だから僕はその引鉄に手をかける

んよりと垂れ込める雲はその日も厚く日差しを遮り、地上を暖めることをしなかった。季節感の薄い神羅ビル内でも一般社員の服装や食堂のメニュー、自動販売機の中身の入れ替えなど、小さいながらもあちこちで変化はおきて、すぐそこまで冬が近付いていることを感じとれる。暖かいものが数を揃え、いつのまにか夏向けのメニューが消えている。そんな些細な違い。
いくらビルの中が年中一定温度に保たれていると言っても、外からの出入りがある以上、それは何の違和感もなく季節の移り変わりという名を与えられて、受け入れられていた。
記憶が途切れたのは新緑の頃で、病院で目が覚めたのは夏に近いくらいの時期だったから、年月がごっそりと飛んでいることを除けば、ほとんど記憶の中の季節の遷移と差異はない。
リハビリだとでも言うかのように、デスクワークと簡単な警備任務とを往復するような状況だったシリルに、ツォンからの声がかかった。もっとも、アバランチの活動が沈静化している今は、誰もが似たり寄ったりの任務内容なのだが。
「シリル、次の任務だ」
いつもどおりの言葉と共に渡された任務は今までのものと比べても特に語ることもなく、とりわけ困難そうにも思えない。
「ジェイドが居たな。彼と一緒に行ってくれ」
空白の後に病院で初めて顔を合わせた同僚の名を上げられて、シリルは僅かに目を細めた。
完全に先輩、という立場でもなく。かといって同期というわけでもない。知らなかっだけで、自分と同時期に入った四人よりも早くタークスに入っていたという彼は、あたりの柔らかい口調と笑顔で、微妙な位置ながらも自然に溶け込んでいた。
了解、と短く答えて指令書を受け取る。
そのままツォンの前から辞して、ジェイドに声を掛けた。
「僕と?」
「ああ。そういう命令だ」
言いながらさっき受け取ったばかりの指令書を手渡す。それを眺めた彼は解せないという顔をした。
「ふうん。何でかは分からないけど……まあ、シリルは病み上がりだしね」
ツォンさんが心配するのも仕方ないかと続けられてさすがにシリルの表情も苦くなる。前回も、レノと一緒に獣狩りに行かされて、お守付きかと内心嘆息したことを思い出した。
「目が覚めたのはもう三ヶ月近くも前の話だろう。いつまで病人扱いするつもりだ?」
嫌そうに眉を寄せる様子にジェイドが笑う。
「仕方無いんじゃない? 三年だよ。待ってる方には長いもの」
実際、病室で半泣きの面々に困らされた記憶もまだ新しいシリルは、返す言葉を持たなかった。
笑ったまま机の傍に立てかけてあった刀を取って立ち上がったジェイドが反論出来ないままのシリルを促す。
「じゃあ行こうか」
「あ……ああ」
行ってきます、と少し暢気な声を誰にともなく投げて歩き出す彼に続いてシリルも扉をくぐった。
向かう先は、知っているけれど、知らない街。
冬に向かっていく街は凍える大気から身を守るようにちぢこまり、人工物が敷き詰められた道は冷気を余す所無く取り込んで、吐き出していた。
「さすがに寒いね。そろそろ雪降るかな?」
自分達の息が白いのを見て、さらに空に視線を投げる。
「そうだな……」
曇った空は水分を含んでいるようで、少し気が滅入る。
元々シリルは口数の多いほうではないし、任務中だということもあってさらに口数が減っている。そうなると、ジェイドが一人で話をするかどちらも黙るかで。
今回は後者だった。
お互い口をきかないままに目的の場所に到着する。
雲はますます重く水分を含んで、もはや積極的に湿気を撒き散らし、それはいつ雨となって地上に降りてもおかしくないくらいに膨れ上がっていた。
目の前にあるのはとうの昔に廃業したらしい古ぼけたちっぽけなビル。取り壊し予定の看板すら放置されて、無惨にも地面に屍を晒していた。
出入口らしき扉も半分ほど朽ちていて、隙間から中を伺うことが出来る。中心に横たわる廊下とほぼ等間隔で並ぶ扉。
外側の窓はすべて打ち付けられて塞がれている。見ればビル側面の非常階段も鉄条網で封じられていた。
「下から追いつめろ、って事かな?」
一つ一つ部屋を覗いていかなきゃならないと面倒だね。
本気ではない呟きが洩れる。
「そんな事を言っても仕方ない。……行くぞ」
「あ、待って。シリルは入り口担当だよ」
踏み出した所に水を差されて、シリルは眉をひそめた。
その目が病人扱いするなと語っている。
「別に意地悪で言ってるわけじゃないってば。僕が入り口に居たとして、敵が銃を持っていたら遠くから狙われて終わっちゃうって考えられない?」
通路は狭くて、刀を振り回すには向かないし。
だめ押しの一言で、シリルは折れた。
「……分かった。お前に従う」
「よかった。僕がやられちゃったらよろしくね」
軽く笑えば、即座に冷たい視線と合う。
「滅多なことを言うな」
いつも冷静な行動からはあまり結びつかないが、目の前で仲間がやられるのが嫌いなことをジェイドは知っていた。最もそれを知ったのも偶然で。思い出して僅かに浮かんだ笑みを噛み殺す。
「うん。大丈夫。そんなことにはならないよ」
ジェイドは笑いをおさめると、今度は真剣に請け負って廊下に足を踏み入れた。シリルが数歩あとに続いて、銃を構えた体勢のまま止まる。ちらりとだけ視線を送ってそれを確認して、ジェイドはゆっくりと廊下を進んだ。