Anchor Ring

一歩。
踏み込んだ部屋は、常とはかけ離れた異様な息遣いに満ちていた。ごくりと息を飲み込んで本能的に逃げようとする足を叱咤し、もう一歩。肌を粟立たせるのは知っているはずなのに遠い存在の気配。冷や汗は勝手にこめかみや首筋を流れ落ち、知らず息は浅くなる。
完全に部屋の中に身を滑り込ませれば、先立って頼んであった通り、背後で閉まった扉にロックがかけられ、退路を断たれた。元より逃げるつもりは無いのだが、本能ばかりはどうにもならない。
そんな己の葛藤に僅かに苦笑を浮かべて、青年は改めて部屋の隅にある気配の元へと視線を巡らせた。
ぼう、と。
明かりを落とした部屋の中で、そこだけがうっすらと浮かび上がっている。
部屋全体を照らすほどの光量は無い。ただ、その光体に絡め捕られた人物の姿を確認することはできた。
飢えた狼の唸り声が聞こえるようだ、というのは気のせいなのだろう。
話を聞いた時から覚悟はしていたが、キャスタークラスの同一人物は一切の容赦をしなかったらしい。
近付けば血の匂いが濃く纏わり付いた。
無意識に落ちる溜息くらいは許されるだろう。零れた息の先を追うように視線を下げれば、床に流れた血が等間隔に置かれた石に吸われている様子が目に映った。
そこから先は一種の結界の中と言えるだろう。
己でも止められないほど足が震えるのはもはやどうにもならず、ひとつ深呼吸をしてから青年は足を踏み出す。
本来ならば殺し殺される関係だ。どんな状況で相対しても敵として見える場合には震えたことなどない。
おそらく自分は怖いのだろうと青年は震えの原因を断定した。それは彼自身へのものではなく、どちらかというと関係性に対してというほうが適切だろうか。
引き受けたことに後悔は無く、己の身を差し出すことを躊躇うこともない。
だが唯一、彼との関係性が変わってしまうかもしれないことだけは少し怖いと思った。とは言っても、色恋の類に属する甘いものではなく、全力をもって相手するに足る戦士と認められなくなることに対してだが。
今更かと自嘲の笑みを刷いて、視線を上げる。
忠告されていた通りに置かれた石を処理すれば場の空気が僅かに変わったのが感じられた。
それらが緩和していたらしい気配が駆け抜けて、ぞわりと背を撫で上げたのに唇を噛む。
一歩、二歩。
近付けば流れた血が足裏に触れ、跳ねたそれは踝までを覆う長衣の裾を汚した。
黒の単衣。それを選んだのは和装ならば最小限だけの着衣でもあまり違和感がないこと、行為中に肌を晒すのも最低限で済むだろうと、単に効率を考えた結果だ。元々が投影品のそれは魔力に返してしまえばそれまでで。
汚れることなど気にした様子もない青年は壁に磔にされた男の眼前に立つ。
近くで見れば余計に手加減の無さが際立った。物理的に風穴をあけてきたとの言は誇張でもなんでもなく、さすがに霊核は避けてあるもののあちこち酷い有様で、いつもの礼装はほぼ原型を留めていない。
男の体を貫いて壁に縫い止めているものは、光でできた蔦のような形状のものだった。それらが貫通したまま留まり邪魔をしているために傷は塞がらず、結果的に広げられた傷口からは今も少しずつ血液が零れ落ちている。
深く息を吐く。血臭混じるそれを厭わずに青年はゆっくりと腕を持ち上げた。警戒する獣の呻きを振り切るようにきつく拘束が絡んだ首筋に触れる。
ぱきり。
硬質な音とともに割れた光の蔦は、崩れる途中で周囲の空気に混ざり、思っていたよりもあっさりと溶け消えた。
喉が自由になったからか、途端にがあと吠える声が威嚇の響きを強めて青年の耳に届く。
軽く目を伏せただけで聞き流すと、触れていた首筋から胸元へと掌を滑らせた。
ぱき、ぱきり。
そっと撫でるだけで拘束は外れていく。熱を持ち、拘束の痕と傷から流れる血液に彩られた肌には、それだけではない赤が浮かんでいた。
拘束と重なっているために不可避とはいえ、触れるのを一瞬躊躇う。
神威を示す装飾。鮮やかな赤の色を持つそれは男の身が人でないことを示すものだが、当の本人はそれを特別視している様子はなく、青年が躊躇うのは己がただの人であることをよくわかっているが故だ。
かすかに震えた指に何を思ったのか。威嚇の響きが疑念を強めたものに変化する。
こちらの様子など把握していないだろうに。瞳を細めた青年は瞬間的に詰めた息を吐き出して、男の体を彩る文様に触れた。またひとつ、ぱきりと軽い音が響く。
瞬間、世界が反転した。
壁にしたたかに背を打ち付け、空気の塊を吐き出す。
薄明りの中に落ちた影はゆらりと近付き、振り回されたことで緩んだ青年の着物を掴んだ。一緒に持ち上げられた体が壁から床にかけて伸びた血を引き延ばす。
手荒すぎる扱いだが青年の唇からは悲鳴すら上がらず、唯一零れたのは細い息のみであった。
顔を上げた先で、先ほどまで拘束されていたはずの相手が自由になっているのを見る。どうやら残りの拘束は無理矢理引き千切ったらしい。傷の広がった手足と腹部から派手に血が滴っているが、気にした様子もない。
そんな雑さではせっかくの神威纏う姿も台無しだとの感想は内心だけで留めて体勢を整えようとするも、動いたことで相手の警戒を呼び起こしたのか。
背を押さえ込むように引き倒され、のしかかられたことで動きを止めざるを得ない。
少々厳しいが、やむをえないだろう。
体勢を維持したまま様子を窺えば、すん、と。背から首元にかけて鼻を鳴らす音が響いた。
血の匂いがする。
痛みなど感じていない強さで抑え込まれ、サーヴァントになってなお弱点である首に近付くたびに抵抗しそうになる本能を抑えつけて好きにさせながら、予め説明を受けた彼の状態を思い出す。
「……本人の認識による魔力不足由来の飢餓への対応と、魔力過剰による発散衝動への対応を同時に満たす必要があるということだね」
そう告げたのは万能の天才と呼ばれる、今は美女の姿をとったサーヴァント。カルデアにおいては先代所長の時代に召喚され、グランドオーダーが開始された後はその才を惜しみなく発揮し、ドクター・ロマニと共に後方支援を担当する代表格でもある。
レオナルド・ダ・ヴィンチ。本来なら男性であるはずの彼は、絵に描いた美女の姿を満喫しているらしい。
元が男とは思えないほど言動に不自然さは全く無く、天才と変人は紙一重という言葉を体現していると言ってもいいだろう。
いや、今は説明者のことなどどうでもいい。自分はそこからの流れにどう返したのだったか。
硬直したまま思考を過去に飛ばす青年は、己が吐き出した呆れ声を思い返した。
「つくづく運のない男だな……いや、あまり人のことは言えんが」
「おいおい、そう言ってくれるなよ。咄嗟に引き受けてくれたのが彼でなければ、今頃誰かが消滅していてもおかしくないんだぜ」
茶化した口調ではあるものの、深刻さが滲むダ・ヴィンチの声につられるように、応えるエミヤの声も心なしか低くなった。
「ということは彼は自ら望んであの状態になったのか」
「他に選択肢が無かった、のほうが正しいけどね。彼はこれまで召喚できたサーヴァントの中でも随一と言ってもいいほどの耐久に特化した能力を持ち、限りなく不利な状況からも生還することができる英雄だ」
守るために武器である己を保つこと。
極端に戦力不足の現在、ある意味でもっとも頼りになるサーヴァントの一人であると告げられた内容に対する否定はない。実際、異常が出てからも、己の持つ能力すべてを駆使して修正用のデータ取得を行う間は理性を保ち続けたとダ・ヴィンチは続ける。
「人間はもちろん、サーヴァントだって気が狂っていてもおかしくない。驚異的だよ、彼は」
本来ならば全力での戦いを願う英雄だ。だが、同時に己が一番得意なことも把握しており、今回も咄嗟に自分なら対応できるからと引き受けたらしい。
語られる内容に、それが当然だと思う己を青年は少し不思議に思う。具体的にどこで知ったのかもわからないが、知っているという感覚だけがあった。
七つの特異点を修復するという困難な旅路。その第一歩である第一特異点の修復はすでに果たされている。
続く第二特異点の修復も、どうにか、からくも、という形容詞が付く達成であったが果たされた。だが、中心にいる彼らにはわかっているのだろう。
このままでは今後激しさを増す戦闘を生き延びていけないのは確実。敵が特異点のうちどれかを成立させ維持すればいいのに対し、こちらはマスターかつレイシフト適正者である少年の生存が絶対条件で、守りきれねばそこで詰むのだ。かといって彼を前線に送り出さない選択肢もない。
だからこそ生き延びることに特化したサーヴァントが側に居れば、必然的に最悪の確率は低く抑えられるとして、クー・フーリンは重用され、よく少年に同行していた。
焼却された世界に残ったただ一人のマスターは、生き残るためにと繰り返される訓練も、一歩間違えれば存在自体が消失するレイシフトも、己を削る様な召喚も厭わない。
後方支援を担当する管制室側も、少人数で動くための業務効率化や破損部分の修復などに日々追われている。ありとあらゆるものが不足している中、手に余るシステムを騙し騙し運用している状態では遅かれ早かれ問題が噴出しただろうことは想像に難くなかった。
「原因は電気系統からの魔力変換トラブル、ということであっているかね? マスターの様子は?」
「そういうことになるのかな。あ、彼に関しては、戻ってすぐに検査をしたけれど、問題は見当たらなかったよ。今はとりあえず様子見のためマシュと一緒に医務室にいてもらってるけど、そろそろ部屋に戻ってもらっても構わないと思う」
問いへの返答は別方向、混ざらない安堵と焦燥を攪拌したような表情を貼り付けた医師から。
弓兵は元々、彼に要請されてコーヒーと軽食を持ってきた身であった。頼まれたものを持って入室しても構わず続けられていた話し合いは、思いつきで告げられた「食事を摂らせるのはどうか」という一言により青年を巻き込むことになる。
集まっていたのはロマニ、ダ・ヴィンチ、メデューサ、キャスタークラスのクー・フーリン。
話題がランサークラスのクー・フーリンについてであったことから、同一存在であるキャスタークラスの彼が居ることはすぐに納得できたが、意外なのはメデューサの存在であった。
聞けば、この事件の原因となった訓練でのメンバーだったという。
訓練には話題の中心たるランサークラスのクー・フーリンとメデューサの他、マシュ、清姫、アマデウスが参加していた。
指を折って上げられた名を反芻すれば確かに、ライダークラスとはいえ、出自もあって魔術に一番詳しいのは彼女だろう。
納得した青年は食事が必要だというのならば用意をするがと最初に己を巻き込んだ話題に対しての答えを口にしたのだが、それだけでは片手落ちだというキャスターの言葉で場には疑問符が舞った。
唯一、メデューサだけが同意を示したのに、ロマニが首を傾げる。
「どういうことだい? キャスターのクー・フーリン」
「言葉のまんまだ。どこがどうバグったのかはわからねぇが、今のアレに対して有効なのは二つだ。いや、実質手段がない分一つかもな」
「……キャスター」
どこか自嘲が滲む響きを静かに制したのはメデューサの抑揚に乏しい声音。それに対し、選択するのは自分じゃないと返して男は苦く笑った。
いずれにしても。彼の表情は実行するのは自分ではないと明確に告げていたし、マスターに説明するにしても責任者である医師への情報共有は必須になる。
ごくり。その医師が息を飲む音が響いた。
「話してくれるかな」
「おう。まず先に言っておくが、早期解決を望むならもうオレにできるこたぁねぇよ。ミイラ取りが、ってやつだ。被害を増やすことになるだけさね」
「それは同一存在だから、ということかい?」
ミイラ取りがという発言から、クー・フーリン故かという確認。
「ああ。もちろん障壁は張っているがそれでも多少流れてくるからな。引っ張られる可能性が高い直接接触は極力控えたいってのが本音だ」
それは一度接触してみた感触からかと問われて頷く。
「いわゆる霊基異常状態なんだろうが……ちと面倒なのは数値的に言えば魔力過多状態なんだが、本人は魔力不足状態だと認識してるってことだ」
「ええと、それはつまり?」
「飯を食わせるのはいいがそれじゃ片手落ちだって言った理由だよ。本人の意識的には魔力を摂取すれば満たされるが、実際の所は魔力過多だからな。状況がひどくなるだけだってヤツだ」
「なるほど……君の見解も同じかい?」
「ええ。あの瞬間、真逆の性質を持つ二つの魔力の流れが見えました。私がわかるのはその程度ですが、彼の話とは一致するかと」
ロマニとメデューサの会話に頷いたダ・ヴィンチが、手にしていたタブレット端末に視線を落とす。
「データで見るとランサークラスのクー・フーリンの霊基は損傷している、と出る。確かに様子見をお願いしたのは私達だけど、一体何をしてきたんだい?」
「あん? んなもん、どうにもならねぇから、物理的に風穴あけて拘束の術で簀巻きにしてきただけだぜ。まあ、そろそろ意識は復活する頃かねぇ。あの様子だと拘束もいつまで保つかはわからんな」
拘束するついでに魔力を流出させる術は組んできたが、本人の認識を考えれば遠からず破ろうとするだろうと付け足す。さらに間を置いて、今は意識さえ本能に追いやられているだろうと続けて溜息を落とした。
「ふむ……状況についてはわかったが、そろそろ有効手段とやらを聞いても?」
怯むことなく核心を尋ねた弓兵に対し、男の口は重い。
可能ならば口にしたくないという雰囲気にその場の面々は首を傾げた。
「一番いいのはひと思いに座に還すことだろうよ。次善策としては、どれだけ暴れてもいいところにぶちこんで放っておくことだ」
その場合感覚に支配されたまま飢えて狂うのが先か、マトモに思考可能なところまで魔力が流出するのが先かは不明だが、誰かを犠牲にするよりはマシだろうと言い放つ。
それには同一存在であるが故の希望が滲んでいた。限界まで己以外の犠牲を認めない、孤高の在り方。
「それは……」
「君の言いたいことはわかったが、戦力が足りない中でリソースを無駄にするのは得策ではないし、賭けをしながら待つような余裕もないだろう」
口を開きかけた医師を遮った青年は、そんなものを解決策として提示する君ではないだろうと言葉を繋ぐ。
睨まれた男のほうも予想できていたのか、表情が変わることはなかった。ただ、一度。軽く目を伏せたのみ。
「さっさとマトモなほうの解決策を出したまえ。それとも私には聞かせたくないと?」
「まあ……当たりだ。反応が予想できるんでな」
「心外だな。流石の私でも不可抗力を嘲る趣味はない。それとも、君が言い渋っている理由はその解決策に私が名乗りを上げるからかね?」
言葉通り弓兵の顔に笑みはない。
真正面から視線を合わせた男は、しばらくの沈黙の後に溜息を伴ったぼやきを落とした。
「そこまでわかってて言うか……ったく」
髪を掻き回す男に、片目を瞑った美女がふむと頷いた。
「なんとなくだが、私もわかったぞ」
彼女がちらりと視線を投げた残りの二人は、片方は関わりたくないとばかりに視線を逃し、もう片方は純粋な疑問を浮かべている。
「え、わかってないのボクだけ?」
本人も気が付いたらしい。焦ったように辺りを見回しながらの問いに笑みを返したダ・ヴィンチは、まあまあと形ばかりの宥め方をしてからキャスターのクー・フーリンに向き直った。
「つまり、本人の認識による魔力不足由来の飢餓への対応と、魔力過剰による発散衝動への対応を同時に満たす必要があるということだね」
あっているかい。
確認を取る美女に男は頷く。
視線を巡らせれば、そこまでは理解していると他の面々も同じように頷きを返した。
そこまで明確になってなお、具体的なものについては思い至らないのだろう。もう一度ロマニを見てそれを確認してから、ダ・ヴィンチは眉を下げて男に声を投げた。
「さて、残念ながら肝心のロマニはこの調子だ。他は全員察しているこの状況で沈黙を貫く意味もないだろうからスパッと結論を告げてくれたまえ」
「あー……まあ、仕方ねぇ。ようするにセッ……」
「もう少しオブラートに包みたまえよ」
本当に直截的な言葉を選んで吐き出した男の後半は、予想していたらしい青年のツッコミにかき消された。それでも言葉の欠片だけで理解したらしい医師は頭を抱え、美女はそんな彼の様子を笑う。
他の言い方など知らないと唇を尖らせる男は、どこで気付いたと問いを放って視線を合わせた。
「どこと言われると。そうだな。確信らしきものを持ったのは君が一人での解決を望んだから、だろうか」
「ああ、言わんとすることはわかります。ラン……キャスターはそういうところがありますから」
どこか曖昧な弓兵の言葉に同意を示したのは、首を傾げたことで流れる長髪がさらりと音を上げたメデューサだ。
「ライダー……オマエもかよ」
難儀なものだと己の言動に苦笑した男は、そこまで把握されているのなら仕方がないとばかりに溜息一つで思考を切り替えて、深く座り直す。
いっそメイヴあたりが居ればよかったかとの呟きの後には面倒だから居て欲しくはないがと続いた。
「たとえ彼女が居たとて、今のランサーに向かわせようとは思わないだろう、君は」
「……そうかい」
「君の……いや、ランサーの意思を尊重したいところはあるのだがな。我々が取れる選択肢は多くない。ならば偶然にしろ聞いてしまった私が一番適任だろう。鍛えている身はそうやわではないしな」
青年の口から流れる言葉は平静で、提示された解決策を行うことに対する動揺は欠片も見られない。
彼が一度これと決めたことを貫き通す気質であることは日が浅いながらも全員が把握しており、すでに決めて受け入れてしまったらしいそれを覆す術は誰にもなかった。
唯一声を上げたのはダ・ヴィンチだ。
「君はそれで構わないのかい?」
「ああ。特に今更その行為を忌避するような身でもないのでね。もっとも、殴り合うだけで済むならそれに越したことはないのだが……」
最終確認といった体の問いにも即答。声音は微塵も揺らがない。
「人間のスタッフ達は問題外だし、伝承から鑑みても、彼は己の為に女性に恥をかかせるのを厭う性質だ。今後のことも考えれば、たとえ相手がサーヴァントであっても理性が無いまま女性を害したという認識を与えるのはできれば避けたい」
軽食は先に医師の腹に消えていたが、半分以上残されていたコーヒーはとっくに冷めている。
淡々と告げられる理由に混ざり込む憧れに似た何か。
何度か途中で口を挟みかけたロマニもここにきては黙るしかなく、他に声を上げる者もいない。
沈黙によって肯定された作戦は決して歓迎されるものではないが、確認しておかなければならないことはあった。
「わかった。でもこれだけは確認させてくれ。ランサークラスのクー・フーリンが、アーチャー・エミヤを現界不可能になるまで害する可能性は?」
「全くないとは言い切れないが、そうならんように準備するさ。もっとも、小細工をせんでも大丈夫な公算のほうが遥かに高い。多少は齧られるかもしれんがな」
「なに、サーヴァントの身ならば多少の無茶程度なら問題ない。想定通りであれば、多少噛まれたとしてもその場で治癒できるだろう」
ロマニへの回答は、魔術師と弓兵、二人同時。
内容は違うが、どちらも問題ない可能性のほうが遥かに高いと結論付けたのを受けて、責任者としての医師は目を伏せた。
「ありがとう。では今、このカルデアの責任者として君達に頼むよ。これはボクの独自判断で、君達のマスターに詳細が伝わることはない」
「そうしてもらえると助かるな。あまり細かく知らせたいことではない」
このカルデアに残る人類最後のマスター。彼は魔術師ではないし、まだ少年でもある。今回のこれを魔術的な対処とするならば概要以外は必要なく、行為そのもののことならば積極的に必要な知識にはならないだろう。
歪められた青年の唇に僅かに苦い色が滲む。
とん、と。その肩に別の人物の手が触れた。予想よりも真剣な青の魔術師の視線に絡め取られる。そこに否定の色が無いことについ安堵がこぼれそうになった。
「テメェが決めたんだ。決定に口を出すつもりはねぇが、かといってマスターを泣かせる気もねぇ。オレにやれることはやらせてもらうぜ」
「それで構わない。私のほうもそのつもりで用意して臨むとしよう」
「ああ。とりあえずオレがかけてきた術の解除方法を伝えなきゃならん。多少の用意があるから、テメェの準備が終わったら部屋に来てくれ」
弓兵が頷き、魔術師は準備をしてくると言い残して場を辞した。続くようにメデューサが事故当時のメンバーに説明を頼まれて出て行く。
マスターとマシュにはロマニが説明することで決着し、少しだけ空気が緩んだ中、弓兵はまだ残っていた美女へと視線を投げた。
「ダ・ヴィンチ女史、貴方にひとつ相談がある」
「構わないよ。状況が状況だ。私ができることならなんなりと、ってね」
自信たっぷりに大体のことは可能だと豪語する彼女に頼みごとをひとつ。すぐに取り掛かろうと請け負った彼女に対し、キャスターのクー・フーリンの元から戻った後に受け渡しをすることで同意をとる。
「ではまた後で」
「了解。準備しておくよ」
ダ・ヴィンチも、ロマニも、そしてキャスタークラスのクー・フーリンも。この状況で犠牲になるとも言えるエミヤに対し謝罪は無く、負担の軽減だけを考えてくれる。
有難いと思う反面、己などに向けるものとしては勿体ないと内心で笑って、青年は廊下に足を踏み出した。
あまり時間の猶予はない。
最悪、入室直後に問答無用で噛みつかれる可能性も考えて準備はするつもりだが、そんな姿は見たくないとも思うのは、なんと身勝手なことかと己の思考を嗤う。
無意識に伸びた手がすると頸の後ろあたりを撫でた。
何を確認したかもわからないまま、近くで獣のごとき息遣いを聞く。
べろりと頸を舐められたことで過去に沈んでいた思考が現実に浮上して、状況を把握しようと動いた瞳が血に濡れて固まった髪の先を捉えた。
理性なき獣と化したはずの男が不審そうに嗅ぎ回るだけで先に進まないのは、キャスターのクー・フーリンが講じた対策のおかげなのだろう。
同一存在という利点を生かし『自分の獲物だから焦る必要はないがそろそろ付け直しが必要かと思う程度』と称してごく薄く纏わされたクー・フーリンの魔力の香り。
知覚できないほど薄いため青年自身にはわからないが、男の状態を見るにある程度は成功しているのだろう。そんな小細工を成すために飲まされたものが腹の中でぐるりと暴れた気がした。
「……ッ!」
唐突な痛みに息を飲む。
ひゅうと鳴った喉は声を通すことはなかったが、それでもこらえきれなかった息が音として散った。
気付かれたか。だとしたら行動は変わる。だが、そうではないのなら。
身を固くする青年は、男の次の行動を待つ。
滲んだ血を啜る音が響く。足りないとばかりに傷口にめり込む犬歯と新たな傷を作って行く爪の痛みに、声どころか息までも押し殺して青年は反撃に転じそうな自分を押さえ込む。
夢中になって付けた傷から血を啜るのは己が魔力不足と認識しているが故。目の前に居るものが獲物だと認識しているから齧っているだけで、相手が誰であるかを気にしてはいない。むしろ、同一存在が放った、多少は齧られるだろうがという言葉が喩えではなく物理だったことに和んでしまう自分はどうかと思いながらも、気付かれてはいないらしいことに安堵した。
エミヤが血を流したことでゆるりと周囲の空気に色が溶け出す。
すんと大きくランサーが鼻を鳴らした。
匂いの元を辿るようにあちこちに動く頭を肩越しに振り返って、その目に情欲が灯るのを見る。
羽織ってきた単衣は力任せに引かれたものの、前が乱れて大きく肩から背までが露出している程度で被害はない。
噛まれたのは肩口だからギリギリか。
流石にこれ以上触れられれば男の体であることに気付かれるだろうが、エミヤであることにさえ気付かれなければ当面問題はないと判断する。
必要以上に刺激しないよう、慎重に帯の結び目を解く。気付いてくれるなと祈りながら押し倒された時に踏んでいた裾を引いて逃せば、血に濡れたそれが踝から脛にかけての肌に掠れた赤を引いてぴちゃりと床を叩いた。
警戒の唸り声。のしかかられていた背にさらに重さがかかって肩が下がる。同時に下がった頭が床に付いて、過分にかけられた力を分散させた。
男の興味は頸と背から、血を纏って露出した脚に移ったらしく、伸びた腕が捉えた先は赤に染まった足首。
咄嗟に目の前の腕を噛んだのは正解だったのだろう。加減のない力で掴まれて骨が軋み、冷や汗が吹き出す。裾が乱れ、大腿から臀部までが露わになった。
青年は痛みに耐えるのが精一杯で、気付かれるかどうかを心配する余裕もない。
そこか、と。確かに知った声のはずなのに、随分とひび割れた音を聞いた気がした瞬間、後孔に乾いた男の指先が潜り込んだ。
空気が震える。
奥まで潜り込ませて入ることを確認しただけで、すぐに別のものがそこに触れた。
無様に喉が鳴ったのは仕方がないだろう。
人として理性的に思考できる状態ではないと聞いていたため、前戯なしの挿入を考えなかった訳ではなく、そのつもりで準備もした。だが、実際行動に移されれば勝手に体は硬直する。
血を流すことが発動条件である催淫の術はごく弱いが、今は獣としての側面が強く出ている男は煽られるのをよしとし、本能に抗わなかったらしい。
欲に塗れた荒い息が背に触れる。
ぎちり。圧倒的な質量を持つものが躊躇いなく押し入ってくるのを拒否する術はない。
腕を噛んで痛みに耐えながら思考を凍らせ、好き勝手に揺さぶられる体を他人事のように眺める。
ひたすら痛みだけを齎す行為はただ過ぎ去るのを待てばいいだけのため、むしろ気楽だと思っていることを知られれば説教だけでは済まないだろう。
本人は決して口にせず、察する者も今は居ない。一切の光が消えた室内はどこまでも闇に沈んでいた。
人の形をしているというのに、どちらの口からも言葉は発されることがなく、存在するのは荒く熱を散らす息と、肌がぶつかるたびに上がる水音。あとはかすかな衣摺れの音のみ。
くぷりと押し潰された音が響く。
男が達したのを把握できたのは腹の底に吐き出された魔力が暴れたからだ。それでも行為は止まることなく、むしろ激しさを増していく。
時折気紛れのように付けられた傷を舌先で抉じ開けるように舐られて背を跳ねさせるも、力尽くで抑え込まれ、滲んだ血を啜る音が響いた。
頸から、背から。あちこちを齧られ、血を啜られながらも絶え間なく精を受ける。一貫して声を上げない青年は、それでも堪えきれずに時折鋭い息を逃した。
腹の奥に注がれ続けるものに溶けた魔力は彼にとっては強すぎ、思考は正気と酩酊の境を彷徨うことになる。
それでも、体に関してだけ見ればむしろ変換できる魔力が潤沢であるということを意味していた。
これは単なるお節介だがと告げられて施された、取り込んだ体液からの変換を助ける術式は勝手に損傷部位を治癒しようと回りはじめ、熱が篭る内部は欲と血が混ざり合って男のものが突き入れられる度に泡立つ水音を紡ぐ。
激しくなる度に溢れ出し、赤と混じりながら大腿を流れ落ちる白濁が、床と接する膝のあたりで蟠って歪な模様を描いていた。
サーヴァントの肉体がエーテル体であり、魔力によって治癒可能なことを利用した『多少齧られても問題ない』の中に織り込み済みのそれ。治った端からまたあちこち噛まれて啜られるも、明らかに注がれる魔力のほうが多い。
ぎちり。腰を掴んだ手が骨を軋ませた。
崩れ落ちそうな体を支える役割を果たしているそれが齎す痛みも、どこか遠く、鈍い。
揺さぶられるままに揺れる青年のものは萎えていた。
快楽などは微塵もなく、与えられるのは痛みのみ。
雪山遭難的な非常事態故の行為なのだからそれで構わないと思う。
彼が正気に戻った時にまだ自分の意識が残っており、速やかに退室できる程度の余力があることを祈るくらいで、あとはひたすら嵐が過ぎ去るのを耐える青年は纏まらない思考の中で何度目かの解放の声を聞いた。
ぶるりと震える体。奥に吐き出される熱と魔力。深くふかく、背に食い込む犬歯。
「が……ッあ……!」
苦悶の声は初めて明確な意味を持つ声として響く。
出所は己の腕を噛んだままの青年ではなく、獣のごとくその体を貪っていた男の口から。
「痛っつ……なん、だ……これ」
ちょっと待て。
どこか呆然とした、現状を把握できていない響きを持つ言葉が続く。
場違いに涼やかな音が響いた気がした。
唐突に魔力の流れが変わり、周囲に散っていたそれらが渦巻く。
手が引かれ、奥までを満たしていたものが引き抜かれれば冷えた床の感触にぬるついた液体の感触が重なり、支えを失った青年はそのまま床へと倒れこむ。
幸か不幸か。横向きになった体に乱された単衣の裾が纏わりついて局部から大腿までを隠し、その下からこぽりと零れて広がった白濁が、己が成した行為の名残を男に突き付けていた。
傷だらけなのはお互い同じ。ただし、青年のものはほぼ咬創で、男のものは切創裂創熱傷刺創と様々なものが混ざり合っている。
「え……あ……?」
まだ混乱したままの呻き。続く疑問の声が、魔力に酔って半ば意識を失っていた青年を揺り起こした。
「……アーチャー、だよな。何がどうなってんだコレ」
自分がやったのか。
衝撃を受け流せず、まだぼんやりとしている青年の視点は揺らぎ、問いに対する応えは無い。
それでも歪む視界の中に捉えたものはあった。
焦燥が滲む表情。いや、絶望と言ったほうが合っているだろうか。
いつもように何か言えと乞われてもそんな余裕はなく、体の感覚は遠く鈍い。即座に退室は困難だと判断を下した弓兵は、長く詰めていた息を逃がした。
それが今際の一呼吸にでも見えたか、焦った腕が伸びて傷に触れぬように注意しながらあちこちを検め、心音を確かめ、呼吸が続いているのを確認し、落ちて張り付いた前髪を払って額に、そのまま耳の後ろに触れる。
「傷はどれも見た目ほどは深くない。が、ちと熱あんな。あー……これオレがやった……んだよな?」
重ねられる問いは記憶の寸断を意味し、そこまでを把握した青年は何も告げぬままにゆると瞼を落とした。逃げることは叶わないが、詳細を覚えていない事実に安堵したことで闇が急速に意識を侵食していく。
完全に意識が閉じきる最後に。よかった、と。唇だけで形作った言葉が男に届いた。
「何がよかったなんだよ……こんな……」
少なくとも魔力が足りていることを確認して、正常な思考を取り戻したランサーは頭を振った。
明確に続いている記憶は、自分に拘束の術をかけながら意識を失うようなら同一存在の己を呼べと叫んだところまで。その後は断片的に己と同じ顔がちらつき、霊基を貫かれる痛みと熱の感覚が浮上する。
クラスが違っても自分のことだ。理性を無くしたことで強行手段に出たのだろうと、己の傷の原因はそれで納得できる。
あとは甘く誘う匂いと、さらに甘い魔力の味。
どれだけ頭を振ってもそれ以上のことは出てこず、目の前に横たわる青年が何の抵抗もなく身を差し出した理由も想像の範囲外にあった。あれこれ想像するより本人に聞くほうが早いと結論付けてあたりを見回す。
幸い今居る場所は己に割り当てられた部屋らしい。多少壁に穴が空いてはいるものの、強固な結界で補強されたそこは文字通り魔術の檻だ。
通常なら完全に閉じられたそこから出ることは叶わないだろう。とりあえずまともな状態ではなかった己のために動いたらしい弓兵を床に転がしたままにしておくのは憚られ、慎重に上半身を起こし、己の体を跨がせるようにしながら凭れさせる。
途端にどろりと青い匂いが鼻についた。
血の匂いと混じったそれはあまり歓迎したいものではないが、目を背けていいものではないのも確か。
後孔にそっと触れて広げれば、こぼれ落ちる白濁が己の腿を越えて床へと広がっていく。
「……まじかよ」
その量に思わず顔が引き攣る。状況証拠から自分がこの弓兵を無理矢理犯したのだろうことは間違いない。
本当ならば風呂かどこかで最後まで掻き出してやったほうがいいのだろうと思うが、あいにくとこの部屋には狭いシャワーブースしか存在しない。せめてとばかりに横向きに抱え直すと、中途半端に羽織ったままになっていた衣服を剥ぎ取りがてら汚れを拭い、寝台に移した。
「あー……結界の中だけど通信は繋がるのかね」
自分の格好も相当ひどいが、音声だけなら誤魔化しはきくだろうと判断して、部屋備え付けの通信端末に近寄る。
何度か試したが繋がる気配は無く、やはり先に結界をどうにかしろということかと頭を掻いた。
深呼吸をひとつ。
なんとなくだがキャスターの自分が作ったものだということはわかる。だからこそ、正気に戻った後ならランサークラスであっても真剣に解読すれば解呪できる仕掛けがあるはずだった。
何をするにもまずは外と繋がらなければ話にならない。行動に移る前に寝台に寝かせた弓兵の背に保護用のルーンを贈る。
「さて、じゃあ頑張りますかね」
気合いを入れ直した男は慣れない作業に全神経を傾けながらゆるく目を伏せた。