暴走の選択

 一歩。
 踏み込んだ部屋は、常とはかけ離れた異様な息遣いに満ちていた。ごくりと息を飲み込んで本能的に逃げようとする足を叱咤し、もう一歩。肌を粟立たせるのは知っているはずなのに遠い存在の気配。冷や汗は勝手にこめかみや首筋を流れ落ち、知らず息は浅くなる。
 完全に部屋の中に身を滑り込ませれば、先立って頼んであった通り、背後で閉まった扉にロックがかけられ、退路を断たれた。元より逃げるつもりは無いのだが、本能ばかりはどうにもならない。
 そんな己の葛藤に僅かに苦笑を浮かべて、青年は改めて部屋の隅にある気配の元へと視線を巡らせた。
 ぼう、と。
 明かりを落とした部屋の中で、そこだけがうっすらと浮かび上がっている。
 部屋全体を照らすほどの光量は無い。ただ、その光体に絡め捕られた人物の姿を確認することはできた。
 飢えた狼の唸り声が聞こえるようだ、というのは気のせいなのだろう。
 話を聞いた時から覚悟はしていたが、キャスタークラスの同一人物は一切の容赦をしなかったらしい。
 近付けば血の匂いが濃く纏わり付いた。
 無意識に落ちる溜息くらいは許されるだろう。零れた息の先を追う様に視線を下げれば、床に流れた血が等間隔に置かれた石に吸われている様子が目に映った。
 そこから先は一種の結界の中と言えるだろう。
 己でも止められないほど足が震えるのはもはやどうにもならず、ひとつ深呼吸をしてから青年は足を踏み出す。
 本来ならば殺し殺される関係だ。どんな状況で相対しても敵として見える場合には震えたことなどない。
 おそらく自分は怖いのだろうと青年は震えの原因を断定した。それは彼自身へのものではなく、どちらかというと関係性に対してというほうが適切だろうか。
 引き受けたことに後悔は無く、己の身を差し出すことを躊躇うこともない。だが、彼との関係性が変わってしまうかもしれないことに関してだけは少しだけ怖いと思った。とは言っても、色恋の類に属する甘いものではなく、全力をもって相手するに足る戦士と認められなくなることに対してだが。
 今更かと自嘲の笑みを刷いて、視線を上げる。
 忠告されていた通りに置かれた石を処理すれば場の空気が僅かに変わったのが感じられた。
 それらが緩和していたらしい気配が駆け抜けて、ぞわりと背を撫で上げたのに唇を噛む。
 一歩、二歩。
 近付けば流れた血が足裏に触れ、跳ねたそれは踝までを覆う長衣の裾を汚した。
 黒の単衣。それを選んだのは和装ならば最小限だけの着衣でもあまり違和感がないこと、行為中に肌を晒すのも最低限で済むだろうと、単に効率を考えた結果だ。元々が投影品のそれは魔力に返してしまえばそれまでで。
 汚れることなど気にした様子もない青年は壁に磔にされた男の眼前に立つ。
 近くで見れば余計に手加減の無さが際立った。物理的に風穴をあけてきたとの言は誇張でもなんでもなく、さすがに霊核は避けてあるもののあちこち酷い有様で、いつもの礼装はほぼ原型を留めていない。
 男の体を貫いて壁に縫い止めているものは、光でできた蔦のような形状のものだった。それらが貫通したまま留まり邪魔をしているために傷は塞がらず、結果的に広げられた傷口からは今も少しずつ血液が零れ落ちている。
 深く息を吐く。血臭混じるそれを厭わずに青年はゆっくりと腕を持ち上げた。警戒する獣の呻きを振り切るようにきつく拘束が絡んだ首筋に触れる。
 ぱきり。
 硬質な音とともに割れた光の蔦は、崩れる途中で周囲の空気に混ざり、思っていたよりもあっさりと溶け消えた。
 喉が自由になったからか、途端にがあと吠える声が威嚇の響きを強めて青年の耳に届く。
 軽く目を伏せただけで聞き流すと、触れていた首筋から胸元へと掌を滑らせた。
 ぱき、ぱきり。
 そっと撫でるだけで拘束は外れていく。触れた肌は熱を持ち、拘束の痕と傷から流れる血液に彩られた肌には、それだけではない赤が浮かんでいた。
 拘束と重なっているために不可避とはいえ、触れるのを一瞬躊躇う。
 神威を示す装飾。鮮やかな赤の色を持つそれは男の身が人でないことを示すものだが、当の本人はそれを特別視している様子はなく、青年が躊躇うのは己がただの人であることをよくわかっているが故だ。
 かすかに震えた指に何を思ったのか。威嚇の響きが疑念を強めたものに変化する。
 こちらの様子など把握していないだろうに。瞳を細めた青年は瞬間的に詰めた息を吐き出して、男の体を彩る文様に触れた。またひとつ、ぱきりと軽い音が響く。
 瞬間、世界が反転した。
 壁にしたたかに背を打ち付け、空気の塊を吐き出す。
 薄明りの中に落ちた影はゆらりと近付き、振り回されたことで緩んだ青年の着物を掴んだ。一緒に持ち上げられた体が壁から床にかけて伸びた血を引き延ばす。
 手荒すぎる扱いだが青年の唇からは悲鳴すら上がらず、唯一零れたのは細い息のみであった。
 顔を上げた先で、先ほどまで拘束されていたはずの相手が自由になっているのを見る。どうやら残りの拘束は無理矢理引き千切ったらしい。傷の広がった手足と腹部から派手に血が滴っているが、気にした様子もない。
 そんな雑さではせっかくの神威纏う姿も台無しだとの感想は内心だけで留めて体勢を整えようとするも、動いたことで相手の警戒を呼び起こしたのか。背を押さえ込むように引き倒され、のしかかられたことで動きを止めざるを得ない。
 少々厳しいが、やむをえないだろう。
 体勢を維持したまま様子を窺えば、すん、と。背から首元にかけて鼻を鳴らす音が響いた。
 血の匂いがする。
 痛みなど感じていない強さで抑え込まれ、サーヴァントになってなお弱点である首に近付くたびに抵抗しそうになる本能を抑えつけて好きにさせながら、予め説明を受けた彼の状態を思い出す。
「……本人の認識による魔力不足由来の飢餓への対応と、魔力過剰による発散衝動への対応を同時に満たす必要があるということだね」
 そう告げたのは万能の天才と呼ばれる、今は美女の姿をとったサーヴァント。カルデアにおいては先代所長の時代に召喚され、グランドオーダーが開始された後はその才を惜しみなく発揮し、ドクター・ロマニと共に後方支援を担当する代表格でもある。
 レオナルド・ダ・ヴィンチ。本来なら男性であるはずの彼は、絵に描いた美女の姿を満喫しているらしい。
 元が男とは思えないほど言動に不自然さは全く無く、天才と変人は紙一重という言葉を体現していると言ってもいいだろう。
 いや、今は説明者のことなどどうでもいい。自分はそこからの流れにどう返したのだったか。
 硬直したまま思考を過去に飛ばす青年は、己が吐き出した呆れ声を思い返した。
「つくづく運のない男だな……いや、あまり人のことは言えんが」
「おいおい、そう言ってくれるなよ。咄嗟に引き受けてくれたのが彼でなければ、今頃誰かが消滅していてもおかしくないんだぜ」
 茶化した口調ではあるものの、深刻さが滲むダ・ヴィンチの声につられるように、応えるエミヤの声も心なしか低くなった。
「ということは彼は自ら望んであの状態になったのか」
「他に選択肢が無かった、のほうが正しいけどね。彼はこれまで召喚できたサーヴァントの中でも随一と言ってもいいほどの耐久に特化した能力を持ち、限りなく不利な状況からも生還することができる英雄だ」
 守るために武器である己を保つこと。
 極端に戦力不足の現在、ある意味でもっとも頼りになるサーヴァントの一人であると告げられた内容に対する否定はない。実際、異常が出てからも、己の持つ能力すべてを駆使して修正用のデータ取得を行う間は理性を保ち続けたとダ・ヴィンチは続ける。
「人間はもちろん、サーヴァントだって気が狂っていてもおかしくない。驚異的だよ、彼は」
 本来ならば全力での戦いを願う英雄だ。だが、同時に己が一番得意なことも把握しており、今回も咄嗟に自分なら対応できるからと引き受けたらしい。
 語られる内容に、それが当然だと思う己を青年は少し不思議に思う。具体的にどこで知ったのかもわからないが、知っているという感覚だけがあった。
 七つの特異点を修復するという困難な旅路。その第一歩である第一特異点の修復はすでに果たされている。
 続く第二特異点の修復も、どうにか、からくも、という形容詞が付く達成であったが果たされた。だが、中心にいる彼らにはわかっているのだろう。
 このままでは今後激しさを増す戦闘を生き延びていけないのは確実。敵が特異点のうちどれかを成立させ維持すればいいのに対し、こちらはマスターかつレイシフト適正者である少年の生存が絶対条件で、守りきれねばそこで詰むのだ。かといって彼を前線に送り出さない選択肢もない。
 だからこそ生き延びることに特化したサーヴァントが側に居れば、必然的に最悪の確率は低く抑えられるとして、クー・フーリンは重用され、よく少年に同行していた。
 焼却された世界に残ったただ一人のマスターは、生き残るためにと繰り返される訓練も、一歩間違えれば存在自体が消失するレイシフトも、己を削る様な召喚も厭わない。
 後方支援を担当する管制室側も、少人数で動くための業務効率化や破損部分の修復などに日々追われている。ありとあらゆるものが不足している中、手に余るシステムを騙し騙し運用している状態では遅かれ早かれ問題が噴出しただろうことは想像に難くなかった。
「原因は電気系統からの魔力変換トラブル、ということであっているかね? マスターの様子は?」
「そういうことになるのかな。あ、彼に関しては、戻ってすぐに検査をしたけれど、問題は見当たらなかったよ。今はとりあえず様子見のためマシュと一緒に医務室にいてもらってるけど、そろそろ部屋に戻ってもらっても構わないと思う」
 問いへの返答は別方向、混ざらない安堵と焦燥を攪拌したような表情を貼り付けた医師から。
 弓兵は元々、彼に要請されてコーヒーと軽食を持ってきた身であった。頼まれたものを持って入室しても構わず続けられていた話し合いは、思いつきで告げられた「食事を摂らせるのはどうか」という一言により青年を巻き込むことになる。
 集まっていたのはロマニ、ダ・ヴィンチ、メデューサ、キャスタークラスのクー・フーリン。
 話題がランサークラスのクー・フーリンについてであったことから、同一存在であるキャスタークラスの彼が居ることはすぐに納得できたが、意外なのはメデューサの存在であった。
 聞けば、この事件の原因となった訓練でのメンバーだったという。
 訓練には話題の中心たるランサークラスのクー・フーリンとメデューサの他、マシュ、清姫、アマデウスが参加していた。
 指を折って上げられた名を反芻すれば確かに、ライダークラスとはいえ、出自もあって魔術に一番詳しいのは彼女だろう。
 納得した青年は食事が必要だというのならば用意をするがと最初に己を巻き込んだ話題に対しての答えを口にしたのだが、それだけでは片手落ちだというキャスターの言葉で場には疑問符が舞った。
 唯一、メデューサだけが同意を示したのに、ロマニが首を傾げる。
「どういうことだい? キャスターのクー・フーリン」
「言葉のまんまだ。どこがどうバグったのかはわからねぇが、今のアレに対して有効なのは二つだ。いや、実質手段がない分一つかもな」
「……キャスター」
 どこか自嘲が滲む響きを静かに制したのはメデューサの抑揚に乏しい声音。それに対し、選択するのは自分じゃないと返して男は苦く笑った。
 いずれにしても。彼の表情は実行するのは自分ではないと明確に告げていたし、マスターに説明するにしても責任者である医師への情報共有は必須になる。
 ごくり。その医師が息を飲む音が響いた。
「話してくれるかな」
「おう。まず先に言っておくが、早期解決を望むならもうオレにできるこたぁねぇよ。ミイラ取りが、ってやつだ。被害を増やすことになるだけさね」
「それは同一存在だから、ということかい?」
 ミイラ取りがという発言から、クー・フーリン故かという確認。
「ああ。もちろん障壁は張っているがそれでも多少流れてくるからな。引っ張られる可能性が高い直接接触は極力控えたいってのが本音だ」
 それは一度接触してみた感触からかと問われて頷く。
「いわゆる霊基異常状態なんだろうが……ちと面倒なのは数値的に言えば魔力過多状態なんだが、本人は魔力不足状態だと認識してるってことだ」
「ええと、それはつまり?」
「飯を食わせるのはいいがそれじゃ片手落ちだって言った理由だよ。本人の意識的には魔力を摂取すれば満たされるが、実際の所は魔力過多だからな。状況がひどくなるだけだってヤツだ」
「なるほど……君の見解も同じかい?」
「ええ。あの瞬間、真逆の性質を持つ二つの魔力の流れが見えました。私がわかるのはその程度ですが、彼の話とは一致するかと」
 ロマニとメデューサの会話に頷いたダ・ヴィンチが、手にしていたタブレット端末に視線を落とす。
「データで見るとランサークラスのクー・フーリンの霊基は損傷している、と出る。確かに様子見をお願いしたのは私達だけど、一体何をしてきたんだい?」
「あん? んなもん、どうにもならねぇから、物理的に風穴あけて拘束の術で簀巻きにしてきただけだぜ。まあ、そろそろ意識は復活する頃かねぇ。あの様子だと拘束もいつまで保つかはわからんな」
 拘束するついでに魔力を流出させる術は組んできたが、本人の認識を考えれば遠からず破ろうとするだろうと付け足す。さらに間を置いて、今は意識さえ本能に追いやられているだろうと続けて溜息を落とした。
「ふむ……状況についてはわかったが、そろそろ有効手段とやらを聞いても?」
 怯むことなく核心を尋ねた弓兵に対し、男の口は重い。
 可能ならば口にしたくないという雰囲気にその場の面々は首を傾げた。
「一番いいのはひと思いに座に還すことだろうよ。次善策としては、どれだけ暴れてもいいところにぶちこんで放っておくことだ」
 その場合感覚に支配されたまま飢えて狂うのが先か、マトモに思考可能なところまで魔力が流出するのが先かは不明だが、誰かを犠牲にするよりはマシだろうと言い放つ。
 それには同一存在であるが故の希望が滲んでいた。限界まで己以外の犠牲を認めない、孤高の在り方。
「それは……」
「君の言いたいことはわかったが、戦力が足りない中でリソースを無駄にするのは得策ではないし、賭けをしながら待つような余裕もないだろう」
 口を開きかけた医師を遮った青年は、そんなものを解決策として提示する君ではないだろうと言葉を繋ぐ。
 睨まれた男のほうも予想できていたのか、表情が変わることはなかった。ただ、一度。軽く目を伏せたのみ。
「さっさとマトモなほうの解決策を出したまえ。それとも私には聞かせたくないと?」
「まあ……当たりだ。反応が予想できるんでな」
「心外だな。流石の私でも不可抗力を嘲る趣味はない。それとも、君が言い渋っている理由はその解決策に私が名乗りを上げるからかね?」
 言葉通り弓兵の顔に笑みはない。
 真正面から視線を合わせた男は、しばらくの沈黙の後に溜息を伴ったぼやきを落とした。
「そこまでわかってて言うか……ったく」
 髪を掻き回す男に、片目を瞑った美女がふむと頷いた。
「なんとなくだが、私もわかったぞ」
 彼女がちらりと視線を投げた残りの二人は、片方は関わりたくないとばかりに視線を逃し、もう片方は純粋な疑問を浮かべている。
「え、わかってないのボクだけ?」
 本人も気が付いたらしい。焦ったように辺りを見回しながらの問いに笑みを返したダ・ヴィンチは、まあまあと形ばかりの宥め方をしてからキャスターのクー・フーリンに向き直った。
「つまり、本人の認識による魔力不足由来の飢餓への対応と、魔力過剰による発散衝動への対応を同時に満たす必要があるということだね」
 あっているかい。
 確認を取る美女に男は頷く。
 視線を巡らせれば、そこまでは理解していると他の面々も同じように頷きを返した。
 そこまで明確になってなお、具体的なものについては思い至らないのだろう。もう一度ロマニを見てそれを確認してから、ダ・ヴィンチは眉を下げて男に声を投げた。
「さて、残念ながら肝心のロマニはこの調子だ。他は全員察しているこの状況で沈黙を貫く意味もないだろうからスパッと結論を告げてくれたまえ」
「あー……まあ、仕方ねぇ。ようするにセッ……」
「もう少しオブラートに包みたまえよ」
 本当に直截的な言葉を選んで吐き出した男の後半は、予想していたらしい青年のツッコミにかき消された。それでも言葉の欠片だけで理解したらしい医師は頭を抱え、美女はそんな彼の様子を笑う。
 他の言い方など知らないと唇を尖らせる男は、どこで気付いたと問いを放って視線を合わせた。
「どこと言われると。そうだな。確信らしきものを持ったのは君が一人での解決を望んだから、だろうか」
「ああ、言わんとすることはわかります。ラン……キャスターはそういうところがありますから」
 どこか曖昧な弓兵の言葉に同意を示したのは、首を傾げたことで流れる長髪がさらりと音を上げたメデューサだ。
「ライダー……オマエもかよ」
 難儀なものだと己の言動に苦笑した男は、そこまで把握されているのなら仕方がないとばかりに溜息一つで思考を切り替えて、深く座り直す。
 いっそメイヴあたりが居ればよかったかとの呟きの後には面倒だから居て欲しくはないがと続いた。
「たとえ彼女が居たとて、今のランサーに向かわせようとは思わないだろう、君は」
「……そうかい」
「君の……いや、ランサーの意思を尊重したいところはあるのだがな。我々が取れる選択肢は多くない。ならば偶然にしろ聞いてしまった私が一番適任だろう。鍛えている身はそうやわではないしな」
 青年の口から流れる言葉は平静で、提示された解決策を行うことに対する動揺は欠片も見られない。
 彼が一度これと決めたことを貫き通す気質であることは日が浅いながらも全員が把握しており、すでに決めて受け入れてしまったらしいそれを覆す術は誰にもなかった。
 唯一声を上げたのはダ・ヴィンチだ。
「君はそれで構わないのかい?」
「ああ。特に今更その行為を忌避するような身でもないのでね。もっとも、殴り合うだけで済むならそれに越したことはないのだが……」
 最終確認といった体の問いにも即答。声音は微塵も揺らがない。
「人間のスタッフ達は問題外だし、伝承から鑑みても、彼は己の為に女性に恥をかかせるのを厭う性質だ。今後のことも考えれば、たとえ相手がサーヴァントであっても理性が無いまま女性を害したという認識を与えるのはできれば避けたい」
 軽食は先に医師の腹に消えていたが、半分以上残されていたコーヒーはとっくに冷めている。
 淡々と告げられる理由に混ざり込む憧れに似た何か。
 何度か途中で口を挟みかけたロマニもここにきては黙るしかなく、他に声を上げる者もいない。
 沈黙によって肯定された作戦は決して歓迎されるものではないが、確認しておかなければならないことはあった。
「わかった。でもこれだけは確認させてくれ。ランサークラスのクー・フーリンが、アーチャー・エミヤを現界不可能になるまで害する可能性は?」
「全くないとは言い切れないが、そうならんように準備するさ。もっとも、小細工をせんでも大丈夫な公算のほうが遥かに高い。多少は齧られるかもしれんがな」
「なに、サーヴァントの身ならば多少の無茶程度なら問題ない。想定通りであれば、多少噛まれたとしてもその場で治癒できるだろう」
 ロマニへの回答は、魔術師と弓兵、二人同時。
 内容は違うが、どちらも問題ない可能性のほうが遥かに高いと結論付けたのを受けて、責任者としての医師は目を伏せた。
「ありがとう。では今、このカルデアの責任者として君達に頼むよ。これはボクの独自判断で、君達のマスターに詳細が伝わることはない」
「そうしてもらえると助かるな。あまり細かく知らせたいことではない」
 このカルデアに残る人類最後のマスター。彼は魔術師ではないし、まだ少年でもある。今回のこれを魔術的な対処とするならば概要以外は必要なく、行為そのもののことならば積極的に必要な知識にはならないだろう。
 歪められた青年の唇に僅かに苦い色が滲む。
 とん、と。その肩に別の人物の手が触れた。予想よりも真剣な青の魔術師の視線に絡め取られる。そこに否定の色が無いことについ安堵がこぼれそうになった。
「テメェが決めたんだ。決定に口を出すつもりはねぇが、かといってマスターを泣かせる気もねぇ。オレにやれることはやらせてもらうぜ」
「それで構わない。私のほうもそのつもりで用意して臨むとしよう」
「ああ。とりあえずオレがかけてきた術の解除方法を伝えなきゃならん。多少の用意があるから、テメェの準備が終わったら部屋に来てくれ」
 弓兵が頷き、魔術師は準備をしてくると言い残して場を辞した。続くようにメデューサが事故当時のメンバーに説明を頼まれて出て行く。
 マスターとマシュにはロマニが説明することで決着し、少しだけ空気が緩んだ中、弓兵はまだ残っていた美女へと視線を投げた。
「ダ・ヴィンチ女史、貴方にひとつ相談がある」
「構わないよ。状況が状況だ。私ができることならなんなりと、ってね」
 自信たっぷりに大体のことは可能だと豪語する彼女に頼みごとをひとつ。すぐに取り掛かろうと請け負った彼女に対し、キャスターのクー・フーリンの元から戻った後に受け渡しをすることで同意をとる。
「ではまた後で」
「了解。準備しておくよ」
 ダ・ヴィンチも、ロマニも、そしてキャスタークラスのクー・フーリンも。この状況で犠牲になるとも言えるエミヤに対し謝罪は無く、負担の軽減だけを考えてくれる。
 有難いと思う反面、己などに向けるものとしては勿体ないと内心で笑って、青年は廊下に足を踏み出した。
 あまり時間の猶予はない。
 最悪、入室直後に問答無用で噛みつかれる可能性も考えて準備はするつもりだが、そんな姿は見たくないとも思うのは、なんと身勝手なことかと己の思考を嗤う。
 無意識に伸びた手がすると頸の後ろあたりを撫でた。
 何を確認したかもわからないまま、近くで獣のごとき息遣いを聞く。
 べろりと頸を舐められたことで過去に沈んでいた思考が現実に浮上して、状況を把握しようと動いた瞳が血に濡れて固まった髪の先を捉えた。
 理性なき獣と化したはずの男が不審そうに嗅ぎ回るだけで先に進まないのは、キャスターのクー・フーリンが講じた対策のおかげなのだろう。
 同一存在という利点を生かし『自分の獲物だから焦る必要はないがそろそろ付け直しが必要かと思う程度』と称してごく薄く纏わされたクー・フーリンの魔力の香り。
 知覚できないほど薄いため青年自身にはわからないが、男の状態を見るにある程度は成功しているのだろう。そんな小細工を成すために飲まされたものが腹の中でぐるりと暴れた気がした。
「……ッ!」
 唐突な痛みに息を飲む。
 ひゅうと鳴った喉は声を通すことはなかったが、それでもこらえきれなかった息が音として散った。
 気付かれたか。だとしたら行動は変わる。だが、そうではないのなら。
 身を固くする青年は、男の次の行動を待つ。
 滲んだ血を啜る音が響く。足りないとばかりに傷口にめり込む犬歯と新たな傷を作って行く爪の痛みに、声どころか息までも押し殺して青年は反撃に転じそうな自分を押さえ込む。
 夢中になって付けた傷から血を啜るのは己が魔力不足と認識しているが故。目の前に居るものが獲物だと認識しているから齧っているだけで、相手が誰であるかを気にしてはいない。むしろ、同一存在が放った、多少は齧られるだろうがという言葉が喩えではなく物理だったことに和んでしまう自分はどうかと思いながらも、気付かれてはいないらしいことに安堵した。
 エミヤが血を流したことでゆるりと周囲の空気に色が溶け出す。
 すんと大きくランサーが鼻を鳴らした。
 匂いの元を辿るようにあちこちに動く頭を肩越しに振り返って、その目に情欲が灯るのを見る。
 流石にこれ以上触れられれば男の体であることに気付かれるだろうが、エミヤであることにさえ気付かれなければ当面問題はないと判断する。
 警戒の唸り声。のしかかられていた背にさらに重さがかかって肩が下がる。同時に下がった頭が床に付いて、過分にかけられた力を分散させた。
 咄嗟に目の前の腕を噛んだのは正解だったのだろう。加減のない力で掴まれて骨が軋み、冷や汗が吹き出す。
 青年は痛みに耐えるのが精一杯で、もはや気付かれるかどうかを心配する余裕もない。
 獲物に食らいついた獣は、正気に戻るまで際限なくその体を貪る。
 時間を知らせるものは何もなく、青年は与えられるものにひたすら耐えながら、息すら洩らさぬように己の口を塞いだ。
 
 
「え……あ……?」
 まだ混乱したままの呻き。続く疑問の声が、魔力に酔って半ば意識を失っていた青年を揺り起こした。
「……アーチャー、だよな。何がどうなってんだコレ」
 自分がやったのか。
 衝撃を受け流せず、まだぼんやりとしている青年の視点は揺らぎ、問いに対する応えは無い。
 それでも歪む視界の中に捉えたものはあった。
 焦燥が滲む表情。いや、絶望と言ったほうが合っているだろうか。
 いつもように何か言えと乞われてもそんな余裕はなく、体の感覚は遠く鈍い。即座に退室は困難だと判断を下した弓兵は、長く詰めていた息を逃がした。
 それが今際の一呼吸にでも見えたか、焦った腕が伸びて傷に触れぬように注意しながらあちこちを検め、心音を確かめ、呼吸が続いているのを確認し、額に落ちて張り付いた髪を払って額に、そのまま耳の後ろに触れる。
「傷はどれも見た目ほどは深くない。が、ちと熱あんな。あー……これオレがやった……んだよな?」
 重ねられる問いは記憶の寸断を意味し、そこまでを把握した青年は何も告げぬままにゆると瞼を落とした。逃げることは叶わないが、詳細を覚えていない事実に安堵したことで闇が急速に意識を侵食していく。
 完全に意識が閉じきる最後に。よかった、と。唇だけで形作った言葉が男に届いた。
「何がよかったなんだよ……こんな……」
 少なくとも魔力が足りていることを確認して、正常な思考を取り戻したランサーは頭を振った。
 明確に続いている記憶は、自分に拘束の術をかけながら意識を失うようなら同一存在の己を呼べと叫んだところまで。その後は断片的に己と同じ顔がちらつき、霊基を貫かれる痛みと熱の感覚が浮上する。
 クラスが違っても自分のことだ。理性を無くしたことで強行手段に出たのだろうと、己の傷の原因はそれで納得できる。
 あとは甘く誘う匂いと、さらに甘い魔力の味。
 どれだけ頭を振ってもそれ以上のことは出てこず、目の前に横たわる青年が何の抵抗もなく身を差し出した理由も想像の範囲外にあった。あれこれ想像するより直接聞くほうが早いと結論付けてあたりを見回す。
 幸い今居る場所は己に割り当てられた部屋らしい。多少壁に穴が空いてはいるものの、強固な結界で補強されたそこは文字通り魔術の檻だ。
 完全に閉じられたそこから出ることは叶わないだろう。
 なんとなくだがキャスターの自分が作ったものだということはわかる。だからこそ、正気に戻った後ならランサークラスであっても真剣に解読すれば解呪できる仕掛けがあるはずだった。
 何をするにもまずは外と繋がらなければ話にならない。
「さて、じゃあ頑張りますかね」
 気合いを入れ直した男は慣れない作業に全神経を傾けながらゆるく目を伏せた。
  
   ***
  
 何かが動いている、という認識とともに青年の意識は浮上する。次に認識したのは、どこか晴れの日の空気を思わせる穏やかな気配。ぼんやりとした思考のままで視線だけを動かせば、白一色の部屋に浮かんだ鮮やかな青が視界の端に触れた。
 夜明けの直後。夜の名残を残した空を写しとった色を持つ男は、一糸纏わず薄く目を伏せて意味の取れない言葉を紡いでいる。背に広がる髪は魔力の流れを受けて不規則に揺れ、付着した血液もその姿を損なうことはない。発光しているように見えるのは立ち上る魔力のためか。
 ころ、と手の中に何かが触れた。見れば目の前の男が普段から身につけている髪留めだ。
 それでやっと目の前の男が槍兵だと実感する。
 ランサー。
 もう何度口にしたかわからない呼びかけは、音になることなく、息として吐き出されただけで消えていった。
 そんなことで気を失ってからさほど時間が経っていないと知る。これならば余計なことを口にせずに済むだろう。
 集中を妨げないよう息を殺して視線だけで様子を窺う。
 部屋の中にある魔力は男の唇から紡がれる言葉に合わせてうっすらと可視化するほどの密度で動いているが、己の周りだけはそれから逃れていた。
 本来ならば行為の名残と血臭とでこんな爽やかな気配に包まれているはずがない場所。だからこそ、己を包んでいる気配は正気に戻った男が気を失った弓兵を守るために与えたものだということは明白だ。
 意図しない溜息が零れ落ちる。
 余計なことをせずに適当に転がしておけばいいものをと思う気持ちもあるが、己の対魔力は低く、可視化されるほどの魔力の渦の中にあって無事でいられるとも思わない。ここはありがたく守りを受け入れておこうと力を抜いた。手慰みに握らされた髪留めをくるくると弄ぶ。
 すでに青年の意識が戻っていることには気付いているのだろう。途中でちらりと視線だけが向けられたがなんらかの呪文らしい言葉が途切れることはなく、渦巻く魔力は次第にひとところに収束していく。
 ざわりと男の髪が大きく揺れて広がり、続けて何かが弾ける音がして部屋には静寂が戻った。
 深く長い息が逃げていく。
 めちゃくちゃに面倒な術編みやがってと誰に聞かせるでもない文句が続いて一呼吸。
 視線を上げた槍兵はまだ寝台の上に横になったまま息を潜めて固まっている弓兵に気安い声を掛けた。
「よお、アーチャー。体はどうだ? 起きたのは途中から気付いてたんだが、中断できなくてな」
 結界をどうにかしないと外への連絡もままならなかったから、と。曖昧に視線を泳がせた、らしくない言葉。
 ゆっくりと身を起こした青年は辺りを見回して、壁の穴以外の名残が消え去った部屋を眺める。
 動いてみれば思ったよりも体は回復していた。
 受け止めきれない魔力は相変わらず熱を持って体内で暴れているが、外見上の傷は消えており、行為の名残も綺麗に拭われている。服を来てしまえば誤魔化せる範囲だといえるだろう。
 さすがに体内の魔力の気配は誤魔化しようがないが、マスターにさえバレなければ問題はなく、恐らくは自室待機をさせられている彼と顔を合わせる可能性も低い。
 改めて眺めれば、男の体に付着していた体液も綺麗に消え去っている。白い肌には神威を示す赤の文様だけが鮮やかに浮かび上がっていて、青年は目を細めた。
「アーチャー? おい、なんとか言えよ」
 それともどこか悪いのかと触れてきた手を押しのけて床に足裏を触れさせる。思ったよりはふらつくこともなく立てたことに胸を撫で下ろして、無言のままいつも通りの礼装を編んだ。
 外套の端から綻びていきそうなのは見ないふりで、落ちてしまった前髪を上げて撫で付ける。これでいつも通りの自分のはずだ。
 彼に告げる言葉などない。
「アーチャー……?」
 可能な限り冷ややかに見えるように睨みつけることで返答とし、男の横を通って扉の解錠ボタンに手をかけた。
 軽い音と共にロックが外れ、開く。
 男が全裸だった分、行動が遅れたのが青年にとっては幸運だった。ちょっと待てと引き止める声が聞こえたが無視して廊下に出る。
 結界が解けたことを感知したらしいキャスタークラスのクー・フーリンとダ・ヴィンチが反対側から駆けてくるのが見えたため、この場は彼らに任せてさっさと離脱することに決めた。
 彼らなら自分が何も言わないまま立ち去ることを咎めることもないし、まだ中にいるランサーには丁寧に事情を説明してくれるだろう。
 だが、こちらは説明などできない身だ。捕まるわけにはいかない。
 予想通り。背後から聞こえた美女の声に飛び出しかけた男が足止めされているのが気配でわかる。不審にならない程度に早足で廊下を横切り、己の部屋に駆け込んでロックを掛けると、弓兵はその場に崩れ落ちた。
 保てなくなった礼装が一部溶け消えるが、気にしている余裕はない。
 床の冷たさは、先ほど思い知っている。
 喉の奥から押し出されるのは息のみ。引き攣れたそれはひゅうひゅうと空虚な音を響かせるだけで、声帯を震わせることはない。
 思い返すのは正気に戻った時の彼の表情。
 熱に浮かされていてなお鮮明に覚えているそれがこびりついて離れない。
 絶望に染まった彼の顔など、永劫見ることはないと思っていた。この選択は間違いだった、と。ちらつく表情が告げるも、時間を戻す術などない。
 冷えた床に縋ったまま、青年は己の身に爪を立てる。
 馴染まないまま渦巻く魔力が体を灼いている気配を感じながらどれだけそうしていたのか。
 こつこつと扉を叩く音に意識を引き上げた。
「アーチャー」
 呼ばれる名に身を震わせる。聞き慣れた声。一瞬だがどちらのものか判断に迷う。
「居るんだろ、アーチャー。あー……開けたくないならそれでもいいぜ。だが取り込んだ魔力が処理しきれずに身動きが取れないほど切羽詰まってるなら遠慮なく抉じ開けさせてもらう。不要なら無事なことだけ教えてくれ」
 言いたいことだけを告げて音は途切れる。反応を待っているのだろう。
 ランサー。
 声はまだ音にならなかった。
 どちらにしろこの姿を見せるわけにはいかない。だが今の青年は立ち上がることすらできず、扉までの一歩半分の距離すらも遠い。
 結果、藁にも縋る思いで手にしたままだった男の髪留めを転がして応えとした。
 そんなもので聞こえるのかと危惧したが、息を飲む音に続いて安堵したような気配が伝わる。
「意識はあるんだな。じゃあそのままで聞いてくれ」
 聞こえているなら踏み込むつもりはないと声は告げた。扉にぶつかって少し戻ってきた髪留めは再び手にできるほど近くもなく、青年と同じように床に横たわったまま、扉越しにかけられる男の声を聞く。
「今までの事情と経緯は杖持ちから聞いた。生憎とその間の記憶は無い……が、オマエに対して何をしたかはなんとなくわかっているつもりだ」
 そのつもりで来たことも聞いたから謝罪をするつもりはないと続ける男の声は、面と向かっていた時よりもさらに苦い。
 青年は無言のまま。ただ聞いている、という気配だけを男に向けた。サーヴァント同士だ。意図的に伝えた気配の違いは、扉越しでも伝わるものらしい。
 遣り方に納得はしてないが感謝はしていると苦いままの声が告げて、後には沈黙が落ちた。
 どこか熱に浮かされた自分の息が煩い。こつりと一度扉が音を伝える。
 それだけだ、と。絞り出すような終止符。またもしばらくの沈黙のあとに、伝言があったと声がかかった。
 霊基の状態は常にモニタしているから逼迫した心配はしていないが、後で連絡しろとダ・ヴィンチが言っていたと続ける。
「……ああ、あと。もしオレの髪留めを見かけたら教えてくれ」
 声が遠ざかる。今度こそ男が去ったことを確認して、青年はすぐそこに見えている髪留めに手を伸ばした。
 指先で弾いて逃してしまうこと二度、いや三度。やっと届いたそれを握り込み、息を逃す。
 彼の礼装の一部であり、本来なら存在そのものに付随しているそれを見つけることなど容易いだろう。
 だからこそ、彼はあえて置いていったのだと知れる。
 口元まで引き寄せて、背を丸めて痛みを受け流す。そこで初めて、うっすらと日向の気配が意識に触れた。
「……ッ」
 一度大きく暴れた魔力が沈静化していく。
 常に炙られているような熱はまだあるが、内側から灼き尽くそうとするような激しさは消えて、代わりに半ば機能停止していた変換の術式が活性化したのがわかった。
 目に見えて負担が減ったことで零れた安堵の息を笑う気力もない。床の上だがもはや面倒で、そのまま力を抜いて目を閉じた。
 変わらず日向の気配が触れており、午後の縁側のようなそれに安心して勝手に力が抜けていく。
 サーヴァントは夢を見ない。眠ってしまえば焼き付いた表情から逃れられると信じて、青年は意識を手放した。

2019/12/10 【FGO】