ありがとうの香り

 ふわふわとした感覚。シャドウ・ボーダーの振動にしてはあまりにも頼りなく、優しいそれに、眠っていたらしい意識が刺激される。
 自分がいるはずの場所に居ない、というのは慣れたくもなかったが、否応なしに適応してきてしまった結果あれやそれやの解決を見たこともあるのだから、今回もそのつもりでいるべきだろう。
 意識が浮上するとともに鼻孔を擽る清廉な花の香りに気付いた。恐らくはつい先ほどこの手で握り潰した異聞帯。己の世界と違った路を歩んだ世界を思う。
 十日を繰り返す世界の一日目は沢山の花と水、瑞々しい生き物たちの香りがしていた。
 涙が出そうだと思うものの、辛うじて堪えて瞼を押し上げる。
「う、わ……!」
 見渡す限りの花、花、花。
 存在を認識した途端、それまでよりも強く纏わりつく花の香にくらりとする。
 視線を上げれば遠くかすかに塔のようなものが見て取れるが、花霞の中で判然としない。
 恐らくは夢だ、と。経験に従い、無数の花に囲まれたまま少年は考える。
 なにせ一番の証拠が己の体だ。ふよふよと宙に浮き、うっすらと透けている。
 それにしても。
「帰れるのかな、これ」
「帰れるとも」
「うわ!」
 何もなかったはずの空間から声。
 驚いて振り返った少年は同じように宙に浮いている存在を見る。花を纏い、ゆるく笑むのは、見知った存在。花の魔術師。
「マーリン……?」
 名を呼ばれた男は、おや、と目を細めた。
「ほんとに君には驚かされるね。夢とはいえ、こんなところまで来てしまうのだから」
 楽しそうに笑う姿で本人だと確信する。朧げながらここが何処であるかも把握したが、恐らくは確認しない方がいいだろうと告げた本能のまま疑問を飲み込むことを選択する。
「うん、それがいい。大丈夫、これはすぐ覚める夢だからね」
 何か私に言いたいことでもあったのかな?
 からかいの混じる魔術師の口調に少年は眠りに落ちる前に考えていたことを思い出す。
 たった一人。長く流転する時間を駆けるために己を神として世界の機構の一部にしてしまった人。
 たった一人。虚勢の果て、逆転の一手のためだけに半ば狂いながらも途方も無い年月を耐えきった人。
「マーリンは、ずっとここに一人で平気なの?」
 多分、もっと先に言うべき言葉があったはずなのに、少年の口から飛び出したのはそんな疑問だった。
「さて……私は根本的に人では無い、からね。君が期待しているような言葉はおそらく私の中には無いよ」
 人がわからないと言いながら人の作る世界は好きだと笑うこの存在は、常にここから世界の全てを眺めている。
 世界が無くなっても、自分達が必死に足掻く様も。
「助けを求めに来たのかい?」
「……違う」
 それは違うとかぶりを振った。
 徒歩で来たなどとふざけたことを告げて力を貸してくれたあれこそがイレギュラーだと知っている。
 世界が焼却された時、ネットアイドルなんてふざけたアバターを通して、自分は見ていると伝えていたのも、ここまで歩んでこればわかってしまった。あのとき、ドクターがそれをどう思っていたのかはもう聞くこともできないけれど。
「でも、言いたかったことがあったのか、ってのは当たりかも」
「ふうん?」
 何かな、と。歌うような声に顔を上げる。
 空中で頬杖をついている、不思議な体勢の魔術師へ。
「ありがとうマーリン。いつも見ていてくれて。俺のこともそうだけど、ドクターのことも!」
 誰にも知られず、存在を消される恐怖と紙一重で戦うのは恐ろしい。ましてや己に特別な力などないと思い知らされながら戦い続けるのは。
 全てが終わってから知ったそんな日々を自分が把握することはできないけれど。代わりにここに、それを知っている存在がある。
 誰の味方でもないけれど、人として生きた王の存在は、確かに世界を取り戻す一端になったのだと自分に証明してくれる観測者。
 だからありがとうと、それだけを告げる。本当に言いたかったのはこちらだったと、口にした事実はすとんと胸に落ちた。
 途端に瞼が重くなって、夢の終わりを知覚する。
「本当に君は面白いね」
 くつり。穏やかな笑みが近く。ああ、目を覚ませばきっと忘れる類いの夢だと理解する。
 身勝手な礼に対する答えはないけれど。代わりにふわりと優しく花が香って。今度こそ良い夢を、と告げられた声に惹かれるように幸せな夢に落ちていく気配がした。

2019/12/26 【FGO】