ねむりのおと

 ゆるゆると体を侵食した毒が今になって枷になっている。
 重い体の理由に思い至って、男は内心で舌打ちを落とした。
 魔導院の己の部屋まではもうあとすこしだというのに、とうとう動けなくなった彼は、身を隠すように近くの木の影に座り込む。
 上がった息は容易に整わず、霞む視界と纏まらない思考が焦りを加速する。
 魔法陣による移動が一般的な院内において、寮に繋がる外れの道など、多くの候補生が使うものではない。ただ、トレーニングや気晴らしなどで使う者も存在することから、決して見咎められない保証が無いのも確かだった。
 うまく同じクラスの候補生ならまだいいが、見つかると厄介な相手の方が多すぎる。
「まあ、なるようになる……か」
 ひとつ。呟きを落とすと、男は諦めたように全身の力を抜いて背中の幹に体重を預けた。
 ぼんやりする視界を遮るように瞼を下し、葉ずれの音を聞く。
 混ざるのはやはり軽い、足音。内心でだけ溜め息を落とした男は、無意識に気付かれずに通り過ぎてくれることを願う。
「……ナギさん、ですか?」
 願いは虚しく。よりによって一番見つかりたくない相手の一人だと、ナギは苦笑した。声は聞き覚えのある少女のもの。どうやら一人らしいことに少しだけ安堵して彼は完全に足を止めてしまった彼女に、少しだけ身を乗り出してへらりと笑いかけた。
 どうしたものかと思案している間に言葉だけは勝手に唇から滑り落ちる。
「しーっ! 見つかる見つかる!」
 相手の危機感を煽ってみれば、焦った少女が道から外れて茂みの中に隠れるのを感じた。
 かさり、かさ。
 しゃがんだ体勢のまま、そっと近付いてきた少女は、予想通り、こんなところでどうしたのだと男に問いを落とした。
「……逃げてきたんだ。今はちょっと休憩中」
「休憩、ですか」
「そう。もう走り回りすぎてくったくた」
 本当に疲れたように息を吐いて木に凭れ掛かった男に、少女は笑う。
 休むなら部屋に戻ればいいのにと言う彼女に、そんなことしたらすぐに見つかるだろうと返して。
 どこか緊張感の無いやり取りに笑い合う。
 そうこうしているうちに軽快な足音が近付いて来るのが分かった。
 面倒だなと洩らした男に対して、少女は気軽に立ち上がる。
 止める間など無い。
「あ、エイトさん」
「デュースか。こんなところでどうした?」
「はい、ちょっと笛の練習をしようかと思いまして」
 足音の主は少女と同じ0組のメンバーだったらしい。もはや目を開けるのも面倒な男は成り行きに任せるように二人の会話に耳を傾けた。
「それなら院内……いや、なんでもない」
 にっこりと笑ったデュースに、彼女が何をしようとしたか悟って、エイトは言葉を途中で止めた。ほどほどになと告げてあっさりと走り去って行く。
「少しは練習しないと怪しまれますかね?」
 落とした呟きに応える前に少女は笛を取り出す。溢れ出すのは優しい音色。
 彼女の武器でもあるそれは、様々な音色を奏でて攻撃や支援を行う特殊な道具でもあった。
 納得がいかないのか。緩やかで優しい曲は何度も繰り返され、人気の無い木の間に響き渡った。
 男は目を閉じて木に凭れたまま動かない。少女は横目にそれを見ながら、練習だと言った言葉通り、繰り返し曲を奏でる。
「あっ……」
 中断されたと同時、小さく声を上げた少女は男の前にしゃがみ込んだ。
「すいません、そいういえば休憩中だって言ってたのに。煩かったですか?」
「んー? いや、むしろ寝てたし。それより聞いたか?」
「はい」
 通信が入ったのはお互い同時。それはすなわち次の作戦が決定したことを意味する。
 人使い荒い、と。軽い文句を落としたナギも言葉だけで、苦笑はすぐに鳴りを潜めた。
 少女の口から出たのはナギの、そしてデュースの立場の違いからくる言葉。
「私、先に行きますね!」
「ああ、じゃあまた後で」
「はいっ」
 笑顔と元気な返事だけを残して、少女は去って行った。まっすぐ院に向かって行ったことから、彼女の真面目さが伺える。
「さて……と」
 自分はどうするか。考えてから、ナギは目が霞んでいないことに気付いた。首を支えるのさえ億劫だった体が、動くのに支障がない程度まで戻っている。
 やられた。
 練習などと、先に気付くべきだったと苦笑する。デュースの言葉は唐突だった。それはつまりはエイトにも気付かれたということ。
 そして後から話題を持ち出したところで、とぼけられるのは分かっている。
 ならばせめて。
「せっかくだ。さっさとサポート役をいただきにいきますかね」
 確かめるように体を動かし、不敵に笑った男は身軽く立ち上がって。先回りするために彼らのクラスしか知らない道に足を向けた。

何となく分かって、何も言わずひっそり回復しちゃうようなデュースと、やっぱり何も言わないナギとかいいなあと思います。

2012/04/06 【FF零式】