警戒するのもわんこのお仕事

 何かが駆け抜けた。
 それを認識できたのは、きゃうん、という大きな悲鳴が上がったのと、自分が乗っていた脚立が大きく揺れたせい。
「う、わ!」
 ぐらぐらと大きく揺れる脚立から咄嗟に飛び降りて、倒れかけたそれを掴んで押し留める。
 一体何が……と首を巡らせると、廊下の途中、掃除のために置いてあったバケツをひっくり返して、中身をかぶってしまった物体が見えた。
 白いふわふわの毛はぺしゃりと張り付き、ぽたぽたと全身から水を滴らせる見知った姿。
 あ、これはまずい。
 思った瞬間に体が動いた。
 大判の布を投影してばさりと広げる。
 咄嗟の判断が正しかったことは、布の内側に当たる無数の水滴が教えてくれる。
 二次被害が抑えられたことに安堵しながら、広げた布をそのまま犬に被せた青年は、ついでとばかりに軽くその体を拭いた。
「怪我はないかね?」
 くぅん。
 心なしか鳴き声が沈んで響くのは、青年に迷惑をかけたと思っているためか。
「君が無事ならかまわんさ。私のほうに被害があったわけではないしな」
 しかし……と青年は考える。
 置いていたバケツは掃除に使っていたもので、当然洗剤やら何やら色々なものが混ざっている。
 全力ダッシュしていた理由は不明だが、このまま帰していいものかと悩んでいるところで、のんびりとした声が響いた。
「エミヤ? 何してんだこんなところで」
「ああ、歳若い方のクー・フーリンか。私は掃除をしていたんだが……」
「相変わらずかたっくるしいなあ。いつも言ってるが、他の奴らが呼ぶのと同じようにプロトでいいんだぜ?」
 姿を見せたのは、名にプロトタイプ、と付けられたクー・フーリンの一人。
 霊基上の名称に付けられたそれの由来がどこから来ているのかは誰も知らないが、データ上そうなっているのだからそういうものなのだろう。
 なんの因果か、彼が現界した時点で既にキャスタークラスとランサークラスのクー・フーリンがこの場所には存在していた。
 呼び方をどうするか悩んだ挙句、混乱したマスターが「もうプロトでいい?」とお伺いをたて、本人が拒否しなかったため、愛称のような形でその呼び名が定着している。もっとも、エミヤがその名称で彼を呼ぶことはあまりない。
「いや……だが……」
「まー、こんだけ同じ顔が並んでると混乱するのはわかるしな。あ、でも誰かにちゃんと名前を呼んでもらえるってのは悪くねぇけどよ」
 にかっと笑った顔が眩しい。
 わざとらしくない程度にさりげなく視線を外し、青年は手元の犬を見遣る。
「ひとつ……相談してもいだろうか」
「おうよ。俺で力になれることならな!」
 笑ったまま、力強く請け負う。
 さっぱりとした物言いをするこの歳若いクー・フーリンは側から見ていても気持ちいい。ランサーやキャスターの彼らと違い、エミヤに対して因縁を感じさせるものは無いらしく、ただメシが美味しいからと屈託無く笑いかけてくる相手であった。
 彼が気にしているのは目の前の青年よりも、どちらかというと男性の姿で現界した騎士王であったり、金ピカの王様であったりする。
 それは彼が持っているという以前の聖杯戦争の記憶というものによるのだろう。エミヤ自身が他のクー・フーリンや、女性姿の騎士王を意識するのと同じことだ。
 視線を犬に向けたままで簡潔に状況を語ったあと、洗ってやりたいのだが構わないのだろうか、と問いを投げる。
「そいつ……ああ、槍なしの俺のとこのか」
 ふうん。
 興味深そうにまだ布を被ったままの犬を覗き込んだ男の瞳が細められる。
「いいんじゃねぇの? コイツはアンタのこと好きみてーだし。嫌がらねぇと思うぜ?」
「そ、そうか……なら嬉しいのだがな。なにせ私はあまり動物と触れ合ったことがなくて勝手がわからないんだ」
「なんだそんなもん。まずは実践だろうが。そいつは言葉では伝えないが、アンタの言ってることは理解するし、自分の感情は表現する。ならあとは慣れだろ」
 不安ならちゃんと聞けばいいと笑って。男はそのまま目の前の青年が行動するのを待った。
 一度瞳を隠した青年は、改めて犬と視線を合わせる。
「バケツを置きっぱなしにしたのは私のミスだ。出来ればお詫びに君を綺麗にしたいのだが、構わないだろうか」
 恐る恐るといった体で犬と向き合った青年が問いかけると、布の中で犬の尻尾がパタパタと揺れた。
「ほらな。かまわねぇってよ」
「ああ、そうだな。最初からそうすればよかったのだな」
 許されたとわかったからか、知らず青年の表情が緩む。
「そんじゃ、ちゃちゃっと洗ってやりますか」
「手伝ってくれるのか?」
「ほっとくとまた手順がどうのとグダグダ悩みそうだからなあオマエ。だったら一緒にやったほうが早いってもんだ」
 な、と。同意を求める笑顔が眩しい。
「よ……よろしく、頼む」
「おうさ!」
 そうと決まればよし行けそら行けとばかりに近くにあった大浴場に追い立てられる。
 念のため浴室の一番端、二方向が壁になっている場所を選んで、シャワーを手にした。
 普通の犬じゃないからそこまで気を使わなくてもいいと言いながら男は軽く自分でやってみせると、すぐにエミヤに丸投げする。
 わしゃわしゃわしゃわしゃ。
 豊かな毛でシャンプーがよく泡立つ。
「なんだ、上手いじゃねぇか」
「君には遠く及ばない。なんというか……やはり君は犬の扱いに慣れているのだな」
「あぁん? そんなこと気にすんのか。だいたい、オマエさんならすぐにものにすると思うんだが違うかい?」
 見たところすぐに追い越されそうだがと笑う男は予備動作もなくひょいと後ろに跳んだ。
「どうし……ッ!」
 怪訝に思って首をひねった青年の顔にぽすんぽすん、と白いものがあたった。
 ゆるりと流れ落ちるそれが泡だと気付くまでに数秒を必要とする。
 だいぶ離れた場所で楽しそうな笑い声が上がった。
「まだまだみてぇだな」
「……そうか、この状態も濡れていると言えるからそうなるのか」
「そういうことだな。なるべく密着しておくと多少防げるぜ」
 危険を察知し、自分だけ安全圏に逃れた男は笑いながら戻ってくると、手近のハンドシャワーを手にしてぬるめに調整されたお湯を出す。
「全身泡だらけだし、いっそそいつと一緒にお湯かぶって流しちまえよ」
 霊衣は編みなおせばいいだろうと告げて誘うようにシャワーを揺らせば、諦めたらしい。
「そうだな。これではもう、そうするよりほかあるまい」
 とりあえず泡を食べないようにと先に顔だけを流して溜息を落とす。
 先に彼を流そうと告げたエミヤは、それじゃあと渡されたシャワーで丁寧に犬の泡を流していく。
 予想できると思うが今度は水を被るのかと問えば、そちらはもう諦めたと、どこか楽しそうな声が落ちた。
「ということでずぶ濡れになるであろう私のかわりにタオルを用意してほしいんだが、頼めるかね」
「ははは。まあ、そりゃあオヤクソクってやつだよなあ。りょーかい」
 頼みごとは気安い声音で受諾され、男はちょっと待ってろと踵を返す。
 ひょこひょこと短い尻尾が揺れる背中を肩越しに見送ってから、改めて目の前で大人しく洗われている犬に視線を戻した。
 先ほど忠告された通り、なるべく体を密着させる。
 自分が濡れるのを厭わず、壁と自分の間で濡れた体を挟んでしまえば、彼は時折軽く震わせるそぶりを見せるものの、今やっても効果が薄いとわかっているからか、盛大に水滴を撒き散らすことはない。
 そもそも、おそらくあの行為自体は犬として形をもっているが故の本能のようなものなのだろう、とぼんやり考える。
「エミヤー。タオル持って来たぞー」
「ああ、ありがとう」
 呼びかけられて振り向いた瞬間、わずかに体が離れた。
 瞬間。
「しまった……!」
 視線を戻したのは悪手だったのだろう。手元で盛大に身を振る気配が伝わり、たった今までお湯でぺしょりとなっていた毛からは大量の水が飛び散っていた。
 背後からはこらえきれなかったというような笑い声。
 崩れた前髪からぽたぽたと落ちる水滴と一緒に溜息を落として、やけになって手にしたシャワーを自分の頭上へ。
 濡れて張り付いた前髪を上げると、どこか申し訳なさそうにしている犬と目があった。
「君のせいではないよ。だってそれは君にとっては当たり前の行為なのだろう?」
 ゆったりとまだ濡れたままの毛並みを撫でて、大丈夫だと笑う。
 この場にはエミヤとクー・フーリン、そして犬しかいない。ならば別に恥じらう必要もないだろうと、濡れて張り付く礼装をすべて魔力に還せば、一瞬だけ首元にじゃれた犬が、タオルを持ったままお約束すぎるだろうと笑い転げている男のほうに駆けていく。
 エミヤは背を向けているために気付かなかったが、勢いをつけてクー・フーリンに体当たりした犬はそのまま彼が持っていたタオルを奪って、エミヤの元に戻った。
 男の視線からエミヤを隠すような位置に立つ。
「はあん。なるほどな」
 すぐに行動の意味を理解した男はにやけ顔。
 シャワーを止めたエミヤが振り返えろうとした時にはその頭からばさりとタオルが被せられていた。
「うわ、これどうし……って、君が?」
 タオルの上から鼻先をこすりつけてくるのは早く拭けということかと呟きながら大雑把に水気を拭っていく。
「タオルは君のためにとってきてもらったんだがな……」
「あー……まあ、ソイツ、自分の水気は盛大に飛ばしたから大丈夫だって言いたんだろ」
「む。そうか……また気を使ってもらってしまったな。ありがとう」
 おそらくエミヤが霊衣を編み直すまで近付けないだろうと直感している男は、不自然にならない程度に言葉を投げながら脱衣所に戻った。
 こりゃまたご丁寧なこって、などと。思いはすれども声には出さず、がしがしと頭をかき回してもう二枚ほどタオルを調達し、浴場に戻る。
 幸いエミヤはすでに服を着ていて、先程は完全にガード体勢だった犬のほうも澄ました顔で大人しく残りの水気を拭われていた。
「ほれ、もう一枚。ちゃんと乾かせよ」
「すまない」
 近付いても大丈夫なことを確認しながら小さいほうのタオルを広げて、まだ濡れたままのエミヤの頭にかぶせる。そして大判のほうを開くとそれまで青年に体を拭かれていた犬のほうを捕獲するように包み込んだ。
「おーし、捕まえたぞ。エミヤ、こっちはやっておくから自分の髪乾かしてこいよ。コイツ、自分よりアンタが濡れてるほうを気にしてるみてーだからな」
「私はそんなにヤワではないのだが……でもそうだな。お言葉に甘えよう」
 自分が濡らしてしまったと思っているから優先しようとするのかと思えば行動の説明もつく。
 エミヤは一人納得して男に後を託すと脱衣所に消えていった。少し遠くから聞こえ始めたドライヤーの音に囁きを紛れさせる。
「しっかしオマエさん、それはどっちの意思だ?」
 なんのことですかと言わんばかりの犬の表情に男は溜息を吐く。
 まあなんでもいいが、と前置いて男は犬と正面から向き合った。
「アイツのメシが美味しく食べられなくなるような事態はやめてくれよな」
 男が告げた意味を理解した犬がぱたりと尻尾を揺らす。
 それならいいと告げて、男は犬を解放した。何事もなかったかのように並んで脱衣所へ。
 ちょうど己の髪を乾かし終わったらしいエミヤの元へ向かえば、それに気付いた相手のほうも君もちゃんと乾かそうかと笑う。
「知らぬは本人ばかり、ってコトか」
「一体どうしたんだ?」
「いんやなんでも」
 もうずぶ濡れになることもないしあとは一人でできるだろろうと告げて踵を返す。
「ありがとう、助かったよ」
「あー……」
 あまりにも穏やかに礼を言われて、男は背を向けたままがしがしと自分の髪を乱した。
「欲しいものを手に入れる手段、ってのがどんなだか、知らないわけじゃねえだろ?」
 気紛れの問い。唐突で、あえて主語は抜いたが伝わったらしい。
「そうだな。一応は分かっているつもりだよ。クー・フーリン」
 言葉を。聞かせる相手ははたして目の前の男であったのか、それとも犬であったのか。
 あえて真名を口にし、心配事は杞憂なのだと伝える答えをよしとして、男は振り向かないままひらりと手を振った。
「今度あれ作ってくれよ。ワサビソースだっけか……のステーキ」
「承知した。もっとも、君に出すならドラゴンよりは猪かもしれんがね」
「それなら俺が狩ってくるさ」
 とっておきの肩肉を調理してもらえるように。
 表情は見えなくても声が獰猛に弾んでいるのがエミヤからでもわかった。
「そうなると、争いが起きないかね?」
「はっ。その時は誰にも渡さねぇよ」
 俺はクー・フーリンで、その肉は俺の正当な取り分だ、と。
 獰猛に唸る獣はそれだけを残して今度こそ脱衣所を出て行く。
 その背中を見送ったエミヤは、その時はきっちり分けて出してやろうと固く心に誓った。
「そのときはもちろん君の分もな」
 ゆるり。彼の手は、ごく自然な動きで乾いてふわふわになった犬の毛並みを撫でる。
 もっとというように首筋にじゃれてきた犬を抱きしめるようにしながら撫でて、洗いたての毛並みに顔を埋めた。
 本物の犬と違い、シャンプーをしたところで彼らの主人である男の魔力の香りが薄まることはない。
 だが、いつもよりふわふわになった毛並みが気持ちよく、青年はしばらくその感触を楽しんだ。
「また君を洗わせてくれるか?」
 わん。
 軽快な返事に笑みが零れる。
 ひとしきり撫でて満足した青年は、忘れていた廊下の片付けをするためにその場を後にした。

少しだけ甘えることができているキャス弓(キャス不在) エミヤは5次ランサーと同一とされるランサーとキャスター以外にはちょっとだけ当たりが柔らかいイメージがあります。特にプニキはすごく美味しそうにご飯食べてくれそうで、自然とエミヤも毒気が抜けてそうな感じ。 どうもキャスニキよりもわんこのほうがいちゃいちゃしてる気がしますが、きっとそれもキャスニキの作戦のうち……ぜひ知的にいってほしいと思います。

2018/04/08 【FGO】