をすべて手放したばかりで、しかも場所は整えられた寝台の上。どう考えてもこの状態で告げる言葉ではないだろう。
「そんな文句を言う権利があると思うか? そもそも、私の記憶違いでなければ、君は拒否する私を無理矢理ベッドに引き摺り込んだのだと思ったのだが」
「おう。だってそうしねぇとテメェは逃げるだろ?」
「……逃げるも何もここは私の部屋だ。他に行くべき場所などない」
そもそも貴様が裸でベッドに転がるのを許した覚えもないと続けるものの、必要以上に体重がかからぬようにと注意深く手を付く位置を変える青年は、奔放にシーツに散らばった男の髪を巻き込まぬようにそっと払ったことに己で気付いていない。
へいへいと生返事で小言をいなした男は、青年の努力を見なかったふりで両手両足を絡めて己に密着させた。近付いた青年の体を嗅ぎ回って、カレーかと一言。
「概ね正解だが、まだ下処理段階だ。今日は出せんぞ」
「わーってるよ。明日のお楽しみにしとくさね。その代わりと言っちゃなんだが、今日は共寝をしてくれ」
ちと限界らしいと告げられた内容を反芻して青年は首を傾げる。突飛な行動に誤魔化されていたが、よくよく見ればすぐに異変に気付いた。
「なんだその魔力量は……」
「しゃーねーだろ。どこもかしこも人手不足なんだ。この状態で戦闘も畑仕事もその他諸々も断れるかよ。テメェのほうにもそうそう余裕が無いのは承知してるが、多少回復するまでで構わん」
外を歩くときに取り繕って動けるようになるくらいまででいい。最低限を提示する男に溜息を一つ。
「もう寝るだけだから構わんが……少し詰めてくれ」
「あいよ」
狭い寝台の上では必然的に密着することになるが、接触による魔力の融通をするならばむしろ好都合だろう。
「やれやれ。私は君と違って寝るときに裸になる趣味は無いのだがな」
僅かに身を引いて片側を空けた男の髪を丁寧に払いながら自らも礼装を解く。流石に下着まで脱ぐような真似はしないが、晒され、触れ合った肌がじわりと体温を伝えた。
「別に無理せんでもいいぞ?」
「君のものならばともかく、私のこれがあると効率が落ちるだろう。流石の私もその状態の君を追い出すほど鬼ではないさ」
通常ならばかなり燃費がいい方に分類されるはずの男がこんな風になるまで動き回ったのなら、それは間違いなく世界最後のマスターと、このカルデアで生き残った人間達のためだろう。
特に必要性を感じていなかったため、部屋に鍵をかけていなかったのは幸いか。
共有部にほど近いエミヤの部屋は、時折動けなくなってしまったマスターの少女を介抱するのにも使われていた。
ここに来るまでは一般人であった彼女は、目まぐるしく変わっていく日常に全力で挑んでいるが、時折糸が切れたように共有部で眠り込むことがある。そういった時の彼女は部屋まで運んでしまうとなぜかぱちりと目を覚まして迷惑をかけてごめんと謝るのが常であった。
誰か他の人の気配が必要なのだろうと理解できるまでそう時間はかからず、だからこそエミヤは、サーヴァントの身では必ずしも人間のような睡眠は必要無いと己の部屋を解放したため、どこにも姿が見えない時に部屋に戻ってみると、盾の少女や聖女と呼ばれるサーヴァントがマスターに添い寝している光景を見ることがあった。
誰もそれを咎めることはできないだろう。
最初に比べればその頻度は減ったが、エミヤは未だに己が部屋にいない限りは鍵をかけておらず、最初期組であるクー・フーリンもそれを知っていた。
緊急避難としてはそう悪くは無い選択だろう。少なくともマスターや他の人間達に心配をかけるよりは格段にマシだと判断できる。
読書灯だけを残して明かりを落とした室内に僅かに熱の欠片が篭る気配がした。
ゆるりと首の後ろに触れた手で体温を計る。
「少し熱があるか」
「んー……ああ、足りてねぇから、か。オレは冷たくて気持ちいいが、あちいか?」
すり、と。額で肩口に懐くような仕草をする男に苦笑して、さほどでもないと返す。
思ったことは言わないでおいた方がいいだろうと考えるものの、少しだけ熱に浮かされた視線が、何を考えているかお見通しだと告げた。顔を背けて必死に笑みを殺す。
「オマエなあ……あー……」
頭が回らないからもういい。言いかけた言葉をそんな風に飲み込んで息を零す。せめて冷えた空気を取り込もうというのか、ごろりと上向きに体勢を変えようとした男の腕を掴んで引き留めた。疑問符が浮かんた表情の中で、普段なら爛と輝く瞳は半分も開いていない。
「そんな事をしたら落ちるだろう。ここのベッドは広くないんだ」
「そうか。ワリィな」
「謝る必要は無いが……ふむ」
軽く力を入れれば引かれるままに戻ってきた体を支えるように腕を回して、熱い呼気を吐く唇に触れる。
抵抗も無く入り込む舌。緩慢な動きで応えようとする相手の舌と擦り合わせれば、留めることも叶わず逃げた水音が間近に響いた。重力に引かれるまま相手の喉奥に落ちていく己の唾液を意識から追い出す。
片手は首筋。体温を感じる場所に添えたままに、軽く息が上がるほどまで続けてからようやく身を起こせば、名残を追うように覗いた舌先が唇の端を舐めて、ゆるりと瞼が持ち上がった。
熾火のような欲を表面に映した双眸に笑みが忍び込む。
「多少は足しになるかね」
「おう。大分助かった」
指先に触れる体温が緩やかに下がり始めているのを確認すれば、強がりでは無いだろうと判断できる。隠すように安堵を吐いて、あとは接触供給でなんとかなるかと誤魔化しを告げたものの、くつりと楽しそうな笑い声が逃さないというように耳朶を打った。
「さっきの。だいぶ情熱的な口付けだったな?」
「気のせいだ。熱にでもやられたのだろう」
それよりも無駄な消費を抑えてさっさと寝たまえ。
言い切る青年の言葉は強いが、未だ魔力不足の不調から抜け出ていない男は先程までは霧散しそうだった意識が明確なだけありがたいとそれを流した。
深い溜息。
せめて落ちないようにする努力だけはしろと落とされた呆れ声には、無言のまま腕を回すことで応える。
お互い向かい合って密着した体勢。
少しだけ青年のほうが上にずり上がっているために相手の頭を抱え込む形になっているが、寝台の端からこぼれ落ちている清流のような髪に意識を取られている彼は気付いていなかった。
さらり。何気なく伸ばされた濃色の指先が乱れていた部分を掬い上げて整える。
むぐ。潰れた悲鳴とも抗議ともいえない声が上がったことに束の間疑問符を浮かべたものの、己が定めた完璧さを目指してせっせと相手の髪を梳る青年はそれを無視。行為に熱が入れば入るほど、逃げ場を失った男のほうが耐えきれなくなって実力行使に出た。実際、我慢どころかそろそろ死活問題であるため、手段を選んでいる余裕はない。
密着している相手の胸。おそらくその谷間であろう箇所をべろりと舐め上げ、驚いた相手の力が緩んだところで思いっきり頭を引き抜く。何をするんだという抗議には、精一杯の怒り口調で応戦した。
「なにするもかにするもねぇわ。テメェ、オレを窒息させる気かよ!」
一息に言い放つ。せっかくの怒りポーズが台無しになるため、息が上がっていることに気取られてはならない。
そんなつもりはないと応えた青年に対し、自分のもってる乳の大きさを考えて物を言えと返せば、憮然とした沈黙が落ちた。
「女顔負けのくっきりむっちりの谷間に挟まれたら誰だって窒息するわ」
脂肪だろうが筋肉だろうがそんな違いは些細なことだ。彼にとって重要なのは己が窒息しかけたという事実のみ。
これみよがしに手刀の形を作って谷間に埋めてやれば、擽ったかったのか、身を捩った青年の谷間はきゅっと締まり男の手を挟み込んだ。そうなった手は容易に抜けず、ほれみたことかと言わんばかりの表情をした男に、居心地が悪そうな、微妙な視線が返る。
もこもごと唇が動いたのは謝罪だろうか。もともとそこまで引っ張るつもりもなかった男は気にせず、ぽすりと相手の腕に頭を落とした。
「あー……余計な体力使っちまった。寝るわ」
深く息を吐いてゆると瞼を下ろすその瞬間に、驚いた表情が焼きつく。
「その……このまま、かね」
「接触による魔力の授受ならくっついてないと意味ねぇだろうが。ああ、さっきみたいなやり方なら歓迎するが?」
「アレは緊急措置だ。寝言は寝てから言いたまえ」
「だよなあ。おまえさん、頑なに拒否してたもんな」
何を、と口にはしなかったが、言葉を受けた青年は気まずそうに視線を泳がせる。
瞼を落としていた男は気配だけで察して薄く笑った。こんな事態でもなかったらする気もなかっただろうと問えば返るのは沈黙。それが下手な言葉よりも明確な肯定であることには本人も気付いているだろう。だとしても、彼がそれを認めることはない。
体は重ねても口付けは許さないなどと、色仕掛けで迫る間者でもあるまいに。そんな指摘には、即座にどこから余計な知識を仕入れてきたと突っ込みが入る。
「いや、嬢ちゃん達がそういう話をしてたってだけだ」
唇は好きな人のために、だったか。夢見る年頃の少女としてはその感覚は正しいのだろうと断じて笑みを零す。
盾の少女はよくわかっていないようだったが、彼女とてあのマスターと一緒に過ごす時間が長くなれば、いつか理解できる日もくるのだろう。
「今更……」
「ん?」
「私は守護者としてとっくに磨耗した身だ。記憶も、感情も、ましてや快楽など今更持ち得るものではない」
訥々と落ちる言葉は、真実の一端ではあるのだろう。だが、それが全てでは無いことを男は知っていた。
ひそり。喉の奥で笑いを殺して。
知っていると続けた彼は穏やかに言葉を紡いだ。
「だが此度の現界は長くなりそうだ。生き人に混じって生活するなら、ある程度取り戻しちゃならんということもないだろう。必要ならな」
「必要になど……」
「なるさ。じゃなきゃ、生きてるヤツらの求めているものと乖離が生じてくる」
別に一口に快楽と言っても肉体的なものだけではない。
瞼を下ろしたままで男は額を相手の胸に触れさせた。とくり。偽りの心臓が刻む鼓動を感じる。
唇は容易く許さないくせに、味方だと認識した者へ伸ばした手は意識していないらしい。そのまましばらく鼓動に合わせて滲む魔力を追う。ゆるく己に溜まっていく魔力の穏やかさを噛み締めて男は息を紡いだ。
これ以上は言葉を重ねても理解できないと判断できるからこそ、代わりになる話題を探す。
「食堂のほうはどうだ。なんとかなりそうか?」
「……ああ。私一人ではやれることも限られるがな。とりあえず事件の際に過負荷で機能停止していた設備の復旧と食料庫の中身の把握はできた。ドクター・ロマニの言った通り、保存が利く食料の備蓄はざっと見て一年分はあるのだろう。生存しているスタッフの宗教またはアレルギーにより摂取できない食物も把握済み。生鮮食品が入手できないのは痛いが、ある程度はなんとかしよう」
突然の話題転換に戸惑いながらも、滑らかに返る答えに小さく頷く。
人理修復の旅は始まったばかりで、戦力も十全に整ってはいない。この状況で弓兵のサーヴァントであるエミヤが戦闘に出ず厨房に籠る必要があるのは手痛いが、そうしなければ戦う前から負けるとわかっているからこそ、誰も異議を唱えない。その分を埋めるように戦場に駆り出されることになったクー・フーリンは、他にもあらゆる雑用を請け負っていた。
マスターと共に戦闘に赴くのは、サーヴァントとしては存在意義に近い。その他にも一般人であったマスターと、デミ・サーヴァントになったマシュの戦闘・戦術訓練。力仕事が必要な残骸の後始末。その過程で気が付けば休息が必要なスタッフの名をドクター・ロマニやダ・ヴィンチに進言し、新たな召喚に立ち会い、案内役を務める。次のレイシフトメンバーの選出をマスターと共に考え、戦闘に赴き、必要だと思われる素材を回収。戻って分別し加工できる形でダ・ヴィンチに引き渡す。
そんな風に彼が駆けずり回っている傍、青年のほうも厨房と食堂の復旧および他設備の修理を請け負っていた。
食堂の復旧が優先されたのは彼自身の進言故である。すぐに口にできる非常食と携帯食料は取り急ぎ栄養を取るという条件だけは満たせるが、長期戦になるなら飽きて先に精神のほうが病んでしまう、というのは彼の言葉だが、スタッフ達に伸し掛かりつつあった精神的疲労も実感を持って後押ししただろう。
「そいや畑の方にも多少手を入れてきたぜ。これだけ閉鎖的な場所だ。使われていた形跡はあったが、今となっては面倒を見るヤツが居なくなった、って感じだったな」
「畑?」
「おう。クー・フーリン同士でざっと確認したところ、土も肥料も種も潤沢。おまけに場には魔術的な処置がされてるらしい。育成は早そうだから上手くいけば一月と経たずに収穫できる算段だ。それなら多少は嬢ちゃん達にまともなモノを食わせてやれるかね」
植える野菜は適当に選んだと告げて、葉物を中心にいくつかの名を挙げた男は他に希望があれば言っておいてくれと締めくくった。
「そうだな。保存食ばかりでは補えないものもある。肉類は冷凍されているものがあったから当面はいいとして、新鮮な野菜が手に入るというのならありがたい」
保存が利くため備蓄されていた米や麦、乾麺、根菜類と業務用の冷凍設備で保存された肉類その他で凌ぐことを考えていたエミヤの口端がゆるりと上がる。
男は目を閉じ、額を胸に付けたままだ。だからこそ誰も見ていないと油断しているのだろう。
そういうやつだよ、と。彼は指摘しそうになった言葉を慌てて飲み込む。
おそらく気付いてしまえば即座に霧散することがわかっている柔らかなそれを、むざむざ踏み荒す必要は無い。
本来ならばとことんまで気にくわない相手だったはずの青年は、現状ではこの場を維持する要となっている。それは青年の側から男を見ても同じ。
時折口論にこそなるが、己の役割を把握している彼らに時間と魔力を無駄にする選択肢は存在しなかった。一連の思考は、サーヴァントとして召喚され、マスターを勝たせるものとして定義された本能でもある。敵として見えれば躊躇なく殺しあうはずの彼らが、接触による魔力の融通を選択したのも同じ理由によるものだ。
「最初だから手探りになるが……収穫したら厨房に持っていけばいいか?」
「ああ。そうしてくれ。こちらも手が空けば手伝おう」
しかし君が畑仕事とは。
憮然と落とされた中にかすかな笑みの気配。
似合わないかと問えば、光の御子の輝かしいイメージからは遠いと返すものの、どこか納得しているような響きを帯びている。
ある程度は一人でなんでもできるようにしているつもりだと続ける男に対し、理解はできるが戦場のイメージが強すぎるのだと告げた時の表情は笑みだろうか。
「そんなモンかねぇ」
「そんなものだろう。君だって私がやっていたら違和感くらいは抱くのでは?」
問いにはしばしの無言。
「いや……あんまり違和感ねぇな。何をしててもおかしくねぇって気がするわ」
「貴様……」
「そういう意味じぇねぇって! あー……そうさな。なんつーか。オレは、テメェが手段を選ばないことを知っている、って話だ」
そんなことを知ったのがいつだかなど答えられない。だが確かに何度も顔を合わせた。殺し合ったと思える相手。その中に一つや二つ戦い以外の記録が紛れ込んでいてもなんの不思議もないだろう。
実に複雑そうな沈黙が流れるが綺麗さっぱり無視して、これを許してくれるのも同じことだろうと続ける。
「マスター含め人間達の害にならない、迷惑をかけない。万が一そうなるようなら、多少気に食わない相手だったとしても、自分に負担がかかる方がマシ……違うか?」
ぐぬ、と。あからさまに肯定したくない呻きを殺しきれなかった相手を笑って、男は今度こそ全身の力を抜いた。
「だからこそオレは安心して眠れるワケなんだけどな」
欠伸をひとつ。害されることなどないと。躊躇うことなく意識を落とした男を腕に留め置く格好になった青年は諦めたように溜息を落とす。
青年のいつもの文句は口の中だけで消えて。深くなった呼気が睡魔の訪れを告げた。

***

「あ、エミヤ。クー・フーリン知らない?」
各部屋に順番にかけているという通信越し。快活な少女の声が少し慌ててクラス名を付けた上で再度問うてくるのを聞いた青年はゆると唇を持ち上げた。
「ああ、知っているよ。昨夜、空腹のために廊下で行き倒れていたのを発見してね。通行の邪魔になるから私のほうで預かっているとも」
まるで犬猫の話でもするかのようににこやかに応えて、今はもう起き上がって部屋備え付けのシャワーブースを使用中の男をちらりと見遣る。
「えっ。サーヴァントでも空腹で倒れたりするの?」
「あまりないことではあるが、急激に消費した魔力の回復が追いついてないならそういうこともある。まあ今日からは食事が出せそうだから必要であれば彼に限らずサーヴァントにも提供しよう。それで解決するはずだ」
「そ、そっか……ごめん、知らなくて」
目に見えて項垂れた少女に対し、本人も問題ないと思っていたらしいから謝る必要はないと告げて、何か伝えることがあれば聞くがと続ける。
「じゃあ、今日予定していたレイシフト。機材の不調で無くなったって伝えてもらえる? 代わりに私もマシュもフルコースでメディカルチェックすることになったから、訓練も無理かな」
丁度良いから魔力の回復に当ててもらえればいいだろうかと問うてくる少女に軽く頷く。
「承知した。この後ドクターに君達の食事時間を聞いておくよ。今日は無理だが、今後食べたいものの希望があれば言ってくれ。そもそも口に合うといいんだが……」
「私達のためを思って作ってくれるものでしょ? 文句なんて言わないし、なんでも美味しく食べられる自信あるから平気だよ。ああでも、一つ、我儘言って良いかな?」
頷いたエミヤに対して少女が告げたのはあまりにもささやかすぎる我儘。
「んっとね。今日じゃなくてもいいから、おにぎりが食べたいなーって」
「ほう。今日でなくていいのかね?」
「えっ」
目を丸くした少女にばちりとウインク。笑みを浮かべた唇からすらすらと流れ落ちるのは解説とも言い訳ともとれる今日の予定だ。
「召喚される以前のことは知らないから推測だが、和食を好む者は多くなかったようだ。それ故かジャポニカ種の米がそれなりの量備蓄されていてね。米は腹持ちもいいから昼食に出すつもりだよ」
管制室で手を離せないスタッフでも気軽に口に放り込める利点も加味されている。
サンドイッチのほうが馴染む者も多いだろうが、厨房の機能を取り戻す際に調査したところ、消費されて部屋の隅に積み上げられた空の非常食を見れば長期保存加工されたパンやクラッカー、ブロックタイプの固形食料の比重が高かった。次いで各種缶詰とフリーズドライ食。あとはサプリメントでどうにかするというあからさまに非常時ですという食事風景が見て取れる。お湯だけであれば飲料ディスペンサーから調達することが可能なため、温かいものを全く食べられなかったわけではないだろうが、やはり気分的には違うのだと彼女の表情が語る。
通信越しでもわかるほどはしゃぎ、楽しみにしているという言葉を残して切れる寸前で、部屋の天井に湿気が逃げたのが見て取れた。頭からタオルを被り適当にわしわしと水を拭う男が、床に足を下ろす前に礼装を編む。
「通信は嬢ちゃんか?」
「ああ。君に伝言だよ」
手短に内容を告げてから今後の動向を問う青年に、タオルで包んだままの頭をかき回して男は笑った。
「なるほど。そういうことなら仕方ねぇ。大人しく回復に努めるかね。ところでおまえさん、今の通信で嬢ちゃんにオレのこと売ったな?」
ふわり。タオルが宙を舞う。思わずそれを目で追ってしまった一瞬で硬質な感触が青年の肌に触れた。一瞬の間に己の武器を突きつけて獰猛に笑う、青の印象を瞳の赤が裏切る男。
青年は動揺も見せずゆったりと目を伏せた。
「ほう。随分と鼻が利くと見える。なに、売ったと言っても解決策とセットだから問題あるまい。仮に次同じことがあったとして、彼女にバレてもそのまま直行で私のところに来るだろうさ」
それに嘘というわけでもないから、多少まずい程度なら空腹だと誤魔化すこともできると続けたエミヤの言葉を聞いたクー・フーリンは、即座に武器を手放して爆笑した。
その間放置された青年の眉間の皺が深くなる。
ひとしきり笑った後、それは考えていなかったと声を絞り出して笑いをおさめた男は深く息を吐いた。
「なるほどなぁ。確かに多少無茶するつもりなら便利な言い訳だ。そんときゃ使わせてもらうぜ」
「ああ……だが、どこまで通用するかはわからないということだけは気にしておいてくれ」
「問題ねぇよ。それに魔力云々は関係なく、状況が許すなら食事をしたいという欲求があるサーヴァントもいるだろう。それこそ、どこぞの腹ペコ騎士王なんかがいい例だ」
彼らの脳裏に同時に浮かんだのは、ブリテンの赤き竜とも、世界で一番有名な聖剣使いとも言われる、青の装束と白銀の甲冑を纏った騎士の姿。
違いない、と。納得したように落とされた青年の声は無意識の懐かしさが滲んていた。もちろん彼女とてサーヴァントである以上、潤沢に魔力が供給されていれば食事にこだわることもない可能性はあるが、どうにも食べている印象が強いのはどこかの記録の名残だろうか。判断できないことはとりあえず棚上げして、青年は男の名を呼んだ。
「マスターと約束してしまったからな。話の整合性を取るために今日は食事をしてもらえるか」
「おう。テメェが作るんだろ? なら断る理由はねぇな」
畑の様子を見てから食堂に顔を出すという男に頷いて青年は立ち上がった。
「さて……御子殿のお気に召すものが作れるかは知らないがね。
「何言ってやがる。今更言葉にするのも面倒なほどの腐れ縁だ。オレはテメェのメシを知ってるぜ? 正確にどこの記録かは知らんがな」
細かいことはわからずとも、青年が出す食事に外れなどあるはずがないという信を告げる言葉。
別の霊基なれば、実感が薄いことこそを嘆く。
「それはまた随分と光栄なことだ」
ゆるり。青年は穏やかに息を吐いて踵を鳴らした。
「畑の様子はメシの時にでも報告する」
「承知した。では後ほど」
扉が軽い音をたてて開閉する。本人がいない時だけ誰にでも開かれた部屋の中。クー・フーリンは乱れなく整えられた寝台に身を投げ出した。
シーツを多少乱したところで、不在時であれば許されると知っている。
記録情報に制限がない召喚など、おそらく最初で最期だろう。どこに行っても、どんな形で現界しても顔を合わせるのは、霊基にというよりはもはや座の本体に刻まれてしまった縁だとしても、それを明確な形で認識できるかどうかというのはまた別の話だ。
あまりにも人が過ごしている痕跡のない部屋を見回す。
身一つで召喚されるサーヴァントである以上、私物がないのは不思議なことではないが、毎朝完璧なほど綺麗に整えられた部屋は、いつ住人が消えてもおかしくないと思わせる。そしてその予想は、少なくとも半分は当たっているだろう。
「さて。まずはココをちゃんとアイツの部屋にするところからかねぇ……」
布の海に埋もれたままで吐き出された呟きは先ほど己が吐き出した湿気に混ざってゆるく部屋を漂った。