Alteration

  1

「……っ、は……ぅんッ……」
 ゆるゆると。とろとろと。
 外に意識を向けられないほど快楽に浸った体は、ただ耳元で紡がれる相手の息遣いだけを拾う。
「アーチャー、もうちょい息しろ。続かねぇぞ」
 己の唇から零れる嬌声すら聞こえていない青年は低く落とされた声に身を震わせて。宙を蹴った足先がきつく握り込まれた。
 ゆるく芯を持った先からとぷりと押し出されるのは快楽に耐えられなかった熱の残滓。
 よくよく見れば布の上にも青年の体にも散った白濁が不恰好な絵を描いており、引き伸ばされた端は乾いて引き攣れている。もう何度か達していることを示すそれらを気にすることもなく、大丈夫だからと笑った男が少しだけ腰を引いた。
 奥を捏ねていた先端が、散々掻き回し泡立てた白濁を張り出しで刮ぐようにしながら半ばで静止する。
 こぽりと後孔から流れ出た白は内腿へと流れて新たな筋を描き、その刺激にすら身を震わせて。
 途切れ途切れに絞り出される謝罪に今更だと返した男はぴたりと体を寄せる。興奮のためか普段よりも幾分か高い体温が背を覆い、さらには回された腕が腹の上あたりに温もりをわけていた。
「寒くねぇか?」
「へいき、だ……っく」
「息を整えて力抜けよ。まあ、オレとしてはそこまで無理しなくても構わねぇけどな」
 明日も仕事があるんだろう。
 まだ行為の最中だというのに、色を纏わせない問いを投げられた青年は息を整えながら苦笑した。
 出すものもなくなってから後ろだけで達している体には快楽が熾火のように燻り、ほんの少しのきっかけがあれば再び理性を食い潰してしまうだろう。
 浅くなったとはいえ、まだ内側に留まる欲を刺激しないようにと注意深く息を吐く。
 仕切り直しの休息とも言える時間で浅い呼吸を繰り返して整えれば少しずつ体は弛緩する。余裕を取り戻していく意識が周囲を認識し始めた。
 視界の端で光が瞬く。
 枝の間に揺らめくそれらは男の魔術によって灯されたもので、ひとつひとつはそう明るいものではない。
 蛍火よりは強く、蝋燭よりは儚い。そんな光源。
 厚い布が敷かれ、いくかのクッションが転がされている地面は存外柔らかく、緑の匂いがしなければ屋外だという実感も薄い。
 いや、正確には屋内ではあるのだろう。
 キャスタークラスの特徴の一つでもある工房作成。その中身は術者によって異なるが、キャスターのクー・フーリンがもつそこは背の高い樹々が思う様に枝を伸ばす、森の中といった風情の空間である。
 自室として割り当てられた部屋そのものを改装してしまう者もいるが、彼はそうではない。この場所は空間を歪めて作り出されたもので、屋外に見えていてもカルデア内であることに間違いはない。
 少しずつまた息を吸って。無意識にゆるく目元近くに漂う光源を追った。
「それ、気になるか?」
 集中できないなら消すこともできるがと続けられて軽く首を振る。
「ただ、現代である認識が薄くなるなと思っただけだ。勝手に浮遊するなど魔術的なことを除けば現代にはない光源だからな」
「ああ……おまえさんが認識してるところだと、以前ここに来た時に見たのは石のランプだったか」
 あれはあれで拠点内に設置しっぱなしにしておけて楽なのだと男が笑う。流れで以前訪れた場所はあのままなのかという青年の問いには、明日退去だから全部引き払ってしまったと続けた。言葉にはしないが、少しだけ残念そうな気配に笑みを深くする。
「おまえさん相手ならあそこに引きこむほうが落ち着いたかねぇ」
「……たわけたことを」
「少なくとも屋外感は薄いだろ?」
 わかり切った質問に、青年も少しだけ笑みを零す。
「それに関しては納得せざるをえないな。外は……やはりどうしても気分的に落ち着かない」
「オレらの時代だと外でも普通だったんだが、それを今に当てはめるのもな」
 ただ今回は。
 途中で邪魔をされたくないからこちらでよかったと告げる男に、自分も同じだから気にするなと返した青年は、己の体の下敷きになっているクッションを軽く叩く。
 改めて言葉にはしないが、最低限の配慮はしてもらっているという主張を受けた男も、特に声を返すこともなく背に唇を落とすだけで返答として、静寂に身を沈めた。
 先に男が口にした通り、ダ・ヴィンチを除くサーヴァント全員の退去期限は明日とすでに決まっている。
 カルデアと人類最後のマスターは人理を取り戻し、過程で発生したイレギュラーへの対応も全て完了。その役目を終えた。
 後始末と引き継ぎは粛々と進められ、もはや残っているサーヴァントも片手で数えられるほど。彼らとてとっくに退去していてもおかしくないのだが、ギリギリまで査問委員会に提出するための情報修正を請け負っているスタッフ達に手を貸した結果として退去のタイミングを失ったからであり、その修正作業も試算では明日の昼には完了する予定である。
 サーヴァント達はともかく、ほぼ徹夜で作業に追われ、疲労困憊になるであろうスタッフ達に最後の食事を振る舞うエミヤと、どうせなら見届けてほしいとマスターから乞われたために最後のひとりとなることが決定しているキャスターのクー・フーリン。
 彼ら二人にとってもこの夜がカルデアでの現界最後となる纏まった休息時間であり、ゆっくり話ができる機会でもあった。
 酒とつまみを手土産に話ができないかと誘ったのはエミヤ。キャスターのクー・フーリンに割り当てられた部屋を尋ねた彼は、己以外のサーヴァントが退去してしまったことから明日少しだけ手伝いを頼めないかと告げ、報酬が必要ならと手元にあるものを掲げてみせた。
 苦笑して迎え入れたキャスターは今この部屋は話をするには向かないからどうするかと頭を掻く。
 促されて入ってみれば。最後まで残るならと処分を頼まれたのか、あちこちに魔術的な荷物が積み上げられている部屋は確かに落ち着かない。
「こっちのほうがいくらかマシかねぇ」
 そんな風に告げて。
 処分が終わるまでは閉じられないからと最低限の区画だけは残していたらしい工房の内へと誘う。
 外の時間に合わせて闇に沈んでいる場所だが、前を歩くキャスターの手元からいくつもの灯りが浮かびあがって周囲を照らすため、迷うこともなく歩を進めることができていた。
 だいぶ縮小はしているからもう行ける場所は限られているが。先に立ったキャスターがエミヤを案内したのは白い樹皮を持つ樹の根元。
「なんとなくこの場所には覚えがあるな……以前は土のベッドで目が覚めたんだったか」
「あたりだ。もうどれくらい前だ? 意識が朦朧としてたわりによく見てんじゃねぇか」
 広げられた布にはいくつかのクッションまで付属していた。ここならピクニック気分で軽い宴会もいいかと問うた男に対し、青年も口端を引き上げて頷く。
 持参したものを上機嫌に胃に収めながら詳細説明を求めた彼に対し、少しだけなら付き合うとして小さなグラスに注ぎ返された酒を舐めながら、頼みたいのは配膳なのだと告げた。
 温かいものをそのまま、可能な限り出来立てを提供したいと考えるならば確かに配膳にまで手が回らないだろう。
 いくら人間のスタッフは数が少ないとはいえ、数人という世界ではないのだ。
 報酬を先に受け取っておいて断るという選択肢はないわなあと笑って。任せておけと請け負ったキャスターが他の手伝いはいいのかと問う。
 準備自体はもう終わらせたから問題無いと答えたエミヤは、そうでなければここで酒に付き合っていないだろうと問い返した。
「……酒の前につまみがなくなりそうだな」
「そしたらおまえさんをつまみにでもするさね」
 自分は食べ物ではない。抗議しようと視線を上げた瞬間に熱が揺れる視線に捉えられる。
 そういう意味かと問う声は掠れ、うすく酒精の混じった息が近く。
 試すように直前で止められたそこへ、エミヤは躊躇うことなく自らのものを重ねた。
「なんだ、乗り気だな」
「最後、なんだろう?」
 逆らわず体勢を崩しながらも肩口からこぼれ落ちてくる髪を挟まないようにそっと払う。
「キャスタークラスの君と会う機会など今後あるとも思えないからな。槍を持たない君に対しては多少の噛み跡くらい許容してやるさ」
「仮に槍を持ってたとしても、カルデア最後の思い出にテメェを貫いて退去させるなんてのはごめんだぞ、オレぁ」
 マスターを納得させられる自信がないと苦笑。行為自体ではなく後始末の面倒さを語った男に対し、青年の方も違いないと笑みを零した。
 時間はあるだろう、と。ほうぼうに飛び散っていたクッションをかき集めて青年の体の下に押し込める。
 礼装のローブを魔力へと還した男が淡い逆光の中ですら輝く瞳の奥に欲をひらめかせた。
 全力で顔を背けて掴んだクッションに顔を埋めた彼を許し、礼装の上から体をなぞった男の指は、性急さなど欠片もなく布越しに淡い刺激を与えていく。
 もどかしいほどゆっくりとした愛撫は、体を繋げるまでに一度、埋められたものが奥へと辿り着くまでにもう一度青年の身を追い詰めた。
 表情を見るよりも今は熱を近くで感じたいと告げたのはどちらだったか。後背位を選択したことで青年は自らの腰が下がらぬように脚を震わせ、男は己の体を支えながらも自らの体温を目の前の背に添わせる。
 汗に濡れ、重さを増した清流の髪がはたりはたりと背を打ち、青年に高い声を上げさせた。
 潜り込んだ欲は硬く、先走りに滲む魔力が腹の奥を溶かすように熱を灯す。
 深く、ふかく。奥を捏ねて揺すられ、熱を塗り広げるようにして齎された刺激に悲鳴を上げて、手近なクッションを強く握り込んだ。
 白濁が散り、腰が落ちる。それを許さずに腕を回した男は青年の腰を引き寄せて。勢いのまま強く当たった奥へと性を吐く。
「あ、ァ!」
「ぐ……ッ」
 堪えるような呻きは同時。密着した体が快楽を媒介に魔力を回しはじめる。
 達した直後でもさほど衰えなかった欲は深く埋められたまま。抽送というよりはただじわりと押し付けるような動きをする男は、焦ることもなく己の魔力と欲で神経そのものを掻き回すような快楽を育てていく。
 長期戦でいいだろう、と。聞こえているかもわからない相手に宣言したキャスターは身を震わせる相手の体に腕を回し、体勢を変更する。
 挿入こそ多少浅くなったが、抜かれた訳ではない。
 体を支えながら相手ごと横に倒れるようにすれば、無理なくお互いが地面に寝転がる背面側位の体勢になった。もちろんクッションの位置を直すことも忘れない。
 エミヤの唇からは細い嬌声が絶えず零れ落ちている。
 うねる内壁に食まれた先端はもう何度か堪えきれなかった先走りを滴らせた。
 内側の襞に先が食まれるのをそのままに背に密着して。掠れた声で名を呼べば不規則な息遣いが布を湿らせる。
 快楽に翻弄される体を抱きしめて、ただゆっくりと魔力を回していく。
 ぼんやりとしたまま漂う明かりを追う青年の呼吸が落ち着き、もはや挿入されていることすら忘れているのではないかと思われるほどの時間をかけてから、男は少しだけ深く息を吐いた。
 ささやかな動きに反応してエミヤの内がうねる。
 反射で引き込まれた楔が奥壁を押し上げ、それだけで体の奥には熱が戻った。
 一度意識してしまえば振り払うのは難しい。
「ぁ、待って……くれ。キャスター、また……ッ!」
「そう言われてもオレはさっきから動いてすらいねぇんだがな」
 くつりと笑う声に続いて、この空間の主人は何度も痙攣する青年を慰めるような口付けを落とした。
 ちり、と首筋に痛みを告げる。僅かに犬歯が食い込んだために残されただろう跡は、今日だけはとエミヤの方から望んだものだ。
「ンっ、は……ぁ……」
 くちゅり。
 耳が痛いほど静まり返った森の闇は水音すら反響させずに吸い込んで、堪えきれずに引き攣れた嬌声を薄めることで痴態を慰める。
 エミヤの背を覆うように密着した男は腰に回した腕で逃げを許さず、挿入されたままの欲は萎えることを知らないかのように内側から前立腺を圧迫したままで。堪えきれなくなった青年が身を震わせる度に絶頂へと誘って理性を溶かしていく。
 蕩けた瞳を細めて、無理矢理体を捻った青年が男の口を吸う。
「足腰立てなくなるまで、前戯をするやつが……あるか」
 何に対しての文句かを掴みかねたキャスターが僅かに視線を彷徨わせる。呆れたような溜息がその耳朶を叩いて、最後なのだろうと本日何度目かの言葉を零した。
「猛犬らしくないんじゃないのか。キャスタークラスだからとて牙を抜かれたわけではないだろう?」
 動けなくなってしまったなら仕方ない。貴様が最後までしろ、と。
 煽るような口調ではあるが、濃色の肌にはうっすらと朱が刷かれていて迫力はない。欲に溶けた視線が絡んで、色を纏った指先がするりと首筋を撫でた。
「最後まで、ねぇ……動けなくならなかったらおまえさん自分でしたのか?」
「……そうだな。一応そのつもりだったよ」
「そうかい」
 そいつは惜しいことをした。身を起こしながら自身を引き抜き、少しも残念ではなさそうな声音で笑う。
 体を起こして額に張り付いていた髪を引き剥がす。
 改めて正常位で向かい合い、すっかり力の抜けた脚を持ち上げる。
 腰の下に追加でいくつかクッションを押し込んでから、とろりと白濁を滴らせる後孔へと乾きもしない欲の先を触れさせた。
「ぁ……」
 少し潜り込んだだけでエミヤの体が震える。
「なんだ。挿れただけでイっちまうのか」
「貴様の、せいだろっ……ぅア!」
 これだけ溶けているならいけるか。そのために後ろだけでイかせまくったくせによく言う。そうはいっても前には触るなって先に言ったのはおまえさんだろうが。
 荒くなる息遣いの合間に口論ともいえない軽口を交わしながら正面から深く繋がる。
 きゅうと丸まった青年の足先が空中を蹴って強く男の腰に絡み、そのまま引き寄せた。
 とん、ととん。奥まで辿り着いた先が綻びはじめた場所の様子を窺う。
「は、ぁ……キャス、ター」
「焦んなよ。一度仕切り直したんだ。もうちょい育ててもらわねぇと」
「たわけ。これ以上大きくされたら壊れる、だろうが」
 大丈夫だ。根拠もなく言い切る男に返答する代わりに回した踵で背を叩いて嬌声を誤魔化す。息をするたびにうねる内壁が埋められた男のものをゆると奥まで咥え込んで先を促した。
 深く深く潜り込んだ男の欲の先が僅かにひらいた場所を抉じ開ける。焦らしに焦らしたそこは待っていたとばかりに入り込んできた先にしゃぶりついて精を強請った。
「あ、ぁ……おく、ッ!!」
「いいねぇ。時間をかけたかいあって奥までどろどろじゃねぇか。こりゃすぐに持っていかれそう、だなッ!」
 襞をかきわけ奥を刮ぐ先端が、張り出しが。すっかり蕩けた青年をさらなる快楽へと誘う。
 嬌声は悲鳴へと変わり、お互いを強く引き寄せた腕は深く絡み合って、入り込んだ熱に最奥までを許した。
 この先は止められないと掠れた声が告げて、ぐぷんと音がするほど強く腰を引きいては突き入れる。
 何度も精を吐かない絶頂を許し、快楽を注がれて酔う。悲鳴に紛れるような懇願は声にならなかったにもかかわらず、正確に男の耳に届いた。
「ああ、おまえさんの全てが染まるまで注いでやるよ」
 請け負った通り、何度も何度も。完全に意識を失うほどに穿たれて深い快楽に沈むまで。
 夜が深まり、灯した魔術の灯りが消え。すっかり闇へと沈んだ森の中で。
 意識を失い、弛緩してなお快楽に身を震わせるエミヤの体を抱いた男は苦い笑みを落として何の意味もない口付けを贈った。

  ***

 さらさらと髪を撫でる手が時折戯れのように耳の後ろや首筋を擽っていく。
 覚醒していく意識を認識してゆると先を追う。
 無警戒で意識を手放すのに慣らされてしまったことには多少の危機感を覚えるものの、限界まで搾り取られた後に限定するならばマシなほうだろうと気を取り直した。
 怠いと口にしたはずだが音にはならなかったらしい、落ちるのはかすかな笑いの気配。視界は曖昧な闇に包まれたままで、意識も同じように靄に包まれているような感覚があるまま晴れる様子もない。
 戸惑いが伝わったのだろう。外気に晒されたままの胸元に何かが触れた。
 ゆると染みてくるのは青の魔力。慣れ親しんだそれに意識を向ければ細い呼び掛けに気付く。
 言葉ではなく感情の色や波のような、どこか感覚的な伝達手段であるそれをただ受け入れるように意識をひらき、落ちてくる存在を受け取る。
 ぱしん。
 何かが繋がった感覚とともに、どこか曖昧だった己の形が確立した。
 気が付いたかと問う声にもきちんと頷いた筈だが感覚が薄い。そのままでいいと告げられた声は苦く、さすがに無理をさせすぎたと謝罪が滲んだ。
 返せる言葉もなく、音になり損ねた息だけがそっと空気を揺らしながら千切れて解けていく。
 相変わらず視界は戻らないが、声は聞こえていると把握しているのだろう。さらと額に落ちていた髪をあげられ、温もりが触れる。
 頬のあたりに触れているのは相手の髪の毛だろうか。
 擽ったいことを伝えたいと思うも、全ての音は封じられているように遠い。己の体のことすら把握できずにいる困惑を読み取ったか、触れた場所から振動が伝わる。
 笑ったらしい。
 こちらの声は聞こえているなと問われてもそれを肯定する手段が無い。一応感覚的に頷いて返せば、良かったと声が落ちたため、伝わったのだと知れた。
「無防備なおまえさんに危害は加えないと約束する。だからもう少しだけこっちに意識を預けてくれ」
 そのままだと連れ出せないと続けられて浮かぶのは疑問ばかり。それでもどこか焦りが見えた気がして、差し出された感覚の手を掴む。
 先ほど触れたと感じた場所だろう。
 額の上と心臓の上。それぞれの位置から何かがじりじりと内側に侵入してくる感覚があるのは不快以外の何物でもないが、抵抗する気は起きなかった。
「アーチャー」
 呻きか喘ぎか。呼びかけに対してどちらともつかずに零された息も音にはならない。
 自分が触れるこの男の魔力はいつも青だなと、不快感に耐えながら青年は余計なことを思う。
 因果逆転の呪いの朱槍を振るい、神に連なる焔を操る彼が戦闘中に滾らせる魔力は、色に例えるならばどちらかというと赤と映ることが多かった。
 こんな時に己の感覚に触れる魔力の色との違いがどこにあるのかはわからないが、どちらも同じものだということだけはわかる。
 ああ。音を伴わない息がどこか納得の響きを帯びた。
 焔は温度によって色が違うという。ならば、同じように彼の魔力が青でも赤でも同じものと考えるのがいいのだろうか。
 触れていた濃い青の気配が揺れてちらりと赤が見え隠れする。なんとなく笑ったのだと理解できて、思考は筒抜けなのかと憮然とするも状況が覆るわけでもない。
 そうこうしている間に引かれる力が強くなり、見えないはずの視界に光が触れた気がした瞬間、ふわりと柔らかな感触が触れた。
「よかった。戻ってきたな」
 ほう、と。安堵の息は同時。身動ぎしようとして初めて肩から胸元、腹から胸元とそれぞれに別の温度があるのに気付く。
 さらにそれとは別に瞼の上にあるものは男のてのひらなのだろう。
 まだ日は昇っていないが強めの灯りを灯してあるからいきなり目を開けると灼かれるぞと忠告が落ちてゆるりと外される。
 確かに、閉じた瞼に血の色を透かすような光が認識できて、青年は目を閉じたままで状況を把握しようと意識を動かした。
 緑の匂い。ざわと揺れた葉擦れの音で意識を失う前と場所は変わっていないことが察せられる。続けて己の上にある温度を探ろうとした瞬間に、わふんと存在を主張する声が響いた。
 きみたちか。
 警戒する気にならないほど慣れた魔力の波長でなんとなく予想はできていたが、きちんと反応してくれることに喜んで、僅かに動かした手を毛並みに埋めて擽る。
 瞼越しに触れる光が弱まった気がした直後に一度は遠ざかった男の気配が近付く。
「重いかもしれんがもうちょいそのままでいろ。魔力酔い通り越して中毒状態だったから消化を手伝わせてんだ。あと、光絞ったからもう目を開けてもいいぞ」
 まだ警戒しながら薄くひらいた視界にはこちらを見下ろす男の顔。それが、あまりにも。
「情けない顔を……男前が台無しだぞ」
 掠れはしたものの、声がきちんと音になったことに安堵する。
 絞られたという光を背にした男はさらに目を細めて、流石に今回はやりすぎたと謝罪を落とした。
「それを言うなら私もだ。歯止めが……きかなかった」
 どうせ退去するからというわけではなかったんだがな。
 柔らかく笑った青年は、肩から流れ落ち、己の肌を擽る男の髪を一房掬って引き寄せた。
「……それよりも聞いて構わないだろうか」
「おう」
「君はまだ日が昇っていないと言っていたが、動かなければならない時間までに私の体はどうにかなるのか?」
 全く起き上がれる気がしないのだが。質問の意図を告げればそのための犬どもだから問題ないと笑われる。
 寒くはないかとの問いには二度目だなと返して。つい数時間前と同じように大丈夫だと返した。
 行為後そのままだ。まだ裸だという認識はあるが、だいぶ広い範囲に犬達が乗っているのと、おそらくではあるがキャスターのローブが腰の辺りに掛けられていることは把握できる。
 当たり前のように告げられた言葉を信じて力を抜いた青年に、そんなのでいいのかとぼやく男には信頼しか滲まない声が応えた。
「君は嘘をつかないだろう。なら疑うだけ無駄だ」
「まあ、嘘は好かねぇが……不都合を誤魔化すことならするぜ?」
「ならばやはり無駄じゃないか。君は問題ないと言い切ったからな」
 そうだろう、と。同意を求める先は己の上に乗る犬達だが、応えがあるはずもない。
 ぐりんと首を傾げた彼らと男を見比べて破顔した青年は誘惑に抗わずに犬達の体を抱き寄せた。
 温もりに満たされてどこか強張っていた精神まで緩んでいく。何度も助けられたそれに重なっている魔力は普段よりも強く、男の言葉を裏付けていた。
 男のものに奥底まで染め上げられた霊基を喜ぶ一面があるくせに、認識がついていっていないのか。
 まだ頭がぼんやりしているなと自己分析。ゆるく目を伏せて息を吐き出す。
 どこか辛いかとの問いが降ったところで視線を上げた。
「どこがと問われれば全身だと答えるが……いや、そうではないな」
 聞くべきところはそこではない。何度か唇を湿らせたものの、音にするのに躊躇していれば変な顔をしていると笑われる。
「まあ、その顔みてりゃなんとなくわかるけどな」
 あまり余裕がないからもう少し巻くかと口にしてエミヤの横に寝転がった男は上に乗っている犬達ごと青年の体に腕を回した。
 腰側に陣取っていた毛玉がきゅうと文句を零し、青年の口からも重いと文句が飛び出したが、犬どもがだろうと笑い混じりの返答で誤魔化される。
 次の文句が飛び出す前に男の魔力が動き、青年は咄嗟に唇を噛んで飛び出しそうになった声を噛み殺した。
「そんな風に確認せずとも……今の私は君で満たされているよ」
「まぁ、そうなんだが。こう何回もとなると癖みたいなもんさね」
 魔力不足になったり過多になったりとカルデアでの青年の日常は随分と忙しない。
 不足の場合はともかく過多になるのは毎度この男絡みなのだが。
 瞬間的に強張ってしまった体を徐々に弛緩させながら軽口のやりとり。魔力の流れに関する主導権を完全に男に渡して、青年は深く息を吐いた。
 生殺与奪を丸投げたも同じだが、今更だと思う。
 やることもないだろうから時間まで眠らせてやってもいいがとの提案は丁重に辞退して、どうせなら話をしようと笑った。
 なんでもいいんだと青年は続ける。
 首を捻って少し悩んだ男は、犬が懐くように青年の肩口に唇を寄せた。残されている歯型をちろりと舐めて、この位置はぎりぎりだったなと呟きを落とす。
「治すか隠すかするか?」
「いや、大丈夫だ。どうせもう調理中は君以外誰もいないし、ダ・ヴィンチ女史の所に行く時には上着で隠れる」
 それを許すのも最後だからかと問われ、青年は言葉を探して沈黙したあとで、ゆっくりと肯定を返した。
「何度もこれが最後だから……というのもどうかとは思うのだがね。少しくらい記念になるものを残しておくのもいいだろう? キャスタークラスの君などレアだからな」
 それは、願いの言葉。
 以前言ったな。適性のあるクラスのクー・フーリン全てで私と戦いたいと。
 ありえない夢を語るその言葉に抗い難い魅力を感じてしまったのだと青年は笑う。
「そうだな……まずは手始めにセイバークラスなどはどうかな。魔剣クルージーンを使うところを見られるならなお良しだ」
「オマエそれ投影して溜め込む気マンマンじゃねぇか」
「おや、それが君の望みでもあるだろう?」
 ただでさえ最初の死を媒介に妙な縁が繋がっている相手だと思う。
 奇跡のようなそれを手繰っていけば英霊としてクラスの型に押し込められたものではなく、可能な限り本来の己に近い状態で戦えるかもしれないと夢を見た。
「まあ確かに……いっそルーンでなんとかなりゃよかったんだがなあ」
「おいおい、私の楽しみを奪うのはやめてくれ」
「お前さんがそう言うなら構わんがよ。どんだけ効果があるかは知らんぞ」
 くつり。思わず零れた笑みが大きくなり体を揺らしたことで上に乗っていた犬達が文句を零す。
 彼らを撫でることで謝罪の代わりとしてから、深く息を吐いた。
 繋がりそのものが奇跡なのだ。その先を目指すのなら何事も試してみるのは悪くないだろうと語り合う。
 現実の時間と連動して徐々に闇が薄れていく。
 空が白んでいくのを眺めながら他愛もない話を重ね、穏やかに笑って。夜が明けるにつれてまだいくつか浮かんでいた明かりが光を失っていくのを見る。
 巨木の間に光が上っていく。
 もう少しすれば最後の仕事に赴かなければならないがどうにも離れ難いとお互いが感じている状態で迎える朝。
 動けない状態でゆると持ち上げられたエミヤの手が探るように動き、キャスターの髪を手繰り寄せる。
「オレは多分、君が思っているよりも欲張りなんだ」
 零れ落ちるのはどこか郷愁の滲む声。
 男の返答など期待しない彼はそっと持ち上げた髪の先に口付ける。
 英霊エミヤとは。差し出された誰の手も取らず、死後の自分すら世界に捧げ、永遠の孤独に落ちたからこそ英霊へと至ったものだと思っていた。その認識が誤りなのではないかと気付いたのはこのカルデアで思ったよりも長く共に過ごしたが故だ。
 彼という存在はただ、自分が手に取るものをどうしてもひとつに絞れなかった。全ての手をとることはできないとわかっていてなお、全てに手を伸ばしたが故に英霊となってここにいる。
 苦笑が重なり、男の手は己の髪を握り込んだ青年の手を包み込む。
「……知ってるさ」
 だからこそ己が提示する夢にも手を伸ばせと告げることができるのだと笑う。するりと肌を撫でた指は弓兵の上に乗っている犬の顎下に潜り混んだ。
 男の指先が示すのは呪いの根源。心臓の位置。
「実際のところはどうなるかはわからねぇが……せめてオレの存在、その一部だけでも持ち帰ってくれるか」
「キャスター?」
 一体何を。
 疑問の続きは、身を起こした男の目を見た瞬間に霧散した。
 瞳に熱が灯る。
 どこか行為の最中のような色を残しながらもゆると持ち上げられた視線は真剣で、誰かさんの思惑に乗るのは豪腹なんだがと落とされた言葉もひどく固い。
 改めて、覚悟と共にどういうことだと問えば、心臓の上で止まっていた指がとんと跳ねた。
 随分と馴染みやすくなった今ならと笑う。
「いつかの話じゃないが……餞別とでも思ってくれ」
 言葉と同時に感じるのは光を纏って肌を滑る少し荒れた男の指の感触と、痛みと誤認するほどの熱。
 ひとつは肩から。
 ひとつは脇腹から。
 浮き出した赤の模様は、弓兵の左半身を中心に大きく広がった。同時に同じ場所にいたはずの犬達の姿が消え失せる。
「これ、は……」
 男の指の下。心臓、もしくはその横に埋められたまま沈黙を守っている海獣の残滓を喰らわんと顎をひらく二匹の犬の形にも見え、思ったことをそのまま告げれば、青の魔術師は苦く笑った。
 そっと。肌に浮かんだ模様に触れる。確かにそれはキャスターとして存在するクー・フーリンの魔力。同時に己を満たしていたはずの男の魔力が極端に薄まっていることを認識する。
「あの芸術家が最後の最後までオレらの情報を霊基グラフとやらに刻むだろうが……」
 今の霊基に刻んだところで物理的に座に持ち帰れるわけではない。だからこれはその事実を持ち帰れとそういうことだ。
「随分と派手なマーキングだが……私に何をさせたい?」
「オレは別に何も。まあだが……口煩いのに手出しされるくらいならそれくらいやっといてもいいだろ。オレには槍がねぇからな」
 そのかわりだと男は笑った。
「対抗心かね」
「おうよ」
「ならば仕方ないな。甘んじて受け入れよう」
 体に傷を、または跡を。目に見える形での縁を残すことを許容したからこその言動。
 槍を持ったクー・フーリンという存在ではできない芸当で残す理由を対抗心だと男は語った。
 つまりは他クラスで現界する可能性をエミヤの座が許容するための方便だ。
 理解できてしまえば諦めるより他に道はない。
 くつりと笑いあった二人はどちらからともなく唇を合わせ、瞬きひとつで思考を現実に切り替えた。
 お互い纏う礼装の下に情事の跡を隠して何事もなかったかのように朝に投げられる最初の光を迎える。
「もう動けるだろ?」
「ああ。ではまた後で」
 工房内から部屋へ。
 廊下への扉の前で別れた二人はこの現界最後の仕事に取り掛かった。
 普段通りの風景。普段通りの食事。
 全員が笑顔で食事を済ませ、全ての片付けが済んだ後で赤の弓兵は退去した。
 キャスターのクー・フーリンは約束通り配膳を手伝った後で、元々の予定通り請け負った全ての魔術道具の破棄を終わらせて工房を閉じる。
 続けて誰かが使っていた形跡も綺麗に消した部屋を後にし、ゆるりと廊下を歩く彼の足元に常に付き従っていたはずの犬達の姿はない。
 喫煙室で最後の一本を味わってからダ・ヴィンチの工房を訪ね、最後の霊基グラフへの書き込みを見届けた。
 確認を待っている間に雑談のつもりで今日は自分だけかとダ・ヴィンチに漏らした男の一言は彼、もしくは彼女の何を刺激したのか。思い切り噴き出されてしまったことに渋面を作るも、まるで歌うような次の言葉を聞けば、それもそうかと納得せざるを得なかった。
「今日は君だけだよ。そりゃあ、あれだけ派手なマーキングを自ら言い出して残すのは躊躇われるだろうさ」
 けれど、それを施した側が残ってれば意味はないことに気付いていたのだろうか。どれだけ半端だと自嘲しようと彼のことだ。理解してはいただろう。
「これでいいんだな?」
「そうだね。責任者代理である私と、元々カルデアで召喚されたサーヴァントではないホームズはここに残る」
 手はあれこれ打ってあるが実際使わないことを祈ると告げる彼女は、このまま穏やかにカルデアの引き渡しが行われるとは欠片も思っていない。
 それは退去していったサーヴァント達とて同じだ。
 だからこそ皆、己の情報を記録し、対外的には退去の形を取った契約凍結を受け入れて姿を消している。
 諮問委員会の追及を逃れるため、実際に行われるのは退去で間違いはない。
 だが、召喚されたサーヴァント達のすべては記録されていた。カルデアを仮の座に見立て、レイシフト先での消滅時の強制退去先をこの場所とし、新たな霊基が形作られる際に全ての記録を戻すその仕組みを作り上げたのは、今も眼前で要となる霊基グラフという名のトランクを調整しているダ・ヴィンチだ。
 単独では起動できず、そこそこ膨大な電力が必要という欠点はあるものの、何かあったときにあのマスターの少年と、現在は力のほとんど封じられているデミ・サーヴァントである少女の身を守ることを考えた時に、今までの記録全てを内包したサーヴァントであれば事情を一から説明する必要もない。起動される時はおそらく切羽詰まった状況であるだろうことを考えても、理に適っているのだろう。
 小型化するのに苦労したというそれは、カルデアという方舟で滅びに抗い、未来を掴もうと足掻き続けた人間達のために彼女が作り上げたシステムと根本は同じもの。
 遠回しな言い方ではあったものの、最初にそれを用意するように告げたのは英雄王だったらしい。
 すべてを見渡すという瞳に映ったらしい未来については誰も知り得ないが、拒否権がないこともまた全員が知っているため、書き込み自体を拒否する者はいなかった。
 そもそもカルデアに集った英霊達は保険として日常的に己の情報を元のシステムに書き込まれている。
 マスターである少年の性質を理解し、彼が喚ぶのであればきっと彼自身のためではないだろうからなにを置いても応えたいと願い、それに必要なこととして己の情報を預ける選択をした者が殆どだ。
 そんなきっかけであるはずの英雄王は真っ先に退去してしまったが、キャスターのクー・フーリンはマスターである少年が最初に召喚した者として見届け役を担い、最後の一人としてここにいる。
「ああ、退去するなら最後に声をかけてくれとマスター君が言っていたよ。時間的にもそろそろ管制室に来ているんじゃないかな?」
「了解した。じゃあな」
 もう思い残すことは何もない。
 作業の終了を確認すると、男は静かに彼女の工房を後にした。
 ダ・ヴィンチの工房から管制室は扉ひとつというくらい至近だ。もちろん直接出入り可能で、最終決戦時は管制室に残っている人間達の避難所としても検討されていたくらいである。
 未練もなく退去のために足を向けた男の姿を見つけて手を挙げたのは、マスターである少年と隣に寄り添うように立つ少女。
「なんだ、見送りか?」
「……まあね。これはけじめだからさ」
 彼の手にいつか渡したルーンストーンが握られていることに気付く。
「なぁ、マスター。オレらは言ってみれば過去の影だ。それが、今を生きている奴に残せるものなんか無い」
 知っていると簡潔な応え。それでも、と少年は言葉を続けた。
「俺は覚えている」
 きっぱりと言い放って。人理修復の旅の全て、公式記録を改竄され、己の功績を抹消された彼は笑う。
「そうさな。さっきは何も残せないと言ったが、それは物の話だ。この旅でアンタの裡に築き上げられた経験は、記憶は残る」
 もはやただの一般人に戻るのは難しいかもしれないが。
 言葉を飲み込んで、男はぽんと少年の肩を叩いた。
「嬢ちゃんを泣かすなよ」
「言われなくても」
 即答に笑って。
 世界の果てにある塔の中で花の魔術師が笑ったのを彼らは知らず、じゃあなと告げただけで男の姿は光となって消え失せた。

  2

 告げる。
 響く声に滲むのは少しの緊張と固い決意。
 紡ぐのはサーヴァント召喚のための呪文。
 描かれた魔法陣が白熱し、術者の魔術回路も同じように熱を帯びる。
 苦痛と高揚とを飲み込んで起動したそれの行方を見守れば、収束したエーテルが男の姿を形作った。
 薄れた光が散ってすぐ。視界にひらめいた色彩に見惚れているらしい女の耳飾りはひどく馴染みのあるもので。形を得たばかりの男は苦笑する。
「アンタがマスターかい?」
 随分と物騒なものを持っているようだが。
 軽薄に聞こえる声と表情。
「ええ。バゼット・フラガ・マクレミッツと言います。稀代の英雄にお会いできて光栄ですよ、ランサー」
「……オレの自己紹介は必要なさそうだな。ま、よろしく頼むぜ」
 それにしても自分はそんなにわかりやすいかと問えば、貴方以外を召喚するつもりはなかったからだと返されて苦笑する。
 彼女が着ているものはパンツスーツ。男装の麗人と言われても通るだろう。女性らしい飾り気など皆無の中で唯一身に付けられた耳の飾りを弾く動作。
 それが答えだった。
「今回が五回目の聖杯戦争だと聞いていますが、サーヴァントはまだ出揃っていないようです。極東の地方都市で行われる大魔術の回数としては異常なほどですね。今のうちに少しでも情報を集めたいところなのですが……」
「そいつぁ構わねぇが、その前にお前さんは少し休むべきだろうな」
「そう……ですね。貴方の言う通りです。確かに本調子とは言い難い。バックアップがあるとはいえ、思ったよりもマスターの負担は大きいようですね」
 召喚術は対象の規模により術者にかかる負担が増すものだ。ましてサーヴァントなど、本来ならば召喚できるだけでも奇跡であり、強者を従わせるのならばそれなりの気力と魔力を必要とする。
 計画を修正するべきかと独語したバゼットの生真面目さに苦笑する。
「オレに願いはない。強いて言えば強者と戦うことくらいだが……まあ、オレのことをよく知ってるらしいアンタなら改めて宣言する必要もなさそうだな」
「ええ。私は貴方の生き様を知っていて焦がれ、サーヴァントに望んだ。ですからそこは信頼していますよ」
 令呪で縛るまでもなく、男は主人を裏切らない。共通の認識は言葉にせずとも確かに二人の間に存在している。
「なら迷う必要なんぞねぇだろうが。アンタは命令すればいい。このオレのマスターなんだからな」
「そうですね」
 少しだけ苦い笑みは少女時代の名残を残していたが、次の言葉はそれに反して冷えていた。
「では私が休んでいる間に情報収集を。それと、聖杯戦争に無関係の魔術師が周囲にいた場合、貴方の判断で適宜始末してください」
 自分の身は自分で守れる、と。
 言い切った彼女の表情は、憧れを宿した少女から任務を遂行する駒の顔へと変貌していた。
「了解した」
 嘘も気負いもないことを確認して男は頷く。
 現状と当面の行動を打ち合わせた後、バゼットをその場に残し、外に出る。
 どうも森の中に立てられた建物らしい。
 出てきた洋館を見上げてからぐるりと一周するように歩けば、慣れ親しんだ気配が感覚に触れる。
 軽快な足取りで回り込み、元を探れば簡易的な結界の痕跡が確認できた。
「おいおい、ルーンを使う魔術師にしちゃなんともお粗末なんだが……現代のルーンってやつがこうなのか、それとも単に苦手分野ってだけか?」
 現界して最初に見た眼差し。真っ直ぐな瞳。
 それらは、彼女が戦闘を躊躇わないものだと男に教えていた。そして自分を狙う外来の魔術師は始末しろと躊躇うことなく口にしたことから直感ともいえる己の考えは核心に変わっている。
 改めて確認せずとも己の直感を彼は疑わない。だとすれば偵察はむしろ己の方が向いているだろうと判断し、同時に方向性を定める。
「サポートは……出来なくはないが、ちと物足りねぇな」
 それでも。必要なことであればやるだけだ。結果を引き寄せるための回り道も、努力も、男は厭わない。
 召喚時に付与されたらしい現代の知識を検分しながら森を抜ける。
 途中で遭遇した魔術師らしき面々には軽く幻惑をかけてお引き取り願い、高台の住宅地に出た彼は手近な屋敷の屋根に登った。
「霊脈と魔術の気配はだいぶ濃いな……この街だけか。そう大規模でもねぇが」
 現代としては十分大規模な範囲なのだが、マスター不在の今、訂正を入れる者はいない。
 あまり派手に動くと後々面倒になりそうだと判断。
 ルーンで隠形を施した上で気になる場所を見て回ることに決めた男は、即座に行動に移した。
 結界に触れそうな場所は深追いせず、外から読み取れる情報と位置だけを記憶するに留め、街全体の把握を優先させることにする。
 サーヴァントの身体能力であればさほど大きくもない街ひとつ、見て回るのは容易い。
 街の中央に流れる川に架かる橋のアーチ。その一番高い場所に落ち着いて、改めて周囲を見渡す。一周してみて気になる場所はいくつか絞った。そろそろ戻った方がいいかと踵を返した男の視界が一瞬ぶれる。
「は……?」
 慌てて再度瞬きしても状況が再現されることはない。
 代わりに見下ろしていた道を行く派手な金髪の男が目に入った。
 そろそろ冷え込む季節のはずだが、ジャケット一枚の姿は温度を感じさせない。
「おいおい、そんなのアリかよ」
 なにより、そこは車道だ。だというのに、他の車は人など居ないかのように、あまりにも当たり前に避けていく。
 ざわと逆波を立てた風が駆け抜けて視界を惑わす。
 うっすらと残った気配は花を思わせる淡い香り。
 魔術師同士の争いは人目を避けると知識で得ていた。だからこそ、山や森の中のように常に人目がないところ以外では滅多なことはないだろうと判断して太陽も高いうちから動き回ったのだが、なんとなく感覚にズレのようなものを感じる。
 現時点では材料が少なすぎて、考えたところで答えが出るようなものではないのだろう。
 どうにもならぬ気持ち悪さを飲み下して、男はその場を後にした。
 強風が吹き抜ける橋の麓に、どこからともなく飛来した花が香る。
 ありえない現象に気付いているだろうに、悠々とした足取りで海浜公園に降りた金髪の男は目を細めて口角を上げた。
「我に夢を見せるか、花の魔術師」
 問いというよりは確認だろう。呼水として機能した名により、濃く花の香りが男を囲んだ。
「そこはほら、許してほしい。私だって入り込むなら可愛い女の子のほうがいいに決まっているからね」
「さっさと用件を話せ。予想はつくがな」
 王様はせっかちだねぇ。姿を映す代わりに幻の花が舞って、笑っているのだとわかった。
「どうやら彼は無事に召喚されたようだよ」
「識っている。それで、貴様はその報告だけをしにきたわけでもあるまい」
「あとはそうだね。雪の少女との合意は済んでいるよ。この戦い、バーサーカーは動かない」
 郊外の森にひっそりと存在する冬の白。そこの主は冬木の聖杯戦争における聖杯そのものでもある。
 真っ先に異変に気が付いただろう彼女だが、正面から会いに行くのは少々手間がかかる。
 この場に存在するようで存在しない。花の魔術師の行動には制約も多いが、物理的な一切を無視して接触を図れるのは明確な強みと言えた。
「言峰には残りのサーヴァントの召喚を急がせるよう伝えてある」
 今晩、そして明日にでも事態は動くだろう。
 一度目を伏せ、再び上がった男の瞳には世界のあらゆることが映し出される。
 瞳の中にちりと火種が爆ぜた。
 死の匂いが充満し、炎が空を舐める街は世界からも孤立している。
 黄金の鎧に彩られた身は人ではなく。また神とするには些か人に近すぎた。
「随分と世話をやかせてくれる……」
 引き上げられたままの唇からこぼれた声音は表情とは裏腹に笑っていない。
 ふ、と。
 いっさいの表情を消した男は鋭く息を吐き、もう一度瞬きをしてから天を仰ぐ。
 視線の先に捉えるのは消えない炎に照らされた星のない空ではなく。少しだけ傾いた日の光が眩しい昼のそれだ。
 揺らいでいる。ならば、強引にでも引き寄せるまで。
 その結果全てが崩れ去ったとしても、このようなところで崩れるならばそれまでだと男は笑う。
「さあ、早く我の元まで来い」
 未来は焼き払われた。
 宣言は、結果を引き寄せる言霊。
 ふわりと花弁が舞って、意地の悪いことだとその香りが笑う。
「……貴様とて変わらぬだろうに」
 もう何回視てきた。
 決めつけの問いにはさらなる花弁が笑い声を響かせて。
「嫌だなぁ。この私が視ているのはこれが最初だよ」
「フン、そういうことにしてやろう」
 それにしてはずいぶんと色々立ち回っていたようだが。
 辛うじて問いの形をとってはいるものの、興味はないと言わんばかりの声が落ちる。
「そりゃあね。君だってよく知っているだろう? 私は彼のファンなんだ」
 上機嫌なそれを知らんの一言で叩き落とし、赤眼を細めた男の周囲から急速に気配が遠ざかり始めた。
「時間のようだ。ではね、賢王。おっと、ここでは英雄王だったかな」
 最後の最後に付け足すように彼女の準備もできていると告げて去った花弁が消えたところで、その報告が一番先のはずだろうと、届かない苦情を落とす。
 曖昧だった周囲の景色は元の色を取り戻し、夢から現実に戻ってきたことを知らせるように高く鳴いた鳥達が空を渡っていった。
 事態は動き始めているものの、天秤がどちらに振れるかは未確定。一度現状を確認すべきかと判断した男は高台にある教会へと足を向けた。

  ***

「花の匂い、ですか」
「ああ。アンタだって手練れの魔術師だろう。なにか感じねぇのか?」
 情報収集を始めて数日。
 サーヴァントが揃ったという話はまだ聞かず、監督役からも何の通達もないまま。一度情報を整理しようと拠点に戻ったバセットは、己のサーヴァントからの問いに首を傾げた。
「いいえ、特には……ランサー」
「ああ。お客さんのようだな。アンタは裏を頼む。正面はオレがいく」
 結界の警告に引っかかったのは二箇所同時。
 面と向かって確認しない限り別口なのかそれとも仲間なのかの判断は難しい。
 二手に分かれる判断は妥当というところだろう。
 分担に文句がないのは、裏のほうが後処理を考えながら加減をしなくてもよいためだ。
 どうにもこのマスター、脳筋……もとい身体強化以外のルーンが不得手だと男が知ったのは最初の偵察から戻ってすぐであった。
 結界の構築をやりなおしたのが男なら、侵入者に気付くのも基本的には男の方が早い。
 実力不足の相手であれば放っておいてもおまけ的に設定してある幻惑に引っかかって本人も気付かぬうちに回れ右をしてくれるのだが、どうも今回はそういった類ではないらしい。
「正面はお任せします。ですが……」
「わーってる、って。追手なら容赦するなってんだろ。それより裏手側の数が多そうだ。頼んだぜ」
「ええ」
 お互い気負いのない言葉を投げて。
 男のほうは霊体化して様子を見るということもできなくはなかったが、直感がその選択を除外した。
 結果として彼らは揃って二階の廊下から下のホールへと身を躍らせ、危うげなく着地して二手に分かれる。
 正面から外に出たところで待てば、全身黒づくめの男が一人、悠々と歩いて来るのが見えた。
 殺気も敵意も感じられないが、直感だけは危機感を訴えているのに合わせ、警戒を保ったまま出方を窺う。
 結界も罠も一切が反応しないのが逆に不気味。
 実際、裏はともかく正面からの侵入者を捉えたのは気配によってであった。
 気付くのがほぼ同時だったことからもそれが窺える。
「見たところ神父に見えるが、なんか用かい?」
 まともな応えがあると思わないまま発した男の問いに立ち止まった神父らしき影は、表情を変えないままに口を開いた。
「ランサーか」
「……誰だテメェ。オレにこの時代の知り合いはいないはずだがな」
 呼び掛けられたクラス名に違和感がある。
 こちらをサーヴァントとして認識している以上、関係者であることは確か。しかも様子見のために武器すら握っていない状況での断定。
 そもそも、初対面のはずの人間にクラス名とはいえ明らかにサーヴァントとして話しかけられれば嫌が応にも警戒度は跳ね上がった。
「そう警戒せずともよい。今回は私の出番はないからな。伝言を伝えに来ただけの、ただの傍観者だよ」
「そんな言葉を信用するとでも?」
 自然と棘のある言い方になるのは当然だろう。
 薄く笑って、しなくても構わないと声にした神父は、君のマスターに伝えてくれと続けた。
「未だ七騎揃ってはいないが、早晩聖杯戦争は開始されるだろう。それと、柳洞寺に行っておくといい」
「あぁ?」
「確かに伝えたぞ。ではな」
 要件は済んだとばかりにくるりと背を向けて去っていく姿を見送る。
 本当にそれだけのために来たのだと言われようと、姿が見えなくなるまで警戒を解く気はなかった。いや、できなかったという方が正しいか。
「ったく……一体ナニモンだあの神父」
 念の為そのまましばらく警戒を続けたものの、男の気配が完全に消え、別口だったらしい裏手の戦闘も終了したらしいところで引き揚げる。
 館の中に戻ればちょうど戻ってきたらしいバゼットと玄関ホールでかちあった。
「ああ、ランサー。争った気配はなかったようですが、そちらはどうでしたか?」
「真っ黒い神父が伝言を持ってきただけだったぜ。そっちは派手にやったみてぇだな」
「そうですね。どれも小物の使い魔達でしたが、拠点を移すことも視野に入れるべきかもしれません」
 考え込む仕草をした彼女が、男が出会ったという人物を確認する。
 知り合いかとの問いには、どこか曖昧な応え。
「知り合いといえば知り合いなのですが、以前任務で一緒になった事があるだけでさほど親しい間柄というわけではありません。ですが、それとは別に、彼は今回の聖杯戦争の監督役のはずです。魔術による通達ではなく、直接来たというのがわからないですが、柳洞寺に行っておけというのなら無視するわけにもいかないでしょうね」
「監督役ぅ? あれがか」
「れっきとした聖堂教会所属の神父ですよ。まあ、代行者ですし、魔術教会とも繋がりがある時点で異端だとは思いますが」
 簡単な神父の説明の後で、それにしても柳洞寺かと苦い声が落ちる。
「あれだろ。西側の山中にあるデケェ寺。けったいな結界が張ってあるのはわかったから手は出してねぇが」
「ええ。この街最大の霊地だからでしょうか。昼間に観光を装って入ってみた時の感じからすると、あの結界以外に目立った魔術痕跡は見当たらず、泊まり込みで生活していると言っていた人々も無関係のようでした」
 話せば話すほど、自然と夜に行く必要があるだろうという結論に達する。
 結局、一度昼間に訪問して内部を把握し、その後改めて夜に行ってみるという方向で話は纏まった。
 霊体のままでは入れないため、実体化した上でバセットに合わせるようにジャケット姿に服装に変えることで人間を装う。
 同じ魔術師から見ればバレバレだがそこはそれ。バレたとしても他に人目がある場所でなら戦闘になることはないだろうという公算は大きく、この主従の場合切り札はむしろマスターのほうであるため、相手を混乱させられるならば逆に利点になる。
「こんなもんだろ。どうだ?」
「ええ。問題ないでしょう。では行きましょうか」
 拠点近くの森の中はともかく、昼間の街中を人外の脚力で踏破するわけにもいかない。ギリギリ言い訳ができる程度の速度で街を抜け、逆に人の目がなくなった山道では限界までスピードを上げた。
 車などが近付いて来ればその一瞬だけ普通の人のふりをして歩き、短時間で境内に続く石段前に到着することに成功した。
 男はもちろん、バゼットも汗ひとつかいていない。
 時刻はちょうど夕刻につま先をかけたあたりで、夜になるまでにはまだ時間がある。
 視線を交わし、頷きを返すだけで言葉はない。静まり返る石段を登る二人の警戒度は高いが、正面からの場合に限り結界にひっかからないことは確認済み。
 観光客を装うならば多少挙動不審でも怪しまれはしないだろう。周囲に視線を配りながら山門を潜る。
 中に入ってもほとんど人と会わないが、経を唱えているらしき声や、警策の音が聞こえることから無人ではないことが窺えるのみ。
 目的通り、ひとしきり建物の位置や広さなどを確認した二人は日が暮れる前に山を降りた。拠点まで引き返す手間を惜しみ、途中のガソリンスタンド跡地に身を潜める。
「何か気付きましたか」
「驚くくらいなんもねぇな。唯一あるとすれば、ご同類の気配があったことくらいか」
 残り香のような儚さではあったが。
「霊地を押さえるということはキャスターでしょうか。霊脈との相性が悪かったために撤退したという可能性は考えられなくもないですが」
「それでもあの無防備さはおかしい。アンタだって、自分が利用できなくとも、あれだけの場所なら邪魔をするための仕掛けの一つや二つ、用意しておくだろ。キャスタークラスのサーヴァントなら尚更だ」
「それ自体が罠という可能性もありますね」
 よほど自信があるのならばその可能性もあるだろう。
 いずれにせよ、夜に確かめるくらいしか現状とれる手段はない。
 そのまま夜まで待機を選択した彼らは、可能な限りの準備を整え、改めて石段を望む道路に立った。
 夜間のため山門は閉じている可能性もあるがなんとかなるだろう。
 深い森に沈む石段には明かりもなく、辛うじて届く月明かりだけが頼り。
 一気に駆け上った二人は山門に辿り着くかといったところで門を超え、中に入る影を見た。
「追ってください」
 サーヴァントであったことを確認するまでもなくバゼットの指示が飛ぶ。躊躇なく加速して跳躍した男の視界は山門前に仁王立ちする影を捉えたが、支援のために用意してあったルーンストーンを一つ放っただけで境内に着地、即座に周囲を確認して目的の影を追った。
 あたりは静まりかえっている。
 足音も立てずに移動する二つの影は、寺の裏手、霊園に続く遊歩道になっているあたりに開けている場所で足を止め、向かい合った。
 月の光が姿を浮かび上がらせるが、お互い武装していないこともあり、真名の特定もクラスの特定も困難な状況。
 だというのに。皮肉に笑った赤い衣を纏う濃色の肌を持つ人物は、盛大に肩を竦めてから武器を取れと告げる。
 明確な挑発だ。
 あえて乗ってやることにして手元に槍を出現させる。
「随分と自信家だな。それで、そっちの自己紹介はしてくれねぇのかい?」
 真っ直ぐ横に伸ばした右手は槍を握った状態のまま。ゆらりと動いた魔力が男の周りを漂う。
 煽られたなら煽り返すまで、という意図でやったことだが、返ってきたのはさらに呆れたような声であった。
「やれやれ……変装にしても、もう少しマシな選択肢はなかったのかね?」
「あぁ? 何言ってんだ、テメェはよ」
「なに、ランサーの塒を訪れるのにランサーに変装しては本末転倒だろうと言っただけさ」
 ざわり。
 風が吹き抜けて木々が騒ぐ。流れた雲が月を隠し、周囲は闇に落ちた。
 この場所は明確な霊地だ。なれば、神殿としていたのはキャスターではないのか。疑問は声になる前に消える。
 黒服の神父といい、この赤い礼装を纏うサーヴァントといい、初対面のはずなのに、こちらのクラス名もなんなら真名すら把握しているような言動をするやつが多すぎる。
 静かにゆらめく魔力を見れば色を持つ光となって幻視されるが、実際に影を落とすことはなく、周囲は闇のまま。少しだけ顔を顰めた相手の表情を捉えられるのは魔術による視覚強化の恩恵であった。
 それも一瞬だけ。全てを知っているような物言いのせいだろうが、何かが引っかかる。
 武器をとれと告げたくせに己は武器を握らない。それどころか殺気も、敵意も感じられない。
 疑問をそのまま口にしようとした瞬間、滑るように眼前に移動してきた相手には、むしろどこか戦友と接するような気安さすら感じられた。
「それとも、そんなに槍が恋しいかね、キャスター」
 ぐわん、と。
 頭の中身を揺さぶられるような衝撃に思わず手にしていた槍を地に刺し、支えにする。
 するりと伸びた濃色の手が髪留めを浚い、風に煽られた男の長髪はほうぼうに広がってはたはたと背を打った。
「ぐ……ッ! おま、え」
「どうした、キャスター」
 慣れないはずなのに親しんだ呼称。
 声を。髪留めを握ったままの手を知っていると、本能に根ざした何かが囁く。
 男を取り巻く魔力が揺れる。
 槍は杖に。
 ひたりとその身を覆う青いバトルスーツはゆったりとしたローブとボトムスに。
 雲に隠された月が淡く光を取り戻した時には、魔法が解けたかのように男が纏う衣服は変わっていた。
 唯一、奪われていた髪留めだけがまだ赤を纏った人物の手中。大切そうに胸元でそれを握り込んでいる彼は、うっすらと泣きながら微笑んでいるようにすら見えた。
 曖昧な表情が悲壮感を駆り立てる。
「……アーチャー」
 クラス名など推察できるはずもない相手を見据え、謎の確信と共にその言葉を紡ぎ出す。目を見開いた彼は、それでも息だけで肯定の言葉を落とした。
 沈黙が落ち、ただ立ち尽くす二人の間をうっすらと花の香りを運ぶ風が吹き抜けていく。
 空が赤く染まる。
 周囲に散った幻の花弁が燃えて。世界の軸が動く気配。
「……は?」
 呆然とした呟きを置き去りに、視界の先で火の柱が上がる。それは光というにはあまりにも禍々しい黒。
 直後の轟音は、おそらく周辺一帯に響き渡っただろう。
「一体どうなってやがるんだよ!」
 テメェ、何か知っているんだろう。
 あれだけ煽ったくせに戦闘の意志がない目の前の青年に噛み付かんばかりに問えば、おそらくはライダーかアサシンがセイバーにやられたのだろうという回答。
「やられたって……あんな派手にぶっ放したら神秘の秘匿もなにもねぇだろうが」
「詳しくは確認してみないとわからないが、おそらくは問題になるまい。それより、君には先に確認してほしいことがある」
 君のマスターはどうだ。
 問いの意図が掴めず、男は眉を寄せた。
「君はマスターと共にここに来ていただろう。赤毛の女性だ。彼女はどうした?」
「赤毛……そうだ、バゼット」
 山門にいたサーヴァントと一戦交えているはずだと言えば怪訝そうな顔をする。
 マスターだよな、という疑問はもっともだが、伝説の宝具を現代まで継承してきた家系というのは騙りではない。
 間違いなく現代人であるのに宝具が使えるというのは確かに有利ではあるが、恐ろしいことに彼女はそれがなかったとしても、サーヴァントを相手にしてそこそこ渡り合える実力があるのだ。
「やはり今の君のマスターは彼女で合っているんだな。なるほど」
 一際強く吹いた風が舞い上がるのに合わせるように、遠くで火柱が上がったのが見えた。
 山門へと走り出した男は己がキャスタークラスだということを思い出してルーンストーンを放つ。姿は変わっても手元に残っていたそれは、ここにくる前に彼女と共に仕込んだものだ。
「いや……逆か。元からキャスターで召喚されてたってことなのか。しかしなぁ」
 適性が皆無とは言わないが。
 それならば最初からランサーと呼ばれることに違和感があった説明もつく。
 バゼットにはクー・フーリンを召喚するならランサーだろうという思い込みがあり、多少譲ったとしてもセイバーあたりまでが現実的な範囲だろうというのは、召喚される側である男ですら頷くところだ。
 よくよく検分すればその場で気付いただろうが、結果的にマスターによる最初の呼びかけが男の在り方を縛り、ランサーとして行動させていたとも言えるだろう。
 辿り着いた山門には人気がなく、サーヴァントの気配もない。ただ、そこそこ激しい戦闘を行なったらしい痕跡だけがそこかしこに残っていた。マスターとのパスは辛うじて認識できているもののひどく遠い。
 まるで世界を跨いでいるかのような感覚は、なんの兆候もなくふつりと途切れた。
「……一体どうなってる」
 いつの間にかアーチャーだと認めた青年の姿も見当たらない。それどころか寺に寝泊まりしているはずの人間達の気配もなく、見下ろした街はそこかしこから激しい炎が上がっていた。
 こんなところまで届くはずもないのだが、ものが焼ける匂いがする。
 マスターとの繋がり切れれば世界の異物であるサーヴァントは留まれないはずなのだが、己の存在強度が揺らぐ気配はない。魔力の供給が絶たれたことで別の手段を模索する必要はありそうだが、とりあえず即座に退去ということはなさそうである。
 そして新たに何かがない限り炎がここまで到達するにも相当時間がかかるだろうことが察せられた。
 状況がわからない時ほど基本に忠実に行動するほうが確実だ。
 男は改めてキャスタークラスとして己の状態を精査・把握し、使えるスキル、身体能力などを検分する。
 魔力量を除くあらゆるステータスがランサー時より低下しているらしい状況に頭を抱える羽目になったがそこはそれ。逆に考えれば相手が侮ってくれる可能性が高いため、決してマイナスではないはずだ。
「そいや髪留め……アイツに取られたままだな」
 己のものであるからにはやろうと思えば在処を辿るくらいはできるだろうと一旦忘れることにする。
 赤い弓兵。こちらを知っているらしい言動は黒い神父と同じだが、どことなく懐かしい気もする。もしかしたらどこかの聖杯戦争で顔を合わせているのかもしれないが、ただの分霊でしかない己では確認する術はない。
 それにしても。
「時間の問題だな、こりゃ」
 どのみち町の様子を見に行く必要もある男は意を決して山を下りた。
 相変わらず人の気配はなく、動物の気配もない。
 炎は魔術的なもののようで勢いが衰えることもないが街の外に広がってもいない。さらには噴き上げるそれと一緒に周囲に撒き散らされているのは現代ではありえないような濃密なエーテル。
 男は一度目を閉じて深く息を吐くと、意識的に彼方を見据えた。
「どうも街のすぐ外側で閉じてんな。ってことは現代のインフラは全滅かね」
 冬木市と言われていた一帯は停電しているが、炎の明るさで暗闇には程遠い。もっとも、それを有難いと感じるような者が残っているとも思えなかった。
 住宅地のはずだが人間はおらず、己のマスターを含めて忽然と消えてしまった。
「コソコソ隠れてねぇで、出てきたらどうだ?」
 カタカタと連続する音は笑っているかのよう。姿を現したのは動く骸骨、スケルトンだ。
「おー。骨っこどものくせに隠れて奇襲なんて知能があるのかよ」
 口角を上げて、手には杖。
 ちょいちょいと指先に灯した炎を揺らして挑発してやれば、一斉に敵意がこちらに向いた。
 そのあたりは単純なんだなと内心だけで笑って。確認作業を兼ねて軽くぶつかってみることに決める。
 魔力を灯した指先に意識を集中すると同時に視覚を強化し、周囲に視線を流す。違和感のある箇所は三箇所。
 右に持つ杖の先端と石突き、左の指先に順次魔力を移動し、スケルトンの群れに突っ込みながら宙空にルーンを描き、固定する。
 キャスタークラスになったためだろうか。ランサーならば無茶なそれもすんなりできると確信できた。
 二体すり抜けざまに振り抜いた杖で脛骨を抜き、転がり落ちた頭部を蹴り上げる。
 ボールのように飛んだそれは、ストライクとでもいうように纏めて一ダースほどの胴を吹き飛ばしてその場に崩れさせた。
 通常の生命体と違い、この程度ではすぐに復活してくるが、時間稼ぎなら十分。
「オラ、燃えろ!」
 骨も、それを動かしている悪意のような意志も。丸ごと燃え溶かして男はその中心に立つ。
 そろそろ出てきたらどうだと声を上げれば返答は気にしていた三箇所から飛来したナイフ。
 男は動かずとんと杖で地面を突く。それだけで動きを止めた刃は炎に包まれ消え去った。
 大量のエネミーをけしかけておいてからの不意打ち。手口から考えればアサシンかと判断する。
「ずいぶんなご挨拶だな」
 カタカタカタ。
 再び集まってきた骸骨達が嗤うが、ナイフの主は姿を見せないつもりらしい。
 それならそれで構わない。どちらにしろ相手がアサシンなのであればここで倒しておくのが最善手だ。
 撤退するにしてもよほどうまくやらないことには後々面倒なことになるのは目に見えている。
 炙り出すか。
「まだテメェらがくんのか。親玉は出てこねぇのかい?」
 ぐるりと見回してわざとらしく上げる呆れ声はただの煽りだ。実際、男の視線はその向こうに潜むものを慎重に見極めている。
 意識の片隅に何かが引っかかった。なんだと思う前に体が勝手に全力での防御姿勢を取る。
 直後。
 隕石とも思える力が目と鼻の先に直撃した。爆風、衝撃波、言い方はなんでもいいが眼前で炸裂した力には膨大な魔力が渦巻いている。
「クソ……ッ!」
 あえて力の流れに逆らわずに吹き飛ばされながら防壁を追加。
 アサシンの不意打ちを警戒して隠形の術式を重ねたのは念の為だ。
 感覚さえ狂わせる嵐のような魔力が吹き荒れる中では最小限に絞って発動させた魔術の痕跡など掻き消されて辿れるものではないという計算はあるが実際のところは不明。
 警戒しておくに越したことはない。難を逃れた樹の上に着地した男は、そのまま気配を消して様子を窺うことを選択する。
 瀟洒な洋館が立ち並ぶ区画だった場所はごっそりと抉られて巨大なクレーターに姿を変えていた。
 中央で漆黒の刀身を持つ剣を突き立てていた人物がゆらりと立ち上がる。
 外見だけを見れば小柄な少女だ。ただ、その身を覆う漆黒の魔力が強大すぎて、人の身どころかサーヴァントとしても規格外なのだと周囲に知らしめる。
 引き結ばれた唇は動かず。全身を覆う禍々しい黒い甲冑と、面に隠された目元。一瞬にしてあたりを消し飛ばしたにも拘わらず、感情の温度すら感じられない。
 なんの感情も浮かばない人形のような姿は、見るものに恐れを抱かせた。
「もしかして魔力放出でカッ飛んできたのか?」
 男が口にした内容は言うほど簡単なことではない。
 目的が果たされたのか、周囲を確認してから剣を抜いた彼女はそのまま彼方の森の方向へと去っていった。
 来た時も同じようにしたのだろう。剣へと集めた魔力を推進力にして放出したため、クレーターの深さはさらに拡大し、冷えかけたマグマを思わせるどろりと濃いエーテルが底に溜まっていくのを見る。
 煮立った魔力すら暗く。
 いっそ利用できれば便利だろうが、現段階で実行するのは危険すぎた。
 己でさえギリギリで反応したくらいだ。同じように巻き込まれただろうアサシンの暫定位置から判断すると、すでに脱落している可能性も高い。
 確認事項が山積みだが、まずは拠点が必要だと判断して枝の上に立ち上がる。
 随分と見晴らしがよくなってしまった住宅街の向こうには橋が、そのさらに向こうには燃え上がるビル群が夜空を赤黒く染めている。
「展望台になりそうな場所はないってことかね。そんじゃ地道にいきますか」
 世界は閉じているが、その内側で巡回し、破壊された場所から噴き出している。圧縮されたエーテルは濃く、変質はしても霊脈の機能そのものは生きている可能性が高い。
 そもそも、さきほと大穴を開けられた目前の一帯がかなりの格を持つ霊地でもあったのだ。
「寺のトコはともかくとして、あとは新都の教会か。なーんかあそこ行くのあんま気が進まねぇんだがな」
 避けられないのならば仕方がない。
 霊体化と同時に防御術式を解除した男は濃いエーテルの流れの中を泳ぐように夜の街を滑っていった。

  3

 街を舐める炎は息を潜める気配もない。
 空は暗く厚い雲に覆われ、星や月の光どころか太陽すら世界から追い出した。
 全てが夜に沈み、何も無くなっても燃えたままの炎だけが光源として存在している。
 それでも時折、多少の天候変化はあった。
 火の粉と共に雫が舞う。
 急坂が続いているためか、それとも単純に大きな道路を隔てていたために火の回りが抑制されたのか。辛うじて火の手を逃れている住宅街を貫く階段の一角で、炎よりなお赤い礼装を纏った青年は全身が濡れるに任せたままで街を見下ろしている。
「よぉ。状況はどうなってやがる」
「……こちらが知りたいくらいだがね」
 生きていたなとの声にはそう簡単にはと軽口が返って。
 ようやく顔を合わせた二人はどちらからともなく苦笑を浮かべた。
 情報交換を提案したのはキャスターから。異常事態のようだから断る理由はないと告げたアーチャーは、付いて来いと杖すら手にしていない男を手招いて歩き出した。
「おいおい、どこまで行くつもりだ?」
「先に確認したいことがある。君は教会へは行ったか?」
「おう。霊地っぽかったから一応確認にな。特に気になることはなかったと思うが……」
 文句も言わず青年の後を歩きながら、訪問してからそう時間も経っていない場所を思い返す。
 街の他の場所と同じようにもぬけの殻ではあったが、霊地であるが故に濃密なエーテルが滲み出しており、それを摂取したと思わしい骸骨が大量に彷徨っている程度だ。当然のように併設されている墓地もあるのだから驚くようなことでもない。
 なるほどと頷いたアーチャーは何もないならいいと告げて橋を渡った。
 聞いたからには教会に向かうのかと思ったがその足は逆方向、むしろ海側へと向かう。
 辿り着いたのは公園だった場所だ。
 冬木中央公園と名付けられていたそこの中央には深く抉られた地面が横たわっている。
「こいつは……セイバーのか」
「ああ。君と柳洞寺で会話していた時に上がった黒の極光はこれのものだろう。実はここも教会と同じくらい曰く付きの場所でね」
 切創のように一直線に口を開けた地面からは住宅街の時と同じようにエーテルが湧き出して空へと上っていく様子見てとれた。
「君の目にはどう見える?」
「そうさな。どうにも違和感があるが……」
 言葉通りの違和感はエーテルの動きが早すぎることだと気付く。つまりは何かを誤魔化していると予測できて、杖を手元に引き寄せた男は弓兵を遠ざけた。
「加減しねぇから巻き込まれんなよ」
「承知した。ここはお手並み拝見といこう」
 軽く地を蹴ってアーチャーが下がったのを確認してから改めて杖を握り直し、裂け目に向かい合う。
 必要なのはキャスタークラスでどこまでのことができるかを確認することだ。
 当然の帰結ではあるが、ランサーで召喚されている時よりも高威力でルーン魔術が使えることは把握済み。同時にゲイ・ボルクが使えないことも理解できている。
 ランサーだと思い込んでいる間にサーヴァントとの戦闘がなくてよかったと思うべきなのか迷って。意識に引っかかった箇所に杖の先を向ける。
「ごちゃごちゃ考えても仕方ねぇ。とりあえず試してみればわかるだろ」
 宙空に描き出したルーンが光の軌跡となってその場に留まり、淡く輝いた。
 ひとつ、ふたつ。
 優雅に翻る手が何もないはずの空間にいくつもの文字を描いていく。
 ルーン魔術は文字それぞれに複数の意味があるが故に術者が選び取るものに依存する制約が存在する。
 それらをまるでコンピュータプログラムのように重ねて次に描き出す文字を補うように記述していくことで強大な結果を引き寄せることができた。
 術者の解釈と魔力の質も大いに関係する。
 現代においてルーン魔術を復刻したどこかの冠位人形師はルーンにルーンを描かせることで現代では法外なほどの力を動かしてみせたという。まして男が操るのは現代においては失われた原初のルーンだ。
 シングルアクションに相当する一文字だけでも現代のそれとは比較にならない威力を持つ。
 加えてルーンは刻む魔術だ。詠唱でも代用は可能だが、察知されて対策されやすい。
 予め用意しておく方が使い勝手がいいのは確か。
 都合よく刻める場所やものがあるとは限らない戦闘時において、ある意味どこにでも描けるというのは明確な強味となる。
「どっかの誰かさんに見られたら面倒臭ぇことになりそうだが……まあいいか」
 ととん。描いた文字を軽く弾いて小さな火球を飛ばす。
 牽制と挑発を兼ねたそれを追うようにして己の体を強化し、地を蹴った。
 姿勢を低くした男は手にした杖に火炎を纏わせ空間を薙ぐ。その軌跡から炎が噴き出して周辺を広く舐め、闇よりなお濃い影を追い出した。
「……ッ!」
「よぉ。やっと姿を見せる気になったかい?」
 野蛮な、と。炎の熱で焼かれたらしく、掠れた声が文句を零す。焦げた髪をそのままにゆると立ち上がった女の姿は蛇を思わせ、ところどころ存在が黒く滲むさまは幽鬼のようにも見えた。
「ライダー、メドゥーサか」
 弓兵の密やかな呟きは遠く、独り言の類。
 それでも。魔術により周囲への警戒を強めていたキャスターの耳にはしっかりと届いた。
「なるほどな。このプレッシャーの正体はその眼か」
 石化の魔眼。場合によっては瞬時に石化させられるだろう代物だが、姿を見せていなかった時からキャスターは力そのものには気付いていたため、しれっとルーンで対策をし、判定を逃れた。
 アーチャーに至っては冬木の聖杯戦争に参加している全サーヴァントの詳細を把握しているため、能力の弱体により対抗せしめている。
「ライダーさんよぉ。アンタ、セイバーにやられたって話を聞いた気がするんだがな」
「ええ。ですが生憎と私はこういう存在ですので。呪いとは相性が良いほうだと思いますよ」
 どろり。黒い染みのようになっている存在が揺らぐ。
 呪いと彼女が告げた通り、妖艶に微笑む彼女の存在は黒いそれに侵食されている。泥でも捏ねて人の形に落とし込んだような存在への拒絶感に男は眉を顰めた。
「そうかい。だがこっちも泥人形と遊んでるほどヒマじゃねぇんだ。カチカチに乾かしてやるから大人しくしてな」
「遠慮します。乾燥はお肌の大敵ですので」
 本人がどういうつもりで呪いと口にしたかは不明だが、それは男にとってその後の行動を決める指針となる。
 軽口で返したライダーのほうも、しゃらりと鎖を鳴らして己の武器を持ち上げた。
 速度を生かし、先に動いたのはライダー。
 突進の勢いで髪が、鎖が翻る。
 それぞれ生き物のように円弧を描く両手の鎖剣と彼女自身の髪の毛が、動きながらの軽い衝突に合わせて相手を囲むように先を伸ばした。
 キャスターはそのどれにも捕まらないように最小限の動きで躱しながら時に強化した杖を立てて弾く。
 至近距離。魔力を込めて見つめられれば、石化しないまでも魔眼の力により重圧が増し、対抗しようと守りを厚くすれば己の強化に回している分が手薄になるはずだが、そんなことは感じさせない。
「おう、どうした? 速度が鈍ってるぜ」
 もう息切れか。
 笑いながら煽る男は、側から見れば防戦一方で押され気味だが、裏では決定的な瞬間を狙っていた。
 時折不自然な動きをするのを遠目に見ているアーチャーは把握しているが、近すぎるライダーは気付いていない。
「勝負あったな、あれは」
 独り言を落とす弓兵が握った手の中で小さな石が温もりを灯している。守りのためのルーンストーンは必要とされた時に勝手に発動し、詳細把握により軽減された重圧付加しか発動しなかった石化の魔眼から彼を守っていた。
 押しているはずなのにまるで手応えがないのを焦ったライダーは一度距離を取ると、ゆらと髪を振り乱す。
 ほぼ四つん這い姿勢から突進を仕掛けた彼女は男が口端を引き上げるのを見た。
 直後。何かに足を取られて体勢を崩した彼女の身に、伸び上がった蔦が絡む。直後に炎へと変じたそれらは素早く彼女の全身を包み込んで燃え上がる。
 絶叫が周囲に響き渡った。
「どう、して……」
 詠唱するような余裕はなかったはずだ。
 疑問の声に杖で地面を叩いた男はしゅるりと伸びた蔦に杖の先を絡めてみせる。
 ぼ、と。発火したそれは彼を燃やすことなく地面を舐めて消えていった。
「刻まれたルーンは役割を持ってオレの手を離れる。一種の罠だな」
 本来ならばこんな面倒な戦い方は自分向きではない。
 槍があればこんな小細工をする必要もなく、それこそ正面から一撃で葬ることも出来たと溜息したキャスターは杖を水平に持ち直した。
「じゃあな、ライダー。しばらく大人しくしてやがれ」
 力一杯投げられた杖の石突きはライダーの身を貫き、一際眩い炎を噴き上げて全てを燃やし尽くしてから男の手に戻った。
 苦い表情。
「手応えはあったが退去してねぇな……こりゃ次は面倒なことになりそうだ」
 それでも当面の脅威は去った。改めて周囲を探り、敵がいないことを確認してから大きく伸びをする。
「さすが、というべきかな」
「肩慣らしのつもりならむしろお前さんが相手してくれた方が良かったんじゃねぇの?」
「そんなことをしてしまっては話をする前に止まれなくなるだろう……お互いに」
 聞かせるつもりもないほど小さく呟かれた最後の言葉に本音が見えて、違いないと男が笑う。
「テメェはアレのことを最初から知っていたな」
「否定はしない。私は彼女らを正規のサーヴァントと区別してシャドウサーヴァントと呼んでいる」
 こんな場所で立ち話も落ち着かない。多少なりとも落ち着ける場所に移動するとしよう。
 そんな風に告げて。青年が男を誘ったのは新都の外れ。
 海岸の近くにある煉瓦作りの建物は、錆が浮いている門と荒れ放題の庭が広がりっており、見る限り建物自体の痛みも酷い。
 鍵を開けるのすら面倒がって霊体化した二人はそのまま建物の中で実体化した。入ってみればそこそこ掃除が行き届いているが、電気も点かないため暗闇に沈んでいる
「茶も茶菓子も出ないがね」
 どうぞおかまいなくと笑った男は、勧められるままにソファに腰を下ろした。
「ここがお前さんの拠点か?」
「そう決めているわけではないのだが、今回に限って言えば街中から離れていることで被害が少なく、都合がよかったので拝借している」
 せめて蝋燭かなにかを用意しておけばよかったなと苦笑したアーチャーの言葉を受けて、キャスターの手元からふわりと光が浮かび上がる。
 よくよく見れば、ルーンを刻んだ小石だ。
 月のようにぼんやりとあたりを照らす程度の光球からは熱を感じない。
「外観はともかく中の居心地はそう悪くない。せっかくの屋敷をオレが火事にでもしたら洒落にならんからな」
 サーヴァントである以上、基本的に明かりが無くとも困りはしない。つまるところそれは、拠点という己の手札を見せた青年に対し、危害を加えるつもりはないという男からの返答であった。
「情報交換が目的だったな。なぜ私に?」
「おう。見たところお前さんが一番敵の真名を知ってそうだったからな」
 ここに来る前に襲ってきたライダーが動き回れる絡繰はともかく、現時点でライダーとアサシンはセイバーに斃されているはずである。
「ついでに言うと、オレはセイバーが森の方にかっ飛んで行ったのを見てる。つまりはもう一騎くらいやられててもおかしくねぇってことだ」
「郊外の森というと、おそらくバーサーカーだな」
 やられていてもおかしくないという言葉には同意するものの、先にあれを攻略に行ったのならば少しは時間的猶予があるだろうと息を吐く。
 弓兵の肩からすこしだけ力が抜けた。
「やっぱりテメェ、他のやつらの能力や真名、全部把握してんな?」
「いいや。私が知り得る情報もそう多くはないよ。そもそも、バーサーカーならば君とて見ればわかるはずだ。なにせ抜群の知名度を誇る古代ギリシャの大英雄だからな」
「……ヘラクレスか」
「ご名答。セイバーとてあれの相手は骨が折れるだろう」
 気休めのような時間だとしても。現状では戦闘行為が発生する、ということ自体が奇跡のようなものだ。
「ってことはセイバーの真名もわかってるんだな、お前さんは。そもそも、オレがランサーではなくキャスターだということも最初からわかっている風だったしな」
「セイバーに関してもバーサーカーと同じだぞ。彼女の宝具を見ればその正体は疑いようがないからな」
 狙いやすい相手から各個撃破を選択したらしいセイバーはいずれこちらにも狙いを定めるだろう。自分は得られた情報を駆使し逃げ回ることで順番を遅らせているに過ぎないと苦く笑う。
「なるほど。んじゃオレとっての重要事項だ。お前さんがオレをキャスターだと断定した理由はなんだ?」
「……もしかして気が付いていなかったのか?」
 その事実にこそ驚いたというように弓兵の目が見開かれる。黙ったまま先を待った男に溜息を落としてから青年は口を開いた。
「ランサーは君より先に召喚されていたんだ。一通り調べてはみたが、マスターは不明。どんな縁かは知る由もないが、彼の拠点は柳洞寺の山門だ。動けないのか動かないのかはわからないが、セイバーにやられているのだとしたら今後会敵する機会もあるかもしれん」
「ってことはあの時バゼット……オレのマスターだった女が相手にしたのがそうか」
「話を聞く限りそうだろうな。もっとも、あの日あの瞬間にこの世界は変わってしまった。すり替わった、とでも言おうか。街は燃え、人間達は皆消え失せた」
 確かに。マスターとのパスが切れたのはあの瞬間であった。確認すれば弓兵もまた同じであると認める。
「なるほど。そっちも後でもう一度確認に行くか。あとはバーサーカーだが……」
「おそらくだが、彼は領域を侵さない限りあの森から動かないと思う。セイバーが自ら出向いたのがその証拠だ」
 わざわざ眠れる獅子を起こすような真似をする必要はないというのはその通りだ。頷いた男はそれにしてもと天を仰いだ。
 ぼんやりとした明かりでは駆逐しきれず、闇に潜んでいる天井から吊られたシャンデリアがちりと光を弾く。
「何らかのイレギュラー起こっているにせよ、最後の一人になれば聖杯が顕現し、聖杯戦争は終了する。このルールは変わらねぇよな?」
「おそらくは」
 だからこそセイバーも他のサーヴァントを倒して回っているのだろうと推測はできる。だが、同時に何かが引っかかっていた。
 気になることがあるのかと問う弓兵に視線を向ければ、横目でふわふわと宙を漂う灯りを目で追っている。
 頼りなく感じるのは無理もないだろうが、そう容易くは消えないと笑い飛ばしてから、改めて思考を巡らせた。
「整理するぜ? 街が燃えたあの夜にこの世界は何らかの力で閉じた。人間はマスターを含め締め出された……消えちまったから、残っているのはサーヴァントが七騎。あとは骸骨なんかの雑魚ども」
「そうだな。現時点でセイバーがライダー、アサシンを倒し、バーサーカーと交戦中。あとは山門から姿を消しているところから見ると、おそらくはランサーも倒している」
 残るはアーチャーとキャスター。つまりは自分達だ。
「しかし一度倒されたはずのライダーはオレらを襲ってきた。あの時見た影みてぇなモヤ……奴さんは呪いって言ってたな。他の連中も同じ状況になっている可能性は高い」
 弓兵がシャドウサーヴァントと呼称した理由も呪いが影のように見えたからだろうが、実にしっくりとくる名称である。
 ここで最大の疑問が生じる。敗退したはずのサーヴァントを別の形で動かせる燃料は何かという点だ。
「サーヴァントを形作るためには当然のことながら魔力が必要だよな。世界が閉じてから大気中のエーテル濃度は煮詰まりに煮詰まって神代レベルだ。これを利用すればあるいは可能かもしれんが、魔術師でもないセイバーにそれが出来るかね」
「さてな……本人に聞くのが手っ取り早いが、そもそも会話になるかどうか」
「だよなぁ」
 結局のところ、確かめる術はないといいうところに落ち着く。
 ところでキャスター、と。思い出したように呼び掛けた青年がするりと移動して男の横で膝を付いた。視線を合わせ、伸ばされた手は男の眼前。手を出せと促されて従った彼の手のひらに小石が落ちる。
「忘れるところだった。これは返しておくよ。助かった」
「……投げても構わなかっただろう。律儀だな」
「頼んだ覚えはないが、一応守って貰った身でそんな真似はできんよ」
 揶揄うというよりは素直な感想といった雰囲気の男の言葉に返るのはさらに可愛くないことば。
 それ自体はけらけらと笑って流した男だが、戻そうとした青年の手を掴むと、それまで己が座っていたソファーの上に引き倒した。
 すんと鼻を鳴らして首を傾げる。
「犬か君は」
「お前さん、もしかして調子悪いか?」
 どこにそんな要素が。応えようとした青年は真剣な瞳に射竦められて言葉を飲み込む。
「そう、だな……多少のエーテル酔いがあるかもしれん。神代のエーテル濃度は私には少し強すぎる」
 言い淀んだことからも分かる通り、絞り出された言葉は事実ではあるがすべてではない。
 なるほどと頷いた男は、そのまま顔を近付けて額同士を触れ合わせた。
 戸惑い、振り解こうとした青年をそのまま動くなの一言で黙らせてエーテルの流れを追う。
「ん。確かに上手く流せてねぇな。詮索する気はねぇから単純な好奇心だが、アンタ現代寄りの英霊かい?」
「……見ての通りだよ。君はキャスタークラスになってその手の扱いがうまくなったとでも?」
「いちいち突っかかんなよ。キャスターでの召喚なんぞオレが一番驚いてるわ」
 他に手段がないという理由が一番大きいが、普段は面倒がって封印している魔術的なことが多少器用にできるようになったことは確かである。
 ランサー時の自分も知っているんだなとかまをかけた問いに対しては無言。本来サーヴァントは他の現界時の記憶など持ち越さない。両方を知っている口ぶりであることから自分は例外であると認めたも同じだが、この青年はそこを認める気はないらしい。
 限りなく確信に近くとも、肯定せず疑惑が残るままならば確定にはならないということなのだろう。
 あるいは確定させたくない、言えない理由が別にある可能性も否定はできない。
 まあいいかと疑惑は脇に置いて、キャスターはとりあえず現状の打開策を思案する。
 改めて顔色を窺い、耳後ろあたりに指を触れさせて体温を計りながら同時にエーテルの流れを辿った。
 はく、と。
 何かを伝えようとしたのか、それとも圧し掛かられていることで呼吸が苦しかっただけなのかはわからない。喘ぐように動いた唇に色を感じて、思わず触れそうになる。
 己の思考と行動に苦笑を落とした男は、誤魔化すように指先をずらして青年の服を引いた。
「肌を見せてみろ……ああいや変な意味じゃなく」
 かすかだが、なんらかの守りの力を感じる。
 弁明の言葉はどこか無様に響いた。一瞬見開かれた青年の眦が下がり、ふわりと頭の後ろあたりを横切っていった明かりにすら笑われた気がする。
「一応私は敵なのだがな」
「今は休戦して情報提供の協力者だろ。少なくともこの屋敷を出るまでは、な」
「なるほど。昼は敵対する相手でも日が暮れれば一緒の床で眠る、ということかな」
 青年の声には揶揄と同時に親愛が滲む。そして内容は生前の逸話のひとつを用いたものであった。
 そうきたかと笑う男は否定も肯定もしない。
「情報の真偽を確かめる前に本人に消えられたら本末転倒だろうが。んで、どうすんだ。脱ぐのか、それとも脱がされたいってんなら……」
 ついと動く男の指先が弓兵の服の上を滑っていく。途中でそれを掬い上げるように包んだ手は熱い。
「おそらくだが……それをされると私は即座に存在を保てなくなる。今でも結構ギリギリでね」
 伝わる熱に言葉は嘘ではないと知れる。
 守りの正体が彼が纏う礼装であるならそれだけで納得もできるが、男の直感はそれだけではないと告げていた。
「だからって確認もせずに対策は不可能だろ。下手なことをして暴走でもさせたら面倒くせぇ」
 手段自体はある。
 外から探れないのならば内から探ればよいたけだ。ただし相手がそれを許せばという条件が付く。
「……手段はあるが、という顔だな」
 少しだけ手を握る力が強くなり、ゆると青年の口端が上がる。続けて青年の口から出たのは命乞いではなく。取引をしようという強気の言葉であった。
「それが必要だというのなら構わない。いや、むしろ私が乞う立場か」
「へぇ。この状態でそれかい?」
 男の声音には呆れよりも先に喜色が滲む。
 この後に出てくる要請が何であれ、圧倒的に不利な状態でも己求める結果を諦めておらず、強気の姿勢を崩さない様子は好ましいと思う。
「あいにくと成果のためには手段を選ばない性質でね。君の好みではないだろうが」
「その主義にオレがどうこう言うのは筋違いだろうが、自分を貫くやつは嫌いじゃないぜ。今回に関しては正直こっちの都合もあることだしな」
 それで対価はなんとする。問いには情報と即答。