月の傘にかかる香り

その日、夕方からだったはずのミーティングが終わったのは、時間がずれこんだために、夜中になった。
これが同僚の誰かの所為なら文句のひとつも言う所だが、原因は主任とツォン。しかもその前の予定は社長と会っていたとくれば、それも出来ない。
解散の言葉とともに、伸びをしながら出ていく同僚に混ざって、部屋を出る。
書類仕事も今曰は待ち時間に終わらせてしまったから、あとは本当に帰るだけだった。
ただ、問題がひとつ。
「シリルさんも明日早いんですよね?」
歩きながら隣に並んだユリアが口をひらく。
「ああ。お前もか」
「はい。もうどれくらい眠れるか分からないですけど……」
書類の束を抱えて、少し早足で歩くユリア。さすがにその顔にも疲れが見えた。
数歩前を歩いていたミーナがふり返る。
「ユリア? 行くわよ」
「あ、待って下さい。今行きます」
それじゃあ失礼します。
そう言って、一緒に帰るのだと言うユリアとミーナは連れ出って歩いていく。
おそらく泊めてもらうのだろう。
何かと標的にされやすい仕事だけに、部屋はばらばらに与えられていた。
それが意味する所も分かっているが、こんな曰は会社の近くの寮が良かったと思わずにはいられない。
シリルの部屋は、遠い部類だった。
軽く息を吐いて、時間を確認する。
今から部屋に戻ってもほとんど休めない事は確実だった。
少し考えて、仮眠室を使わせてもらおう、と決意する。
部屋のベッドとはくらべるべくもないが、それでも今は睡眠の方が重要だった。
数歩分戻って、廊下を折れる。
もう慣れてしまった道を辿って仮眠室に割り当てられている部屋の扉を開いた。
中は薄暗い。
それでも、今曰はまだ月が明るい分だけ動作に支障はなかった。
それもある意味では慣れ。
人の気配に、瞬間的に身構える。
「シリルか」
薄暗の中から聞こえたのは、つい先ほどまで聞いていた声。
「主任……」
逆光になるために表情は伺えないが、名を呼ばれた事で、判別はついた。
彼が居る窓の近く。台の上には大ぶりの花枝。
それが月の光を浴びて、そっと香りを浮かべていた。
「そんな入り口に立っていないで入ったらどうだ?」
促されてようやく、部屋に入って扉を閉めた。
窓があるのは部屋の一番奥。
そこに行くまでに、左右にはカーテンに仕切られるだけの簡易べッドが並んでいる。
近付いてみれば、ヴェルドは上着を脱ぎ、ネクタイもしていない状態で、仕事中の厳しさはない。
ゆるりと笑む様子は、寛いでいて、いつかを思い出させる。
だが、その手にあるのは、コーヒーではなく、琥珀色の液体。
揺れた小波が光って、氷に当たって砕けた。
「今日は泊りか」
聞かれて、頷く。
「今から家に帰ると寝る時間が無い」
「ああ、明日は例の仕事か」
そんな時に遅くなってすまないな、と謝るヴェルドに、シリルの方が戸惑う。
「問題無い。仮眠がとれればそれでいい」
「そうか……では俺は退散するか」
「主任も仮眠するためにきたんじゃないんですか?」
「寝付けそうにないから少し呑んでから寝ようと思ってな。邪魔だろう?」
暗がりの窓辺で酒を呑んでいたからとて、どれほどの邪魔だろう。
今日は、月の光の方がよっぽどうるさい。思ってから別の側面に気付く。
そこに人が居るということ自体を指しているのだと。
軽く、かぶりを振る。
「いや、平気だ。でなければ最初から無理をしてでも帰っている」
仮眠室を使う時は空きが一目で分かるように奥から、という誰が決めたかも分からない法則に従って、ヴェルドの上着が放られたベッドと反対側のベッドに寄る。
そこはより花に近い位置で、控えめだった香りが少しだけ鮮明になった。
上着は備え付けののハンガーにかけて、銃はすぐに手の届く位置へ。
さすがに靴は脱いでベッドへと上った。その後で、カーテンを閉め忘れた事に気付く。
小さく笑い声。
「意外と抜けている所もあるんだな」
そんな声と共にカーテンが引かれる。
入り口側から奥から回り込んだ布の波は、花枝を半分ほど隠す位置で止まった。
残りは逆位置から。
それだけなら横になったままでも簡単に引き出せる。
月影が、引かれたばかりのカーテンにシルエットを描く。
「すいません……」
それに向かって声を投げれば、カラ、とグラスを持ち上げる音。
「おやすみ、シリル」
「……おやすみなさい」
そんなやりとりなど、久しく無かった事で、少し動揺した自分に苦笑する。
隙間から漂う花の香が、余計に現実味を無くさせた所為もあったかもしれない。
普段と変わらない、己の手に馴染んだ金属の感触が近くにあるのを確かめて、目を閉じた。
近くには人の気配。
それでも今日は眠れると、確信して。

一人ヴェルニチョ祭(専ら私の頭の中が) 同志さんがいらっしゃって嬉しいので浮かれたままに書いたらあれ? みたいな。 春ですね。ということでテーマは花見だったはずなのに、全然花愛でてないし。 ニチョという花ならいくらでも愛で(強制遮断)......げふんげふんげふん。

2006/03/30 【BCFF7】