命繋ぐ円環

 人理修復の旅はようやく折り返しを過ぎた。
 第四の特異点はロンドン。都市の特性からか、それとも持ち込まれた聖杯の性質故か。無法者の大海であった第三特異点とは打って変わってどんよりと霧に包まれた灰色の街には錬金術の匂いが強く、気が滅入るようなそれを駆け抜けた彼らを待っていたのは敵の首魁。
 魔術王ソロモンと名乗ったそれが本物かなど現時点ではわかるはずもないが、自分達が立ち向かわなければならない相手が明確に存在する事実を胸に刻み込んだ少年少女は打ちのめされてはいても諦めてはいない。
 なにはともあれ、第四特異点の修正は為された。
 管制室は即座に次の特異点の座標安定とデータ収集に追われ、少年達は一度休んだ後で次の特異点に赴けるまでは確実に地盤固め、と言わんばかりに日々忙しく素材集めや訓練に明け暮れている。
 途中、謎のマンションにサーヴァントが引き寄せられて閉じ込められるなど妙な事件に巻き込まれたりもしたがそれはそれ。今は解決したからよしとしようとされて、カルデアの日常は一見平和である。
 そこに、ひとつの噂が流れた。
 時間も場所も不規則だが、唐突に物語の世界に紛れ込むという。
 現在のところは特に目立った物的被害は無く、ただ悪い夢を見たようなもの程度の感想しか無い。
 被害に遭うのはサーヴァント。
 彼らは夢を見ない。そんな彼らが揃って夢を見たのだと報告する。
 なればそれは夢ではないことは明白だが、歩きながらふと気を抜いた瞬間や何か考え事をした瞬間に全く違う場所が視界に映るため、夢のようなものという感覚になるらしい。マスターの夢に混戦する時と似ているが、それよりももっと地続きで、自分自身が夢を見ている感覚のほうが近いという話であった。
 マスターである少年に対して最初に危惧の声を上げたのは、セイバークラスのジル・ド・レェ。ほぼ同時にフランさんから先輩にですと。マシュ経由で同じような警告が上がった。
 調査に乗り出したマスターが複数のサーヴァントに確認したところ、最初は懐かしい場所を見たというような他愛もないものが多く、日を経るにつれ長く鮮明になっていく傾向が見て取れた。
 一度ならず二度、三度と遭遇した者もおり、順を追って辿ってみれば、己の繁栄と没落や栄光と死のような相反するものを同時に見せられるようだという報告もある。
 内容は時を経るにつれ、不穏さが増しているようだ。
 把握できた限り全員が違うものを目にしており、共通していることは生前に関係のある場所や事柄だった、ということのみ。
「あー……もうわっかんない」
 概要を説明していてこんがらがったのか、タブレット端末やいくつもの紙類に突っ伏して少年が悲鳴を上げる。
 くしゃりと抗議の声を上げたそれらを横目に頬を膨らませた彼は、ぷす、とどこか間抜けな息を吐き出した。
「……マスター。わからないのはわかったが、そんな状態では私に時間があるなら手伝ってくれと言った意味がないだろう」
「うー……わかっているんだけど、なんかこう、気になることが多いというか……」
 なんとなくあれもこれもやらなければならない気がするのだと。本人でもよくわからないらしいそれは直感というべきだろう。
 驚くべきことに、この少年はここぞという時に運を掴むことに関して長けている。ならば野暮なことは言うまいと口を噤んだ青年は己の手に視線を落とした。
 つい先刻。厨房の交代を済ませて出てきたところを半ば拉致同然にダ・ヴィンチの工房に連れ込まれ、素材が揃ったからと一気に限界まで強化された。
 魔力は足りないようでもあり、十分なようでもある。
 すべての制限を解除された霊基にまだ少し慣れない。
 本来の認識とのズレは少なくなったと感じるが、制限付きである今までの感覚を引き摺っているような、そんな居心地悪さも同時に存在していた。
「エミヤ、どこか不調?」
「いいや。不調ではなく慣れないなと思っただけだよ。私はどちらかというとただの人の感覚に近いせいだろうさ」
 人とは現状に慣れることで場を切り抜けていくものだろう。そんな風に告げて、今感じているものが悲観的なことではないのだと語る。
 なぜか神霊やら神の子やらがごろごろ召喚されるカルデアで、その感覚を説明するのは難しい。
 生前にすでに神秘が絶えていた現代寄りの英霊。例えばアンデルセンやマタ・ハリなどなら同じ感覚を持つかもしれないと付け足せば、思うところがあったのか、マスターである少年はぽんと手を叩いた。
「俺がレイシフトした時、自動起動した礼装の補助能力に戸惑うのと似たような感じ?」
「言いえて妙だな。確かに似たようなものかもしれない」
 なら、マシュはもっと戸惑ったかな。ぽつりと落ちた呟きに返す言葉はなく、沈黙だけが場を満たす。
 深く息を吐いてのろのろと顔を上げた少年の目に、席を立つところだった弓兵の姿が映った。
 どこに行くのかと不安そうな問いに笑みを返す。
「煮詰まっているようだからお茶でも淹れて、なにか甘いものでも用意しよう」
 ひっきりなしに人もサーヴァントも出入りするため、少年の部屋にはお茶のセットと軽いお茶受けが常備されているが、あいにくと現在地は休憩スペースの一角だ。弓兵は食堂と自分の部屋。どちらが近いだろうと考える。
「ありがとうエミヤ。俺、がんばるね」
「ああ。戻ってくるまでに一つ片付いている、くらいの集中力を見せてくれ」
「うっ……それは……」
「さすがに冗談だよ。では少し待っていてくれ」
 休憩スペースから出る寸前に時間を確認すれば厨房は慌ただしい頃か。ならばと部屋に向かって歩き出した。
 部屋に置いてある菓子は多くが試作品だ。作成自体は手と場所が空いている時に行うが、数を作らないため奪い合いトラブル防止のために食堂には置いておけず、その場で誰かに食べてもらうか日持ちのするものならいくつか部屋に持って帰って置いておくことがある。
 そのうちの一つを出そうかと考えながら少しだけ早足で廊下を進む。
 ふ、と。水の匂いが鼻腔に触れた。
「水?」
 どこか水漏れでもしているのだろうかと訝しむも、振り向いた瞬間にそこにあったのは確かに川だった。
「な……ッ」
 驚きのあまり硬直した青年の傍で、さわと枝を揺らした木が笑う。それに合わせ、どこからか金属の打ち合う音が響いたのに気付いてエミヤは耳を澄ませた。
 先ほど話をしていただけに、これが噂の現象なのだろうということはすぐに判別がつく。だが、だからこそ不思議に思った。
 己の生前はもはや摩耗し思い出せることも少ないが、少なくともこんな緑と水に彩られたものではなかったはずだという認識だけはある。
 草に濡れた地面を踏んで進めば音が近付き、青年は川岸から少し離れた場所で足を止めた。
 男が二人、川の浅瀬で戦っている。
 幾度も槍を合わせ、それで決着が着かないと判断するや剣を抜く。全身血にまみれながらお互い一歩も引かず、その激しさから周りの精霊が騒いで水を巻き上げ、空気は悲鳴を上げて引き裂かれた。
 もはや青年は一歩も動けず、ただ見守るのみ。
 どれだけの時間が経ったのか。激しい争いの末に男は特別な槍を手にした。青年にとってあまりにも見慣れた呪いの朱槍。
 ああ。勝手に零れ落ちたのは声だったか溜息だったか。
 青年の視界に映った槍の先端は、盾を避けるように突き出され、易々と装備を砕き、明らかに心臓に達したのだとわかるほど深く食い込んだ。
 思わず己の心臓の位置に手が動いてしまったのに気付いて口端を上げる。
 自らの手で刺し殺した相手を抱えて慟哭する男の姿を目にしたまま、言葉は勝手に唇から滑り出た。
「……そんなに未練があったのか、オレは」
 ざわと樹が鳴き、足元は流れを変えた水に濡れる。視線を落とした先で、川の流れだったはずのものはゆるやかに形を変え、次第に寄せては返す波の動きとなった。
 はっとして顔を上げる。
 予想に違わず、周囲の景色は一変していた。
 砂浜と岩場が続く波打ち際。
 ばしゃり。すぐ傍で水音が上がって直後に剣を打ち合わせる激しい音が連鎖する。
 先に見た浅瀬の光景から予想はできていた。緩慢な動きで視線を巡らせる青年の視界に飛び込んできたのはくるくると踊るように立ち位置を変える二つの影。
 片方は少年。身軽そうに見えて力は強く、体格で勝る相手に対し一歩も引かずに器用に剣を扱ってみせる。
 片方は先ほども見た男。流れる髪の一房を奪われて獰猛に笑い、全力で戦えることの喜びを隠しもしない。
 彼らはすぐ傍にいるはずの青年に気付かない。だからこそ青年側も彼らが幻なのかそれとも自分が幻なのか判別を付けかねていた。
 彼らが何者なのか、教えられなくても知っている。
 同時に手出しができないことも感じ取っていた。
 波と剣戟の音。それに混ざる呼吸を聴きながら青年はただじっと行く末を見守るのみ。
 二人の争いの場は岩場、そして水の中へ。
 途中から剣を捨てて素手で組み合っていた二人は岩場から水中に転がり落ち、少年だけが水面から顔を覗かせる。
 男は胸の上に乗られ、起き上がることができずに水中で踠いていた。
 鋭く何かが空気を裂く音が響く。
 この後の展開を思い返していた青年の眼前に突き刺さったのはまたもや見慣れた槍の姿だった。
 一刺一殺の呪いの槍。
 後悔はなく、あれは最低条件だったと言いながら、男が自らの手で少年を殺すしかなかったことを悲しんでいたのを知っていた。どこからか魔が忍び寄ったか、青年はそれに手を伸ばす。
「な……」
 するり。まるで最初からそう定められていたとでも言うように、朱槍は触れたと思った青年の手から崩れて水に落ち、そのまま一筋の魚影となって男の元へと泳いでいく。
 その後は自分が知っている伝承の通りだ。男は少年を朱槍で貫き、血と海水が入り混じった水滴を滴らせながら、そっと小さな体を抱えて浜に上がる。
 英雄と伝えられる男は自らの手で兄弟の契りを交わした親友と息子を殺した。
 この光景が誰の生前なのか、もはや疑う余地はない。
 多くの恋と戦いに彩られたアルスターの猛犬。
 だとすれば、槍は手に取れなくてよかったのだろう。彼を彼たらしめている要素を摘みたいとは思わず、先ほどの行動は魔が差したとしか思えない。
 ゆるゆると己の足元まで流れてきた血の色に目を落として青年は考える。確かに物語の世界ではあった。現代には伝説や書物で残された話。
 指を触れさせれば己の体はここにあると感じられる。
 幻のように不安定なくせに、確かに水の匂いを、風を感じる。足先を濡らす感触もある。だが、小さな棘のような違和感が消えない。
 ぱしゃん。
 ふと思い付いたことを確かめようと一歩を踏み出した瞬間、再び辺りの景色は一変した。
 血と怒号舞い散る戦場。足先に触れたのは蹂躙された後の屍の山だ。
 貫かれ、斬られ、または轢かれ、潰されたそれらが積み上がるさまは、あまりにも凄惨な光景ではあるが、同時に見慣れたものでもあった。仮に違いがあるとしたら己が手を下していないとわかる程度のことだろう。
 土煙と血煙が視界の大部分を覆う中、不規則に落ちる小さな影は頭上を旋回する大カラス。
 縦横無尽に暴れまわる灰と黒に引かれた戦車の上に見慣れた姿を見つける。
 ああ、やはり。青年は髪を振り乱し、槍を振りかぶる男の姿を見て一つ疑問の答えを得た。
 いま目にしているこれが世間一般の伝承の通りならば彼は長髪であるはずだ。絵にしても、よく黒または金の長髪として描かれる。ケルト人の特徴を調べれば男女ともに長髪で、凝った髪型をしていると記述されていることが多いことも関係があるだろう。
 それならば。
 ぐるりと周りを見回す。
 概ね伝承の記述に従っているであろう髪型、服装の者が多い中で、明らかに彼だけが異彩を放っていた。
 いいや、異彩を放っている者がもう一人。自らを詩人と称したそれは、高らかに戦車上の英雄に槍を乞う。
 詩人への贈り物を拒む行為を恥とする男は欲しければ受け取れと槍を投げつけた。その瞬間に詩人の姿はぶれて別の者となり、飛来した槍に貫かれて息絶える。
「おっと、実に危険ですな。しかも意図せず観客が一人、舞台上に迷い込む事態」
 さて、これは困った。
 言葉とは裏腹に全く困っていない声音でくつくつと笑う男が背後に立つ。わかっていても青年は振り向くことができなかった。
 時間が止まることはない。
 詩人を貫いた槍は別の者に拾われて投げ返され、御者の男を貫いた。いや。青年には御者の男が持ち主に返すために自らの身を使って槍を受け止めたかに見えた。
 真実などもはや誰にもわからない。
 本当の兄弟のごとく長年を過ごした男に別れを告げ、槍を取り戻した男は自ら馬を引いて戦場を駆ける。
「これは貴様の仕業か。劇作家」
 自分で思っていたよりもよほど地を這うような低い声が絞り出される。
 怖い怖いと戯けた影は否定することはないが答えることもなく、ふらりと青年を追い越した。
 詩人が槍をよこせと声を上げる。
 彼の故郷を貶めるぞと。どこか嘲笑さえ滲む要求に、またも男は槍を投げて詩人を貫いた。
「いやあ、吾輩としましても予想外の事態でして。ですがせっかく彼に縁のある人物の飛び入り参加。ここで幕引きなどとすれば消化不良で寝込むは必至というものです」
「何を言っている。私は生前の彼に縁などない」
「いいえ、いいえ! 縁とは数奇なもの。時間の概念を超越した英霊なれば、それがどこかでまた結ばれることもありましょう」
 劇作家は楽しそうに声を上げる。
 英霊同士の縁、などというどうあっても先が見えないもの手繰る存在は興味深いと告げられても、明確に意識したことなどないと答えるしかない。
 実際、クー・フーリンとエミヤは一千年の単位で生きていた時代が違う存在だが、いくつもの聖杯戦争で顔を合わせるのは、英霊になってからの縁だ。
「何を知っている」
「噂で語られている以上のことは何も。それでも、小さな小さな情報から想像することはできますとも。なにせ本業ですので」
 槍が投げ返されて今度は灰色の馬が傷を負う。戦車上の男の表情が歪んだ。短髪を振り乱し、綱を断つ。
 くるり。小さな影がどこか憐れむように馬と男の上に落ちかかった。
「アルスターの猛犬……彼だけは本物だな」
「むしろ貴殿がこの場に居ることのほうがイレギュラーなのですが。いやはやしかし、つまりはこれも縁ということでしょう」
 直接的な回答はないが、否定もない。
 視線を合わせないまま、劇作家と赤の弓兵は同じように戦車上の男を眺め遣った。
 三度。詩人が槍をよこせと声を上げる。
 愛する者達への末代までの恥辱を語るとする詩人にもはや逃れられないと知っている男はこれが好意だと唇を噛み締め、槍を投げ放った。
 すでに何度も血に塗れた槍だが、男が投げるその瞬間だけは、風の力を借りて表面のそれすべてを吹き飛ばすかのように元の姿を見せる。
 だが、彼が使っているのは見慣れた朱槍ではない。最後の戦いの時、彼はそれを持参していなかった。
「影の国の女王スカサハより賜りし魔槍ゲイ・ボルク。それが今、彼の手元にあればこの戦は流れが変わったでありましょうか」
 伝承によれば、彼は生涯で二回しかそれを使わず、そのどちらでも親しい者の命を奪ったことで封印したという。だのに、それが象徴として宝具となっているのはいっそ皮肉ではないのか。
 滑らかに動く劇作家の舌を縫い付けてやりたい気持ちになりながら、青年はただ静かに、男が投げ返された大槍で貫かれるのを見る。
 その光景は彼を伝える伝承と相違ないように見えた。
「さて、では参りましょうか。飛び入り参加の観客どの」
「は……? ちょっと待て。一体何をするつもりだ」
 劇作家が紡ぐ舞台上で、すべてを統括する彼に逆らうことはできない。付いて来いと言われれば足は勝手に動き、何人もの軍勢が遠巻きにする中、水辺の大岩に己の身を括り付けた英雄と向き合う。
 まるで子供を黙らせるような仕草で指を唇の前で立てた劇作家は一歩、男の傍へと踏み込んで両手を広げた。
 なんだ、まだなにかあるのか。もう贈れるものなどなにもないぞ。
 死んだら亡骸を持って行くことを許すとは言ったが、自分はまだ死んでいないと、持ち上がった視線は予想よりも鋭く、死ぬまで首を渡すつもりはないと主張する。
 未だ上空で旋回するカラスが下りてくる気配はない。
 おお怖いと嘯く劇作家は、手にしていた本をぱたりと閉じてもう一歩、男の前に進み出た。
「我は求めん、英雄の槍を!」
 発声の違いから役として発した言葉なのだとわかるが、瀕死の体で岩に縋る男も、劇作家に無理矢理連れられて来られた青年も、ただ疑問符を浮かべるのみだ。
 英雄クー・フーリンが最後の戦いで詩人に槍を求められたのは三度。それは予言による、その日王が死ぬ回数の分だ。それらはすでに果たされている。
 だからこれは、あり得ないはずの四度目の声。
 何を、と。強がって薄く引き上げられた唇が切れ切れに言葉を紡ぐ。
「槍などない。見ればわかるだろう」
「いいえ。貴方は持っていますとも。その霊基に紐づいた武装。ひとたび放てば確実に敵の命を貫く呪いの魔槍」
「あれは……もう……」
 言葉を紡ぐ度に口元が血で濡れる。呼吸さえ辛そうな中でも、男は二度と使わないと封じてしまったのだと理由を告げた。
「ふうむ。ならばそれはなんだというのです?」
 劇作家が示したのは男のすぐ傍ら。彼の身から流れた血が注ぐ水の煌めきの中にするりと泳いだ赤の魚影。つい先程、青年が波打ち際で目にしたもの。
 ゲイ・ボルク。
 この空間で声を出す権利は劇作家によってすでに奪われており、知っている宝具の真名も音にはならない。
 コオンと高く鳴いたような音が響く。それ以上近寄るなというように槍は英雄と劇作家の間に姿を現した。
 感激の声が劇作家から上がるが、聞こえているはずのそれは脳に届く前に霧散していく。
 目を見開いた男の腕が槍に伸びる。
「さあ、アルスターの英雄殿。それこそまさに貴殿の牙であり、爪である。それを手放して頂きたい」
「そんな理由はない」
 即時両断する声に迷いはなかった。
「ふむ。それは困りました。実に困りましたなあ……」
 困ったと言いながらも声は弾んでいる。
「それでは吾輩、錬鉄の英霊の無様を歌うとしましょう。このシェイクスピアの名にかけて、永劫に」
「なん、だと……そんな、ものは……」
「居ないとおっしゃるので? さてさて、よく思い出していただきたい」
 それとも悲劇の英雄役に引き摺られすぎてもう見えていませんかな。
 ついと劇作家の指が上がる。
 示すは立ち尽くしたままの赤の弓兵。つられたように顔を上げた男の目が細められる。
「ア、イツは……」
 僅かに揺れた動揺を見逃さず、劇作家は声を響かせる。
 届かぬ星を追う分不相応の願いの果てに人の道を踏み外した。彼は英霊とは名ばかりの世界に己が身を売り渡した殺戮者である、と。
 どこで調べたのかは不明だが彼の言葉に否定する要素はなく、ただの殺戮者だと断じられた弓兵は僅かに目を伏せて口元を歪めたにとどまった。
 もとより発言は許可されていないし、自分のために彼が己の宝具を手放すことなどあり得ない。英雄としての象徴を求めるのに己を秤にかけるのが間違いだと、呆れた溜息だけを落とした。
「思い出しましたかな? では選択を!」
 詩人に扮した劇作家は高らかに告げる。続けて自らの戯曲を引用しながら。
「……ふざけるな。キサマはあれを無様と嗤うか。いいだろう、その槍くれてやる。オレはあの生き様を嗤わんし、オレの選択のためにアイツが戦士以外のものへと貶められることは許さない」
 絞り出す声が怒りに染まる。ざわりと髪が逆立ち、切り刻まれた周囲の空気も自らを凍りつかせた。
 怒りで思考を取り戻したためか、らんと輝く瞳はいつも通りの焔が揺れて眼前の男を射抜く。
 視線だけで人が殺せるのならば今のは致命傷だったに違いない。その場で大仰に回転し、よろける仕草をしながら劇作家は笑う。
 やりとりを見ながら弓兵は固まってしまっていた。
 今この男はなんと言った。
「……ッ!」
 瞬間的にいくつもの罵倒語が腹の底から溢れたが、一言も音になることなく消え去る。
 それらが音になっていたならこの場を壊せたのかもしれない。先に声を封じられた意味を理解するも、それで怒りが緩和されるわけではなかった。
 ぴしり。空間のどこかでひび割れたような音が上がる。
 怒りが収まらないのは瀕死のはずの男も同じらしい。自らを拘束した腰帯を掴んでぎちぎちと引く腕に力が戻っていくようだった。
「終幕の時です。さあ、槍を!」
 ひらりと手を翻し、立ち位置を示す劇作家の指示に体は勝手に従う。
 内心でいくらやめてくれと喚いても、勝手に伸びた腕はしかと槍をとり、地面から引き抜いた。
 所有者から許された槍は溶け消えることもなく青年の手に収まり、一度穂先を振るだけで汚れを払い落としたそれは本来の輝きを取り戻す。
 穿てとの圧力が伝わる。
 呪いの槍が求めるのは心臓。上げられた視線は岩に凭れたままこちらを見返す男を捉えた。
 二人の間を大カラスの影が横切る。
 『ランサー』
 唇が形作るは真名ではなく、呼び慣れたクラス名。
 目を伏せて呼吸をひとつ。
 十分だ。手酷く裏切ったに等しい自分でもまだ戦士だと言ってくれるのなら。これが穿つものは決まっていた。
「待て、アーチャー!」
 対応する呼称が耳に届く。だが、もう決めてしまった刃の行く先は覆らなかった。
 ぱきん。何かが割れる音が響いて。肺から逆流した血液が口元を染める。
 槍から手を離した青年の視界は、倒れていく途中で闇に閉ざされた。

  ***

 崩れ、溶け消える世界の破片の中に青の槍兵が立つ。
 腕の中には意識を失った赤の弓兵。
 先を見極めないまま意識を閉じた彼は気付かなかっただろうが、完全に心臓を貫いたはずの穂先は、現実には彼の体をすり抜けた。
 精巧な幻は現実と変わらない。そんな中でなら人は痛みで死ぬだろうか。答えなど出るはずもないが、少なくとも今目の前にあったものは外傷ではなく、心的要因で人を殺すことができる代物であった。
 瀕死だったはずの男の身に傷はなく、それは腕の中の青年も同じ。槍は確かに貫いたはずの青年の体から引き抜かれることもなく、ごく自然に男の手元に戻っている。持ち上げられたそれと同じくらい鋭い視線がその場に居るもう一人の男に合わせられた。
 ぱちぱちぱち。場違いな拍手の音が響く。
「予定外の登場人物のために当初のものとは違った結末となりましたが、舞台とは生き物。これもまた良し、ということでしょう」
 実にいいものを見せてもらったと頷いて、劇作家は胸の高さで手を伸ばす。
 あたりに散っていた世界の欠片は紙片となり、それらは徐々に収束して、彼の手元で一冊の本を形作った。
 同時に歪められていた認識は正常に戻り、現在地をカルデアの廊下と把握する。
「さてさて、再演の予定もなし。こちらは貴殿に進呈したします」
「いらん」
「そう言わずに。状況を説明するのには便利なアイテムだと思いますが?」
 ぱらりと開いて見せた劇作家が選んだ頁は意図してのことか。槍兵が把握できた一文は、槍と己を秤にかけることなど悪手だと断じる青年の姿だった。
「テメェ……」
「全ては舞台上の幻。ですが、それは時に見えない真実を炙り出すこともある」
 人の心は見えず、それゆえにすれ違う。別の方向から見れば違う光景が見られるものだ、と。劇作家は本を無理矢理槍兵に押し付けて両手を広げた。
 ひらり、ひらり。広げられた両手が翻る。
「上手で鑑賞したのならば次は下手で。逆もまた然り。時には裏技的に舞台裏から見るというのも悪くはないでしょう。もちろん作り手には疎まれますから覚悟の上で実行なされますよう、と忠告させていただきますが」
 それきり。睨みあった両者の間に沈黙が落ちた。
 どちらももう告げる言葉はないと口を噤んだまま。ただ時間だけが消費されていく。
 一歩でも動けば朱槍は容赦なく劇作家を貫く……そんな関係に変化をもたらしたのは外部からの干渉であった。
 バタバタと廊下を駆ける音に続いてあそこですと聞き覚えのある声が上がる。
 視線を逸らさないまま、劇作家は唇を歪めた。一番見つかりたくない人物の登場だと囁くような声が来訪者の正体を告げる。
「ご無事ですか。クー・フーリン」
「エミヤ! ってなんで気絶してるの!?」
「これはこれは我らがマスター。それに聖女どの」
 劇作家に突きつけられる槍が二本に増える。もっとも片方は厳密には槍ではなく旗だが。
「わわわわ、ダメ、ダメだからジャンヌ。落ち着いて!」
「いいえ。彼はここで消滅させておくべきです。これ以上犠牲者が出る前に」
 即座に強行手段に出ようとするジャンヌ・ダルクに慌てたマスターが意図せず場を搔き回す。一気に茶番の様相が濃くなった廊下に、盛大な溜息が落ちた。
 カツン。一歩を踏み出したランサーの踵が廊下を打ち、呆れたような表情で場を見渡す。
「なあ、聖女様。アンタは今起きてたことを把握してんのか?」
「……そうですね。展開された中身はわかりませんが、噂の元凶がこの性悪な劇作家だというのは疑いようがないですし、彼が書くものである以上ろくなものではないのは明白です」
 有無を言わさずすっぱりと言い切る聖女の目は一ミリも笑っていない。
「何をおっしゃいますか。今回に関しては吾輩、ただこの場に召喚されている英雄達の物語を読んでいただけですので、そう糾弾されるのは筋違いかと」
 なにせ数多くの英雄を直接知ることができる機会だ。聖杯戦争と違い真名は伏せられておらず、おまけにカルデアの資料には一般的な伝記や小説、魔術的な諸々までよりどりみどりで収められている。片端から読み漁り、次の執筆ネタを探す劇作家は心外とばかりに肩を竦めた。
「まあその、なんですな。その過程で多少想像力が溢れてしまったのは否定しませんが……物理的な被害などは出していないはずですので問題はないでしょう」
 そもそも自分の実力では数多の英雄を傷つけることなどできず、能力も低い。キャスタークラスのサーヴァントとは名ばかりのただの作家だと嘯く。
「そんなもので誤魔化されるものですか。もともと貴方の宝具は精神に作用するもの。本当に何もなかったのなら彼が貴方に武器を向けているのは説明が付かないでしょう」
「これは手厳しい」
 ジャンヌの指摘に対し、もはや言い訳をすることもなく口を噤んだ劇作家は、半ば認めたようなものだ。
 二人の様子を交互に見ていた少年も、ここまでくれば強硬派の聖女の味方となってじとりと劇作家を睨んだ。
 具体的には何をしたのだとマスターに詰め寄られて、彼のサーヴァントたる身では素直に告白するしかない。
 予想になるがと前置きした劇作家は、創作に夢中になる過程で宝具の効果が意図せず発現してしまったのだろうと己の見解を述べた。
「シェイクスピアの宝具って……」
「強制的に己の舞台を上演させ、対象を混乱させるものとされていますが、あれはそんなやさしいものではありませんよ、マスター」
 本人の気質も多大な影響を及ぼしているだろう。データ上では掴み切れないその本質は、対象の精神を折り、奈落の底まで叩き落す対心宝具。
 ぐるりと振り返った少年が険しい表情を崩さない青の槍兵を見遣る。
「……確かに散々ぶっ刺されて切り刻まれたが、こちらに戻ってきたときには傷なんぞ欠片も残っちゃいなかった。が、追想したいかと問われれば否だ」
「それはエミヤも同じ?」
「さてな……なにせオレがコイツに気付いた時には、殆ど瀕死で意識も朦朧としてたからな」
 唯一わかることはこの槍を自ら突き立てて気を失ったことだけだと続けた。
 自分が何を言っても信用はゼロだと判断しているからなのか、劇作家は口を挟まず沈黙を守っている。
「突き立てたって……でも傷は無いみたいだし。今のところ気絶してるだけなんだよね?」
「オレの傷だって残ってねぇから同じだろう。まあ、少なくとも息はしている」
「マスター、安心してはいけません。精神に傷を負っていることも考えられます」
 ならばと安心しかけた少年に掛けられた硬いジャンヌの声は、脅したいわけではないのだとしながらも最悪の事態を捨てきれずにいるといった葛藤が滲んでいた。
「あー……信用されないのは承知の上で、ひとつよろしいですかな?」
「ああ、うん。どうぞ」
 促したのはマスターの少年。
 ジャンヌとランサーのクー・フーリンはまだ武器を下ろす気配すらない。
「いやあ……そこの弓兵殿に関しては全く資料がなく、正体不明でしてな。むしろ直接本人より話を聞きたいと思っているところなのです」
「マスター」
「うん。とりあえず殺さない程度に、峰打ちで」
「承知しました」
 ちょっと待ってくれと言わんばかりの表情で後ずさる劇作家に対して振るわれる聖女の旗は容赦なく、ただでさえ非力な男は逃げようとして失敗し、旗に絡め取られて引き寄せられた上に、華麗なサマーソルトを食らって冷たい廊下と口付けすることになった。
 劇作家の言葉は、おそらくはエミヤに対して彼の宝具はほとんど効果がないと言いたかったのだろう。
 サーヴァントとしてのシェイクスピアの強みは、世界四大悲劇を生み出したとも言われる知名度に裏打ちされる、自らの脚本を強制する能力だ。
 当然、相手の弱点を突くためにはまずその人物を深く知らねばならず、真名が秘匿されないカルデアでは関連する文献を探しやすい。
 今後召喚される英雄次第ではどうかわからないが、今の所現界している中で言えば、どこにも文献の類が見つけられないのがアーチャー・エミヤという人物であった。
 一人納得できたランサーはようやく槍を下ろす。
「あー……やっちまった後でなんだが。確かにコイツに関しちゃ正体不明ってどこだけは信用してもいいだろうよ」
「そうなの?」
「ああ。英霊の座ってのは時間の概念が無いからな。登録さえされてしまえば過去だろうが未来だろうが誕生した時間には左右されない。だが、世界に流れる時間そのものは違う。そうさな、坊主もコイツが現代の英霊だってのは聞いてるだろ」
 こくり。ランサーの言葉に素直に頷いた少年はまだ彼の腕に抱えられたままのエミヤを見遣る。
「詳しいことは本人から聞けと思うが、もう少し突っ込んで言えば未来の英霊なんだ、コイツは。つまり……」
「カルデアに資料なんか存在しない?」
「そういうこった」
 なるほど、と。頷いたのは少年と、伸びた劇作家を見下ろす聖女が同時。
「貴方がそう言うのでしたら彼に関しては心配なさそうですが……貴方自身は大丈夫なのですか? 彼の宝具をまともに受けたのでは?」
「あー……まあ、それなりにキツかったが、最後の最後でコイツにぶん殴られて正気に戻ったからな。問題ねぇよ」
 そうですか。笑顔で胸を撫で下ろす聖女は、サーヴァントになってなおそういう相手がいて良かったと笑う。
「私にも、かつてそういった人物がいました」
 懐かしい面影を追う彼女の瞳には希望と慈愛が滲んでいた。正確には今ここに存在するジャンヌ・ダルクの霊基に紐付くものではない。だが、それを知っていることこそが嬉しいのだと彼女は笑う。
「ああ。まずは礼をしなきゃならんだろうし、聞きたいこともある。連れて行っても構わんか」
「いいよ。どのみち俺じゃエミヤ運べないしね……あ、でも二人ともちゃんと後から診てもらってね?」
「シェイクスピアの処理はこちらでしておきます。まずは彼を休ませてあげてください」
 まだ能力の大部分を制限されているため確信は持てないが、おそらく大丈夫だろうとの見方を示したジャンヌに対し、精神への傷云々はどちらかというとシェイクスピアを逃さないための方便だったかと悟る。
 マスターの少年が首を傾げたのを見て、ランサーは賢明にも気付かなかった振りを決め込んだ。
「ありがとな。ああ、マスター。オレとコイツの分はおまえさんが一発ずつ殴っといてくれや」
「任せておいて。うんっとキツイのをおみまいしておく。ダ・ヴィンチちゃんにも話を通しておくから、エミヤのことよろしくね」
「おう。なんだかんだ助けられちまったからな。こっちのケジメをつけたらちゃんと引っ張っていくさ」
 苦笑しながら槍を消して代わりに片腕で支えていただけの体を担ぎ上げる。
 手荒に劇作家を引き摺って行く聖女様とマスターの少年を横目に見ながら、ランサーはさほど遠くもない己の部屋に足を向けた。

  ***

 ぱら、ぱら、ぱらり、ぱら。
 浮上してきた意識に真っ先に触れたのは一定間隔で紙を繰る音。続けて、晴れの日の穏やかな気配に包まれていることを知る。
 以前にもこんなことがあったと思い出し、自分はまた彼の手を煩わせることをしたのだろうかと覚醒しきれないままに思考を巡らせた。
 気分的な問題の可能性もあるが、口の中に血の味があって気持ちが悪い。
「……すまない、キャスター」
 声は掠れていた。やはり口内がにちゃりとした気がして眉を顰める。瞼が重くて開かない。
 水、と。辛うじて絞り出した声にぱたりと本を閉じる音が応えた。
 気配が離れ、すぐに戻ってくる。
 その間に起き上がろうとして失敗した青年は僅かに体を傾がせただけで諦めて力を抜いた。
 本格的に何があったのかを思い出そうと思考が回り始めるも、原因に辿り着く前にひやりとした手が後頭部に回されるのを感じる。
 無言のまま背に下りた手はもう一度起き上がろうとする青年を助ける役割を果たした。
「飲めるか」
 唇に触れるガラスの感触。グラスの底を押し上げるようにして傾けられ、ひとくち、ふたくち。
 気持ち悪さを洗い流すように含んだ水を喉奥に流し込んで息を吐く。そこで気付いた。
 聞こえた声は確かにクー・フーリンのもの。だが、密着すれば僅かに違う気配に嫌でも気付く。
「目、ひらけねぇのか? あー……ちょっと待ってろ」
 動揺を別の意味にとったらしい声が降って一度横にさせられる。目隠しをするかのように瞼の上に掌が触れて探る魔力を感じた。
「おま、抵抗すんな。みるだけでなんもしねぇよ」
「いや、その……すまない……ランサー」
「謝るようなことじゃねぇだろ」
「そうではなく。先程、間違えてしまって……」
 もごもごと謝罪を繰り返すエミヤだが、ランサーは気にするなと笑い飛ばす。瞼どころか体全体が重く、腕すら上がりそうになかった。正直な所、声を出すのも辛い。
「どうせ前に似たようなことでもあったんだろ。むしろ紛らわしいことして悪かったな」
「それこそ君が謝るようなことでは……ッ!」
 エミヤの言葉が途切れたのは強引に額を合わせられたからだ。生え際を辿る指が耳の後ろに回る。
 とくり。触れた指先は流れを探っているのか、時折場所を変えては止まる動作を繰り返した。
 丁寧な仕草は心地よく、つい流されそうになる。
「別に熱はねぇな。魔力不足ってワケでもなさそうだ。目が開かない他にどっか変なトコはあるか?」
 指先は後頭部から頸裏に移動し、太い筋を滑る。
 途中から礼装の上に乗り上げたそれはやはりあちこちを辿っては特に問題は見つけられないんだがと告げた。
「しゃーねぇ。あのへんた……天才様ならなんかわかんだろ。マスターが話を通しておくってコトだったから今から行って……」
 どうした、と。問われても弓兵側も事情は掴めておらずただ困惑の呻きを上げることくらいしかできない。
 その眉間に刻まれた皺が尋常ではないことを見て取った槍兵は、首を傾げてもう一度何が気になっていると問いを落とした。
「起き上がれないんだ。何かこう……絡みついているようなことはないだろうか」
「絡みついてるったって……待てよ」
 唐突に思いついたらしい男に上掛けを捲られ、気分だけは身を震わせる。
 暑さ寒さはさほど苦にしないサーヴァントの身であっても突然の変化に対しての反射行動というものは存在するのだと他人事のように己の身を分析した。
「やっぱりか。すまん、アーチャー。オレのせいだわ」
「それはどういう……というかそもそもなぜ私は君と一緒に居る」
 私の顔など見たくもないだろうと溜息と共に吐き出した言葉には、かなり怒りのこもったデコピンが返った。
 体が動かない身では患部を押さえることもできず無言で悶絶する。
「そういうのはもういいわ。オレがなんとかできそうだからとりあえず担ぎ込むのは後回しだ。ちと腰を落ち着けて話をしようぜ」
「逃げられない者に対し随分と一方的な話だな。私のほうには話すことなどないのだが」
「ある意味卑怯だとは思っちゃいるが、ここらでちゃんと話をしとかねぇと解ける誤解も解けねぇだろうが」
 誤解などしていないとの主張は即座に却下された。
 よっこいせとオヤジくさい声と共に体をずらされ、まだ体温の移っていないシーツの感触が冷たく触れる。そしてそれを成した本人は、空いた場所に体を滑り込ませて上掛けを引き上げたらしい。するりと絡む腕が背を抱く。
「な、にを……」
「馴染むまで時間がかかるからその間の暇潰しとでも思えばいいさ」
「ちょっと待ってくれ、ランサー。どこをどうすればそんな話になるんだ」
 もはや怠いなどと言っていられない。必死で体を動かそうとして失敗した青年は、最終的には後頭部から背中までをランサーに密着させる形で抱き込まれた。
 触れた場所からじわりと青の魔力が滲む。
「うるせえ。目の前で自殺紛いのことされたこっちの身にもなれや」
「そんな覚えは……いや待て。あれは幻ではなく現実ということなのか?」
「現実も現実だわ。おまえさん、ここのところ流れていた噂は聞いているか? サーヴァントが突然物語の世界に紛れ込む、ってヤツ」
 それはマスターの少年から聞いた話と同じ。
 がっちりと抱き込まれたために頷くことは叶わなかったが気配で察した男は話を先に進めた。
 密着したまま、抑えた声で紡がれるのは槍兵が件の噂を体験することなった経緯。
 切っ掛けはマスターから聞いたこととそう変わらないようで、廊下を歩いていたら突然視界が切り替わり、その手は犬の死体を抱いていたのだと告げる声は苦い。
「君がその名を得るに至った場面ということか」
「そうだろうな。見えた手は今のオレのものだし、あの時抱えきれなかったはずの犬の体はやけに小さく感じた。これが例の噂の件かってのはすぐにわかったんだが、なにせ脱出する方法がわからねぇ」
 魔力を感じるために何らかの力が動いているのはわかるが、場面を経るごとにそれも麻痺して登場人物になりきっていく感じがしたのだと言葉は続く。
「まあ……オレだって伝承として伝わった事柄は把握している。だから間違っちゃいないんだが、見事に胸クソ悪ぃモンばっかり体験させられたな」
 元凶が予定外の人物って言ってたところを見ると、オマエは巻き込まれたかなんかしたんだろう。
 ランサーの見解にはエミヤも頷く。
「それは私も言われたな。飛び入り参加がどう、とか」
 確かにこれは現実なのだと男は告げてくる。
 暇潰しと称して始められた話の中身がいつかのことではなく、単に現状についての説明とすり合わせだと把握した弓兵の体からはいつの間にか力が抜けていた。
「悪かったな。どこから見ていたのかは知らんが、あんまり気持ちいいモンじゃなかっただろ」
「死体は見慣れている。むしろ覗き見をしたに等しい私のほうが謝罪をするべきだろう」
 君と親しい者達が死んでいくのを見た。
 一言に込めた告白は、沈黙の後にそうかと一言だけ。絞り出した苦い声できちんと把握されたのを知る。
「私は君が最後の戦いに臨む場面の中で、劇作家……シェイクスピアと会っている。つまりあれは彼が関わっているということでいいのかね」
「ああ。終わった後に駆けつけてきたマスターと聖女様に聞いた。あれはアイツの宝具だそうだ」
 ジャンヌがマスターとランサーに話したことをそのまま伝えられ、青年は頭を抱える羽目になった。もちろん身動きできない身では頭の中だけでの話になるが。
 訝しむ気配に続いて大丈夫かと心配する声が触れる。問題ないから続けてくれと促せば、疑問を棚上げにしたらしい男は頷いた。
「そんな中でオレはアイツから本を受け取っている。内容はアイツから見たオレの伝承ってトコなんだが……」
 本、と言われてすぐに青年は気付いた。自分が目を覚ました時にしていた紙を繰る音はそれだったのだろう。確かにあの幻の中で見た劇作家も本を持っていたと思い返す。
「それは、四度目がある内容か」
「そうだ」
 あの劇作家に自分がどう見えたかは不明だが、顔を合わせ、存在を認識されたのは最後の場面だけ。ならばその前に関して書かれている可能性は低い。
「あくまでアイツから見たオマエのことではある。が、あの状況でオレが槍を手放すはずがないと思ったのならそこはきっちり訂正しておかにゃならんと思ってな。実際、どうなんだよ」
 問いは軽い調子だったが、真っ直ぐな真剣さが肌を刺した。同じくらい真っ直ぐな視線を想像できた青年は目が開いていなくてよかったと息を吐く。
「その前に一つ聞いてもいいだろうか」
「おう。なんだ」
 言葉にする前に呼吸をひとつ。
「非常時とはいえ、君の意思を無視した性交を迫ることで解決を図った私をまだ戦士と呼ぶのか」
「はあ? なんでそんなもんで認識を変えなきゃならん。オレはオレの不甲斐なさをテメェのせいにして貶めるようなことをするつもりはねぇよ」
 頭上で盛大な溜息。
 抱き込むように回されていた手がゆると胸元を探り、鼓動に触れる。
「あとは、正直なところ強硬手段を取るのなら相手がオマエでよかったと思う。色んなモンが気にくわねぇのは確かなんだが……」
 どんなことをされようが絶対に折れない在り方だけは信頼しているから。ほとんど囁きのような声だったが、抱き込まれ密着した体は振動として音を拾った。
「は……?」
「悪ぃな。単なる言い訳だ。あれくらいで理性吹っ飛ばして使い物にならなくなるとか、情けねぇ」
「いや……ダ・ヴィンチ女史から聞かなかったのか。君以外だったらあの場で気が狂うか消滅していてもおかしくなかったくらいだったと」
 数値でも見たが、明らかに異常値すぎてすでに狂っているのではないかと疑われたほどだ。
 唯一、キャスターのクー・フーリンが否定したことが緊急対策会議を開くことになった経緯である。
「まったく君というやつは……それは確かに放置しろと言われるわけだな」
「いずれちゃんと正気に戻った自信はあるぞ」
「だろうな。元々早期解決を望んだのは我々の都合だ。何より、私がそんな君を見るのに耐えられなかった。それならいっそ今更失うものなどないこの体を使うのはありだと思ったんだ」
 流石に制約が強いままの霊基でも現界が不可能になるほどの損傷を負うことはないとの公算は高かったし、何をされたとしても自分が狂うような未来も見えなかったから大丈夫だと思ったのだと。
 青年は自嘲を込めて薄く笑む。
 聞いている男は無言だった。代わりに少しだけ腕に力が篭る。
 折れないと信じた男は正しい。青年側も、戦士として見られなくなることはないと断言されたことで、色々なことがどうでもよくなってしまった自覚があった。
「戦えるのかと問われたから、てっきりこんな裏切り者とは並んで戦うのも悍ましいと言われているものだと思っていたんだがな……」
「おいこらテメェそんなこと思ってたのかよ。そこはもっと素直に取れよ。暴走してたとはいえ正気に戻った自分がどん引くくらいヒデェ抱き方したんだぞ。さすがに心配もするし、正面から合わせる顔もねぇわ」
 そこまで厚顔じゃないと吠える男に青年は首を傾げる。
「君こそ何を言っている。承知の上で赴いたのだからあれは合意だろう」
「あー……今ので最初から完全に掛け違えてるってのがよくわかったわ」
 男の口から深い溜息が零れた。どこから訂正するべきかと髪を掻き回せば、短いままの髪はぱさと軽い音を上げてシーツの上で踊る。
「あのなあ……そもそもの話だが、合意ってのは、お互いが了承してなきゃ成立しねぇだろう」
「む……」
 そういう意味では動けないのをいいことに無理矢理ベッドに引き摺り込んでいるこの状況も似たようなものだがと笑う。そういう意図があるのかとの無言の問いに、今のところは考えていないと返した男は、それでも抵抗するようなら力尽くで黙らせようかと思ってはいたと浮かせかけた手を引いた。
「おまえさん、オレと視線を合わせるのも会話するのも避けてただろう。それでオレは流石にあんなことをされた相手の顔は見たくもないんだろうと判断したんだが、今の話からするとお互い似たようなことを思っていたってことでいいのか」
 そういえば一度話し合いをしようとして失敗した時も、もう用などないはずだとか近付かないからそれでいいだろうとか言っていた。ようやくそれらの言葉に得心がいったと男は一人頷く。
「んじゃ、とりあえずあの時は言えなかったから今言っとくわ。第四特異点の途中、オレがとってきた魚で作ってくれた料理は美味かった。正直な所、あの時はおまえさんが作ってくれるのを期待していたからな」
「こ、こで……それを言うのは卑怯だろう」
「今更じゃねぇか? ああ、ついでにもうひとつ。こっちは誤解の無いようにハッキリ言っとくが、オレがあれからずっとこの姿なのは貸した髪留めを返してもらってないってだけで、他の意味は無いから深読みとかは無駄だぞ」
 二つ目の宣言に青年が固まる。石と一緒にテーブルに置いたことを返したと言ってもいいのなら。
「……返した、だろう。あの時」
「ねぇよ。その様子だと本当に気付いてなかったんだな」
 とん。心臓の上で手が跳ねて、次は何かを示すように指が触れる。それで初めて、そこにある異物に気付いた。なぜ今まで気付かなかったと思うほど唐突に存在を認識できたそれが、確かに彼の髪留めだと悟る。
「霊基の制限が全部外れるまでおまえさんと必要以上に関わらないための誓いのようなもんだったんだが……巻き込んだのはこれのせいかもしれん」
 髪留めは男の礼装の一部。だからこそ対象がランサーであったはずのシェイクスピアの宝具の中に迷い込んだのではないか。
 あくまで予想の域を出ないが、あながち外れているとも思えない言葉。
 なぜそんなことをとの問いには、枷が外れたら練度に対する言い訳もできなくなるから、シミュレーションででもなんでも一度殴り合ってみるつもりだったのだと笑う。
「全力で戦えるとわかっている相手が目の前にいるんだ。なら、全力は叶わずとも殴り合ってみればわかることもあるかと思ったんだよ。どこまでもそういう関係だろ。オレらは」
「……不本意ではあるが、それに関しては同意しよう」
「それに、制限解除後はなんとなくあちこちの感覚がズレてる感じがしねぇ? アレを調整するのにオレはオマエが適任だと思った。だが、叶わなかったからな」
 同じ状況が弓兵にも発生するのなら相手が自分であればいいと思ったと。打算を明かす。
「さて……私の場合、青の騎士王の方が馴染むのではないかと思うがね」
「あ、ヒデェ」
 摩耗し、零れ落ちた記憶は残っていないが、自分の根底にある美しいものの光景の一つが月明りに浮かび上がるかの王との出会いであることは間違いがない。
 同時に、無慈悲に己の命を奪った槍の輝きを追わなかったこともなかった。
 英霊エミヤにとって、騎士王の剣が信仰の対象なら、かの槍は己が超えるものの象徴。
「冗談だよ。確かに感覚のズレに関しては強化直後からある。マスターにも告げたが……そうか。あれは私だけというわけではなかったのだな」
「特に一気に外れるとデカいみたいだぜ。その中でも戦闘に関する感覚を合わせるのなら、慣れて手の内が知れているやつと手合わせするのが手っ取り早いだろう。ズレている部分の詳細がわかるからな」
「確かに。では懸案事項として上げておくか。この後も増えそうだ」
 話が脱線に脱線を重ねていく弓兵に、それは後でと苦笑する。
「多少話を戻すぞ。予想はできるかと思うが、髪留めの内側にもいくつかルーンが刻んである。その一つをあの瞬間に発動させちまったから今そうなってるんだわ」
 自分のせいだと告げた原因を説明する槍兵は、苦々しい溜息と共に、発動したのは己が暴走したとき用に仕込んである停滞と拘束のルーンだと語る。
 ルーンは元々刻んで用意しておくことで詠唱も必要とせずに発動させられる特性を持つ。ランサークラスでの召喚であっても使えないわけではないのだから非常手段として持っていることにはなんの不思議もなく、弓兵はただなるほどと頷いた。
「先の暴走の折に君はまず自分を拘束したと聞いたが、それと同じものか」
「ああ。補強してねぇからそれよりはだいぶ弱いが、同じと考えていい」
 呪いやその他不測の事態が起こった時にマスターを害さないための保険のようなものだと告げて男はもう一度青年の胸に手を当てる。
「だいぶ馴染んだようだからいけるといいんだが……とりあえず試してみるから力抜いて、なるべく抵抗せんでくれるか」
「何をするんだ」
「今はその髪留めを起点として術が広がってる状態でな。もともと自分用だからオレ自身の魔力で問題無いことを証明して収束させるか無理矢理破壊するかの二択なんだよ」
 だからこそ今まで密着して魔力を移していたのだという説明に、最初からそう言えば無駄な抵抗はしなかったと青年は溜息を落とす。だが、さっきまで一連の出来事が幻だと思っていたやつが何をと言われれば返す言葉もない。
 現時点でも目は開けないから問題はない。意識して何度か深い呼吸をし、言われた通りに力を抜く。
 ゆるく触れていただけの魔力が指向性を持って動くのを感覚だけで追って、なるべく受け入れるように平坦に意識を保つ、その端に何かが引っかかった。
「……ッ!」
「ぐ……っ」
 苦悶の声を上げたのは同時。ばちりと派手な音が響く。
 突如うねった魔力が膨らんで、何かが絡んでいるという認識だった体にぎりぎりと明確に締め上げるような力が加わった。
「いってぇ……弾かれた」
「すまない、ランサー。外側からの干渉系であるなら外套を脱いでからのほうが良かったかもしれない……と思ったが遅いか」
「ああ。そういやオマエのそれ、世界からの干渉にも抵抗できる礼装だったな。忘れてたぜ」
 妙な方向に結びつきやがってと溜息を落とした男は礼装を解けそうかと問いを落とす。
「……先ほどならともかく、今は無理だな。魔力の流れを阻害されている気配がある」
「だろうな。そんじゃあ仕方ねえ。物理的に脱がせるが構わんか」
「ああ。好きにしてくれ。だが、私はもう完全に動けそうにない……っく」
 締め上げられる痛みに耐える青年の額には冷や汗が浮かび、ぎりと噛み締められた歯が悲鳴を上げる。
 罵倒語を並べながらも外套に手をかけた男の腕が一瞬動きを止めた。まずい、と焦った声はそのまま近く、抵抗する間もなく青年の口内に落とされる。
 押し込まれた舌が青年のそれを絡め取って唾液を溢れさせ、動作だけで飲めと告げられた弓兵は抵抗することなく送り込まれたそれを嚥下した。
 喉を落ちる流れに押しやられるようにそろりと首元まで伸びてきていた気配が遠ざかる。
「とりあえず今のところ首までは締まってねぇな?」
「あ、ああ。なんとか」
「ならいい……ってもまあ一時凌ぎだからそう保たん。もう術式を破壊するっきゃねぇが、この礼装が絡んじまった以上、外からじゃ無理だ」
 本当にそういうつもりはなかったんだがなと苦い声が落ちる。疑問を滲ませた呼びかけは途中で込み上げた咳にかき消された。
「まさか同じ相手に二度も無理矢理することになるとは思わなかったわ。オレの主義には反するが、こうなっちまったら仕方ねぇ。終わったら殴るなり切り刻むなり好きにしていいぞ」
「いいや。合意だよ、ランサー。必要なら私は構わない」
「それは合意じゃねぇってさっきから言ってんだろ」
 そんな風に、まるでその辺の道具でも使うみたいな許可を出すなと。湧き出す怒りを押さえつけながら男は奥歯を噛みしめる。
 対する青年は締め上げられる痛みを堪えて眉を寄せながら、細く息を吐き出した。
 酸素を求めるように喘ぐ唇にもう一度男のものが重ねられる。最初はただ一方的に男が舌で青年の口内を蹂躙するだけ。だが、何度かの息継ぎを挟みながら根気よく煽れば次第に舌同士が絡み合う。
 内側に直接注ぐ魔力を追いながら男は投げ出されたままの青年の両手を取った。痛むのか、険しくなる表情を必死で押さえつける様子に呆れる。
 指摘することはせず、注意深く魔力に指向性を与えてやれば押し殺した悲鳴が上がった。
「あ……ぐ……ッ」
 ぱき、と。堪えてなお零れ落ちる声の影で硬質な音が上がる。男は間をおかずに今度は足に触れて同じ動作を繰り返した。再度の悲鳴。
 必要なこととはいえ、その方法は内側を駆ける魔力で体を灼かれているようなものだと男は理解していた。だからこそ無理矢理だと表現したのだ。
 堪えきれずに咳き込む青年の背を撫でながら、多少落ち着くまで待つ。
「ラ、ンサー……」
「おう。体は動くか」
 返答は意思を持って伸ばされた腕。整わない息で言葉を紡ぐよりも、握らせてやった手に込められた力が雄弁に問題無いと告げた。
「じゃああとは目だけだな。場所が場所なだけに結構キツイかもしれんが……」
 とは言っても、視覚そのものを奪われているわけではなく、瞼をひらくことを奪われているというほうが正しい。
 自分に対して使う時は目に作用することはないため、おそらくは弓兵として無意識に強化しているだろうそれを妨害するために発動した結果なのだろう。
「もう少し、待ってくれ。息が……」
「ああ。もう多少ならな。しかし確かにそこにあるはずなのに、内側から探っても起点に触れないってのはどういうことだ?」
 呼吸を邪魔しない程度にではあるが、繋ぎのために軽く何度か口付けを落とす。
 その合間に胸元を探る指先は確かに起点である己の髪留めの感覚を捉えていた。だが、それを弓兵の内側に流した魔力で成そうとしても掠らず、疑問が積み重なっていく。
 ついと腕を引かれて男は思考の海から己を引き上げた。
 己が掴んだ場所を正確に認識した青年がそのまま男を引き倒す。
「お……あぁ!?」
 勢いが付きすぎたことで歯がぶつかったのも無視して入り込んだ舌が絡んだ。深い口付けに付随した、煽るような動きは先ほど男がしたものの真似。
 押し潰された水音が双方の喉奥に落ちていく。
 男の項を擽った濃色の指先が滑り、ちりと耳飾りを弾いた。唇が離れ、口角が上がる。
「合意だよ、ランサー」
「……にゃろう」
 得意げな顔を引き寄せ、今度は男から仕掛ける。息継ぎの合間に加減はしないと宣言すれば望むところだと挑戦的な応え。
 それでも瞼の上に手をかけた時には僅かに肩が揺れた。
 気付かなかった振りをした男はそのまま注いだ己の魔力を追う。何かが砕ける硬質な音は今度は何にも掻き消されず、お互いの耳に届いた。
 瞼を覆っていた手を引き、改めて見下ろすと、手足が動くようになったのをいいことに自らの手を噛んで悲鳴を噛み殺した青年が荒い息を吐いている。
 ゆるりと持ち上がった瞼の奥から現れた鋭い輝きを持つ鋼が男を射抜いた。
 部屋全体の明かりは落とされており、寝台のすぐ傍、青年が気を失っている間に男が居たあたりに小さな明かりが灯るのみ。その僅かな光を反射した白の壁が男の向こう側にぼんやりと浮かび上がっていた。
「オマエなあ……あんときといい今といい、別に声を上げるくらい構わんぞ」
 自らの体を傷つけてまで耐える必要はないだろう。
 軽い調子で落とされた男の声に、青年の肩が揺れる。
 なぜ、と。唇が疑問を形作ったが音にはならず、慌てて逃げようとした体を絡めとった。
「離せ」
「断る。なあ、アーチャー。オレはオマエを正面から戦うに足る戦士だと思っているし、それはどこで顔を合わせてももはや変わることはないだろう。あの劇作家も言っていた、英霊になってからの縁ってやつだが、オレの願いに合致するこれ以上の縁はそうない」
 たとえ相手が凄まじく面倒臭い弓兵だったとしても、そんなものを自ら手放せるはずがないと、目を細めて男は苦笑する。
 今更、と。言おうとしたことがあまりにも似合わないと思ったのか、苦笑したまま言葉を続けた。
「たとえ腕の一本や二本吹っ飛んでギャーギャー言ってるところを見たとて幻滅なんぞせんし、せっかく同じ場所で仲間になったのなら一緒に酒を飲むのもいいだろうと思っている。そこでどんな顔を見せるのかも含めてな」
 青年が酒に弱いと知っているが故の言葉。
 ドレイクに潰されたエミヤの表情は穏やかだった。そんなささやかな違いを目にするのも悪くないと笑う。
「何をばかなことを。私が君に望むことなどないし、醜態を晒すつもりもない」
「オレに何をされようとも声を上げないことは、その範囲か?」
「貴様、知って……ッ」
 息を呑む気配。
 直截的な回答ではなかったが、殺しきれなかった些細な動揺に男は気付いた。
「当たりか。言っておくが杖のオレも芸術家も何も言わなかったぞ。今のは直感でカマかけただけだ」
 それで何を使ったんだとっとと吐けと笑いながら脅しをかける。明らかにしくじったという顔をした弓兵はゆるく目を伏せて溜息を落とした。
「さいあくだ……」
「それはおまえさんの回答次第だな」
 拘束の意図が強かった体勢を崩した男は横に転がり、顔を見なくて済むようにと青年の頭ごとその身を抱き込む。
 もう一度離せと声が上がったが、すでに大部分を諦めが占めていて力はない。
 逡巡する無言の果てに、ダ・ヴィンチに頼んで一時的に声を封じる薬を作ってもらったのだと、注意深く耳を傾けなければ聞き取れないほどの声音が答えを口にした。
「なんとなくそう思っただけだから違ったら訂正しろ。それは杖のオレも知らないことだな」
「そうだ。何も伝えていない。伝えられるはずもない」
 理由を問われる前に弓兵は口を開く。空気の揺れに葛藤を感じ取った男はそのまま待った。
「英霊になってまでクー・フーリンに対して無様を晒す自分など、なによりもオレ自身が耐えられない」
 消え入りそうな声は、だがしっかりと槍兵に届いた。
 ああ。返った声は思わず溢れた息の欠片。弓兵の中で、己の存在が占める領分が憧憬と対抗なのだと知る。
「おまえさんがそう思ってるのは自由だが、オレはそんなことを言われたら無理矢理暴きたくなるんだがな」
「真意はともかく、君はやらないさ。そうでなければわざわざ逃げ道を用意しておく必要はないからな」
「逃げ道ねえ……マーキングしておいて泳がせるの間違いじゃねぇの?」
 すんとわざとらしく鼻を鳴らして抱え込んでいた頭に覆いかぶさるようにしながら首の後ろに口を近付ける。
 ひゅうと鳴った喉と同じくして弓兵の体が大袈裟なほど跳ねた。
 流石に自分でも驚いたらしい。絞り出すような声がただの反射だから気にするなと告げるが、到底納得できるようなものでもない。
「流石にそういう反応じゃねぇだろ今のは」
「間違っていない。間違ってないんだ。そのうちなんとかするから、今は見逃してくれ」
「……わかった。オレにできることがあれば言え」
 どう考えても自分のせいだろうと男は苦く息を洩らす。
 否定はしないと返した青年は困ったように眉を下げ、薄く口角を引き上げた。
 大人しく引き下がった男はうろと指先を彷徨わせる。
「まだ何かあるのか」
「おま、体が自由になって忘れたな。オレはまだ髪留め返してもらってねぇんだっつーの」
 ぐりぐりぐり。
 腹立ち紛れに目の前の髪に額を押し付けてぼやく槍兵に反応した弓兵は、先ほど干渉できないと言っていたなと視線を彷徨わせた。
 自ら触れてみても確かにそこにあると思えるものなのに手が出せないと男は言う。
「預けたままでも特段害は無……いや、あるか。さっきみてぇにうっかりオレのせいで変なもんが発動したら目も当てられねぇ」
「それは確かに困るな。ランサー。一つ聞くが、これは本来なら君が簡単に取り出せて返せるものなのか? その服装じゃない状態の君は一体どうなっている」
「礼装の一部ではあるんだが、オレがオマエに貸してるって事実が固定化されてるからな。礼装を変えても髪留めだけ戻ってこねぇぜ。見るか?」
 念の為に確認しておきたい。頷いた弓兵に見えるように少し体を離してから、一番見慣れた礼装を編む。
 宣言通り、普段止められている髪はそのまま肩から背に流れ、先はシーツに落ちてバラバラに広がっていた。
「……触れても?」
「わざわざ許可なんざいらねぇよ。なんか試したいことでもあるのか」
「ああ。君が取り出せないというのなら私がするのはどうかと思ったんだ」
 見慣れた姿のほうがイメージしやすいと続けられて納得する。髪を留めているところを想像するなら後ろを向くほうがいいかと体勢を変えれば遠慮がちな指が髪を攫って、頭皮の近くでひとつにくくるように押さえられた。
 それは元々髪を留めている位置だ。
 沈黙が落ちる。
 かすかに慣れた魔力が形になった気がしたがそれらはすぐに霧散し、青年の溜息が後を追った。
「やっぱりダメか」
「ああ。今のままではな」
「どういうことだ?」
 ぐるりと顔だけ振り向けば、さほど強く束ねられていたわけでもない髪が青年の手から滑り落ちる。少し考えてから、彼は方向性は間違っていないと思うと告げた。
 なんの根拠もないが、借りたものなら返す必要があるのではないかと言葉が続く。
「先ほど君は干渉できないと言った。だが、私が今試した限り、何かが足りないと感じるだけで取り出すことは可能そうに思えた」
 それらの事実から導き出される答えは『借りた側であるアーチャーが取り出して持ち主であるランサーに返す』という手順だ。
「なるほどな。言われてみれば確かに道理だ。問題はその足りないもの、か」
 ふむと考え込む槍兵の髪から完全に手を離して、弓兵は目を伏せる。足りないものはおそらく形を成立させているなにか。つまりは霊体化と実体化のようなものだと思えばいいのだろうかと考える。
「多分だが、必要なのは君の魔力なのだと思う。魔力が不足すると武装することも難しくなるだろう。切り離された状態で術式を発動したために同じようなことが起こっているのではないだろうか」
 ひとつ。ゆっくりと息を吐きながら瞬きをして、弓兵は真っ直ぐに槍兵の視線を捉えた。
 男は無言で次の言葉を待つ。
「私はこれを君に返したい。その髪を彩っているのが一番合うと思うからな」
 だから無理を承知で頼む。もう一度この身に君の魔力を注いでくれ。
 言い切った弓兵の瞳は揺らがず、受け止める槍兵の瞳もまた揺らがない。
「それはオマエ自身の欲か」
 問いは静かだった。一切の色を感じさせないそれはただ真剣に弓兵の発言の在処を求める。
「……そうだな。私達には自己暗示ひとつでパスを繋ぐような器用な真似はできるはずもなく、ならば原始的な手段に頼るしかない」
 非常時以外でこんな大男を抱けなどと無茶を言っているのはわかっているのだが。そんな風に告げる青年は自らを受け入れる側だと定めてしまっていて、ランサーとしてはまずそこを確認しておかなくてはならない。
 少し首に触れただけで反射で怯える体をどうするのだと問う。性交によるパスの構築を成すならば、鍛えることもできない一番の弱点を晒すのに等しい。
 自問するために伏せていた瞳が上がる。そこにすでに迷いは存在しない。
「それでもだ。まあ、自分でどうにもならないことだから君に迷惑を掛けることになるかもしれないが、それでも構わなければ」
「承知した。テメェの覚悟、受け取ったぜ」
 誓うように触れさせるだけの口付けを交わして。弓兵は体を起こした槍兵から流れ落ちる髪を挟まぬように掬い取る。邪魔かとの問いにはゆると首を振って、可能ならそのままでと応えを返した。
 目を細めた男は邪魔なら好きに避けろと告げて、礼装の上から青年の体を撫で、腹から胸へと上がった指先が心臓の位置で止まる。
「直接見ても構わんか」
「君が気にするものは何もないと思うが」
「わかっちゃいるがな。目の前であんなもん見せられたら気になるだろ」
 ああ、と。納得を落として上半身の礼装を魔力に還す。
 晒された肌は滑らかで傷らしいものは欠片も見当たらなかった。
 薄明りの中、僅かな光を映り込ませた焔色の瞳が細められる。確認するように触れるぞと宣言されてから落ちたのは指ではなく唇だった。
 次の行動がわかるようにゆっくりと胸から鎖骨、首筋にかけて押し当てられるそれは、触れることに慣らすようでもある。
 触れているのが当たり前になるまでゆっくりと時間をかければ、徐々に青年の反応は鈍くなり、体からは余分な力が抜けていった。
「え、ぁ……あ?」
 何かが繋がった気配。わけがわからないままに増幅された快楽で頭が白む。
 はく、と。うまく取り込めない酸素を噛んで。
 押し流されるままに意識を手放した。
 
  ***
 
 燃えている。
 激しい熱とどこかで何かが崩れ落ちる音。
 あちこちを貫かれた体からはぼたぼたと血が滴り、赤の道を作っていく。
 ひゅう、と。喉が鳴った。
 咳き込む。
 喉を逆流した血が周囲に飛び散るも、渦巻く熱が片端からそれらを蒸発させ、粉状にして吹き飛ばしていく。
 かすかな魔力の気配を追って、赤の騎士は部屋のひとつへと足を踏み入れた。
 おそらくこの火の大元。
 部屋の一つだけではなく、石造りの城の基礎まで燃やし尽くすような炎が、通常のそれであるはずもない。
 はたして。
 熱気に炙られた眼球は痛みすら訴えていたが、それを凌駕する驚きに、彼は目を見開いた。
 窓際に積まれた荷物に寄りかかったまま項垂れているのは青の槍兵。血溜まりを挟んだ反対側の壁際には真っ先に呑まれたのだろう遺体がひとつ。
 赤の騎士が部屋を出るまで己の元主人を拘束していた椅子は足を一本折られて倒された状態のまま、綺麗に炭化している。
 びちゃり。
 相変わらず赤色を撒き散らしながら部屋を横切り、槍兵の前に立った。
 死の淵にあって、上半身だけとはいえ未だ地に付いていないのは逸話通りか。
「まだ残っていたのか」
 問いはほとんど息だけの細いもの。
 物置と化している部屋には障害物も多い。
 普段なら何でもない石の段差に躓いて膝を付けば、立ち上がる気力は潰えた。本当ならこんなことをしている余裕はないはずなのだが、なぜここにきたのか。
 もうほぼ目すら開いていない男が笑う。
「やることはきっちり最後までやる主義だ。嬢ちゃんはもうここにはいねぇぜ」
「……知っている。彼女を自由にしたのは君か」
「頼まれたのもあるし、何よりあんなイイ女、ここで死なすには勿体ねぇ」
 もう現界している余裕などどこにもないはずなのに男は現世に留まり続ける。
 その身には呪いが回りきり、足の先は炎に炙られて形を失っていた。
 爆発音。どこかで崩れる音が響く。
 彼女達は無事に外に出ただろうか。揺れる炎が青年にも手を掛けようとしたところで男の手が持ち上がった。
「だがまあ……そろそろいいだろう。オレもテメェもボロボロだが……やれるとしたらこれか」
 ころり。
 地面を転がってきたのはランサーの髪留め。
 思わず拾ってしまった青年は一握りだけ込められた魔力に気付いた。
 全てが燃え消えてしまうこの場に不似合いな、穏やかな日向の気配が触れる。
「アンタはまだ嬢ちゃんを助けたいんだろう。オレの体はもうどう頑張っても無理そうだからな。癪だが、それは餞別だ。譲ってやるよ」
 じゃあな、と。最後まで軽い調子で言葉を落として男は光に溶け消えた。
 穏やかな表情と笑みが瞼に焼き付き、一瞬だけ唇が触れた気がする。
 その場に残ったのは髪留めひとつ。
 男の肉体を留めていた魔力の残り全てを集めたかのようなそれは、本人の意思によって譲られたことで持ち主が消えても世界に留まった。
 ずいぶんと勝手だと、ごく薄く笑んで、青年は迷うことなく残された魔力を己に取り込む。
「……う……ッ……ぐ」
 神性の高い彼の魔力は、しがない弓兵にとってはむしろ強すぎるほど。無理矢理取り込んだ反動で激痛を伴うものの、魔力を得た霊基は徐々に修復されていく。
 しばらく蹲って荒く息を吐いていたが、ようやく立ち上がった赤の騎士は己の身を確認した。
 存在を留め続けられるほどではないが、次の瞬間に消えるような危機的状況からは脱している、そんな状態。
「貰いっぱなしは性に合わん。だからこれは借りにしておくぞ、ランサー」
 胸元に当てた手をそのままに届かない声を響かせて。叶うこともない決意を逃す。
 男が居た場所にもう一度視線を流してから、青年はすっかり崩れ落ちた城を後にした。
 
 
 意識が浮上する。
 すぐに視界に触れるのは鮮やかな白の肢体、夜明けの空を映した髪。焔を溶かした瞳が気遣わしげにこちらを見下ろしている。
「……気付いたか」
「ランサー……私は、気絶していたのか」
「一瞬だけどな。どっか不調は?」
 言葉通り本当に一瞬だったのだろう。
 いつかの時とは負荷が段違いで、思ったより酔っていないなと冷静に考える頭で己の身を確認する。気持ち悪いとは思うが、先ほどまでよりしっかりとした存在感を放つ気配を逃したくなくて、霊体化するのはためらわれた。
 先にシャワーを借りてもいいかと身を起こしながら問えば、立ち上がれるのかと逆に問われる。
「問題ない。ということは、うまくいったということなのだろう」
「ああ……じゃあ行ってこいよ」
 個室に付属している小さなシャワーブースはどんな意図でそうなったのか。透明な壁で囲われただけのそこは外から丸見えだが、青年は気にせず床を踏んで扉を閉めた。
 ブースの外を窺えばシーツを剥いでいた男と目が合う。
 『コイツを処理してくる』
 湯の音に掻き消された声は届かなかったが、唇を読んで意図を察した青年は頷くことで応えた。
 おそらくは気遣われたのだろう。手早く処理を済ませたエミヤは全身をきっちりと洗ってから扉を開けた。
 ほわり。湯気が逃げた扉横に先ほどまではなかったはずのタオルがひとつ。
 粗雑に見えてこういった気遣いはきちんとするのが憎たらしい。ありがたく使わせてもらい、少し考えてから、戦闘用の礼装ではない黒のシャツとボトムスを身に纏った。
 勝手知ったる他人の部屋だ。エミヤをはじめ何人かは掃除や洗濯物の回収のために主人不在の個室に入ることを許されている。予備で置いてあるシーツを出し、きっちりと寝台を整えてから端に腰を下ろした。
 このまま自室に逃げ帰りたい気持ちもあるが、裡にある気配がそれを押し留める。
 しばらくそのまま。気絶していたらしい一瞬に見た光景をぼんやりと思い返す。
 肌を嬲る熱の中にあった、穏やかな日向の気配。
 サーヴァントは夢を見ない。だからあれはいつかどこかに現界した己の記録なのだろう。あまりにも鮮明すぎる映像だったが、この瞬間まで覚えてなどいなかった。
 何がきっかけで再生されたのかは不明だが、少なくともこの身に受け入れていた髪留めを、持ち主であるはずの彼が取り出すのを拒否していた理由の一端を見た気がしたのは確か。
 自分はあれを借りとしたかったかこそ、自分の手で返したかったのだろう。
 胸に置いていた手を握りこむ。
 直感に従った行動はそれだけで形になった。滑らかな手触りを持つ、片手で握り込めるほどの小さな円筒。
 無事に取り出せたことに安堵の息を吐く。
 直後に軽い音がして扉が開いたのに気付いた。顔を上げれば、立っていたのは短髪姿のクー・フーリン。
「きみ……」
「ああ、コレか。さすがに外ウロウロするのにあれじゃ格好つかねぇだろ?」
 オマエは長髪のほうが好きだから残念か。
 揶揄う口調。じろりと睨むが堪えた様子もない。
 扉が閉まったと同時に長髪姿に戻った男は手にしていたポットからお茶を注いでエミヤに差し出した。
 漂う香りでそれがどちらかというと薬茶の部類だと把握する。
「誰の差し金だ」
「オレのだ。いいから飲んどけ」
 乞われるままにひとくち、ふたくち。無意識にこわばっていた体が解れる気がする。同時に眠気に襲われてゆると首を振った。
「平気そうに見えたが流石に相当疲れてるか。いいぜ、寝ちまえよ」
「そういう、わけには……」
「そんな状態で何言ってやがる。って、イテェわ。引っぱんな」
 お茶の残りを取り上げられた青年は、ぼんやりしたまま寝台横のテーブルにそれを置く男の尻尾を引く。
 文句を零しながらも意図を察して横に腰を下ろした彼の髪を纏めるように指を滑らせ、片手に握ったままだった髪留めで閉じ込めた。
「おま、これ……」
「ああ。やっと返せた」
 とろりと瞼を落としながら吐息が感謝を紡ぐ。体勢を維持できず傾いだ体を槍兵の腕が受け止めた。
 やわらかな笑みは苦笑と混ざって半々。
 そのまま寝かせてしまえと囁いた己の心中に抗わず、男はそっと青年の体をシーツに倒す。
 途中で彼の指が己の髪を掴んだままだったのに気付いて驚きに瞬きを繰り返した。
 甘えていると捉えていいのだろうか。
 そのままにすれば言い訳になるだろうか、と。外させることはせずに一緒に横になり、足先で相手の靴をひっかけて脱がせる。いつもの礼装ではなくて助かったと苦笑。
 己の装備は適当に消しておけばいいだろう。これまた足先で器用に引き上げた上掛けですでに眠りの世界に旅立ってしまった相手を包んだ。
 確かに髪留めは返してもらったが、まだひとつ答えてもらっていない問いがある。
 くつり。口元は楽しげに角度を上げるが、瞳は穏やかに細められた。
 シーツに擦れた拍子に半分ほど髪が落ちた相手の額に口付けを贈る。
「まだ逃がさねぇよ、アーチャー」
 届かない呟きを落として。槍兵も同じように眠りの海に身を投げ出した。

2019/12/22 【FGO】