子犬のワルツ

 ぽて、と。
 何かが落ちて転がったような音がして振り返る。
 カルデアのどこか無機質な白い床に同じように白い子犬が一匹。
 ぐるんと一回転してこちらを見上げた白い毛玉は時折見かける犬達よりも明らかに小さい。
「子犬……?」
 混乱した頭はうまく言葉を選べず、唇は開閉を繰り返すだけで意味のない呟きがぐるぐると回る。
 迷いを残したままではあったが、赤の弓兵はいつか誰かに言われた通りにその場に膝をついてしゃがみ込んだ。
 上から覆いかぶさるようにされれば警戒するのは人間だろうが動物だろうが同じだ。まして相手は子犬である。しゃがんだだけでは到底足りず、そのまま膝を崩して床に尻をつけると、青年は敵意がないことを示すようにゆっくりと拳を突き出した。
 ふんふんとその手を嗅ぎ回る子犬の警戒はまだ解かれていない。焦らず静止したまましばらく待てば、ようやく納得したのか、くふんと息を漏らしてぱたりと尾を振った。
 触れさせてもらった首元から胸にかけての毛並みは柔らかくもふもふしている。どことなく慣れた感覚。
 おーい、と。
 遠くから聞こえた声にぴくりと耳を揺らした子犬があからさまに聞こえていませんという体で青年の足の間に潜り込んだ。脳では即座に知らない声だと判断しているものの、どこか胸が騒つく。
「あれは君の主人ではないのかね?」
 太腿にのせられた鼻先を避けるように弓兵の手は耳の裏あたりに移動する。ゆるゆると毛並みを擽る指先は手慣れていて、子犬も満足そうに鼻を鳴らした。
 お互い、少しだけ眉間の谷間が緩んでいる事実を指摘する者はいない。
 誰か、もしくは何かを探していた声は少しだけ遠くなり、代わりにちゃりと床を蹴るような音が響いた。
 それまでうっとりと弓兵の指に身を任せていた子犬が即座に飛び退き、警戒態勢をとる。
 小さな唸り声をものともせずに現れたのは二匹の白い犬達であった。
 目を見開いたのは弓兵のみで、子犬は変わらず臨戦態勢。新たに現れた二匹の方はそれを気にすることもなく鷹揚に近付いてくる。
 さてどうしたものかと座り込んだままの弓兵の目の前で地を蹴った子犬は体格に劣る犬達二匹に軽くいなされ、即座に取り押さえられていた。
 ふんす、と鼻を鳴らした犬は自らの前肢の下でもがく子犬を舐め始める。もう一頭は弓兵の横に並び口元に向かって鼻先を伸ばした。
「私は何もされていない。大丈夫だよ。それにしても君達とよく似ているがこの子は一体……」
 応えて撫でてやりながら青年は首を傾げる。
 そこに、いたぞと聞き慣れた声が耳に届いた。続けてぱたぱたと駆ける小さな足音が遠くを横切る。
「よぉ、弓兵。チビ犬が世話になったな」
「キャスターか」
 お陰でそいつを捕獲できたと歯を見せて笑ったのはキャスターとして現界しているクー・フーリン。事情を説明しようという彼に頷いては見せたものの、身を寄せてきた犬の片割れを放置もできず、そのままの体勢で手だけはゆっくりと毛並みを撫でる弓兵の様子にくつりと笑みを零した彼は、もう一匹と子犬の近くに胡座で座り込んだ。
「それで、この子はどこの子なんだ?」
 よく似ていると続ければ道理だと笑いが返る。
 こっちか、と。少し遠くから聞こえたのは少し前に聞こえたものと同じ声。
「一本区画がずれているようだが……」
「あー……まあ、来たばっかりだからなあ。迷いもするか。しゃーねぇ。迎えにいってやれ」
 舐め回されたことで落ち着いたのか大人しくなった子犬を男が拐い、自由になった一頭が駆けていく。
「さて。説明するとは言ったが、まずは本人に会ってもらうのが手取り早え。少しこのまま待っててくれ」
「それは構わないが……嫌な予感がするぞ」
「問題ねぇよ。メシを強請る犬が一匹増える程度だ」
 ぱたぱたぱた。足音が近付いてくる。
 キャスターの腕の中の子犬がぴ、と耳を揺らす。おそらく全力で戻ってきたらしい犬の後ろにぴたりと張り付いて走ってくるのは見たことのない少年。いや、見たことがないはずなのにその髪と瞳の色彩に随分と既視感がある。
 息も切らさず絶妙なタイミングでブレーキをかけて停止した少年が、ほれとキャスターから渡された子犬を抱き上げた。
 そこで初めて揃いの腕輪らしきものをしているのがわかる。
「ありがとな。ええと……」
「私はエミヤという。君は新しく召喚された……ということで合っているかな?」
「おう。オレはセタンタ。よろしくな!」
 声にされた名を、予想しないわけではなかった。ちらりと隣を窺えば男が必死に笑いを堪えている。
「その名は私の隣に居る男の昔の名だと記憶しているが、それならば君が子犬を連れているということと矛盾しないかね?」
「アンタ、オレについて詳しいんだな。まあ、厳密に言えばそいつと同じ名を名乗るべきなんだろうが」
 未熟だと感じる己ではその名を名乗るのを躊躇うのだと少年は苦笑する。
「故にセタンタと名乗ることを許してくれ。それにしても……」
 ずい、と。距離を詰めた少年がくん、と鼻を鳴らす。
 その仕草がまるで犬のようで弓兵の表情が思わず緩んだ。
 イイ匂いがすると続けられて困惑する青年の傍で耐えきれなくなったらしい男が吹き出す。きゅうと相槌を打つように子犬が鳴いたのも決定打だったのだろうが、男の笑いは止まらない。
 ふすんと鼻を鳴らした大型のほうの二頭は何も聞いていないというように明後日の方向に首を向けて知らんぷりの様相。
「なあ、アンタ」
 メシの在り処を知っているか。
 予想できた問いに弓兵は頭を抱える。
「知っている、と言ったらどうするつもりだね?」
 顔が輝くというのは誇張ではないのだな、などとぼんやり考えた弓兵の前で少年は腕の中の子犬を持ち上げた。
「コイツの分だけでいい。なにか融通してくれないか」
 きゅう。
 やはり相槌を打つような声を上げた子犬の様子に、弓兵も思わず吹き出してしまってから、軽く咳払いをして誤魔化した。
「新しく召喚された仲間なら歓迎しないとな。では行こうか」
 少年と犬達を促して弓兵は立ち上がる。そんなに余裕はないからささやかなものになるがと穏やかに告げる声が廊下を流れていき、その場には一人、キャスターの男だけが残った。
「おいおーい。そりゃねぇぜアーチャーさんよ」
 ぼやきはおそらく聞こえただろうが、振り返ったのは弓兵ではなく少年の方であった。
 口の端を上げたその表情に思わず青筋を浮かべて。即座に立ち上がった男は前を行く集団を追いかけた。

2021/01/28 【FGO】