秘詩

ゆったりとしたベッドに若い男が一人。
頭部に巻かれた白布は痛々しく、ところどころ赤を乗せている。
部屋には彼以外の影は無い。動く音も無い。そう思った時だった。
ほとんど音もたてずに開いた扉から黒ずくめの青年が顔を覗かせる。
近付いた人影はくすりと笑みを洩らした。
「らしく、ないんじゃない?」
からかうような声音。
視線も動かさず、ベッドの上の人影は声をかけてきた青年に呼んだ覚えは無いと告げる。
「だろうね。勝手に来たんだから」
きしり。
ベッドがわずかに沈む。伸ばされた青年の腕が頭に巻かれた布に触れた。
「血が滲んじゃってる。ツォンさんは?」
「そんな事を許すとも言っていない」
「今更でしょ」
邪険にしても気にしない相手だと言うことは経験上分かっている。男は仕方なく、ツォンなら仕事だと無表情に告げた。
「レノ達も?」
「ああ」
再び気の無い返事。見ていないが、青年は僅かに首を傾げたようだった。
「それはちょっと無用心じゃない?」
言いながら尚も確かめるように体に触れていく。
「ルードが居ただろう」
「僕は見なかったけど。行き違っちゃったのかな……」
「さあな」
その手が二の腕まで下りてきたところで男は思わず眉を顰めた。
「あ、ごめん」
「わかっているならやめろ」
「またそんな事を言う……」
副社長。と呼びかけてしまってから、そういえばもう副社長じゃなかったっけ、などと笑う。
「社長でもないぞ」
先回りをするように告げれば、丁度正面に回った顔が困ったような表情を浮かべた。
ツォン達がまだ自分を社長と呼んでいることを知っているのだろう。
知ったことか、と思う。
「うーん。じゃあ、昔みたいにルーファウス様って呼ぼうか?」
「気持ち悪い」
「僕だって違和感あるよ」
そんな風に呼んでいたのはもう何年前か。
「じゃあ何ならいいの」
「必要ないだろう。そんなもの」
以前と変わらない。離れず傍に居た獣にすら名を与えないのと同じ温度でばっさりと斬って捨てられて、青年は溜め息を落とした。
諦めるようにベッドから降りて窓際に寄る。
何をしにきたんだ、と。背中に当たった声は聞こえないふりで、そのまま窓を開けた。
緩い風が我先にと流れ込んで、彼の髪を乱していく。
「別に」
社長に会いに来たわけじゃないからね。
結局何の躊躇いもなく社長と呼んで。居ないのなら待たせてもらおうかなと零した青年は、窓枠に添って身をもたれさせると、ルーファウスを振り返った。
「好きにしろ」
ルーファウスも諦めたように溜め息を吐く。
うまいこと承諾の言葉を導き出せた青年は、ルーファウスに気付かれぬように口端を上げた。
「私は少し眠る」
「気にしないで。用が済んだら勝手に出て行くし」
「誰がお前のことを気にするんだ。窓を閉めろ」
言い放って横になったルーファウスは、それ以上青年に構わず瞳を隠す。
「はいはい」
静かに窓を閉めて。その方が好都合だと青年は口の中だけで呟く。
「招かれないお客は迷惑なだけだよ?」
扉を開ける音はしなかったが、気配はした。うっすらと笑みすら浮かべて振り返り、そこで硬直する。
「セ……フィロス?」
まさか。
声にならなかった息が抜けて、背中に嫌な汗が伝う。
昔の姿のままで目の前に佇む銀の影は、わずかに目を細めたように見えた。答えるでもなくセフィロスが踏み出すのに応じて、青年は己の武器を引き寄せる。
まさに鯉口を切ろうとしたところで天使のような笑顔に制された。
「……死んだはずの君が何の用?」
セフィロスは警戒を解かぬ男に向かって、どこか困ったように口を開いた。
声は無い。
それでも動きから言葉を読み取って、眉をしかめる。
「ジェノバ……の因子?」
間違っていなかったのだろう。こくりと頷いたセフィロスがまた一歩近付く。
今度は青年も動かなかった。いや、動けなかった。
あまりにも穏やかに。それでいて皮肉げにセフィロスが微笑んだせいで。
ルーファウスの傍に立った彼はそっと肩に。それから毛布からはみ出した腕へと触れる。安らかに眠る彼が覚める気配は無い。
膝を折って甲に口付ける様は従順な騎士のようだが、本人も、それを見ている青年もそんなものは幻だと知っている。
他に何をするでもなくセフィロスは立ち上がった。
「    」
やはり声は聞こえない。長い銀糸が俯いた口元を隠して、何を言ったのかも判別出来なかった。
瞬間。
まるで糸が解けるように細い光の帯になって、セフィロスは消えた。
「今のは一体……?」
青年は馬鹿みたいに呆けて見送るしかない。
ルーファウスは変わらずよく眠っていて、もしかして幻を見たのではないかとすら思う。
「何かが起きてるってことなのかな、また」
目の前で眠っている人物が一番裏を知っていそうなんだけど、と苦笑を洩らす。
実際の所は聞いてみないと分からない。だが、今自分が見た光景を説明するのにも時間がかかりそうで、青年はうんざりしたような呼気を落とした。
電話が鳴る。
「はい……」
名を告げる前に焦ったような声が響いて、つい眉をしかめる。
「レノ、落ち着いて。そんなに怒鳴らなくても聞こえるよ」
社長が眠ったところなんだからと告げればわずかな沈黙が落ちた。
「……ってことは今ヒーリンか?」
「聞かれなくてもそうだよ」
「ならちょうどいいぞ、と」
何がちょうどいいと言うのか。
問いかける前に電波はノイズの波にかき消されて、ふつりと途切れてしまう。
「ますます訳が分からなくなった気がするけど……」
今のやり取りでもまだルーファウスが起きなかったことに安堵して静かに扉の前まで移動した。
確認しても開いた形跡は無い。本当に幻を見たのだろうかと己を疑う。
「それにしても……」
あれだけ騒いでも目を覚まさないルーファウスもすごいと思う。
途中で電話は切れたが、あの反応ならレノは此処に来るのだろう。
「仕方ないからレノが来るまでお姫様のナイトかな」
本人が聞いたら無言で狙撃命令を下しそうなセリフを呟いて。
青年はルーファウスの傍らに添った。