朔明

 穏やかな。
 どこまでも穏やかな温もりに包まれている。
 冬の朝に感じる目覚め、抗い難い布団の温もりだと気付いた瞬間に、緩やかに意識が引き上げられていく。こんな目覚めはいつぶりだと考えたところで、眠っていたという事実それ自体に気付いた。
 特に腹と肩あたりが非常にあたたかい。
「は……?」
 自分の喉から出たにしてはあまりにも間抜けな声だと思う。
 瞼を押し上げれば視界を遮るものはなく、ただ見慣れぬ天井だけが横たわっていた。
 一体何がと声を出すまでもなく、しっかりと己の体に張り付いている気配がなんとなくの状況を語る。喘ぐように伸ばした手の先に触れたのは絹糸のような滑らかさを持つ髪だ。そんなものを持つ相手など確認するまでもなく決まっている。
 さらりと逃げた先はおそらく布団からもはみ出して畳の上に奔放に散らばっている。現状を拒否しようとする頭で考え、肌に擦れる布団の感触がないことに安堵した。
 記憶は温泉に入ったところで途切れている。しかし、現実逃避しようとすればするほど余計なことに気付くものだ。
 己の頭の後ろにあるはずの枕からあり得ない温もりを感じた青年は、いっそこのままもう一度眠ってしまえばいいのではないかと目を閉じた。
 基本的に障子と襖で区切られた旅館の部屋では、忍び込む冷気も同じく降り注ぐ光も完全に遮る術はないが、どちらも頭から布団に潜り込んでしまえば問題がない。
 己の判断を現実逃避に分類した上であえてそれを選択した青年は、布団を引き上げようとした腕を掴まれたことでぴたりと動きを止めた。
 思わずというように吹き出す声に続いてぎゅうぎゅうと身を寄せた熱源が引き寄せようとした布団を遠ざける。
 せめてもの抵抗に苦しいと声を漏らせば、込められていた力が僅かに緩んだ。
「その様子だとよく眠れたみてーだな。どうだ、二日酔いにはなってねぇか?」
「……元凶がよく言えたものだな」
 爽やかな男の声に対し、青年の声は地を這うように苦い。
 確かに。珍しくそこそこの酒を飲んでいたため酔ってはいたが、酔い潰れるほど飲んだ覚えもない。気付けば朝、布団の中で目覚めて混乱している原因は間違いなく傍の男だという認識があり、詰る言葉を口にしたことで昨夜の流れが頭の中で再生されてそれを裏付ける。
 正直そんな裏付けはいらなかった。
「そう言うなよ。ああしなかったら今頃おまえさんの腰は爆発してるわ」
 雀達にそんな姿は見られたくなかったのだろうと告げて。笑いを堪えるように肩口に鼻先を埋める槍兵は、そのままの状態で朝から不埒すぎる理由を口にする。
 自分が寝ている相手を襲う趣味がなくてよかったな、などと。
 堂々と宣言するにはあんまりな言葉を至近距離で聞く羽目になった青年は、すっかり下りてしまっている前髪をぐしゃぐしゃにしながら頭を抱えた。だが、現実には腰も爆発していなければ湯冷めした様子もない。おまけに汗をかいたから洗いたいと思っていた頭皮からはほのかにシャンプーらしい良い匂いがする。
 なんでさ、と。声に出なかったのは救いだろうか。
 自分が落ちた後のアフターケアはばっちりらしいところがいたたまれない。
「苦肉の策だったのは理解した。本当に何もしていないだろうな?」
「そういう意味ではなんも。せいぜい勝手に頭と体を洗って服着せて布団に放り込んだら面倒になってそのまま一緒に寝たくらいか?」
 端的な状況説明の後で、男女ではないからか雀達も特に何も言わなかった、と。そんな言葉がすらすらと出てくる状況に目眩がする。
「とりあえずその絡みついている手足をどけてくれ。起きられないだろう」
「んー……もうちっといいだろ」
「朝食がいらないのなら構わないが」
 味噌汁と出汁巻き玉子がいいんだろう。戻ってきた落ちる直前の記憶を頼りにメニューを口に出せば、もぞもぞと未練がましい動きを見せていた男が硬直した。
 ぐう、ぎゅるるる。盛大になった腹の声が返事をしたも同然だが、もう一押ししておくことにする。
「せっかくなんだ。出汁からとらせてくれないのかね?」
「わーったよ! オレの負けだって!!」
「勝ち負けなどは無いと思うが……約束ではあるからな」
 あっさりと外れた温もりに未練を感じる己に苦笑しながらもそっと布団から抜け出した。
 キンと冷えた空気が肌を刺す。
「今朝も寒いな」
「だな。室内でも息が白い」
 返事が予想よりも近く。同じように布団から這い出した男はぐいと伸びをしながら天井に向かって何度も息を吐き出した。
 白く霞んだそれがすぐに霧散する。
「君が一緒に起きる必要はないぞ。もう少し寝ていたらいい」
「つれないこと言うなよ。リクエストした身でそれはねぇだろ。手伝いくらいするさ」
 槍兵の言葉にぱちりと瞬きを返した青年の表情はたいそう間抜けであった。そんな彼を見た男は、やれやれと溜息を落としてからにかりと笑う。
「どうせなら他にもカルデアでやれないことをやろうぜ」
 鮮やかな誘いにそれまで呆けていた青年の表情がゆると解けた。
「そうだな。君にもできそうなこととなると……とりあえずは食材を確認しに、厨房に出向くことにしようか」
 大根おろしでも……と呟いたところまでは男の耳にまで入ったものの、それ以上のものはなく。横になっていたことで乱れた浴衣を直した青年は助けが必要かと振り向いた。
「いんや。雀達にもコツを教えてもらったからな。これくらいなら一人で着れるさ」
 みてろ、と。高らかに宣言した男の浴衣はあまりにも乱れていた。
 あれだけ手足を絡めていたのなら当然だが、緩んで入るものの最後の砦たる帯が辛うじて仕事をしているためにポロリしていない、といった体である。
「見ていろはいいが……私は朝から君の大事なものを拝見する趣味はないのだが?」
 こう言う時にサーヴァントの体というのは便利である。
 エミヤは己のものを直す段階で自分が下着を身につけていなかったことに気付きはしたものの、あえて黙認して浴衣の内側でそっと身につけた。
 目の前の男も同じだと判断した彼の考えは正しい。それを指摘した時の反応すら予想できたために無言を選択したというのに、つい口から出た一言が全てを無にしてしまう。
「いいじゃねぇか別に。昨晩は散々見ただろ?」
「見ていない」
 言葉尻にかぶるほどの即答だったのだが、それすら予想通りと言わんばかりに見てたのはオレのほうかと笑い混じりの声が返って再び頭を抱える羽目になった。
 どちらでもいいからさっさと整えてくれ。
 絞り出した弓兵の反応も男にとっては予想通りだったのか、笑い声が大きくなる。
 一度帯を解き、手早く裾を引いて形を整えた彼は、どうだとばかりに仁王立ちして青年を見た。今度こそ期待された言葉を吐くものかと堪えながら視線を外す青年に対し、大股二歩で接近してのしかかる。
 布団の中で感じていた温もりが近く。じわりとしたそれが眠りを誘う。
「……重い」
「わざとだよ。それにしても腹減ったな」
「手伝ってくれるのだろう?」
 するり。あっさりと温もりを手放して。
 どこか懐かしい空気を幻視しながら障子を開け、広縁の板の間に立つ。
 黎明の空を背景に、冷えた空気に息が凝る。彼方から細く差し込んだ光の中で背を伸ばして立つ姿は張り詰めているがゆえに美しい。
 冬の朝の温もりは抗い難いだろうに、そんなにあっさり手放してしまえるほどなのかと訝しんだ男が寒くないのかと問いを投げた。
 お互いの表情が会話のたびに吐き出す息で霞む。
「冬の射場はもっと冷えるからな。慣れている」
「ああ……なるほど。確かに冬の稽古場の気配だ」
 同じように広縁に立った槍兵は生前のように気温の変化を楽しんで。
 行こうかと誘う言葉を喉奥に吸わせた。

2020/12/31 【FGO】