Flamberg

だるい体と瞼を押し上げれば、もはや見知った風景が瞳に写った。
切り刻まれた空と、あちこちから伸びる柱。見上げれば視界の大部分の空は既に無く、切り取ったように開いていたこの真上の空も、もうすぐ無くなるのだと言う。
もとの街はすでに開発街へと飲み込まれ、面影はもう無い。世界初の空中都市を作る為に働く人の数は日を追う度に増える一方で、そのために仮設の家が次々と作られていった。
人が増えるのに付随して増えるのは住居だけでなく。社交の場として歓楽街や娯楽施設も同じ。そこからの自然な流れとして、荒くれ者相手に色を売る店の数も次第に増えていった。
さらには、元々が街の外れに位置し、治安の良くない部類だった場所から自然発生的にスラム地域が拡大していく。それらには幾分かグレードの落ちた店が寄り集まり、利用する客も相応となる。
必然と問題も増え、望まずに産み落とされた子供達は行き場をなくして打ち捨てられた。
生まれ落ちたのはそんな場所。
朽ちかけた軒は夜露を凌ぐのにも無理がある。熱を少しでも閉じ込めるようにときつく引き寄せた膝を離し、身を起こした少年の全身は、うっすらと濡れていた。
少年、のはずだ。
放置されて久しい煤けた黒髪は方々に伸び、表情までも厚く覆い隠している。濡れたことで張り付く髪は傍から見れば相当鬱陶しそうだが、少年は気にすることなく立ち上がった。
奪われた体温の多さを思うように身震いする。
少し歩けば同じような状況の者達が溢れていた。それでもまだ少年は長く生きている部類だったのだ。
家も無く、生きる術を知らず、まだ体が生きているから生きている者たち。
一歩踏み込めば容易に楽になる事は出来た。
彼らが居るのは完全にスラム化した街の一番端。人々を守るための鉄の囲いは完全ではなく、いつ外からモンスターに襲われるかも分からない境界線上。
子供達は生贄だった。襲われる事に対する物理的な危機と逼迫する経済状況を凌ぐという二重の意味で。
歩くと出会う顔は、気が付けば変わっていた。
少年自身、自分がいつからここに居たのかも覚えていないし、自分がずっと生きていられるとも思っていない。ただ死ぬということも分からないために、本能の管轄である恐怖がそれを忌避し続けているというだけの結果だった。
「兄さん」
少年の呼びかけに振り返ったのは光振りまく金赤の髪の少年だった。少年、というのは語弊があるだろうか。だが青年というのも憚られる、幼さを残した随分と見目いい外見。それでも確かにここに生きる者だと思わせるのは肩口まで伸ばされた髪の下。
左の瞼の上あたり。斜めに横断して鋭く走る傷跡が隠されている。どんな事情でかは聞く必要性も感じていない少年には見当もつかないが、まだ完全には癒えずに、気まぐれに痛みを撒き散らしては気分を逆撫でさせる存在であることは知っていた。
八つ当たりされた記憶が付随する。
唯一と言ってもいいほど、狭い少年の世界の中で生き続けている人。
「なんだ、また外で寝たのか。いつでもうちに来ていいと言っているだろう」
兄と呼ばれた少年がふわりと笑う。言葉は彼が屋根のついたねぐらを持っていることを示すもの。
傾げられた拍子に細い髪が涼やかに流れる。日の無い場所では幾分かくすんで見える色。それでも少年にとっては紛れも無い光だった。
「昨日は居なかっただろう」
「そうだったか?」
「そうだよ」
「もしかして来てくれてたのか? 悪かったな……」
すまなそうに謝る兄に、少年が先に視線を外す。唇だけが、別に。と紡いだ。
兄、と言ってはいるが実際はなんの繋がりも無い。
そう呼び始めたきっかけはあったような気がするが、そんなに遠くないそれすら既に忘れてしまっていた。
彼の指が伸びて、少年の前髪をさらう。
「邪魔じゃないか?」
「もう慣れた」
目の前から髪が無くなった事で幾分かクリアになった少年の視界の向こうで、兄が苦笑を浮かべる。
「慣れるなよ。丁度いいから一緒においで」
「どこに行くんだ」
少年の問いに、彼は笑って秘密、というだけでさっさと歩き出した。
仕方ないというように黙って少年がついていく。
連れて行かれたのは資材を運ぶ為に敷かれた列車の駅のすぐ傍。
駅といっても屋根も無い。ただ列車の乗り口と同じ高さに上げられた台のようなホームがあるだけだ。
今あちこちに走っている列車はどれも主に資材運搬用だという事情もあって乗客の利便性はほとんど考えられていない。工事の為の人員も荷物よろしく積み込まれて移動していくという有様だった。
その人影も今日は既に移動してしまったようで、見通しのいいホームには影すら見当たらない。
「こんなところに来てどうするんだ」
どこに行けるわけでもないことは既に嫌というほど分かりきっている。
「ああ、そっちじゃない。こっちだ」
誘われた先は駅の近くの一件の家。
中に入ると、そこは妙な空間だった。
床は土を残したまま、一角にだけ石を張ってある。上の方には穴が穿ってあって、裸足のまま触れた石は僅かに濡れているようだった。
「その石のところに座って」
「わかった」
石床に直接腰を下ろした少年に、生ぬるい水が頭上から降りかかった。
突然のことに軽く抗議の声を上げるが、無視され、そのまま伸びた腕に髪を攫われる。
「さすがに初めてだから、厳しいか……? でも慣れてもらう」
「何を……うわっ」
口を開こうとして水を含んでしまう。
間断なく降る水は元々濡れていた身には暖かくすら感じられたが、兄の言っていることが分からず戸惑う。
そんな少年の髪をざっと洗って汚れを落とすと、兄は一人納得したように頷いて水を止めた。
「生きる方法を教えてやるよ」
狭い小屋の中で見上げた兄は、頼りなげな明かりを背負って恐ろしいほど綺麗に笑った。
光が髪の間から零れる様子に魅せられる。
誘うようにゆっくりと差し出された腕を躊躇うことなくとって、少年は濡れた地面から立ち上がった。
行こうか。という言葉に頷いて小屋を出る。
己の意思で決めた最初の道は、光を纏った闇の中に足を踏み入れる行為だった。