錨を打ち込む先

「ランサー、ごめん! 右からのも同時にお願い!!」
「お……らあッ!」
 揺れる船の上で足場が悪い中、ものともせずにサーヴァント達は駆け回る。
 少年がやることはいつも通りだ。
「アーチャー!」
 合図に呼応してアーチャー組がそれぞれに矢を番える。狙うは敵の船体。そしてマスト。
「私を使うなんて……高いわよ」
「承知した」
 それぞれエウリュアレとエミヤの声。
 放たれた矢は清姫やキャスタークラスのクー・フーリンが撒いた炎を纏い敵の船へと突き刺さった。
 魔力によって燃え上がった炎は簡単に消える事なく、あちこちから立ち上る煙は敵を分断する役割も果たす。
「マスター!」
 声と同時に滑り込む小柄な体。がきん、と。掲げられた盾に反撃の砲弾が防がれる。
「ありがとうマシュ。船長、まだ!?」
「大丈夫です。マスターはわたしが守ります。ひとつだって通させません!」
「いいねぇ、そうでなくちゃ。野郎ども、ここが踏ん張りどころだよ!」
 よく通る声が船中に響き渡る。口角の上がった表情は実に凶暴な略奪の獣の姿。
「撃エェ!!」
 号令一下。船長である彼女の命に応えて雄叫びを上げた船員達が次々と砲撃を開始した。取り囲むように包囲を縮めていた敵船団は次々と損傷を受け、あるものは沈み、あるものはよろよろと離脱していく。
「今だ。全速力で離脱するよ!」
「アイ、船長!!」
 砲撃部隊とは別に待機していた船員が即座に動く。
 後押しとばかりに強い風が吹き付けてめいっぱい帆を膨らませた。
「風が……これってキャスター?」
 折良く吹いたように見える風に乗り、船は速度を上げて包囲を抜ける。慌てて帆を張ろうとする敵の船を引き離せるのは、この船だけに風が吹いているからだ。
「残念だがこれ以上は魔力が続かねぇ。さすがにこのデカい船に強化と風の加護を送り続けるのは無理だ」
「ううん。ありがと、キャスター。戦闘域を離脱できただけでも十分だよ。陸地も見えてきたし、どうにかあそこまで行ければ……」
「っても、土手腹に穴空いたまんまってことだろ。ちと厳しくねぇか?」
 船室からは水が、水がと慌てる声。
 即座にドレイクの命令が飛び、船は荷物と船員すべてを使って穴を水面から出すように傾けられ、転覆しないギリギリの絶妙なバランスのままで器用に浮いていた。
「船体の損傷は?」
「ダメでさぁ、簡単にふさげるような穴じゃねぇ。このままじゃ……」
 ドレイクと部下の会話は切迫している。彼女達の会話を隣で聞いていた大柄の体が甲板を踏みしめた。
「だい、じょうぶ。なんとか、する!」
「ちょっとアステリオス。アナタなにを……きゃあっ」
 止める間もなく水柱が上がり、巨体が消える。
 何があったと問う声に答えられるものはおらず、そうこうしているうちにぐらりと揺れた船は多少角度を戻し、陸に向かって動き始めた。
「おいおい、いくら力自慢っても限度ってモンがあるだろうよ……」
「何が起こってるかわかる?」
「ああ。だが、楽しそうだからオレもまざってくらあ。ついでに食糧確保もするかねぇ」
「えっ、ちょっとランサー!?」
 肝心の疑問には答えないまま、ランサーのクー・フーリンは海に飛び込んでいった。
 残された少年の視線は他に説明してくれる人を探して船の上を彷徨う。すぐさま溜息と共に眉間に手を当てている赤の弓兵を発見した彼は先程ランサーにしたのと同じ質問を繰り返した。
「私に聞かないでくれ……と言いたいがアレが飛び出して行った後ではな……おっと」
「きゃっ……アナタ、気安く女神に触れるなんていい度胸じゃない」
 青年は少年と話をしている最中にも滑り落ちそうになっていたエウリュアレを掬いあげる。
「それは失礼した。だが非常事態ということで見逃してくれ。海水まみれになるよりはマシだろう」
 むう、と。一度口を噤んだエウリュアレは納得したわけじゃないんだからと文句を零す。
「船室はイヤよ。あんなむさ苦しいのに潰されそうになるなんてごめんだわ」
 ではここで、と。青年は彼女を安全そうな場所に下ろした後で、揺れるぞと警告を発する。
「うわ、とととと」
「先輩、こちらに!」
 急な揺れは、慣れているだろう正規の船員やサーヴァント以外では対応が難しい。その船員達ですらロープに頼っている中、一人平然と歩きまわるドレイクは、ぽいと少年少女にロープを投げ渡した。
「こんなトコで落ちたら助けに行けないからね。マシュ、ソイツを頼むよ」
「はい、お任せください」
 エミヤもドレイクに倣い、甲板上に散らばったロープを拾いながら必要そうな船員達に渡して回る。その合間に船の下を覗き込むような動作を繰り返した。
 仲良くと言っていいものか。船を進めているのはアステリオスで、それを誘導するように、ちょろちょろと青い頭が波間に動く。
 それをそのまま心配している少年に伝えれば、あまりにも間抜けな声が飛び出した。拾うものもいないそれは、海の中まで転がり落ちていく。
「し、心配して損した……」
「同感です……ですが確かに状況からするとアステリオスさんは前が見えていないということで間違いないと思います。この行動はランサーのクー・フーリンさんなりに考えた結果ということではないでしょうか」
「あの男がそこまで考えているとは思えな……いや、ありえるか」
 これで意外と冷静に状況を分析できる男なのだ。少年少女の会話を否定できず、エミヤは途中で口を噤む。
「テメェも大概失礼だなオイ」
「キャスター。じゃあやっぱりランサーにも考えが?」
 同一人物ならわかるだろうと瞳をキラキラさせながら問うマスターの少年に返ったのは、そこまでは考えていないだろうという身も蓋もない言葉。
「まあ、何も考えなしってワケでもねぇけどな。どっちかというと直感の類だアレは」
 苦笑しながら示した先。あーれーとばかりに投げ出された一人の船員が視界に入る。
 あのバカ、の声はドレイクだろうか。
 無慈悲な水音が響き渡り、少年も少女も目を背けるように閉じてから数秒。
 恐る恐るあたりを窺った彼らが見たものは、早くロープを括り付けた矢をとばせとせっつかれている赤の弓兵の姿だった。同じことをエウリュアレに頼んだとしても即答で断られるであろうから、人選は正しい。
 やれやれと言わんばかりだが素直に従った青年は、落ちた船員を引っ張る人物を見る。
 パニックになっているらしい彼をうまいこと宥め、見え隠れする表情には余裕があった。その間にも船は遠ざかっており、これ以上はロープの長さが足りなくなる。
「あてるつもりで放て。おそらく想定内だ」
「……承知した」
 背を押したのはキャスターのクー・フーリン。その一言で直感だと告げた言葉の意味を悟る。迷わず青年の手元を離れた矢はランサーに突き刺さることはなく、綺麗に横を掠めて水面に突き刺さった。
 すぐさまロープを掴んだ男は伸びきる手前の一瞬で器用に円を作り、船員の脇下に回す。
 大きく手を振ったのは準備完了の合図だろう。
「しかしこの船、結構なスピードで進んでるが、このまま引っ張って大丈夫なものかい? アレの胴が真っ二つにわかれたりしないかねぇ」
「それに関しては大丈夫だ。遠目だが、なんらかのルーンを刻んでいるのが見えたからな。おそらく彼の肉体は保護されているだろう」
「あいよ。そういうことなら遠慮なくやりな!」
 野郎ども。声をかけられた何人かがロープにとりつく。
 見てるだけってのもなんだから手伝うかとキャスターが参戦し、海に落ちた男はあっという間に回収された。
 後で礼をしておけと告げるドレイクに、まだ助かった実感がないという表情をした男が頷く。
 ロープが行き渡ったためか、それとも傾いたままの動きに慣れたためか。それ以降は特に問題もなく島へと上陸することに成功した。
 真っ先にアステリオスの身を案じて飛び出していったエウリュアレと、彼女を追う少年少女。
 それを見送ったエミヤと隣に並んだキャスターは、遅れて海から上がってきたランサーを出迎えることになる。
 船の上での言葉通り、彼は謎の巨大魚を担いでいた。
 がばりと開いた下顎がのしかかり視界を邪魔している様子はどうにも笑いを誘うのだが、キャスターの声にはどちらかというと呆れの色が強い。
「ホントに食材とってきやがった……」
「この島に食材があるのかわからんだろ。それなら途中で獲っちまったほうが効率的だろうが」
 それは食えるのかとの問いに知らんがなんとかなるだろうと答えたランサーは簡易テントを張って竃作りをしているらしい場所へと足を向けた。
 そもそもドレイクが所有する聖杯から食料も水も酒も供給されるのだからわざわざ危険を冒して獲る必要もなかったのだが、おそらくはそんなことは頭から抜け落ちているのだろう。
 エミヤとて、食べられるのかとキャスターが問いを投げたことで思い出したくらいだ。
 声を掛けなかったからと言われればそれまでだが、気付いてはいるだろうに存在しなかったかのように無視されたことを思い、僅かに口端を上げて目を伏せる。
 レイシフト直前、管制室での厳しい表情を思い返す。
 この現界では味方とはいえ、戦場に一緒に立つことにすら疑問を持たれている状況だ。
 存在そのものが煩わしいのだろうと考えれば、謎の魚の調理も任せろとは言えなかった。
 わかっていたことだと自分に言い聞かせて息を逃す。
「エミヤー! どこー!!」
 少年の呼び声に我に返り、いつも通りの声音でここにいると声を上げた。
「あ、よかった。申し訳ないけど、清姫と一緒にアレの調理お願いできないかなあ。ドレイク船長側の料理長はそれどころじゃなくてさ……」
「私は構わないが……マスター達は島の調査に行くのか」
「うん。さっきもアステリオスを見つけて戻る途中で魔物に襲われたからさ。近辺調査して危なそうなら排除しておかないと」
 俺達はともかく船のみんなが危ないからと苦笑する。
 こちらに来る可能性もあるため、戦力の分散にはなるが船と船員達を守るためにサーヴァントを何騎か残していこうと思うと続けられて頷いた。
 配分に関しては調理ができるエミヤや清姫。現状で一番広範囲の索敵が可能なキャスタークラスのクー・フーリンを残し、残りの面々で島で調査すると告げられる。
 運動が嫌いそうなエウリュアレが探索組なのはアステリオスがそちらにいるせいだろう。分担に関しては特に異を唱えることもない青年はもう一度頷いてから、気を付けてとだけ言葉を贈った。
 にこにこと頷いて、おいしいごはんよろしくと去っていく少年の期待に応えないという選択肢は無い。ならば数分前の出来事など忘れてしまえばいいだけだ。
 目を伏せて長い息をひとつ。
 気を取り直して煙の上がる簡易テントの群れに向かって歩を進める。探索組はすぐに出発したらしく残っているのは海賊達のみ。話は通っているのか、大歓迎で先ほど見た巨大魚の元まで案内された。
 船から外された端材らしい板の上にどどんと載っている様子はいっそ壮観。腹側に傷があるところを見ると最低限の内臓処理は捕らえてから陸に上がるまでの間に泳ぎながらしたということだろうか。器用なものである。
 まずは素材を確かめないことには始まらない。
「槍持ちはここまで運んできちまったが、解体するのに水が必要なら海側に運ぶか?」
「……キャスター」
 同一人物なのだから当然なのだが、気持ちを切り変えた直後に耳にするにはいささか心臓に悪い声に、困惑の色が濃く滲む声が出た。反応に目敏く気付いた男のほうも悪かったと苦笑を落とす。
「いや、構わない。それより君は索敵要員で残ったのではなかったのかね」
「そっちは抜かりないぜ? あまりにもひらけた場所なもんで限界はあるが、結界も構築済みだ。まあ、海辺はあんまり相性良くねぇけど、敵さんが押し掛けてきたら即座に反応できるくらいの精度はあるわ」
 からからと笑い、それでどうすると魚をつつく魔術師の言動はあまりにも自然で、どこかお互いに避けている槍兵との関係を笑い飛ばされた気分になる。だからこそ青年は僅かに口端を緩めて魚を解体に行くと告げた。
 船員の中から何人か手伝いを募り、かなりの重量があるそれを板ごと水辺へ運んでいく。
 大きさが違うとはいえ、所詮魚だ。
 大なり小なり船に乗っていれば解体方法と保存方法を覚えるのは当然で、手伝いを買って出た船員達は勝手に各々自らの役割を宣言する。
 魚を固定しておく者、身を剥いだ後に残った残骸の処理をするもの、解体した身を受け取る者など。指示などせずとも決まった役割に応じて勝手に不足している道具を取りに行く者までいる状況に少しだけ笑う。
「では僭越ながらメインの解体を担当させていただこう」
「いいぞ兄ちゃん! やれやれ!!」
 巨大な刃を持つ包丁を手にしたエミヤに、やんややんやと掛けられる野太い声。準備万端とばかりに待機する木製のバケツや皿、板を持った船員達がそれらを打ち鳴らす。
 思い切りよく突き入れられた刃が滑らかに動いてするすると骨から身を剥がしていく。
 リレー式に海水で洗われ、程よい大きさに整えられて皿に積まれて運ばれていく謎の巨大魚は、厳つい外見とは裏腹に淡白そうな白身を晒していた。
 綺麗に頭と骨と鰭を残して解体された魚がぺらぺらと海水の間を泳ぐ。
「ふむ、こんなところか」
「いい腕だなあアンタ。調理長の座をとれるぜ」
「さすがにそんなことはないさ。先の見えない海の上での食材のやりくりなど、私には到底無理なのでね」
 だが。陸に上がり、備蓄を気にしない一時の調理ならばいくらでもと淡く笑む。
「おーい、兄ちゃん。コイツどうすんだ?」
「お。お呼びか。こっちの後片付けはしておくから行ってかまわねぇよ」
 そのかわりうまいものを食わせてくれと、その場に残った船員達に請われて青年はもちろんだと頷いた。
 片付けを任せて、切り身にされた魚が並ぶ場所に戻る。
 一足先に戻った面々は準備のいいことに火の用意をしてくれていた。
 その隣には使えるものがあるなら使えとばかりに食材の入った箱が置いてある。
「姐御が戻れば肉でも野菜でも好きなモンが頼めるが、今はこんだけだ。なんとかなるか?」
「承知した。有り難く使わせていただくよ」
 ざっと確認する限り切り身には問題が無く、試しに少し焼いて食べてみれば、海水の塩分で味付けされたたけの淡白さが口内に広がる。
「焼いただけでも食べられないことはなさそうだがこのままでは飽きる。味付け次第だな」
 その場にいる船員達に必要量を確認し、部位を分け、余る部分は干物にしてもらうように指示を出した。
 遅れてすいませんと可憐な声。カルデアからの補給物資が入った箱を運んできたらしい清姫は、着物の裾を襷掛けで留めていた。
「すまないが彼らと一緒に身を焼くのを頼めるか。私は何種類かソースを作ろうと思う」
「ええ。焼くのは得意ですから。これは確かに随分な数ですね」
「どうにも大食らいが多いようでね」
 箱を受け取り中身を確認する。他の船員に大っぴらに見せられないそれは調味料の類。あとは船からおろしてきた調理器具で必要そうなものを使用する許可をとってから手分けして調理作業に入った。
 カルデアの調理場と違い薪を使った炎での調理は火加減が難しい。
 火そのものを調整する代わりに鍋やフライパンとの距離を変えることで調整し、焦げ付かないように注意する。
 味見と称して手伝ってくれた船員達に食べてもらった分は好評だった。
 あとは探索組が戻ってくるのを待つばかり。
 さりと砂を踏む音が届いて振り返ると、後片付け組に混ざっていたはずのキャスターのクー・フーリンが、坊主達が戻ったようだと告げて横を通り過ぎていった。
「なんだかイイ匂いがするねぇ」
「よう、マスター。成果はどうだったい?」
「一応あったよ。新しい人がいるから後で紹介するね」
 ドレイクとキャスター、そしてマスターの会話を聞きながら、弓兵は清姫に対してあとは頼むと告げてそっとその場を離れる選択をする。あからさまな溜息が背に当たった気がしたが、気付かなかったふりをした。
 そうして皆から離れて一人。水に浸かったために船から下ろされ、浜に並べられた木箱の陰に隠れるようにして腰を下ろす。
 動き回ってお腹を空かせている彼らはすぐに食事にするだろうから、こちらまでは誰も来ないだろう。
 ふ、と。息を吐いて遠くから聞こえる楽しそうな声に耳を傾けた。
 日暮れまではまだもう少し。
 船が直らない以上は身動きのとりようもなく、探索組の報告を聞く必要はあるが、森があるようだからそれを材料に修理することになるだろう。
 その場合はしばらく島に逗留することになるなと今後について思考を巡らせる。
 さて、どう切り抜けるか。考えているようで考えていないぼんやりとした時間を過ごしていれば、目の前を何か得体のしれない小動物が横切った。
「なんだ、カワイコちゃんじゃないじゃないかよーう」
 騙された、と。地団駄を踏んで悔しがっているのはどこからどう見てもクマのぬいぐるみである。
 敵意は感じず、むしろ魔力の気配はその辺の雑魚敵と比較しても明らかに弱い。
 何より、その口元についているのが自分が作ったソースだと気付いて青年は眉を顰めた。
「しゃべ……った?」
「そりゃしゃべるさ。これでも一応サーヴァントだ」
「君が? ああ……確かに魔力は感じるが」
 ふうと盛大に溜息を吐いたぬいぐるみは、今日の食事を作ったおっぱいの大きいカワイコちゃんがいると聞いてきたのに、などとブツブツ言っている。ちょっと待て誰だそんなことを言ったのはと突っ込みたいが、問い質したところであまり意味はないだろう。
「そういえばさっき、新しい人が居るとマスターが言っていた。君がそうか」
「おうおう、やっぱりアンタもお仲間か。美女じゃなかったのは残念だが、あのメシは美味かったぜ」
 サーヴァントは食事をする必要などないはずだが、彼は食べられるのなら楽しむタイプらしい。
 ぬいぐるみが人と同じ食事をするのかとはこの際考えてはいけない。
 それは良かったと。自然と言葉は滑り落ちた。知らぬ相手だが、だからこそ素直に賛辞を受ける気になる。
 次の会話に繋がる前に確かこっちから声がしたと、第三者の声が割って入った。
「ああ、いたいた。なんだい功労者がこんな隅っこで」
「船長……いや、久しぶりで張り切り過ぎてしまったからな。少し休憩していただけさ」
「そうかい。じゃあ戻るよ」
 アンタ、まだアタシの誘いを受けてくれたことないだろう、色男。
 するりと絡んだどこか色を纏う声音。だが、いくら青年でもそれに付随する意味を取り違えるほど鈍くはない。
 休憩と称してこんな大男が食事の場の中心で伸びていては邪魔だろうと、そんな言い訳は音にすらさせてもらえずに喉の奥に消えた。
 どんな言い訳もきっと彼女には通用しない。
「……私を誘ったところで面白くも何ともない。貴女に付き合える人物は他にいるだろうに」
「何言ってんだい。アタシはアンタを誘っているんだよ。あんな美味いものを食わせてくれた礼をしないとね」
 それは自分が飲みたいだけなのではというぬいぐるみからのぼそりとしたツッコミは聞こえなかったらしい。
 引き摺るようにして青年を立たせたドレイクは手を離すことなく問答無用で火の側に戻った。
 キャンプファイヤーのごとく昼間から大きく焚かれた炎の用途はものが焼ける匂いによる獣避けである。
 幸い周りに居るのは彼女の部下達だけで、その誰もが美味い美味いと食事をしながら酒を飲んでいた。
 青年の表情が知らず、緩む。
 それでも警戒して慎重にサーヴァントの気配を探れば少し離れた場所にマスターの少年ともども固まっているのが把握できた。
 突然の遭遇にならず、少しだけ胸を撫で下ろす。
「なんだい、会いたくない奴でもいるってのかい?」
「いいや。そういうわけではないのだが、あまり相性が良い相手ではなくてな……つい喧嘩になってしまうことが多いから気にしただけだ。せっかくの場を壊すのは申し訳がないだろう?」
「気にする必要はないと思うけどねぇ。アタシらは海賊だよ。喧嘩なんて日常茶飯事さ」
 だがいざ船に乗り込めば誰も前の晩に起きた諍いのことなど気にしない。
「それはともかく、とりあえずは飲みな! アンタは酒が飲めないと言うが、少しだけなら構わないだろう?」
 辛いことなら酒を飲んで忘れる、嬉しいことなら酒を飲んで余韻に浸る。それが海賊ってモンだからね。
 豪快に笑うドレイクになみなみと注がれたグラスを押し付けられた青年はさあ乾杯だと促されて、流れるように船長をはじめ幾人もの船員達と乾杯をする羽目になった。
 その度に律儀に一口ずつ飲むため、空になるたびに新たに注がれて徐々に酔いがまわる。
 とうとう立つのを諦め、椅子がわりにあちこちに転がされている丸太に寄りかかるようにして座り込んだ。
 酒精に染まり、うろと彷徨った視線が遠くに青の影を捉える。当然騒ぎには気付いているだろうが、気にしている気配はない。
 万が一気付かれたとしても今の状態なら口論にすらならないだろうと、頭のどこかで酔った自分を冷静に分析して目を伏せた。
 周りで飲んでいた者達も徐々に減っていき、おひらきの気配が漂いはじめる。流石にドレイクは一人でもグラスを傾けているがどれだけ強いのか。
 青年の視線の先に気付いた彼女が目を細める。
「ふぅん。アンタの懸念はあの槍使いかい」
「懸念というほど大げさなものではないさ。ただ、ちょっとした因縁があるだけだ。まあ、それも自分の手で壊してしまったんだがね」
 それより前ならばまだもう少し名を付けられる程度の関係だったかもしれないが、今は何もないのだと平坦な声が心ない言葉を紡ぐ。
「後悔してんのかい?」
「いいや。これは後悔ではない。ただ少し行動を誤った自分に呆れているだけだ」
 彼は何も悪くなく、自分が悪いわけでもない。
 強いて言えばただの選択ミス。あるのはそれだけ。
「嘘……というわけではないのですよね」
 いつの間にか近くに来ていたらしい。ふうという溜息と共に、嘘よりよほど始末に負えないと鈴のような声が零れ落ちた。
「よう、清姫。一緒に飲むかい?」
「いいえ。わたくしは器を回収しに来ただけです。まだ飲むなら構いませんが、つまみはないものと思って下さい」
 そんなものはいらないと即答できるあたりがこの女船長のすごいところだろう。実際、聖杯に願えば適当なつまみを出すことも可能なはずだが、彼女はそれをしなかった。
 ぼんやりとした頭で何故だと問えば、せっかく美味いものを食わせてもらったのだからその余韻を楽しまなかったら勿体ないだろうと笑いが返る。
 それは、料理人にとっては嬉しいことだ。
 酔いが回った頭は思考を放棄し、常に張り詰めている気配も薄い。どこか無防備に頷いた青年はありがとうと零してふにゃりと笑った。
 そのままドレイクと清姫の会話を聞くともなしに聞く。つんと額を小突かれた気配がしたが、青年の瞼はすでに半分以上落ちかけていた。
「しかしどうにもすっきりしない関係だねぇ」
「あなたに言われたくはないと思いますけれど」
「そうかい? ま、そういう意味じゃアタシと周りとの関係はわかりやすい。海賊は海賊らしく、ただ飲んで、奪って、死ぬだけだ」
 それは思考放棄ではなく、生きるための決意。己が決めたことを貫き通すための在り方は好ましく、眩しい。
 さすがにそろそろ酔いが滲むドレイクの言葉に返事はなく、ただ沈黙が落ちた。
 ざわと駆け抜けた海風が近くに残るのは彼女だけだと弓兵に告げる。清姫はもはや何も言わず放置されていた皿を回収して去ったらしい。完全に目を開けていられなくなった青年は、夢と現の間で静かな声を聞いた。
「アンタとあの槍兵の関係に名を付けるなんざアタシの領分じゃない。それはアンタらだけが可能なものだ」
 断じる声はもっともだ。正論すぎて返す言葉もない。
 だが、そもそも半分以上意識のない青年はただ聞こえてくる音を拾っているだけで、意味が理解できているかは怪しかった。
「おや。なんだい、もう潰れちまったのかい? 話し相手が寝てしまったら寂しいじゃないか」
 普段なら自分を基準にするなと方々から異議申し立てが出るだろうが、現在は彼女と青年以外の人物はおらず、結果、声はただ日が暮れ始めた浜辺の空気に溶けていった。
 しばらくはドレイクがグラスを傾け、時折満足そうに息を吐くそんなゆるい時間が流れる。
 流れを断ち切ったのは弓兵が避けてた人物の声だった。
「おーい船長、嬢ちゃんと坊主が向こうで探して……ってなんだぁ? こんなトコで野郎一人潰してんじゃねぇよ」
「アタシのせいじゃないよ。そもそもそんなに飲ませてないしねぇ」
 つん、と。再び弓兵の額をつつくドレイクは酔いも回ってご機嫌だ。
 まだ日も暮れきってねぇのにと苦笑を纏わせた呆れが落ちる。
「そりゃあソイツ相手にアンタの基準で注いだらそうなるだろうよ……ったく。テメェも飲めねぇなら飲めねぇで断わりゃいいってのに」
「そいつはそんなことはしないさ。見てればわかる。基本的に目の前で笑っている人を見るのがたまらなく好きな、そんなヤツだろう? 潰されるのも覚悟の上だろうよ。それが許される状況だというのも承知の上さね」
 ここで自分が潰されておくほうが今後のためになると判断したのだと、ドレイクは告げる。
 その考え方はあまりにも弓兵らしく、ランサーは続けるはずだった言葉を飲み込んだ。
「さあて、少年少女がお呼びだったかね。んじゃ、アタシは行くよ」
「おいおい、コレどうすんだよ」
「アンタに任せる。ま、今日はそんなに悪い夜じゃない。放っておいてもどうということはないだろうさ」
 ひらひらと手を振って、酔っ払いの千鳥足でドレイクが去り、短時間のうちに随分と宵の色が濃くなった浜辺の気温は急速に冷えていく。
「任せるったって……」
 確かに酔いつぶれて寝ている相手なら口論にもなりようがない。ランサーはこれが彼なりの逃げの手段なのだと理解する。もっとも、こんな状態であっても敵襲があれば即座に目を覚ますのだろう。
「オレとは話したくねぇってことか。ま、当然だよなぁ」
 あんなことしたんだしな。
 サーヴァントの身で風邪を引くということは無いだろうが、火の番を仰せつかった都合もあると男は青年の手を引いて背に負った。
 砂を踏む音が少しだけ重くなる。
 一番火に近い丸太の傍。誰かが残していった敷布がわりの毛皮を適当に地面に敷いて、先刻と同じ、丸太に凭れた体勢になるように下ろしてやる。眉を寄せて軽く呻いた唇は乾いていて、吐き出された息には濃く酒精が香った。
 とりあえず必要なのは水かと適当なグラスと水差しを調達し、好きに飲めるようにと用意された水瓶から水を汲んでから、ついでに毛布も拝借して青年の元に戻る。
 特に気配を隠すこともなく、さくさくと砂を踏んで戻っても、弓兵が起き出す様子はなかった。
 久しぶりにちゃんと顔を見たなと思う。
 特異点に赴いてから今までの戦闘を見る限りでは、確かにまだ霊基への枷が強くかかっている様子はあったが、特に問題があるようには見えなかった。
 戦えないわけではないのだが、同時に召喚直後の己を思い出して、あれではもどかしいだろうとも思う。
 先んじて霊基の枷がすべて外された自分とは違い、今の彼では、己の槍を防いだ時のような芸当は望めない。
 弓兵と言いながら魔術師でもある彼はいくつもの投影品を使い分ける戦い方をする。それを知るのは自分だけでなく、マスターである少年もすでに把握済みであるし、もっと言えばカルデアのデータベースにも記録された事実だ。
 使用する機会が多いのは陰陽一対の夫婦剣と黒い長弓。
 どちらも見慣れたものだが、槍兵の記録に刻まれた彼の印象を決定付ける武装は別のものだ。
 別霊基の己のことだと理解しているにもかかわらず、なお脳裏に鮮やかな薄紅の花弁。
 真名解放して放たれた槍の先を押しとどめる盾の輝きは彼自身の弛まぬ努力によって編み上げられた強さ故に美しかった。
 叶うならもう一度本気で戦いたいと思う。その欲求は味方として召喚されても変わらないし、彼自身をいけ好かないと思うこととは別のものだ。
 英霊として召喚に応じた先であれほど興奮できることはまれだと知っている。だからこそ。
「あんな扱いはしたくなかったんだがなぁ」
 独り言は誰の耳にも届かず、ぱちりと跳ねた火の粉だけがらしくない男の行動を笑ったようだった。
 苦笑を浮かべて水差しを置き、毛布で青年の体を包み込むと、ぎゅむと後ろの丸太や地面との間に端を押し込んで目が覚めてもすぐに行動できないようにしてやる。
 それは、言い訳がないと許せないだろう彼のためだ。
 むずがるような動きに合わせてぱらりと一房、上げていた前髪が落ちる。男は苦笑を消さぬままで落ちてきたその髪を元のように撫で付けた。
 酒精に混じって香った魔力の気配を無意識に辿る。
 気付けば唇が触れていた。
 特に色を乗せることはなく、先を望まない。ただ気紛れに触れたというだけの口付け。
 乾いていた場所に触れたものを追うようにちろと舌が伸び、水を求めるような仕草をされて我に返った。
 持ってきた水差しからグラスへと中身を移し、ぺちぺちと頬やら肩やらを叩いて覚醒を待つ。
「ん……」
「完全には起きなくてもいいが水飲んどけ水。二日酔いにはなりたくねぇだろ?」
「わか……た」
 唇にグラスの端を寄せれば大人しく従う。
 こくこくと規則的に動く喉と軽くなっていくグラスで量を測って、もう少し飲むかと問えば、もう大丈夫だと吐息が紡ぎ、安心したような息が零れた。
 口端に残った水滴を拭ってあとは寝てろと笑えば頑張って上げようとしていた瞼が下りる。
 ぱちり。目の前の炎が自分のことも忘れるなと催促の声を上げた。
「なんだかなあ……」
 結局、食事の感想は伝えそびれたと苦笑する。
 弓兵が作ったものを自分が間違えるはずがなく、本人に問わずともやたらテンションの高い海賊達がふれ回っていたし、清姫とマスターとの会話で裏もとってある。
 何にせよ、今は仲間だ。いつまでもこのままというわけにはいかないだろうから、そろそろ本気できちんと話をしたほうがいいかと思案する。
 こうもあからさまに避けるくらいだ。
 事を急いでさらに拗らせると、形ばかりでも協力して戦闘するどころではなくなる。
 今はこの特異点の修正が先決だろう。
 話し合いは一時棚上げだと溜息を落として。
 次に気がついた時には自分は近くにいないほうがいいだろうと、男は青年が蹴倒さない位置まで水差しを退避させてから炎を挟んで反対側に足を向けた。
 
  ***
 
 お疲れ様の声と共に解散となり、人間であるマスターと盾の少女が休息のために部屋に戻るのを見送ってから、エミヤはぐるりと管制室を見回した。
 来るときに持ってきた重箱が隅に追いやられてるのを発見してちらりと蓋をずらしてみれば、幸い中身は空。疲れた身で目にするには些かよろしくないものを見ることは無かったことにほっとする。
 単純に返しに行く余裕も無くそのまま忘れられたのだろうと判断して手に取った。
「これは回収していくが構わないかね?」
「ああ、ごめん。すっかり忘れてた」
 皆にも好評だったよご馳走さまと返る医師の声に目的は達成されたのだと知る。
 ちゃんと食事をしてほしいとは思うが、特にレイシフト中はろくに席も立てないスタッフ達にとって、小腹が満たせて糖分の補給もできるおやつの重要性はそれなりに高いことを知っている。
 用を果たせたのなら持参してきた意味はあったと息を吐いて空の容器を手に管制室から辞し、食堂と自室どちらに向かうべきかを思案した。
 ぐ、と握った右手を開き、額へと触れさせる。
 心を落ち着けるように深呼吸をしても誤魔化せない。
「さすがに少し無茶だったか……」
 万が一を考えてか、それとも意図的なものなのか。カルデア式の召喚ではかなり強い制約が課せられた状態での現界となる。現時点でもエミヤにはまだ強い制約があり、戦闘で利用できる能力も制限されていた。
 特性として単独行動スキルがあるといえども、断続的に戦闘が発生する場合においてはあまり意味はない。
 今回の同行では後半かなり無理な戦闘をしたため、今すぐ消えるほどではないが残存魔力は心許なく、食事か睡眠かを選択して速やかに回復に努める必要がある。
 少し考えて、一足先に食堂に向かっていった同じ名を持つ二人を思い出し、睡眠を選択した。
 霊体化するという選択もあるが、ことカルデアにおいては通常よりも常時実体化のコストが低いため、一時は凌げても再実体化するのに余分な魔力を消費するという本末転倒なことが起こる。
 とにかくイレギュラーだらけの召喚なのだ。
 割り当てられた部屋に向かう足は意識に反して急激に重くなり、体は速やかな休息を訴えてくる。感覚と実際の乖離は制限下ゆえのことだと気付いて溜息を吐いた。
 後付けで外部から付けられた制限が己の目測を狂わせるのだが、今更考えたことでどうしようもない。
 結果、諦めた青年は手近な休憩スペースに足を向けた。
 いくつかの植物を仕切りがわりに、廊下から直接見えないように工夫されたソファへと腰を下ろして目を閉じる。
 これではどこでも寝てしまうマスターの少年を笑えないなと苦笑して深く息を吐いた。
 電気を変換して魔力としている都合上、カルデアにいる限り常に一定量の魔力補給は保証されている。ならば消費を抑えて多少じっとしていればすぐに部屋に戻れるくらいまで回復できるだろう。食堂で倒れるよりはましだと思うしかない。
 溜息が逃げていく。
 施設は広く、現在生活している人間は二十人程度。そこにサーヴァントを足してもまださほどの数ではなく、廊下は静まり返っている。
 寄りかかって目を閉じているという状況が同じだからだろうか。それとも静けさゆえだろうか。青年は目を閉じたまま、ついこの間の出来事を思い浮かべた。
 柔らかく、控えめに触れる唇が呼気を吸い取る。
 間違いなく口付けだと言えるのに、その一瞬はあまりにも静かで、ただ呼吸を確認しただけだと言われれば頷いたかもしれない。
 名の付いた関係は壊してしまったはずだ。だが、なぜあんなにも優しげに触れるのか。
 無意識に動いた指が心臓の位置に触れるが、そこに傷などない。
 いくつもの聖杯戦争で何度も顔を合わせる、逃れ得ぬ敵同士。それ以外の関係など無いと思っていたのに、どうにも勝手が違う。
 こつ。
 足音が近付いて、こんなところで休憩ですか、と静かな声が響いた。
「ああ。流石に少し疲れた、というところでね」
 さほど回復はしていないが見つかってしまったのなら仕方がない。無理矢理瞼を押し上げて正面に立つ長身の影を見上げる。
 首を傾げた拍子に流れる髪は床に付くほど長く、視界を覆う黒いバイザー越しでも美女であることは疑いない。
 ついついライダーとクラス名で呼んでしまうが、彼女の真名はメデューサ。
 クー・フーリン同様、冬木の聖杯戦争でよく顔を合わせる関係でもあった。
「少し話をしても?」
 あまりおしゃべりなほうではない彼女からの誘いは珍しい。困りごとかと問えば、曖昧な笑みが返った。
「そういうことではないのですが……いえ、ある意味困りごとですかね」
 否定しかけて言い直す。まだ迷っているような沈黙が続いて弓兵は首を傾げた。
「長くなるようならテーブル側に移動するかね?」
「いいえ。長くなるような話ではないのですが、どう伝えたらいいのか困りまして」
 考えてみれば自分が口を出すようなことではなかったと一人納得したような呟きを落とす彼女に今度はエミヤが首を傾げる番だ。
「実は落し物を拾ったのです。ですが……そうですね。これは貴方にお預けします。では」
「ちょっと待ってくれライダー!」
 制止の声も虚しく、それ以上は何も言うつもりはないと座ったままだった弓兵の目の前で手を開く。
 彼女のてのひらから零れ落ちたものを反射的に受け取ってしまった青年は、もう用は済んだとばかりに目についた重箱を拾って去ろうとする長身を追おうとして失敗する。
 渡されたのは生命力を象徴するルーンストーン。
 じわり。温もりが染みて、晴れの日の空気のような魔力の気配を幻視する。枯渇していた魔力が僅かに戻った気がした。
「……ッ!」
 それだけで彼女が言っていた石の落とし主が分かってしまう。
 いや、落とし主というのは正確ではない。彼女が話しかけてきたのはある意味口実で、おそらくはきちんと話をしろということだろう。石はそのための材料に過ぎない。
 そもそも、彼女は事故のことを知っているのだ。
 面倒だと言いながらも運び屋程度のことはするだろうと予想できた。
 石を握ったままで目を閉じる。じわりと滲む魔力は、ほんの僅かではあるが、明らかにこちらの回復を助ける働きをみせていた。
 同じものを自分は知っている。
 おそらくはどちらでもいいのだろう。このまま無視することも十分可能だ。だが、口実を得てしまった。
 一つ目は機会を逃したまま部屋の引き出しにしまってある髪留め。
 二つ目は今手渡されたルーンストーン。
 それぞれから漂う魔力の気配は同じもので、遠回しな遣り方を選ぶ相手を違えるはずがない。
 深く呼吸をしてから瞼を押し上げる。先程よりも幾分か楽になったことを実感して立ち上がった。
 今更何を話せというのかという思いはある。関係性を戻そうとも思わないから何を語るつもりもない。
 だが。先の折、何も言わなかったことを彼が納得していないのなら、せめてその旨を伝え、髪留めは返して決着させるべきだろう。
 魔力不足で即座に武器を投影するのすら厳しい状態であるため、うっかり手を出す危険性は低く、長々と説明する気力もない。
 今だからこそ都合がいいのだと自身を奮い立たせ、途中で自室に寄って髪留めを回収し、男の部屋の前に立つ。
 食堂に行くと言っていたが、もう戻っているだろうか。
 迷ったまま扉の前で立ち尽くした青年の耳に聞きなれた声が触れた。
「アーチャー?」
 どうした、と。問う声は廊下の先から。
 顔を上げた己はよほど酷い顔をしていたのだろう。足早に近付いてきた男に抵抗することなく部屋に引っ張り込まれるのをどこか他人事のように見ていた。
「おい、どうした」
 男は戻ってきたときのまま、上半身を露出させた短髪の恰好だが、今は髪と肩が濡れている。
 視線でそれに気付いたのか、水漏れを直していたんだと苦笑を見せた。
 自分では応急処置しかできないから、調子が戻ったら見てやってくれと場所を告げられる。
「それよりどうしたよ、ってもそのひでぇ顔色見れば一発か。魔力足りてねぇな。坊主んとこ行くか?」
「……いいや。ここにいる限り魔力の供給は保証されている。この程度なら部屋に戻って休んでいればいいだけだ」
 あまりにも普通に対応されて面食らう。ただ、視線を上げても交わることがないのだけが不自然。
「だったら寄り道してねぇで、さっさと戻って休めよ。それとも動けねぇのか?」
 それなら自分は外すからこの部屋を使って構わないと、想像もしていなかった道を示されて、呆けた顔を晒してしまう。本当に譲るつもりらしく、じゃあなと部屋を出ていこうとする男を引き留める言葉を思いつかない。
 もともとかなり無理をしてここまできた青年は、もういいかと息を零した。もしかしたら何も告げずに去ったあの時の彼もこんな心境だったのかもしれないと思うが、後悔があるわけではない。
 知らずのうちに淡く笑んでいたことを本人は気付かず、視線を合わせないようにしていた男もまた気付かない。
「その必要はない。もともと廊下でも済む話だった。すぐに出ていくさ」
 水漏れがあるのだったか。そんな風に話題をすり替えて近くの小さなテーブルに持ってきた髪留めと石をのせる。
 多少でも補助をしてくれていた石を手放したことで魔力不足の負荷が増したが、さすがにここで倒れては間抜けが過ぎるだろう。
「私の要件は済んだ。ではな」
 何でもないように取り繕って踵を返す。
「本当にそれだけか、弓兵」
「……ああ、髪留めの件ならすまなかった。あの時はとても返答できる状態ではなくてな。機会を逃したままだったのだが、やっと返せてよかったよ。これでわざわざ短髪のままにしていることも、理由をつけて返せと警告する理由もあるまい」
 感謝はしているのだと目を伏せたままで告げて、一歩。
 扉に向かって足を踏み出した瞬間を掬われた。
 予想はできたが重い体で抵抗する気は起きず、引き倒されるまま寝台に背を打ち付ける。スプリングが激しい抵抗の声を上げたが双方ともに特に被害はない。
 久し振りに正面から合わせた瞳には怒りが燃えていた。
「テメェは……ッ!」
「離してくれ。もう私などに用はないだろう」
 激昂寸前の槍兵に対し、弓兵の声音はどこまでも平坦。ぎちと奥歯を噛みしめる音が響いたのに少しだけ目を細めて。そんなにしたら歯が砕けてしまうのではと頭の隅で思うがとても声にできる雰囲気ではない。
「一つ聞かせろ」
 怒りを押し殺す声は普段よりも数段低く。血が滲みむほど噛み締められた歯列を抉じ開けるように紡ぎ出される。
 余計な言葉は許されないと感じた青年は無言のまま。押さえつけたまま見下ろしてくる男を見た。
 つい、と。視線がテーブルを示す。そこにあるのは今しがた自分が乗せた石と髪留めだ。
「なぜオレだと思った? こういうのなら杖持ちのほうが本分だろう」
「……キャスターの君ならわざわざこんな回りくどい方法は取らないからだ。必要無いからな」
 ランサーと違い、キャスターのクー・フーリンはエミヤと普通に会話をする。だからこそ伝言のような真似をする必要がない。至極単純な答え。
 誤魔化しも嘘も許さないという圧に、ただ事実だけを口にする。
「それがわかっていてなおこの結論かよ」
「さっきから何が不満なんだ。もう必要以上に近付かないと言っている、ならばそれでいいだろう」
 だからなぜそういう行動になるのかを問いたい槍兵と、己は彼にとってすでに戦士ですらないだろうから気を掛けるに値しないと思い込んでいる弓兵の会話は根本から食い違っていて交わることはない。
 離してくれ、と。消え入りそうな声が上がる。これ以上の会話に耐えかねた弓兵はとうとう武器を手にした。
 極度の魔力不足の身では自爆にしかならないが、それでも構うものかと突き出された中途半端な刃は眼前の男にすら到達せずに形を崩し、苦鳴をひとつ残して弓兵の意識が落ちる。
 霊基を保とうとする本能が前面に出たが故の強制停止。
「バカやろ……ッ!」
 即座にテーブルに放置されていた石を摑んだランサーが同じ文字を重ねて己の魔力を上乗せしながら術式を展開する。生命力をあらわすそれは瞬時に溶けて、無色の魔力として弓兵の身に注がれた。
「クソ、全然足りねぇな。仕方ねぇ」
 血液は味や感触が残る可能性が高く、後々気付かれると面倒。開かせた唇に己のそれを重ねて舌を差し込む。唾液に溶けた魔力をほとんど無理矢理送り込んで様子を窺えばほんの少しだけ持ち直したのが見て取れた。
「あー……しまった。これでも即座にバレるな」
 本人の同意もなく注いだのだから、本能が現状回復のために消費する分はともかく、混ざっている感覚は残る。
 石の分はいわゆるカルデアの電力からの変換魔力と同じ扱いになるため問題は無かった。おそらく使われたことにすら気付かないだろう。
 ただし、特定の人物に付随する魔力の摂取は別だ。
 大源には澱んでいたり澄んでいたりとする感覚の違いが存在する。同じように、霊体化状態のサーヴァントであっても、ある程度の目星をつけて察知可能な者が居ることからもわかる通り、小源にも固有の気配というものが存在していた。
 良きにつけ悪しきにつけ、本人の魔力へと変換されて馴染むまで元の存在は色濃く香る。
 緊急時とはいえ早まったかとぼやいた男は、盛大に溜息を吐いた。
 やってしまったからには仕方がない。
 どうにも毎回すれ違っているということだけはわかるのだが、根本的なものが掴めず、このまま起きるまで待っても同じことを繰り返すだろうという判断が可能なくらいには冷静に戻っていた。
 もう一度大きく息を吐いた彼は、目覚めない青年を外から見えないようにシーツで包み、抱え上げて部屋を出る。
 行き先は話題にも出た別クラスの己の部屋。
 扉の生体認証は同一存在相手には何の意味も成さない。
 勝手に扉を開けて部屋に踏み込んできたランサーを振り返ったキャスターも、それに関しては特に咎めることもなく、僅かに目を細めただけだった。
「どうした槍持ち。いい加減、ちゃんと話し合いをするんじゃなかったのか」
「うるせえ。んなもん、上手くいかなかったからこうなってるに決まってるだろ」
 それよりもコイツを頼む、と。部屋の主の許可も得ないままに持参してきた弓兵を寝台に下ろしながら吐き出した言葉は、自分でも無様だと思うほどの焦りが滲んだ。
「ああ? オマエ一体何やったんだよ……ってこりゃ見事にからっけつだな」
 状況を把握したキャスターが笑みを消して隣に並ぶ。
 青年の状態を確認すると、部屋の奥に足を向けた。
「シーツ剥いどけ。可能なら上着もな」
「わかった」
 言われた通りにランサーが動いている間に奥から必要なものを揃えてきたキャスターが戻る。
 包んでいたシーツを広げ、赤の外套とついでに黒のインナーまでを脱がせた弓兵を示して、できたぞと告げれば、そのまま触れていろと指示が飛んだ。
「多少混ざってんな。血か唾液でもやったか」
「ああ。結構ヤバそうだったからな。問題になるか?」
「いいや。方法を変えればいいだけだ」
 キャスターの言葉は疑問よりは確認寄りだ。ランサーの言葉に頷き、それならそっちを利用すると応じる。
「とりあえずその握ってるヤツを渡せ。そしたら先に変換を助ける術式を準備する。その間にもうちっと注いどけ」
 さすがに何をと問う愚は侵さず、気付ず握りしめていた己の髪留めをキャスターに差し出してから青年の露出させた部分への接触面積を増やす。
 どれくらいで足りるかを問えばそれじゃ足りないと返され、一瞬考え込んだ後に寝台の上に乗り上げた。
 自分も肌の露出が多いため問題ないだろうとは思うが、念のため上半身の礼装を魔力に還す。弓兵を抱き起こしながら体を滑り込ませ、己の腹から胸に相手の背が密着するように調整した。
 触れている場所が熱い。
 肩に乗せた頭がことりと傾いで、半開きの唇はどこか苦しげな息を紡ぐ。乱れた髪がやわく頬を擽った。
 ずり落ちないようにと腕の下を通した手を腹のあたりで組んでからどうだとキャスターを見れば、とりあえずこちらの準備が終わるまではそうしていろと返される。
 袋から取り出したいくつかの石を周囲に散らし、正面に陣取ったキャスターが杖を取り出した。なんとなく己の役割を理解できたランサーも目を伏せて魔力の流れを辿る。
 感じるのは空っぽの器に触れた場所から染み込んでいく己の魔力、その行く先。
 ゆるゆると落ちたそれらはからっぽの内側で解け、混ざり、徐々に相手の色に染まっていく。
 ランサーが意識を失っている青年の代わりに変換を明確にイメージする役とされたのは、欠片ほどでも先に魔力を注いでしまったからに他ならない。
 ランサーとキャスターのクー・フーリンは基本的には同じものだ。同じものから切り出されて形を成した、扱うものが違う側面。同一人物なのだから当然だが生体認証系は全部意味を成さないし、割り当てられたクラスによる絶対量の差はあれど魔力の質も波長もほぼ同じ。だが、青年の中に注がれた魔力は消化されないまま、ランサーから注がれたものとしての形を保って残っている。
 その指向性こそがキャスターのクー・フーリンが途中で方法を変えるとした原因だった。
 つ、と。杖の先端が青年の胸に触れ、灯った光が消えたのが術式完了の合図。
 静かに息を吐き出しながら目を開けば、杖を消したキャスターの手からは渡したはずの髪留めが消え失せていた。
 何度か瞬きしてからようやく気付く。
 見下ろせば案の定、ごく薄くではあるが青年の心臓のあたりにそれがあるのが見て取れた。
 随分と器用なことをすると内心だけで感想を落とす。
「ま、こんなモンか。多少楽にしていいぜ。意識が無いままの方が効率がいいからしばらくは起きないようにもしてある」
 言葉は一見穏やかだが、ランサーは取り違えなかった。つまりそれは「強制的に眠らせてやったからしばらく起きないし聞かれる心配はない。その間に何があったか全部吐け」ということだ。
 溜息には安堵と億劫さが半分ずつ。
 起きないとはいってもさすがに耳元でする話ではないだろうと体勢を戻し、きちんと寝かせてやれば横合いから枕と上掛けが与えられた。
 どちらも晴れの日の空気のような、たっぷりと日を浴びた布団を思わせる気配に頭を抱えたくなる。
「同じ思考をするんだ。やることなんぞそう変わらんだろうが」
「言うな……今思い知ってるわ」
 怨嗟のように喉奥から声を絞り出すランサーに対し、楽しそうにけらけらと笑ったキャスターは、唐突に真剣な表情に戻って、知られたく無いのなら話次第では乗ってやらんこともないと声を落とす。
 ばれてら。思いっきり表情に出してしまって当然だと返され、諦めた。
 今はただ眠っている青年の表情は苦痛ではない。それを確認してから傍を離れる。
 二人揃って少し離れた部屋の壁際に移動し、ランサーは嫌々ながらも口を開いた。
 余計な言葉を挟むこともなく聞き終えたキャスターの反応は難儀な奴だなとそれだけ。ランサーは気になっていたことを聞くのは今だと直感する。
「魔力変換の術式……あの時のやつもオマエだろ」
「ああ。言っとくが、アイツが決めたから手を貸した。それだけだからな」
 決めたのはエミヤなのだと。念を押すようにかけられた言葉にランサーは視線を浮かせた。
 この位置からでは眠っている青年の表情は窺えない。
「気に食わねぇし、性格の相性って意味では最悪だが、それでも心底戦いたい相手ではあるんだよな」
 思い起こすのは防がれた槍の一撃。同じものを思い浮かべたのだろう。魔術師の目尻も僅かに下がった。
「ああ。だが、現状は召喚システムの都合上叶わない願いだ。シミュレーションでならチャンスはある……とは思わんでもないが、それでもなお霊基の枷が邪魔をする」
 ランサーもキャスターも、戦闘面で頼りにされた結果、すでに枷はすべて外れているが、エミヤは先に食堂を救っていた関係上遅れている。
 必要なことだったとわかっているからこそ、男達は望みを口にしない。元はただの一般人であり、現在もギリギリで踏ん張っているマスターに己の都合でこれ以上の負担を掛けるのは酷だという思いもあった。
「いっそ気が済むまで殴り合ってみればスッキリするかもしれねーのにな」
「なんだぁ、なら素材でも集めにいくか?」
 カルデアでは電気を魔力に変換している都合上あまり余裕はなく、召喚英霊の現界維持だけで精一杯。
 枷を外すための手段は主にレイシフト先で集めた魔力を宿した素材の組み合わせによるものとなっていた。
 必要なものはダ・ヴィンチによって選定され、誰でも閲覧可能な霊基一覧のデータベースとして管理されている。
 弓兵の強化がまだなのは素材が足りないのも一因だと彼らは知っていた。
「ああ、そいつぁいいな。いっそマスターなしでも可能かどうか、相談してみっか」
 たとえ発端が邪なものだとしても、マスターの負担を増やさずに戦力増強の手段が増えるのであれば提案する価値はある。
 全ての枷が外れれば彼の言動は変わるだろうか。
 そんなことを考えても答えは出ないが、少なくとも練度を理由に己を下げることはできなくなるはずであった。
 何より、己だけというのは性に合わない。
 二人は同じ出来事を思い返す。
 先だって修復した特異点では、敵としてヘクトールが存在していた。
 決定的な一撃に対抗する手段を持ちながらもシステムの都合による枷でそれを奪われていた弓兵が、表面的な言葉や表情以上に歯噛みしていたのを知っている。
 彼の宝具がヘラクレスとアステリオスを貫いた時、味方ごとという非難に場が浮き足立つ中で、二人のクー・フーリンとエミヤだけは、貫かれて動けないはずの相手への警戒を緩めなかった。
 それは、どこかの聖杯戦争で得た記録によるもの。ヘラクレスの宝具がなんであるか、彼らは知っていた。
「私にもう少し力があれば、もう一歩彼に対抗する手段もあったのだが……すまないマスター」
 極端に感情を殺して紡がれた声。マスターの少年はその対抗策の中身を知らないため言葉通りに受け取っただろうが、ランサーとキャスターは違った。
 あの時同行していたメンバーの中で、唯一彼らだけが弓兵の語った力を具体的なものとして思い浮かべられる。
 対軍宝具である突き穿つ死翔の槍を防いだのだ。ましてや相手があのヘクトールなのであれば相性は最高だっただろう。
「あそこで奴が守れていたら変わったと思うか」
「いいや。結果は変わらんだろう。だが、今からでも枷が消えれば少なくともオレに対する妙な線引きは薄れる気がするってだけだ」
 よくわからないが、本気で戦いたいと定めた相手にそんな態度を取られるのは我慢がならないとするランサーに、キャスターは忍び笑った。
 結局のところ。エミヤの枷を外すことは、彼ら二人が話し合うための前提として必要なことなのだ。
 ならば、そこを埋めない限り話は平行線のままだろう。
 例の事件以来、槍を持つクー・フーリンとの関係性を自ら定めてしまったエミヤは、どんな言葉を告げても信じない。ランサーには拘るくせにキャスターとは普通に会話できているのは、頭ではわかっていても別の霊基として同時に確立しているが故に、完全に同一人物だという意識が薄いからだと知れる。
 そしてそれが、キャスターだろうがランサーだろうが同じはずなのにと思う彼の苛つきの原因になっていることに気付かない。
 くつりと笑って寄りかかっていた壁から背を離す。
「そういうことなら今回は乗せられてやるよ。オレがなんとかしたことにすりゃいいんだろ」
 どうせ起きた頃にはもう変換されて元の魔力はわからなくなっているはずだと付け足す。
「頼む」
「ああ。だからこちらの心配はせんでいい。その代わりと言っちゃなんだが、さっきの提案してこいよ。うまくいけば色々メリットが大きいからな」
 その上で、弓兵の枷が外れるまではしばらく必要以上に接触をするなと釘を刺す。
 こんなことを何回も起こせば誤魔化しきれなくなるのだから当然と言えるだろう。すぐに納得したランサーが頷いてその場は解散となった。
 未だ安らかに眠ったままのエミヤを残して槍兵が部屋を後にする。
 それを見送った青の魔術師は部屋全体の明かりを落として小さな明かりだけを手元に残し、寝台のすぐ傍の床に腰を下ろす。
 ゆったりと読みかけの本の頁を繰りながら、そのまま青年の覚醒を待った。

2019/12/15 【FGO】