かの白の面影を

 ふわふわと。
 良く言えば機能的、悪く言えば無機質なカルデアの廊下を不似合いな白い毛の塊が移動していく。
 マスターの傍に従う少女とよく一緒にいる謎の獣かと思ったが、よく見ればそれよりずっと大きい。
 滑らかな床にカツカツ、と小さく当たるのは獣の爪。
「あれは……犬、か?」
 ゆるく首を傾げたのは、透けて見えるほど青白い肌に白金を束ねた王冠の髪と、全てを焼く苛烈な光を束ねた瞳を持ち、闇で染めたかのような鎧を纏う反転した騎士王。
 わかっていた。そんなわけはない。だが、どうにも抑えが利かなくなった彼女は、すわ戦かと思えるような速度で廊下を歩き、キッチンに踏み込んだ。
 バアン!と音がしそうな気がする勢いだが、そんなわけはない。
 静かに開閉した自動ドアの前で仁王立ちし、黒の騎士王は唯一残って後片付けをしていたらしい赤の弓兵に狙いを定めた。
「ドッグフードはあるか」
「な……いや、さすがにそれは置いていない。そもそもあの生き物はドッグフードなぞ食べないだろう?」
 突然の来訪と問いに呆然としたままながらも、赤の弓兵が返した答えは、フォウさんと呼ばれている獣を示していると知れる。
 首を振って、黒の騎士王は彼の言葉を否定した。
「違う、あの獣にではない。そこで見かけた白い犬にやりたいのだ」
「犬? このカルデアにか?」
 弓兵の疑問はもっともだろう。人類最後の砦として機能し、現在は後始末のために奔走しているこの場所は、獣が迷い込む隙などあるはずがない。
 だが、確かにマスターの部屋に向かうのを見たのだと主張する黒の騎士王を、赤の弓兵はそれ以上否定しなかった。
 トレードマークである赤の礼装を解いてエプロンを締め直し、食料庫を覗いて中身を確認すると、一人頷く。
「あいにく一般的なドッグフードはないが、犬が食べられるもの、という意味でなら作ることもできよう。少し待っていてくれるか?」
「承知した」
 手早く犬用の食事を作り始める弓兵を待ちながらも、騎士王はどこか落ち着かない様子で扉の向こう、廊下のほうに視線を送る。
 手を動かしながら、弓兵は声を投げた。
「その犬はどれくらいの大きさだったんだ?」
 問いは、どれくらい食べるのかと同義。
 ふむ、と零した騎士王は目を細めて、両手で抱き締めがいがありそうな大きな白い犬だったと答えた。
「それはまたずいぶんな大きさだな。少し作りすぎたかもしれないと思ったが、杞憂そうだ」
 わずかに唇を歪めて、弓兵が笑う。
 肉と野菜をいくつか切って出汁で煮ただけの食事が出来上がった。
 食器になりそうなものが無いなという呟きの直後には、彼の手の中に犬用の食器が出現している。実に魔力の無駄使いだが、それを指摘する者はこの場に居ない。
 出現させた食器にすべてを移して冷ませば出来上がりだ。
「できたぞ。持っていくといい」
「感謝する」
 気を付けていなければわからないほどわずかに微笑んだ黒の騎士王は、弓兵から器を受け取ると踵を返した。
 そこに。
「誰かいるかなー」
 どこかのんびりとした少年の声。
 続けて、わん、と。誰が聞いても間違えようがない犬の鳴き声とともに扉が開く。
「マスター?」
「あ、エミヤだ! ちょうどよかった」
 声を上げたのは弓兵。器を持ったままの黒の騎士王は、入ってきた犬に視線を向けたまま固まってしまっている。
 仕方なく、エミヤと呼びかけられた弓兵はキッチンから出て現在のマスターである少年と正対した。
 その足元にはおとなしく人間たちのやりとりを待っている大きな白い犬。
 ゆるりと少年に額を撫でられて目を細めた犬は目の前に立った弓兵にひたりと視線を合わせた。その強さに思わず気圧されそうになる。
「なにかこいつに食べさせられるものはないかなって思って」
「……ただの犬ではないな?」
「あ、うん。キャスターのところの子なんだ。手が離せないからってお使いしてくれたんだよ」
 マスターである少年が何も言わずにキャスターとだけ言った場合に示す人物は一人だ。
 相手はキャスタークラスで現界したアイルランドの光の御子。どこまでも黒く燃える冬木で、少年が初めて出会ったまともな英霊は、現界した世界の事情には深く関わらないと告げ、自らの真名を名乗ることをしなかった。
 通常の聖杯戦争のようにクラス名で呼称していたその出来事は、なにもかもが初めて尽くしの少年の心に鮮烈に焼きついたらしく、真名を知った今でも彼は呼び方を改めていない。
 もっとも、赤の弓兵も彼と同じように呼んでいるのだから、とやかく言える立場になかった。
 特定の誰かが告げた場合のみ、クラス名は特定の相手を示す。
 他にも何騎かそういう例は存在した。もはやこのカルデアでは日常の一部になり、誰も間違えることはないし、文句を言う者もいない。
「なるほど、そういうことならば」
 黒の騎士王、と呼びかけて。君からそれをあげてくれと続ける。
「……ああ」
 ようやく。硬直から脱した彼女は、手にした器をそっと犬の前に置いた。だが、どうも動作がぎこちない。様子がおかしいのを察してか、マスターである少年も何も言わず、見守るだけに留まっている。
 犬も、じっと目の前に膝をついた騎士王と目を合わせたまま、器に口を付ける様子はない。
 そのまま見つめ合って。どれくらい経っただろうか。
 ああ、と。気持ちに区切りをつけるように彼女の唇から息が漏れた。
「主人の許しがなければ食事を口にしない、ということはあるか? そうでなければ遠慮せず食すがいい。これは、お前のために用意されたものだ」
 なにかを振り払うように瞳を伏せた騎士王は、静かに告げる。それが、彼女と犬の間にあったものを壊す合図だった。
 喉の奥でわずかに鳴いた犬が出された食事に口をつけ、騎士王はそれを眺める。マスターである少年も、何かを思い出すような表情で見ていた。
 しばらくの沈黙の後、食事を堪能したらしい犬が満足そうに顔を上げる。
 様子を見ていた二人がうっすらと笑い声をあげたのはほぼ同時。
「違うと、わかっているはずなのだがな」
「うん。でも、多分許してくれてるんだと思う」
「ああ」
 二人の会話は、弓兵には分からないいつかの話を含んでいる。
 言葉を理解しているのか、空気を読んでいるのか。犬は無言で騎士王の傍に寄った。
「……ありがとう」
 ふわり。騎士王の両腕が犬の体を包み込む。ずいぶんと気持ちよさそうにその毛並みをゆっくりと堪能して、彼女はそっと体を離した。
 十分だ、と。
 漏れ聞こえた声は、極力感情を排しているが故に、悲しく響く。
 本物の犬ではない。エーテルの塊と言ってしまえばそれまでだ。だが、それはこの場に集う英霊たちとて同じ。
 主人の元に戻るのだろう。一声鳴いて身をひるがえした犬を見送る騎士王と、マスターである少年は小さな感情を共有していた。
「お別れを言えなかったあの子も、あの後強く生きてたかな」
「当然だろう、今更それを疑うのか」
「……ううん。いや、そうだね」
 悪逆が渦巻く街を生き抜き、再び世界と繋がった街で生きたであろう白の面影を。
 
          ※
 
 翌日の朝食の下準備もすっかり終わり、あとは片付けて休むだけとなったキッチンに残っているのは赤の弓兵が一人。
 ひとつづきになっている食堂側の電気はすべて落とされ、厨房側の一部のみ明かりが灯されている。
 そこに一番近い扉からのそりと入ってくる影に気付いて、厨房の主は訝しげに眉を寄せた。
 夜中に食堂を訪ねる人間も英霊もごくまれに存在する。
 元々カルデアはその役割から、人間達はシフト交代制で二十四時間絶賛稼働中。
 普段であれば定期的に食事と睡眠をとる英霊たちも、万年電力不足ひいては魔力不足のカルデアでは、ごくまれに耐えきれなくなった者が夜中のキッチンを荒らしに現れる。
「誰かいるかぁ?」
 隠れる気は無いらしい堂々とした黒い影は、のんびりと声を上げながら明かりの下に姿を見せた。
 現れたのは造作の整いすぎた顔が乗った長身。無造作に背に流された髪は、太陽が昇る瞬間の夜が残る空を切り取った色。纏ったローブに覆われた足元に白い毛玉が二匹ほどまとわりついている。
 その毛玉が、どこか嬉しそうに、わん、と吠えた。
「き……キャスター!? その犬は……」
「あぁ、こいつらか? まあ……使い魔みてぇなモン……っていうか、おまえさん知ってるって顔してやがんな?」
 ははん。
 意地の悪い笑みが男の口端を飾った。合わせるように弓兵の眉間の皺が深くなる。
「おい、弓兵。オマエだろ? こいつにメシやったの」
「私ではない」
 事実なのだから、弓兵は顔色どころか眉ひとつ動かさず否定した。
「あー……はいはい。じゃあ言い直すぜ。マスターがこいつに礼をしたいからメシを作ってくれって言ったな?」
 そんな小手先の否定はお見通しだとばかりに、からかい交じりの問いが刺さる。
「やれやれ……まあ、確かにマスターからも言われたがね。最初は反転した騎士王の頼みだよ」
 即座に無駄な戦いを放棄した弓兵は肩を竦めて肯定を返した。ただし、ささやかな反抗を混ぜるのも忘れない。
「あいつがぁ? あー……そういえば生前大事にしてた猟犬が居たとかなんだかってのがあったか」
「私も詳しいことは分らんがね。マスターがそれでよしとしたのなら必要なことだったのだろうさ」
「ふぅん。だとすると直近の特異点絡みか。まあそりゃどうでもいいわ。問題なのはこいつらは二匹いるってことさね」
 ここまで言えばわかるだろうとばかりに笑いかけられて、弓兵は無言のままあらかた片付いていたキッチンを開いて火を入れた。
 話が早くて助かると零した光の御子は、犬たちに待機を告げて自分はキッチンと食堂を区切るカウンターにしつらえてある高椅子に腰を落ち着ける。
「手間かけてわりぃな、弓兵」
「ふん、思ってもいないことをよく言う……」
 そうして。
 このあと何度か食事をねだりにくる二匹が犬好きの職員たちの間で話題になり、それが青と黒の騎士王達の耳にとまり、ちょっとした争いがおきるのはまた別の話。

新宿クリア記念。 新宿のオルタさんズが可愛すぎました。 セイバーオルタさんは密かにこころゆくまでもふもふしてるといいなあと思います。

2017/11/29 【FGO】