翅布の籠

 カツ、カツリ。
 さらり、さら。
 しゃらり、しゃん。
 高い天井に反射した音が静かに降って。白い空間を満たしていく。
 その一瞬、なんの変哲もないはずの廊下に漂う空気が凍った気配がした。
 通り過ぎるのはまるで光の加減で色を変える妖精翅の布を揺らめかせた長身の影。
 無言のまま、今は白に埋もれながら泳ぐように歩く。
 ふ、と。立ち止まった男が顔を上げた拍子、身に飾られた装飾が涼やかな音を響かせた。
 彼の気を引いたのは甘い香り。
 元を探すように首を回したのに合わせて布の波が広がり、擦れあって笑う。
 妖精の囁き声のようなそれを鬱陶しそうに眺めやった男は、方向を変えて歩き出した。
 カツカツと床を踏む音は先ほどまでよりもずっと早く、布の先も地面から離れ、ひらりひらりと宙で踊る。
 ようやく立ち止まったのは己が先ほどまで居たのとは別に、第二の撮影場所として使われている空間だ。
 こちらで行われていたはずの撮影はすでに終了したらしい。
 シミュレーションルームを転用して作られているため、セットの片付けは一瞬のはずだが、こだわりがあった甘味処イメージの撮影ではあらかじめ作っておいた飲食物を持ち込んで行われたらしい。
 現在ぽつんと置かれているカウンターテーブルは名残なのだろう。
 上にはいくつかの菓子、そして果物らしきものが置かれていた。
 こちらに背を向けて何かに夢中になっている長身の白頭がひょこりと動く。
 纏うのはいつもの赤い外套ではなく、だいぶくすんだ赤土色の着物。
 袖が邪魔にならないように襷掛けし、黒鼠色の前掛けを締めている姿は見慣れないが、動きから赤の弓兵であることは明白である。
 気になった香りはその手元から。さほど強いわけではないのだが、獣の王には十分すぎるほどに甘い。
 邪魔をするつもりはないが気を引いたものを確認はしたい。一歩を進む時間だけ迷った男は極力足音を忍ばせて近付いた。
 それでも衣擦れや装飾の金属の囁きが消えるわけではなく、作業に集中している弓兵の意識を乱したくないという意図しかないため、気配は消していない。
 ひと段落したのか手を止めた青年が顔を上げる。
 すぐ後ろまで来ていた男はこれ幸いとばかりに肩に懐いた。
「ああ……見慣れない格好だが狂王か。撮影は終わったのだな。私に何か用かね?」
「格好に関してはお互い様だろうが。それに他のやつはまだやってる。もうしばらくかかるだろうよ」
 もぞと顔を上げて顎を肩に落ち着けた男の視線は青年の手元に落ちる。
「そいつはなんだ」
「ん、これか。食べてみるかね?」
 まだ出来に納得はいっていないのだが。
 青年の手元にあるひとつは皿の上にあるどれとも形が違い、角張った結晶体。
 造形に使っているのが柔らかな素材であるためか少しだけ角が取れているが、元を想像できないほどではない。鮮やかな黄色が眩しいそれは紛れもなくみんな大好き猛火の種火である。
 さすがに業火ほどの角を作るのは厳しかったらしい。
 ん、と。そのまま口を開けた狂王に苦笑して、青年は手にしていた菓子を放り込んだ。
 甘さは控えめにしていた練り切りだが、それでも一口で食べるようなものではない。
「甘ぇ」
「だろうな。水はいるかね」
 落ちた声は苦情ではなくただの感想だ。大きく動いた喉が肩越しに触れて全てを飲み込んだことが伝わる。
「テメェは味見したのか」
「その前に君が食べてしまっただろう」
「そうかい」
 つい、と。指先まで布に覆われた手が耳元から顎先に伸びて。ヒール分の身長差を利用するように仰向かせた青年の唇に男のそれが触れた。
 忍んだ舌が纏うのは菓子の甘さ。溢れた唾液を水の代わりに飲み下してから解放する。
 首元の手はそのままに、反対側の腕が青年の腰を支えた。
 ゆらと揺れた尾にも飾られた細いチェーンがちりと鳴く。
「まったく……せっかく着飾っているのに汚れてしまうだろう」
「そこまで弛んでねぇよ。このまま一戦交えてもいいんだぜ」
 試してみるか。
 ほんの僅かに口の端を上げた狂王の声音には挑発するような響きが混じり、二人を覆うように項垂れた布の翅が淡く影を落とした。
「さて……そうだな。とりあえずはもう少し離れてくれるか」
「断る」
 にやりという表現がぴったりなほど表情を崩した狂王は、青年の耳元で口直しが必要らしいと続けて。なんなら部屋まで手を引いてやると誘いを落とした。
「……そっちの意味か」
「どちらでもいいがな。汚すなと言ったのはテメェだろ」
 断れば即座に戦闘用シミュレーションを立ち上げる勢いだと判断した弓兵は溜息を逃しただけで了承を返した。
「わかった。逃げないから少し待ってくれ。片付けを……」
「どうせ菓子以外は投影品だろうが」
 なら必要なものだけ持っていけばいい。
 すでに重箱に格納されており、あとは蓋をして敷かれている風呂敷を手繰れば準備完了という菓子を器用に包んで持ち上げる。
 慌てて桃二つだけを片手で掴んだ弓兵がそれに続き、二人の後ろでは残りの容器やテーブルが魔力に還って解け消えた。
 ぶわりと広がる布の邪魔にならぬようにするには大人しく密着する他はなく、青年は男が腕を持ち上げて押さえるようにしているために確保されている場所を歩く。
 誰とも出会わない廊下には長く、長く。翅の先が踊った。
 かつ、かつり。
 ひらり、さらり。
 時折肩に触れる布が淡い光を撒いているようで、エミヤは穏やかに微笑む。
「綺麗だな。君は黒のイメージが強いが、こうしてみると白もよく似合う」
 返事を期待しない呟きではあったが、一瞬驚いたように男の足音が乱れたのに気付いてさらに笑みを深くした。
 かつ、かつ、こつ、こつ。しゅいん。
 厨房担当という特権で与えられているエミヤの部屋の扉が開き、閉じる。
 闇に沈ませたままの部屋で、白を纏っているためかぼんやりと発光しているように見える男が手を伸べて。
 汚さないうちに脱がせてくれるんだろうと口端を上げた。

2022/08/16 【FGO】