Fell on

 視界に映るは彼方まで続く森。
 大きく重なるように張り出した木々の枝に遮られて周囲は薄暗いが、見上げればちらちらと光が落ちていることで今が昼だとわかる。
「レイシフト成功……ですがこれでは何もわかりません。場所は合っているのでしょうか」
 警戒を解かずに周囲を見回すマシュの言葉に、彼女のマスターである少年は即座に通信を試みた。
「ドクター、そっちから何かわかる?」
「今全力で解析してる! でも当初観測していた揺り戻しの歪みにしては妙だ」
 お約束で通信不能……などということはなく。滞りなく繋がったものの、返ってくる言葉はどこか曖昧。
「簡単に言ってしまえば、修正されつつある特異点の中にできた微小特異点、って感じかな」
「それは俺達がレイシフトしてきたから、ってこと?」
 マスターの少年とドクター・ロマニとの会話に横から加わった万能の天才。今はモナ・リザ姿の美女として霊基を確立させたレオナルド・ダ・ヴィンチは、不確かで断言しきれないがうっすらと特異点反応があると言葉を続ける。
「もちろん君達がその一端を担ってしまった可能性はあるけれど、それなら遅かれ早かれそうなってただろうから気にしなくていいさ。今はとりあえず状況の確認が先だね。なんでもいいから情報が欲しい。そっちで何か気になることはあるかい?」
 通信を受けて全員が己の状態や周囲を確認する。
 しばらくの沈黙の後、最初に苦い声を上げたのはキャスタークラスのクー・フーリンだ。
 かなり強い制限がかかっていると零した彼にマシュが首を傾げる。
「制限、ですか?」
「ああ。そうさな……結界の中、に近い感じかね。嬢ちゃんの盾は問題なさそうかい?」
「ええと……はい。特に問題は感じられませんが」
 手元に己の武装である盾を引き寄せてその感触を確かめた少女は、問いの意味がわからないと疑問を返す。
「んじゃアーチャー。テメェはどうだ」
「右に同じだ。いつもと変わらない……いや、出力は落ちているか」
 答えながらその手に握るのは彼がよく使用する夫婦剣。続けて黒の長弓に姿を変える。
 ふ、と。何かに気付いたようにその瞳が上がった。
「武器を取り出すこと自体は問題がないが、物によって負荷に差がある。いつもの双剣を使っての連続戦闘は現実的ではないな」
「おそらくだが……この場がその存在を強く否定しているせいだろう」
 続けて声を上げたのは、諸葛孔明の疑似サーヴァントとして現界しているロード・エルメロイⅡ世。意識が英霊側ではなく器である人間側にあるため、彼の発言はどちらかというと一番現代を生きる魔術師としての所感に近い。
「私を依代としている諸葛孔明由来のスキルも半ば封じられているようなものだ。転移早々こんなことを言うのは申し訳ないのだが、今の私はほぼ役立たず、少し魔術の知識があるだけのただの人間だと思ってくれ」
 苦虫を噛み潰したような表情で申告した彼は、レイシフトしてきた最後の一人に対し、話を振った。
「そうですね。僕のほうは普段とあまり変わらないようです。元々魔術とは無縁だからでしょうか」
 穏やかに答えたのは、シャルル=アンリ・サンソン。
 全員が自らの状態を申告したところで、改めてその場の視線はクー・フーリンに戻る。
「うげ。キャスタークラス狙い撃ちかよ」
「そういう君はどういった影響を受けているんだ?」
 エミヤの問いは尤もだっただろう。全員が注目する中、森の賢者はばりばりと己の後頭部をかき回した。
「ルーンだよ。厳密に言うと使うこと自体はできるが実用に耐えるだけの出力が出ねぇ、その辺りは軍師殿の感覚と同じかね」
 ただでさえ面倒極まりないキャスタークラスでの召喚なのにルーンまで取り上げられたら完全に直接戦闘の手段を断たれたようなものだと嘆く。
 そもそもキャスタークラスは直接戦闘、ましてや接近戦を好むようなクラスではないのだが、通信先を含めてその場の誰もツッコミを入れることができなかった。
 それだけ彼の戦闘スタイルが周知されているという事実の裏返しでもある。どちらかというと後方支援のイメージが強い魔術師に他クラス並みの膂力で殴りかかられれば驚くだろうから、それはそれで有用と言えるのだろう。
「そうさな。代わりにドルイドとしての力は強化されてるみてーだから、つまりそういうことなんだろうさ」
 暗にここはドルイドという存在を許す森だと語る。
「……これは仮説なのだが、この場は自分達が信仰するものに由来する奇跡以外を知らないが故に、系統外の魔術を排除する力が働いているのではないだろうか」
 神秘とは。力の存在は知っているが本質を知らない者がいるからこそ神秘たりえる。
 多数の信仰を集めることが世界に強い魔術を現すための下地になるのなら、この微小特異点は一部の魔術以外の存在を知らないが故に存在しないこととする結界のようなものが世界全体に働いているのではないか。
 ロード・エルメロイⅡ世の予測は、現状と照らし合わせた魔術的状況を明瞭な言葉に置き換える。
 それは、全員の納得に迎えられた。
「そうなると、ますますこの場は、ドルイドとしての力は無条件に許容するってことになるな。嫌な予感しかしねぇんだが……」
「キャスター?」
 苦笑と共に次の言葉を吐き出したクー・フーリンは、背に下ろしていたフードを手繰り寄せて顔を隠した。エミヤの呼びかけには苦笑を返す。
「……そうか、時代だ!」
 唐突に響き渡った通信越しの医師の声に全員がびくりと肩を震わせる。知らず大声になっていたのに気付いた彼はごほんとわざとらしい咳をして謝罪を口にした。
 深呼吸を挟んで、もともとレイシフトを予定していたのは、第二特異点の残滓。だからこそ、引っ張られて座標が狂ったのだと続ける。
「観測波長、振れ幅修正……座標確認。予想通りだ。そこは当初予定していたガリアではなく、もっと北」
「アイルランド?」
「その通り」
 なんとなく雰囲気に覚えがあるような気がしたと笑った少年は、以前歪みを感じて訪れたことのある一世紀のアイルランド北東部と同じ場所なのかと確認する。
「今データを引き出して……よし。確認が取れたよ。以前の時とほとんど変わらないみたいだ。だから真っ先に気付いたのがキャスターのクー・フーリンだったんだね」
 前回、カルデアの観測機器には何も異変がなかったはずのこの場所に、歪みがあると指摘したのも彼であった。
 解決にあたったマスターの少年とマシュ、そして彼らのナビを務めていた医師は覚えている。
 それぞれが通信越しに記憶を手繰り口を開いた。
「ええと……確かあの時は敵性反応がドクターの側で発見できなかったんだっけ」
「なるほど。そういうことなら目視で見張った方が確実だな。私が上から確認しよう。話自体は聞いているからそのまま進めてくれ」
「ありがとう、エミヤ」
 二人の会話に真っ先に反応し、見張りを申し出た弓兵が木擦れの音を上げて消える。口を挟む間もなかったが、話は聞いているという言葉が示すようにさほど高くは登らないらしく、緑の間からちらつく赤が見えていた。
「一応前回のデータを応用してモニタ範囲を広げているけど、今のところ敵性反応は知覚できない。暗くなる前に今後の動きを決めるべきだね」
「いや、ダメだな。先に野営の用意をしたほうがいい」
 森の日暮れは実際よりもだいぶ早いぞと忠告を挟んだのはクー・フーリンだ。
「同感ですね。気温が下がってきていますから、早急に火をおこしたほうがいい」
 枝が折り重なる森の中は、日差しが遮られ、昼でもさほど温度が上がらない。夜や朝方はかなり冷えることが予想され、そうなれば自分達はともかくマスターの身が心配だと告げたのはサンソン。
 現場の判断に任せるとロマニが返し、当面の方針は決定された。
「よし、んじゃちょいと移動するぜ。このあたりは湿っているから野営には向かねぇ。アーチャー、殿を頼む」
「了解した」
 即座に飛び降りた赤が音もなく着地する。
 見渡せる範囲に敵はいないと告げた彼に頷いて、持ち上げた杖をツアーの旗よろしく振ったクー・フーリンは、なるべく平坦な場所を選んで歩き始めた。
 移動がてら小枝を拾うことを忘れないマスターとサンソンには時折離れすぎるなと声が飛び、マシュは警戒態勢を解かぬまま少年から離れず、盾を握って移動する。
「このあたりだな。風も回り込んでこない位置だからちょうどいいだろう」
 少しだけ大きな石が転がり、それが目印になりそうな場所。移動したのはさほどの距離ではなかっただろうが、人の手が入らない森には道もなく、ましてや警戒していれば余計に体力を消耗する。
 安堵の息をついたマシュに少し休んでと声をかけて、少年は手早く火をおこせそうな場所を整えはじめた。
 すぐにそうしようと思い付くのは経験によるものだ。オルレアン、セプテムの旅を思い出し、自分がどこか現代の感覚からずれてしまったことを少年は笑う。
「先輩、いつものようにスクロールを預かっています。それで……あっ」
 慣れない野営でも最低限困らないようにと、マシュはレイシフトに際し複数種類の術式を記載したスクロールを持ち込んでいた。その一つをいそいそと取り出したものの、ひらいたそれは空白。
 ただの紙切れになったそれらを前に呆然とする。
「こいつぁ、軍師殿の仮説が補強されたな。しゃあねぇ。んじゃ原始的な方法で火をおこすことにするかね」
「これが魔術の排除……」
「考えすぎないで下さい、マシュ。そもそも、火をおこす手段はそれだけではありません」
 呆然としたまま、持参していた全てのスクロールが同じ状態なのを確認した彼女は唇を噛む。直後に肩に軽く触れた大きな手と、視線を上げた先で微笑む男の姿を同時に認めて、一拍を置いてからふわと笑った。
「ありがとうございます。Ⅱ世さん、サンソンさん」
「マスターの言う通り君は休んでいたまえ。どうやら彼はやる気満々のようだからな」
 眉間の皺をそのままにどこか楽しそうに笑った黒髪の男はお手並み拝見だなと口端を上げる。その手は何かを取り出そうと一瞬伸ばされたが、途中で止まっていた。
 気付いたのは隣に立っていたサンソンのみ。その彼もあえて指摘せず、ただ薄く笑むだけで流す。
 会話を聞いていたのか、少し遠くで任せてと拳を握る少年の姿にマシュも瞳を和ませた。
「はい。では少しだけ休憩にします」
 乱雑に出してしまったスクロールを収納し直すことに決めたらしい少女は休憩と称してそれらを丁寧に巻き取っていく。一方、少年はクー・フーリンの指導のもと、先んじて集めていた小枝と、この場に着いてから集めてきたものとを合わせ、簡単な道具を使っておこした火種と格闘していた。
 あちこちから揶揄い混じりの激がとび、必死になった少年も顔を真っ赤にして作業に没頭する。
 しばらくの後、組んだ木材の中で赤々と燃える火を目の前にぱたりと倒れた姿があった。
 疲れたと感想を零す彼は燃え尽きたと言わんばかり。
「火おこし、って。こんな大変なんだね」
「知識は力だ。今回みたいなことがあれば次は対処できるだろ。それは心に余裕を生む」
「うん。ありがとうキャスター」
 横になったままの少年に声はかけるものの、起きろと告げることもなくクー・フーリンが笑う。ゆるく目を閉じた少年は意識して深く呼吸を繰り返した。
 しばらく。
 いつまでもダウンしている少年を笑うようにぱちんと火花が舞う。それを合図にするかのようにようやく起き出した彼は、自分がおこした火を前に目を細めた。
「なんかお腹空いちゃったなー」
「携行食でよろしければ何か出しますが」
「ありがと、マシュ。一緒に食べよう?」
 はい、と笑う彼女と並んで座り直した少年と、同じように食事を必要とするエルメロイⅡ世が火を囲む。
 少年が休憩している間に追加の枝を集めに出ていたサンソンとクー・フーリンが火の傍まで戻ってきたところで、先刻のように樹の上に登って周囲を探っていたエミヤは地上へと戻った。
「キャスター、可能ならば水を調達したい。森に入って川か泉を探しても問題ないかね?」
「あー……一緒に行こう。水の気配はするから教えてやることはできるが、神秘の名残が色濃い森だ。日が暮れた後なら尚更、何があるかわからねぇからな」
「わかった、では頼む。マスター」
 声を掛けて了承を得る青年をその場で待ち、残りの男達に目配せをしてその場を頼むと告げれば同じように視線だけで問題無いと返ってきた。Ⅱ世の手にはいつのまにか細く煙を吐き出す葉巻の姿がある。
 魔物避けか。
 それが礼装の一種であることはすぐにわかった。
 声には出さずに把握した内容を噛み砕いて、しばらくの間であれば問題無いと判断を下す。それならば水汲みのついでにもう一つの用件も達してしまおうと決意して魔術師は青年を待った。
「待たせた」
「構わねぇよ。んじゃ行くか」
 気をつけて、行ってらっしゃいと手を振る少年少女に軽く手を上げて応え、弓兵と魔術師は揃って森へと足を踏み出す。時刻的にはまだ日暮れではないはずだが、森はすっかり闇に閉ざされていた。
 特に無駄話をすることもなく、水の気配を追う。
「暗ぇな。大丈夫か?」
「問題ない。視力の強化など、己の肉体に直接働きかける魔術は比較的影響を受けにくいようだ」
「ああ。個人で完結していて、知らない奴が見た時にそれが魔術かどうかわかりにくいからだろうな」
 ぱきり。足元で踏み潰された小枝が悲鳴を上げたが、どちらもそれには気を向けず、なるほどと納得の頷きだけが静寂を掻き混ぜた。
「そろそろのはずだが……なんだ?」
 大きく張り出し、重さに負けて垂れ下がった枝を杖で押してくぐり抜けた先。確かに水の匂いが嗅覚に触れる。同時にぐる、と低い呻きが耳に届いた。
 開いた視界の先には確かに泉があったが、その前でこちらに視線を向ける影がふたつ。ゆっくりと方向を変えて姿勢を低くする姿に彼らは同時に溜息を落とした。
「野犬の類か……」
「そうらしい。まいった。あんまり水辺で血なまぐさいことはしたくねぇんだがな」
 それでも襲ってくるのなら仕方がないと杖を握りこむ男を制して、青年は慣れぬ長柄の武器を手に一歩踏み出す。
 手にしたそれの先に刃はついておらず、槍ではない。どちらかというとただの長いだけの棒だ。
 どうするつもりだと問う視線を薄い笑みで流す。
 じり、と。地面を擦る足の動きにすら注意深く耳を動かす獣達を欺くことはできぬだろうと覚悟を決める。随分と大きい。犬というよりは狼だろうかと考えて眉を寄せた。
 緊張が高まる。
 あたりを支配するのはしんと冷えた空気。こぽりと湧き出す水の音すらも拾えそうなただひたすらの静寂。
 あと一歩。それで彼らの射程に入る。
 水辺で事を荒立てたくないという森の賢者の言葉を可能な限り尊重しようと武器と立ち位置を調整していた。
 わざと獣達に先制を許して刃のついていない獲物で絡め取って森側にいなし、速やかに処理する。
 言葉がなくとも思惑は隣の魔術師に筒抜けなのだろう。くつりと笑う気配が静寂を震わせる。
 緊張の糸を切ったのは、ぱちゃんと何かが水をかき混ぜた音だった。
 強く地を蹴った獣に咬ませるように棒を振るう。
「な……ッ」
 剥き出しの牙の前に、棒に触れたのは彼達の前肢。
 慣れぬ武器を扱っていることを嘲笑うかのように踏み台にされたエミヤは、振るった棒の先に体重を掛けられて膝を折る。
「キャスター!」
「チッ。最初から狙いはこっちかよ!」
 エミヤに制されて一歩下がってはいたが、油断など欠片もしていなかった魔術師が獰猛に笑う。
 ルーンによる身体強化は封じられているが、相手が手強い魔獣ではないのなら、サーヴァントの基礎身体能力だけでも十分に対抗可能である。杖の先をやや残しながら半身を捻り、最初に青年がやろうとしていたことをなぞるように、湾曲した先で獣の体を搦めとるように回転させながら振り抜きつつ手放す。
 野犬達が体勢を整える前に両腕でそれぞれの首を押さえ込んで締め上げた。ぎゃうんと悲鳴が上がり、地面に倒れ込んだ一人と二匹がそれぞれ土を蹴り上げる。
 犬達の抵抗が弱くなるに従い、魔術師の身から漏れたようにゆらと流れた光が彼らの頭を包み込んだ。
「なんだ?」
 青年が疑問を口にしている間に光は強まり、獣達の体を侵食していく。
 間違いなく全身に行き渡った段階になって、二匹は抵抗を止めていた。代わりに服従するように耳を寝かせ、きゅうと力なく声を上げる。
「あん?」
「どうなっているんだ?」
「そんなんオレが聞きたい……はー、やれやれ」
 腕の中に居るのはただの犬が二匹。彼らからは敵意も殺意も消えていた。それを確認して魔術師は身を起こす。
 変則的なヘッドロックから解放された二匹だが、地面に伏せたまま動く気配は無い。
 男の頭からは揉み合った拍子にフードが滑り落ちていたが、この状況では戻す必要もないとそのまま。犬達を見下ろす二人はどうしたものかと顔を合わせる。
「なんとなくだが、君の魔力の気配がするな。さっきの光が原因か?」
「だろうな。これも一種の逸話の具現ってことかねぇ」
 クランの猛犬を意味する今の名を名乗るようになる切っ掛け。襲いかかってきた鍛冶師の番犬を絞め殺した、という逸話を思い出す。今は大人しく伏せている二匹は確かにこの時代の生命だろうが、魔力を纏った結果変質し、男の一部として成立しているように見受けられた。
 そのまま言葉にすれば溜息と共に頷きで肯定される。
「多少の違いはあれど、逸話の再現を経ることにより、オレに付随する概念として成立してしまった、ってことなんじゃねぇか?」
 クー・フーリンは犬を斃すことと後継を育てること、その肉を口にしないという誓いによって新たな名を得て英雄としての一歩を踏み出す。
「ふむ……そう言われてみれば矛盾はないな。意思疎通は可能かね?」
「ああ。ある程度ならな。今のコイツらは使い魔みてーなモンらしい。突き詰めていくとややこしくなりそうだからそういう認識でいいだろう」
「承知した。ではマスター達への言い訳を考えねばなな」
 しかしすごい汚れだぞ、と。犬達と揉み合った際の名残を指摘して弓兵が口端を上げる。
 とりあえず顔だけでも洗うかと犬達をその場に待機させてから小競り合いの最中に放り出した己の杖を回収し、泉の淵に立った男はそのままゆるく目を眇めた。
 弓兵はそれ以上の口出しはせず、ただ黙って待つ。
 水辺の戦闘を避けた理由のせいだろうというのが彼の纏う雰囲気でわかったためだが、まだ完全に信用していない犬達から目を離すこともできなかった。
「上等……アーチャー、細かい説明ができなくて悪ぃんだが、目印がわりにちとコレ持っててくれ。あと水の容器は借りてくぜ」
 己が持っていた杖を押し付け、代わりに青年が持っていた皮袋を奪い取った男はそのままざぶざぶと泉に足を踏み入れた。
 慌てて淵までその姿を追った弓兵はぞわりと背を撫でる気配に踏鞴を踏む。
「それでいい。おまえさんは踏み込むな。あと、絶対に杖から手を離すなよ」
 ちょっと行ってくる、と。腰まで水に浸かりながら軽快に笑った男は、次第に深くなっていく泉に飲み込まれて消えた。
 目を瞬く。だが、映るものは変わらず、名残として僅かに波紋を残す水面が揺れるのみ。
 それもそう間をおかずに消え去って、残るのは凪いだ水面だけだ。
 風で落ちる木の葉すら避けるような水鏡。
 底が見えるほどの透明度を持つ泉のはずなのに魔術師が今どこに居るのかわからない。それだけで手出しできる領域ではないと知らしめるのには十分だった。
 犬達は動かない。
 じわりじわりと足元から何かが這い上がってくるような妙な気配があるが、それら一切を無視して青年はただ手にした杖の確かさだけを思い描く。
 己の知らぬところでキャスターのクー・フーリンが何かと会話している気配はあった。
 今居る時代を考えればそれは妖精や精霊の類だろうと考えられるだけの余裕はあり、ならば英霊の末席に居るとはいえ、現代寄りの自分などではどうにもできないことだと知っている。
 早く、などとはとても言えない。
 這い上がるような違和感は強くなる一方で。ただ耐える弓兵の背にその手がかかるかというところになってやっとぷかりと水面に見慣れた髪色が姿を見せた。
 呼びかけようと唇を開いて、音を通そうとした喉が引き攣る。
 結局は。青年は何もしないままで唇を閉じた。
 くすりと耳元で何かが笑った気がする。
 細く吐き出す息と共に視線を伏せてもう一度上げた先にあったはずのものはなく、代わりに凪いでいたはずの水面に勢いよく泡が立つのが見えた。
「ぶっは。こんにゃろ……散々邪魔しやがって。これで満足か、あア!?」
 知的を気取るには雑な半ギレの文句が続いて、そのあまりの口の悪さに苦笑する。
 やはり見えない者を相手にしているのだと理解し、おそらくは呼び掛けなくてよかったのだろうと胸を撫で下ろした青年は、相変わらず何者かに文句を言いながら近付いてくる男を待った。
「遅くなって悪かったな、アーチャー……って、くっそテメェら片っ端から手を出してんじゃねぇよ。まったく油断も隙もねぇな」
 去れ、と。さほど荒らげられたわけでもない声は静寂の中にあってよく通った。半ばまで水に浸かったまま、獣の眼光が弓兵を、その周辺を射抜く。
「……ッ」
 エミヤとクー・フーリン。幾度も聖杯戦争で争った二騎は、今更その程度で萎縮するような間柄ではない。
 実際のところ弓兵の中に湧き上がるのは戦意に反応する高揚だが、彼の周辺に蟠るものにとってはそうではなかったらしい。波が引くように己の違和感が収束したことを確認し、水音高く戻ってきた男を見た青年は困ったように目尻を落とした。
「無事だな?」
 水で冷やされた手が躊躇いがちに頬に触れる。男の足元はまだ水中にあるため、一段低く、見上げる体勢。
 僅かな光を反射して燃えた瞳が青年のそれとぶつかる。
「……ああ。おかげさまで」
「ならいい。これ水な。融通してもらったから坊主でもそのまま飲める。もうちっとだけそのまま待っていてくれ」
 来い、と。強く発せられた命令を聞き届けてそれまで伏せていた二匹の犬が水に飛び込む。
 青年の足元に向かって溢れた水が僅かに靴の爪先を濡らしたがそれだけ。
 たぷりと膨れた皮袋を片手、水の中で犬達を迎える男の杖をもう片手に弓兵はゆると息を吐いて、少しだけ岸から離れた男の姿を追った。
 知ってるかもしれんが。
 今度はこちらを常に見ていると告げる穏やかな声が水面を滑って届く。
「水ってのは流動・変化の性質を持つ。だからこそ、力を持つ水なら呪いや毒を濯ぐことも、傷を癒すこともできるわけだが……」
「灰色の湖か」
「そうさな。そしてそういうところにはだいたい相応しいやつらがいるもんでな。揶揄いついでにめちゃくちゃ邪魔されたんだよ。水とってくるだけだっつーのにな」
 お陰で濾過や煮沸の手間の省ける綺麗な水が手に入ったが、一人で行かせなくて良かったと苦笑した男は水を掻いてきた犬達それぞれと額を触れ合わせて一度水中に沈む。
 まだ泡が残っている間に再び浮かび上がった彼は、すっかり汚れの落ちた二匹と一緒に弓兵の眼前に立った。
 犬達はどちらも灰色と言われる毛並みをしているが、よく見れば片方は黒寄りで、もう片方は白銀に近い。
 その光景があまりにも神々しく、青年の唇からは知らず息が零れた。
 ぱしゃり。
 先に水から上がった犬達の毛並みからまるで生きているかのように水が剥がれ落ちていく。
 それこそが先程男が告げた『邪魔をした者』の正体に関わる奇跡なのだろう。また、悪戯を仕掛けていた相手だと理解するのにそれ以上の説明は必要がなかった。
 存在があることを告げても詳細までを告げないのは、知ることによって取り込まれやすくなるのを防ぐためだと静かな声が理由を告げる。
「君の判断に従うさ。なにせこの時代は、ただでさえ大気中のエーテルが濃い。何が起こったとて不思議ではないと思えるのでね」
「助かる。なあ、アーチャー。ひとつ誓約をしねぇか」
「……そんなことを気軽に言っても平気なのかね」
 言葉に甘さはなく、男は身動ぎひとつしない。
 一切の動きを止めた彼の足元の水面はとうに滑らかさを取り戻し、木々の間から僅かに届く月の光がますます蒼く周囲を染め上げていた。
 闇に沈んでいるはずの森の中でさえ、僅かな光を集めて輝くような男は、見た目の神聖さを裏切って鼻で笑う。
「おまえさんならその乱発具合を知ってるだろ」
 ずい、と。顔だけを近付けてきた男の唇を掌で塞ぐ。
「そうだな……では。このレイシフト中、君とは情を疑うような行為は交わさない、と。君が口にしたものをこちらに振り替えられるようなことはごめんだ」
「おいおい、そういうことを言うと、見届けるやつらの気まぐれを刺激して、破ったときに本気でそうなるぞ」
 ここは自分の生きていた時代に近しいと彼は笑う。
 つまりそれはまだ神秘が去りきっていない世界だということだ。弓兵自身も告げたように大源も濃く、姿は見えずとも人外の者は強く存在を感じさせる。
「問題ないだろう。私は破ると思っていないからな」
「ったく。まあいいさ」
 その誓約、確かに聞き届けた。
 静かに、緩やかに紡ぐ言葉に力が宿る。
 真似事だと本人は言うが、ケルトのそれになるにあたって、ドルイドと定義されている事実は変わらない。その前で誓いを立てるのは正式なゲッシュの成立を意味した。
 言葉にはしなかったが、双方ともにこのやりとりの必要性を予感している。
 ぱしゃ。男の足元で水音が散った。
 濡れた名残もない彼の手に杖を渡せば、即座にそれまでの真剣さを裏切って子供のように笑う。
「さて、そんじゃあ坊主のところに戻るかねぇ」
「彼ら……でいいのか。も連れていくのだろう」
「ああ。二匹ともオスだからな。元は野犬だが、さっき存在そのものを濯いだから、マスターや嬢ちゃんに近付けても病気その他の心配はねぇよ」
 完全に不意打ちだったが、護衛にも連絡用にも役に立つと告げる。
 犬達も敵意を見せることなく一匹は魔術師の傍を、もう一匹は弓兵のすぐ傍を歩いていた。
 汚れを落とされた毛並みはふわふわで、朝方は今以上に冷えそうだから坊主達の毛布がわりにちょうどいいだろうと告げられた彼らには、水滴のひとつも付着していない。
 青年はふと己の足元に視線を落とした。
「どうした?」
「いいや。なんでもないよキャスター。ところでフードは取れたままだがいいのか?」
「おっと、いけね」
 水に濡れた爪先に付着した土の汚れは湿っている。このあたりが彼との違いだと己で線を引きなおして、青年は何事もなく視線を戻した。
 遠くちらりと見える炎の色に目を細めて、余分な考えを思考から追い出す。
 先に明かりの範囲に辿り着いたのは魔術師。数歩もおかずに弓兵も隣に並ぶ。お帰りなさいと元気よく振り返った少年少女がそのまま固まった。
 自然な動作で隣の男を追い抜き、穏やかにただいまと返した青年は、水は足りているかと声を上げたものの、目を丸くした彼らはそれどころではないらしい。
「え、いや……えっ?」
「クー・フーリンさん。その子達は一体……」
「おう。ちと一悶着あってな。このレイシフト中限定だがオレの使い魔みてーなモンだ。っても本体はこの時代の生きてる犬だからちゃんと触れられるぞ」
 オマエらが守る対象だ、と。
 固まったままの少年少女の前まで進んで、男は犬達に曖昧とも言える指示を出す。
 マスターの少年やマシュだけでなく、サンソンやⅡ世も含めてそれぞれ一通り嗅ぎ回った犬達は、最終的に少年少女の隣で腰を落ち着けた。ごろりと横になってくつろぐ体勢まで見せるのは警戒を和らげるためか。
 触ってもいいのかとオロオロする二人の腿に自ら頭を乗せてやるという行動があまりにもほのぼのとしていて、場の全員が笑みを噛み殺す。
 実に和む光景ではあるが、彼らが犬達の体温に負けて寝入ってしまう前に伝えなければならないことがあった魔術師は固い声で二人の名を呼んだ。
 必要性を察して姿勢を正した彼らは即座にカルデアとの通信を確立させ、真剣な気配を読み取って火の傍まで移動してきたサンソンとⅡ世は適当な場所に座り込む。
 男はフードを押さえたままでぐるりと視線を流した。
 エミヤだけは見張りのつもりなのだろう。少しだけ離れた位置にいるが、話は聞いていると視線が伝える。
「さっき水を調達に行った時に、人ならざる者に多少話を聞いた。現代寄りのアンタらが面倒なことになっても困るから詳細は省くが、やはりオレが鍵の一つなのは間違いがないらしい」
「クー・フーリンさんがこの特異点をつくった……というわけではないのですよね?」
「ああ。どっちかっつーと、つくった世界を維持するために呼び込まれたのほうが可能性がありそうだが、そのあたりは実際に住人に接触してみなきゃわからん」
「街か村か……とにかく生きている人を探す必要があるってことだよね」
 マシュの疑問には肩を竦めた男だが、続くマスターの少年の確認に対しては、あまり気は進まないがとぼやく。
 誰かが願い、それを叶えた以上、規模を考えればここに聖杯の欠片に相当するものがあるのはほぼ確実だろう。
 冷静に言葉を続けた彼に、通信越しに溜息とも呻きともつかない声が届いた。
「どうだい、ドクター」
「……そうだね。弱くても特異点反応がある以上、可能性はかなり高い」
 危険の芽は極力排除するべきである。大筋の七つの特異点における聖杯探索も進行すべきものであるが、一方で修正済の時代に時折現れる揺り戻しも、亡霊による歪みも、微小特異点も放置できない。
 莫大な魔力リソースであるそれを他者の手に渡す訳にはいかず、関わりがあるとわかってしまえば回収せざるを得ないのが今のカルデアの現実だった。
「じゃあ明日は村というか人探しになるのかな」
「いや、集落の大体の位置は把握済だ。そこに向かうことになるとは思うんだが、その前に全員に頼みがある」
 真名や正体が推察できる名は可能な限り避けてくれ。
 全員に対し、それぞれ視線を合わせて。真剣な男の要請に、真っ先に反応したのはロード・エルメロイⅡ世。
「一世紀のケルト……時代を考えれば賢明だな。尤も、その口調だと、死後ではあるのだろうが」
「おう。まあ……なんだ。何年も前に死んだはずのヤツがよりによってドルイドとして復活してきたとかシャレにならんだろ?」
 応える男の口調は軽い。
 いつまでも隠し通せるとは思っていないが、最初から明らかにしていけば面倒なことになるのも確かで、一通り話を聞き終わるまで時間を稼ぎたいという意図が読み取れた軍師はそこで引き下がる。
「そういえば前の時も似たようなこと言ってたよね。今と変わらないけど、キャスター呼びならいいかな」
「き、気をつけますね」
 普段からクラス名までつけてきちんと真名を呼ぶのはマシュだけのため、一番うっかりしそうなのが自分であることを自覚した彼女の頭をぽすんと叩いて、バレたらバレたでなんとかなるだろうからあまり気負いすぎるなと笑う。
「そんじゃ坊主と嬢ちゃんはそいつらを毛布がわりにして構わねぇから寝ちまいな。日が昇ったら全員に誤認の魔術をかける。ルーンが使えねぇ分ちと手間取るし、相手への印象を薄くする程度だが、この時代には無い格好のまま無闇に歩き回るよりはマシだろう」
「わかった。休める時には休む、だね」
「はい。おやすみなさい……キャスターさん」
 就寝の挨拶にマシュが一瞬詰まったのは呼び方を意識した結果だろう。
 穏やかな笑みとともに律儀に挨拶を返してから、魔術師は立ち上がった。同時にⅡ世も立ち上がる。
「話をしても構わないかね」
「おう。なんだ」
 気軽に応じた男を促し、サンソンに対してマスター達を頼むと告げて、エミヤの傍まで移動すると告げたⅡ世に無言で従った男は、嫌そうな顔に出迎えられて苦笑する。
「極力手短に済ませるが、真面目な話だ。いいだろうか」
 怪訝そうなエミヤに対して投げられたⅡ世の言葉にはどこか迷いがあった。だからこそ青年も真面目に話を聞くつもりになる。
「現状、体格的に一番違和感がないのは君だ。だから、可能なら魔術による認識の阻害ではなく、実際にこの時代の戦士と同じような武装をしてもらいたい」
 Ⅱ世の言葉は過去の英霊たる中華の軍師ではなく、現代における魔術の総本山であり、何年生きているのかもわからない化け物揃いである時計塔で君主として生き抜いてきた者としてのそれであった。
 連れられて一緒にやってきたはずの青の魔術師は一歩後ろで沈黙を守っている。
「構わないが、その意図を聞いても?」
「もちろん」
 最初からそのつもりだというように頷いた男は、理由は大きく二つだと指を立てた。
 ひとつは住民と触れ合う必要がある場合に困ること。誤認や認識阻害の魔術による誤魔化しは基本視覚のみで、触れられてしまうようなことになれば意味を成さない。
 自分達はどう考えても余所者でしかないため、相手を信用させるために接触が必要になることもあるだろう。
 その際には、服も、刃も。幻であっては困る。
「君は長い間刃を握ってきた戦士だ。名乗りを疑われ、手を見せろ……あるいは実力を見せろと言われても問題ないだろう。少なくとも私などよりは遥かにな」
 確かに彼の言う通り、今回のメンバーで戦士と言われて納得できるのは、キャスターとして霊基を確立させているとはいえ、ランサー時と変わらない体格のクー・フーリンを除けばエミヤくらいだろうと納得できた。
「もう一つは視線を逸らすため、か」
「……その通りだ。可能な限り、キャスターの彼以外へと住民達の興味を誘導したい」
 多少の時間稼ぎにしかならなくても。
 そんな風に漏らしたことで、有効さを一番疑っているのは本人なのだろうとわかる。苦笑しながらの言には、それまで黙り込んでいたクー・フーリンが口を開いた。
「顔を晒すわけにはいかねぇからオレはもう面倒な隠者で通すつもりだが、他の連中にもなにかしら設定があったほうが楽か」
「そうだな。あれば助かるが、うまいこと合うものがあればで構わない」
 なければないでどうにかすると続けられて、男はふむと首を捻る。
「年齢的に微妙なとこだが、体格的に幼く見える坊主は騎士見習いでいいだろう。貴族やらの血筋も多いから年上に命令していても違和感はねぇしな。嬢ちゃんは……下手に地位があるよりは伝令役として来た侍女とかのほうがいいか。弓兵は問題ねぇとして、アンタらはどうみても騎士には見えねぇからなあ」
 医者、職人、あるいは御者あたりがいいか。
 上げられた候補に対し、口を出したのはエミヤだった。
「御者は時に自らも騎士として戦場に立つものだ。ならば彼らの性質的には医者か職人が無難だろう」
 それに、と。続けられた言葉はあまりにもひっそりとしすぎて、ほんの僅かの欠片だけが軍師の耳に届いた。
 かの王と共に駆けたいのだという、願いとも言える一方的な誓い。その一端を思わせる言葉に苦笑する。だからこそあえてそれには触れず、Ⅱ世は自分を職人、サンソンを医者として定義することを告げてその配慮に応えた。
「わかった。それじゃアーチャー。ちと許可取って何本か木をとってくるからそれを入れる袋を頼む。できたら軍師殿に持たせてやってくれ。そんでもってアンタはあの医者にコレの使い方を教えてやってほしい」
 ぽいと放られた小さな壺状の容器を受け取ったⅡ世が眉を寄せる。
「知ってるだろ、アンタなら」
「……ドルイドの秘薬か」
 ご名答。
 何を思い出したのか。
 肯定の言葉に眉を顰めた彼は、そのまま場を離れた。
 サンソンの元に向かうのを見送って苦笑し、クー・フーリンも森に向かって一歩を踏み出す。
「できるだけすぐ戻る。結界は一応張ってあるが、見張りは頼んだ」
「ああ、任せておけ。キャスター」
「ん?」
 戻って来たら装備の詳しい素材と形状を教えてくれと告げてふいと視線を逸らした青年はもう男を見ない。
 気付かれぬように笑みを逃して、男は了解とだけ返し森に消えた。
 あたりには夜の気配と、月の光が落とす蒼い影の存在が満ちている。
「騎士か……」
 視線を合わせぬままに気配だけで男が去ったのを確認した青年は、己の唇から零れた言葉を意識に上らせることなく、ちらりと汚れたままの爪先に視線を落とした。
 ぎゅう、と心臓のあたりにある礼装を握りこむ。
 今となっては生前の記憶も英霊となってからの記憶も曖昧だが、それでも断片的に閉じ込めた宝物のような思いは存在していた。
 記憶自体は鮮明ではないものの、その瞬間だけは別。
 思い返すのは深い闇の中。蒼い月明かりの土蔵で見上げた黄金と銀に彩られた姿。
 その一瞬後に翻った青の裾と高い金属音。
 己の騎士に対する認識はあれで決まったのだと青年は苦笑する。
 握りこんでいた礼装をそっと離して手を眺めても、あの夜ならざる場では血が付くはずもなく、ぎゅうと握られた拳はそのまま静かに下された。
 古傷が痛む気がするなど幻覚だと決めつける。
 少し遠くから聞こえるサンソンとⅡ世の話し声。
 思い出したようにぱちりと爆ぜる火の粉。
 それ以外の気配はなく、視線の先にある森は闇に沈んだままで静寂に満ちている。
 男が戻れば朝までにやることは多いだろう。
 この時代の服装はどういうものだったか。擦り切れ、摩耗した記憶と記録から資料としてのそれを引っ張り出す作業を行いながら、静寂の中に目を凝らした。