擦り切れた温もりの記録

 しゃらん、と。思ったよりも近くで音がしたことに手を止めて、青年は顔を上げた。
 音それ自体は特に驚くにはあたいしない。
 知覚できる範囲にその持ち主がいることはこの場に居る誰もが把握していた。そもそもこの場は、そうしていないと落ち着かないという厄介な性質を持つ者を除いて、特段気配を隠すことを必要としない場所である。普段と違うことと言えば、最初の顔見せとしてつい先刻召喚されたという英霊の姿があるという点のみ。
 黒檀の髪と、蜜色の瞳。現代に生きるものが見れば一目でこれぞファラオだと言い切るであろう装束を身につけた男は、食堂の中央付近で複数の年若い者達に囲まれていた。
 カルデアと呼ばれるこの場所で最後のマスターとなった少年に従っている英霊達は、生前、あるいは他の聖杯戦争時のしがらみはどうあれ、彼の意向に従い、概ね友好的な関係を築いている。クラスに一騎という縛りも無いため、普段ならば秘されるはずの真名も解放されており、特段事情がない場合にはそれで呼ぶのが慣例になっている……という事実は、召喚されたての英霊には馴染みがなく戸惑う要因ではあるものの、先住者たちの手によって否応無しに慣らされていくのが常であった。
 魔術師、とは到底言えない人間がマスターをつとめているのだから、その影響は推して知るべし。
 残っている人間が極端に少なく、そしてその人間達が彼らにしかできない仕事をこなさねばならぬ現在、世話好きでお人好しという奇特な性質を持つ英霊は、仕事に追われる人間達の代わりに、出来ることをこなすようになった。
 その最たる者が、この場に居る赤の弓兵と言ってもいいだろう。召喚に応じたのはかなり早く、光の御子と呼ばれる青の魔術師と並んで最古参の部類に入る。
 カルデアの食生活に多大な貢献をし、それは現在も同じ。
「エミヤ、交代するわ。あなたも食事してきて」
「承知した」
 シチューが得意料理だと言う古代ブリタニアの戦闘女王は、朗らかに笑って青年に声をかけた。何の因縁もない相手との日常的に交わされるやりとりに、青年もわずかに口元を緩めて応じる。
 あらかじめ用意してあった自分の分の食事トレイを持ち、調理場から出た青年は、いつものように適当な席に腰を落ち着けた。
 英霊の現界を担っている環境の特殊性から、魔力補給と節約のために人間と同じように食事と睡眠を義務付けられている英霊たちは、決められた時間を中心に各々好きなように食事を摂る。
 時間は夕食時。とは言ってもピークを過ぎた食堂に残っている人数はさほど多くはない。だからこそ油断をしていたと言えばそれまでだろう。義務としての食事を終え、一息ついたところで、近く、涼やかな金属の声音を聞いた。
 しゃらん。
 装備の関係から歩けば音を響かせる英霊は何人か居る。
 敵意はなく、かといって希薄でもない。繊細な薄金がそっと笑う様子にも似た音は、青年の知っている誰にも当てはまらず、振り返ろうとした矢先に、鼻孔をくすぐるものに気付く。
 極東では馴染みが薄い、強いて言えばどこか涼やかな森をはらむ、甘い香り。
 ふわり。
 柔らかく頭部に触れる熱に驚く。
 接触は一瞬だけで、青年が振り返ったときには、既に音はその場から去っていこうとしていた。
 声を上げることも出来ず見送るのは先ほどまで中心にいたはずの英霊。太陽のごとき王の姿。
「あ、オジマンディアス王。ここにいらっしゃったのですか」
 入り口から顔を覗かせたのは、世界最後のマスターとなった少年の傍に立つ少女。
 特異点でかの王に見えたと言う彼女の口調は畏まりすぎず、柔らかな敬意を持って場に響く。
 そして、その後ろから顔を見せたのはマスターその人。部屋がどうの、という話をしながら彼らは食堂を後にする。
 軽い音を立てて入り口の扉は閉じ、青年はそれきり問いを投げる機会を失った。
 一瞬だけ。
 閉じきる寸前の扉の隙間から見えた光景が脳裏に焼きつく。
 まるで幼子にするような仕草だ、と思う。
 かつて、自らがまだ生きていた時代に与えられた温もりと同じもの。擦り切れているはずの記憶と感情が乱される。
 多くを語らなかった男は、時折そうやって言葉にならない愛情を向けてくれたように思う。だからと言って、流石に幾年も過ぎ、こんな存在になってまで求めたりするようなものではないものを、何の前触れもなく初対面の相手に与えられれば戸惑うのは当然と言える。
 ましてや、意味を問うことも許されなかった。
 巡る思考は答えの出ないままに擦り切れた温もりだけを繰り返す。
「どうしたのですか? 難しい顔をして」
 どれほど思案に沈んでいたのか。
 気遣うようにかけられた声は柔らかく、微笑みには慈愛が滲む。
 女性かと見紛うほどに整った顔立ちだが、彼はれっきとした騎士である。また、武功によってではなく、在り方によって英霊となった存在でもあった。
 だからこそ、肩肘張らずに話ができる数少ない相手は、常と変わらずに青年を和ませる。
「ベディヴィエール卿……」
 なんでもない、と。口を開きかけて思い直す。
 直前の特異点を、マスターに従う英霊としてではなく駆け抜けた彼は、この場に召喚される前からオジマンディアスのことを知っている。それを聞いているからこそ、問いを投げる気になった。
 まばらに居座っている他の誰もがこちらに注目していないのを確認して、改めて目の前の騎士に向き直る。
「私は庇護が必要なほど弱く見えるかね?」
 あの、マスターの少年と同じように。
 言葉は続けなかったが、先程の光景を見ていた彼には伝わったのだろう。
 ふわりと破顔した騎士は、一度扉に視線を向けてから、微笑ましいものを思い出したと言うようにくつくつと声を上げた。
「彼の方のあれは……おそらく愛の形なのだろうと思いますよ。貴方はマスターと同じ国の出身なのでしょう?」
 かの王が生きていた時代にその行為がどういった意味を持っていたかは不明だが、マスターである少年が、自分の生まれた場所ではそうやって愛情を伝えるのだと語ったのだと言う。
 大人の虚勢と縁遠いところにあるあの少年は、自分もされれば嬉しいと続けた。
 そんな願いにも似た言葉を聞いたかの王は、愛の形を示す方法として取り入れた。だからこそ、その行為に、考え込むほど重い意味は無いのだと騎士は告げる。
「彼の方にとってそれは、呼吸するように自然なことですから」
 自らを王とし、どんな状況でもその在り方を貫く。ただそれだけのことなのだと。
 騎士の答えは、青年の表情を緩めるに十分だった。
 そうか、とだけ返して、青年は今度こそ立ち上がる。
「貴殿がそう言うのなら、私もあまり深刻にならなくて済む」
「ええ、こんな会話でも貴方の助けになったのなら嬉しく思いますよ」
 和やかに笑いあって、二人は別れた。
 青年は自らの食事を片付け、厨房に戻る。
 ベディヴィエールは口にしない。
 かの王が愛情を向けるのは己が気付かないほど微かにでも悲鳴を上げている「人」に対してだけなのだと。

父性大爆発なところにときめいた結果の話。

2017/11/12 【FGO】