Integrated
違和感というほどのものではない。
強いて言えば、毎日のように同じ時間に見ていた顔を見なくなった、というだけ。
日付を遡ってみればとあるレイシフトから戻ってからだと気付きはしたが、マスターの様子を見ていても何らかの問題があったようには思えなかったため、相談するのも躊躇われる、どう動くにせよ困る状況。
心配をしているわけではない。
だが、そう言い聞かせているだけかもしれないと思い当たって青年は僅かに呆れを含んだ溜息を逃がした。
この辺りが限界だろうか。
もう一度、今度は隠さずに溜息を落としてから手にしていた茶缶の蓋を開いて覗き込む。
中身はハーブティーの茶葉のはずだが、ほとんど残っていない。それが答えだった。
現在のキッチンが複数人による交代制であることは周知済みである。ただ顔を合わせないだけであれば時間をずらしているのかとも考えたが、定期的に確認し補充するはずのものすら放置されているということはどの時間でも食堂に顔を出していない。
「さて、なにか事情があるのか。それとも……」
茶缶を元の場所に戻し、ハーブ類を保管してある場所に足を向ける。確認してみれば乾燥ハーブは追加もされていないが減ってもいない。代わりというように生ハーブはいつもより数が多かった。
生ハーブがあればそちらを優先で使うため必然的に乾燥ハーブを使う機会は減る。全ての在庫を気にしている青年でなければ気付かない程度のささやかな違和感。
少し考え込んでから今度はいくつか作り置きしてある酒のつまみを確認する。自由に持ち出して構わないようにと場所を指定して置いてあるものだが、こちらは順当に減っていた。あまりに順当に、満遍なくだ。
おかしい、と。思わず洩らしてしまってから苦笑する。
自ら発した言葉に思っていたよりも気にかけていた事実に気付いてしまった青年は諦めて現状を整理することを選択した。
つまみの中からいくつかを選んで調理台に広げ、食料庫の奥に隠してあった小さめの酒瓶をひとつ手に取る。
小分けになっているそれらをまとめて投影品の容器に詰め替えて、残りは元の場所に戻した。時間を確認すれば夜半を回ろうかというところ。交代要員である紅閻魔の気配が近付いてきたのに気付いた彼は、全てを投影した籠に放り込んでからエプロンを外した。
一瞬悩んだが、どうせ様子見のために寄り道をするだけであと寝るだけだと普段の外套を纏うことはせずに手にしたエプロンを指定の場所に掛けるだけに留める。
「お待たせして申し訳ありまちぇん」
「いいや、時間ぴったりだよ。重要な申し送りはないのだが、先程確認したところ、いつものハーブティーが空だったんだ。もし必要だと言うスタッフがいたら申し訳ないがそちらの棚から市販品を選んでやってくれるか」
「承知しまちた。それにしてもあの御仁がそこまで顔を見せないのも珍しいでちね」
厨房を預かっていればハーブをはじめ野菜類の栽培を引き受けているサーヴァントとの接点は自然と多くなる。ランサーとキャスターのクー・フーリンは、以前のカルデアからずっとその筆頭であった。
他にはケルト繋がりのディルムッドや、元農民だという佐々木小次郎、風磨小太郎などが名を連ねている。
「特に問題が起きたという話は聞いていないのだが、戻りついでに少し寄ってみるよ」
後を頼むと雀の女将に挨拶をしてから用意しておいた籠を手にして食堂を後にする。
ノウム・カルデアとして成立した新たな拠点は以前よりも手狭で圧倒的に部屋数が足りないため、基本的には人間のスタッフ達と、肉体は人間であるため休息が必須な擬似サーヴァントに優先的に割り振られている。
あとは彼らの環境を維持するために率先して働いている者に次の選択権があった。
キッチン担当者を筆頭に、食材確保の担当者やマスターの礼装、シミュレータの改良や情報分析などを分担している者達だ。ランサーとキャスターのクー・フーリンもその中に含まれているのだが、彼らはこれからも増えるだろうから自分達には必要無いと割り当てを辞退し、代わりに畑がある区画にある管理室の使用権限を譲り受けていた。
元々は畑仕事の合間に汚れを落として休憩できるようにとシャワーブースと小さめのキッチン、簡易寝台にもなるソファが常備されていたこともあり、少し手を入れるだけで十分だったらしい。食材の相談に訪れた際に、いつでも畑の様子を見ることができて便利なのだと笑っていたのを覚えている。
「満喫している、と言っても良いのかなあれは」
くつり。笑みを零して。目的階への到着を知らせるエレベーターの音を聞く。
飾る必要性もないため無機質な短い通路の先にある扉を慣れた手付きで開き、続くガラス扉を潜れば、全身を緑と土の匂いが包み込んだ。
今の設定は夜らしく、しんと静まり返る周囲に明かりはないが、何度か来ていることと夜目が利くこともあって困ることはない。
中央から少しだけ奥に進み、道に沿って曲がる。その先が目的地である管理室のはずだが、灯りが消えているということは不在か、それとも既に就寝済みか。一応確認だけはしようと思うものの、足取りは自然と重くなる。
管理室という呼称ではあるが、外観は山小屋風になっており、畑の真ん中にあっても違和感が少ないように配慮されている。そのすぐ隣に無かったはずの樹が育っていた。特徴的な尖った葉と赤褐色の樹皮。大きく枝を広げたそれは闇の中で深い眠りの気配を漂わせている。
「いつの間にこんな……」
青年の声が闇を震わせれば、小石を投げ入れた程度に周囲の空気が騒めく。
「ん……アーチャーか?」
ぎし、と何かが揺れる音。続けて上がった声は聞き慣れたものだが、姿は見えない。
「あー、すまん。少し待ってくれ」
再び声だけが届く。
了承を返してそのまま待つと、ぼわりとした灯りが視界の端を掠めた。それまでなかったはずの布の塊が樹と小屋に跨るように掛けられており、その一部が発光している。
いいや。発光体を布が覆って照度を弱めているととるべきか。
「クー・フーリン?」
「思わず真名呼びするほど違うモンかね」
苦笑が滲む声。
布の塊からにょきりと伸びた腕が軽く手招く。
不審そうにそれを見る青年に対し、影響範囲を限定したいからもう少し近くに寄ってくれと中から聞き覚えのある声が告げた。
光源が何かは不明だが、吊るされた布は形状的にはハンモックなのだろう。手が翻る度にゆらゆらと揺れる様子はまるで黄泉へと誘う幽霊のようだと考えてしまって。己自身の連想に苦笑を落とす。
「そこから出てこないということは、何らかの問題がある状態か?」
小言めいた呆れ声を投げながらも指示には従い、腕に触れるかどうかくらいの位置まで近付く。
「別に霊基に悪影響があるようなモンじゃねぇよ。むしろ逆っつーか」
指先がついと動いて空間にルーンを描く。
とろりと周囲を覆うのは闇の帳。畑をはじめ、すぐ隣にあったはずの小屋さえ闇に塗り潰され、認識できるのはせいぜい布の塊となったままのクー・フーリンと傍で枝を広げる大樹のみだ。
さっきもこの状態で引き篭っていたのかと問えばまあなと軽い肯定の言葉が返る。
「説明はしてくれるのだろうな?」
「その気がなきゃわざわざこっち側に引き込むかよ」
盛大な溜息は呆れを含んだものではなく、覚悟を決めるまでの時間稼ぎのようなもの。一度手が引っ込んだと思った瞬間、気配が変わる。
空気が冷えた、と言えば良いのか。
擦り切れた守護者の成れの果てとはいえ、人間としての本能が畏怖を抱く。思わず折れそうになる膝を必死に押し留めて目を見開いた先に現れたのは、見慣れた姿を持った何かだった。
上半身には何も身に付けてはいない。肩から背に流れ落ちる髪は纏められておらず、ただ清流のように白い肌の上に零れ落ちていた。
かろうじて下半身をゆったりと覆う装備がクラスの名残を伝えているものの、露わにされた上半身には鮮やかな緋の文様が浮かび上がり、額付近からは光が溢れている。
装飾などなくとも輝かしい、本来の姿により近いそれ。
布の中で浮かび上がっていた光の正体は詮索しないでおこうと密かに誓った弓兵だが、唇は思考と関係のない言葉を紡ぎ出した。
「君は……キャスター? いや、だが……」
「おう。合ってるぜ。まあ、事情があって今はちっとばかし色々混ざってんだが……なんかいいニオイすんな」
素足のまま地面に立った男は、青年が持っている籠に鼻先を近付けて匂いを確かめる動物か子供のような仕草をみせた。あまりにも普段通りの行動に自然と顔が綻ぶ。
安心した。思わず零れ落ちた声に少しだけ笑う。
「地面で悪いが座るか。わざわざ持ってきてくれたってことは食っていいんだろ?」
「あ、ああ……それはもちろん構わない」
頷いたのを合図に吊られていた布もといハンモックを解いて地面に広げる。
適当に座れと促された青年は律儀に失礼すると告げてから籠を置き、手早く中身を広げていった。一通り準備して満足し、布の上を避けて座ろうとしたところで強い力に絡め取られる。
「おまえさんよぉ。適当にとは言ったが座れって言ったら素直に布の上に座っとけ。次やったら強制的にオレの服の上に座らせるからな」
「う……それは勘弁してくれ」
「わかりゃいいさ。お、酒があるじゃねぇか」
男の声が弾んでグラスを攫っていく。一息に煽った彼は至極満足そうに息を吐いた。
「美味ぇ」
流石にこんな状態じゃ出歩けないから助かると告げられて、改めて全身を眺めるが、明らかに輝いている。
伝承では英雄光を発していたという記述があったことを思い出し、こういうものだったのだろうかと首を傾げるが本人に確認するような勇気はない。
それでも男は疑問に気付いた。やっぱりそれが一番気になるよなぁと笑い、ひょいと差し出されたつまみを口に放り込んでから唇を湿らせる。
「最初、オレがキャスターかランサーか迷ったな。改めて正面から見た感想を聞かせてくれ」
「そうだな……今はキャスターであることはわかる。だが声だけの時は気配というか魔力というか……うまく言えないのだが、どこか違ったように感じたんだ」
「さすがというかなんというか……おまえさんがそう感じたのは正しいだろうさ。今のオレは混ざっているからな」
くつり。楽しそうに笑った男は、二杯目の酒をゆっくりと口に運びながらどこから説明したものかと零した。
「この状況はやはり前回のレイシフトから戻ってきた時からか」
「ああ。詳細な原因は不明だが、槍持ちの一部を取り込んじまったらしい」
予測も混じるがと前置きして語られたのは現状におけるランサーとキャスターのクー・フーリンの状態だ。
問題の発生はレイシフトの帰還後から。
ランサーの霊基の一部がキャスターの一部と混じり合って分離が困難になっていること。
そのせいで現在のキャスターは普段よりも本体に近く、逆にランサーの霊基は弱っているためそれぞれ別の意味で活動が制限されていること。
本人達以外ではダ・ヴィンチとマスター程度しか把握していないため、外見的にも影響が出ているキャスターは基本出歩かないが、一見それとわからないランサーは昼間に限って戦闘行為以外の活動をしていること。
現状のまま特に昼間にキャスターが出歩くと畑の生育がめちゃくちゃになることなど。
闇の形をした結界で辺りを覆ったことに対する返答も兼ねていたそれに納得する。
ふと、ランサー側は夜間どうしていると挟んだ疑問には今の自分と同じように樹の傍で寝ていると笑った。
「そもそもこいつはオレに取り込まれたものを吸い上げて渡すために急いで設定したんだよ。突貫すぎて吸収と放出を同時にできないのがネックだがな」
不調を悟らせないようにある程度動き回る役割もあるため、昼夜で行動を分けるのは自然な流れだったと付け足して、自分の体を指し示す。
「いちいち脱いで把握するのも面倒だから上は着てないんだが、とりあえずこの模様が半分以上消えるまではこのままかねぇ」
「……そうか」
「オイコラ、テメェ。その間はなんだ。さてはオレが趣味で脱いでると思ってやがったな」
青年は即座にそんなことはないと応えたが、あまりにも早すぎたことで笑われる。それでも引っ張ることはせずに酒を呷り、つまみを口に放り込んでそこまでとした。
すかさず注がれた酒をちらりと舐めて、思い出したように何か用があったんじゃないのかと首を傾げる。
「そうだ。食堂に用意してもらっていたハーブティーの残りがもう無くてな。目処というか状況を確認しようと思って来たんだが……しばらくは無理そうだな」
「あー……そうさな。必要なハーブを摘んで届けるだけなら槍持ちができるが……」
「乾燥とブレンドが問題、か……ここのところ生ハーブが逐次補充されていたのも同じ理由だな」
先を理解して頷いた弓兵に、今となってはハーブ全般の責任者と化している魔術師が苦笑する。
代替手段を思案してみるが、身動きを封じられ伝達手段も限られるとあってはお手上げなのは明白。元々人手が足りない中でやりくりしていたために思考停止していたことは反省すべきだった。
「となると、その……取り込んでしまったという霊基の受け渡し速度を上げるというのは可能なのかね?」
「中断して調整するわけにもいかんから今のやり方のままでは無理だが……ひとつ試してみたいことならあるぜ」
空になったつまみの容器を籠に戻している青年の前にずいと身を乗り出したキャスターは、普段よりも倍増しに眩しい。物理的なものと霊基の格という二重の意味で。
「嫌な予感がするからあまり近付かないでくれ。君は今の自分が発光体であるという自覚が足りないのでは? 私の目を潰すつもりかぅ……む……」
文句は後だと言わんばかりに伸ばした掌で視界を塞ぐ。
続けて触れた舌先が咄嗟に閉じた青年の唇に紅を引くかように動いて、唾液に濡れて色付いたそこを啄んだ。
軽いリップ音。くぐもった抗議を示す声を掻き分けて入り込んだ舌が固まった相手の舌を誘い出す。
決して無理矢理ではなく、色纏う欲をじっくりと塗り込めるような動き。蕾が綻ぶように濡れた唇はひらき、深く男の舌先を受け入れて吸い上げた。
押し止めようとした手は流れ落ちてきた髪をゆるく掴むだけで堪えるように胸元に添えられている。
喉奥で笑った男の空いた手が青年のそれに重なって、指の間をゆるく引っ掻くように遊んだ。
「ぁ……ふッ……」
「まだだ。もっと開けよ」
溢れた唾液が混ざり合い、舌同士が擦れ合った場所から熱が灯る。
執拗に呼吸を奪われていれば息は荒く、時折押しつぶされて逃げていく水音は羞恥と共に更なる欲を煽って。
普段より濃い魔力に酔いながらも、男の肌に添えられた弓兵の指はそこに浮かぶ文様を確認するかのように動く。
口付けは次第に深く、激しく貪るよな動き。
「少し待っ……ッあ……っ」
魔力と快楽とがないまぜになって青年の身の奥へと落ちた。全身が硬直して男の肌に爪を立てる。
先刻までそこにあったはずの文様の一部は消え去り、代わりに傷つけられた肌がうっすらと血の色。
「す、まない……」
「構わねえよ。それよりわかるか、おまえさんのココに落ちたものは、この文様の枝ひとつぶんだ」
男の指が臍の下あたりを軽く叩く。その振動にすら身を震わせて、青年は喘ぎまじりの息を逃した。
「……やれやれ。抱き潰された後より酷いなこれは」
「動けんほどか?」
「いや、少し休めば大丈夫だ。心配せずとも朝までには出ていくさ」
今までのあれこれで多少は耐性が付いているらしいと苦笑して。目を閉じているからもう手で覆う必要はないと伝えるも、あたたかなそれが引かれる気配はない。
「それでも眩しいだろ。寝るまでは覆っててやるよ。なにせ無理をさせるからな」
「これからさせること前提なのか」
「そりゃそうだろ。そいつを槍持ちに渡してもらわにゃならんからな。方法は任せるが、どんな結果になっても一度は報告に来てくれ」
どこか遠くなっていく意識に抗いながら、用がある時は樹に触れながら名前を呼べと告げられて小さく頷く。
「おやすみ、アーチャー」
穏やかに落とされた声音に抗いきれず、弓兵の意識はそこで途切れた。
「なんだって自ら巻き込まれにくるかね」
瞼に触れさせた手をそのままに細く息を吐き出す。
共に零れ落ちた声は青年には届かず闇に溶けた。
朝はまだ遠く、身の裡にある魔力は一枝分が余計に欠けたところで変化はない。青年が深く眠りに落ちるのを待った男は、闇の帳に閉ざされた空間を少しだけ動かした。
静かに抱き上げて管理室の中へ移動する。
男が歩く範囲だけが細く闇に染まって道を作る。何も見えずとも歩き慣れた場所だ。問題なくソファの前に立ってそっと抱えてきた体を下ろすと、丁寧にベルトを外し靴を脱がせた。
「しっかし、まさかハーブティーの残量から疑われるとは思わなかったわ」
脱がせた靴を足元に揃えて置き、背もたれに引っ掛けてあった大判のブランケットを横たえた体に掛けてやる。
枕は無いが我慢してもらうとしよう。
「起きたら文句を言われそうだな」
この事態を予想していなかったわけではないが、いざ現実になれば惑う。
己だけの問題ではないから尚更だ。
結論を出すのは彼がランサーとしての自分に先程渡した魔力を受け渡した時の反応次第だと自戒して。
柔らかく落ちた髪越しに額に口付けると、魔術師は闇を連れて部屋を出て行った。
***
「アーチャー? なんだってこんなとこに……」
驚いたような声が引金となったのか、時を凍らせたように深く睡眠に沈んでいた意識が覚醒する。
「……ッ!」
差し込む光を瞼越しに感じたことで加速し、鈍い手足を無理矢理動かすようにして体を起こした。
「ランサー!! 今は何時だ!」
「おおお、落ち着けって。まだ夜が明けて間もねぇよ」
勢いのまま掴み掛かられて揺さぶられ、辛うじて答えたものの、あまりの勢いに堪えきれずぐええと潰れたような悲鳴を上げる。
「すまない。朝になる前には出ていくと言ったのにすっかり眠り込んでしまって……ここは管理室の中か?」
「ああ。しかしそんなに慌てるようなことか?」
状況から察するに杖持ちに眠らされたんだろうと続けられて起きなかった理由を悟る。
もしや逃げ出すとでも思われたのだろうかと低い声を落とせば、それはないとやけにきっぱり否定された。
寝過ごしたという事実だけでいっぱいいっぱいになっている青年は気付いていないが、彼が跳ね起きた拍子に吹っ飛んだブランケットをキャッチし、見下ろす体勢になっているランサーには見えていた。
珍しく青年のものが兆している。
服の上からでもわかるほどなのに当の本人が気付いていないというのは普通ならおかしいのだろうが、いかんせんこの青年は一度別のことに夢中になれば突っ込まれたままであることも忘れてしまえるのだ。半ば無理矢理眠らされたのならばあり得るかと槍兵は一人納得する。
君が休めないなすぐに退くからと告げ、揃えられた靴に手を伸ばそうとして体勢を変えた瞬間に弓兵は硬直した。
やっと自分がどういう状態か気付いたらしい。
「杖持ちもさすがにその状態で帰らせられねぇと思ったんだろ。よいせ、と」
とりあえず少し寄越せばマシになるか。
ソファに乗り上げながら水を向けてやれば一瞬だけ視線を伏せてから腕を伸ばした。
身を捻るようにしながらソファの背に付く前に肩を引き寄せ、唇を寄せる。
様子見を決め込んだ槍兵に対し、覚悟を決めたらしいのにガチガチに緊張している体が控えめに重なった。
気付かれぬようにほんの少し目を細める。
吹っ切れた時には大胆なくせに、それ以外では可能な限り己から触れるのを躊躇うのが不思議なほど。
幾度情を交わしても変わらぬそれが少しだけおかしい。
体勢を崩し、吐息がかかる距離で停止していた距離を詰めて。一度触れてしまえばあとは吹っ切れたとばかりに侵入してくる舌先を受け入れる。
控えめな水音と息を逃しながら、触れ合わせる角度を少しずつ変えていく。さほど経験を積んできたわけではなさそうなのに、本気になった時のキスはうまいのだ。
いつだったか。理由を聞いたことがあったはずだが誤魔化されただけで終わり、気紛れを起こしただけの男は特に追求しなかった。
それでも、この口付けだけでわかることがある。
「なんだ、迷ってんのか」
揶揄うでもなく穏やかに問うた男の声への反応は即座の否定。直後に息を吐いた青年は視線を伏せて力ない声を落とした。
「……いや、あるか。正直なところ、どうすればいいのかわからないんだ」
口付けを選択したのはそうやって渡されたため。真似事のようなことをしたがどうにかなっている気はしないと告白する。
「真似する必要はないだろう。アレとおまえさんとじゃ根本的に性質が違う。やり方違って当然じゃねぇの?」
あまりにも当前のことをさらりと指摘して、青の槍兵は首を傾げた。
ならばどうすればいい。続けられた疑問にソファの背から身を起こした男は、なぜか膝を抱えて小さくなっている弓兵を目にして苦笑する。
「方法はいくつかあるだろうが……オレもこの後急ぎでやらにゃならん仕事があるんだ。今回だけは手っ取り早い手段を取るが構わんか」
「言い方が気になるが他に手段はないのだろう? 私も早く食堂に行かなければならないからな。君の提案に乗るとしよう」
「交渉成立だな。あのバカには翌日の予定も確認してからにしろって言っとけ。報告に来いとは言われてんだろ」
そんなことは自分でやれと言いかけて、現状ではそれも叶わないと思い出したらしい青年が不本意そうに頷く。
厄介だなと溜息を落とした彼にまったくだと返した男はごく自然な動作で身を捻り、抱え込まれていた青年の膝を割った。
そもそも今の彼では翌日の予定すら確認できないのではと笑った表情が次の瞬間に固まり、零れ落ちそうなほど目を見開いて喉を震わせる。
相手が正気に戻る前にと行動した男の手は早い。
脚を固定するように斜めに体を捻じ込み、手早く前を寛げて最初から存在を主張していたものを引き出すと、説明を拒否するように先端を口に含んだ。
「は? ラン……さッ!」
くちゅ、ぴちゃ。小さな部屋に水音が散る。
思考停止していても、本能的な快楽は容赦無く青年の背を駆け、欲に濡れた息となって零れ落ちた。
咄嗟に口を手で覆ったところで遅い。
己の快楽を否定してしまう悪癖がある青年だが、元が魔術師だということもあって快楽の共有による魔力供給を否定できない。
この現界での肉体関係も最初はそうだった。
思ったよりも具合が良くてハマってしまったのはきっとお互い様だったのだろう。魔力を融通するだけの目的が時折快楽を分け合う行為に変わり、どちらの理由でもいいと前提がなくとも肌を許すようになるまでかかった時間はそこまで長くはない。
男の行動は弓兵が可能な限り口淫は避けたいと思っていることを知っていての仕打ちで、抵抗されることも想定内だったが、今の青年はそれをしなかった。
容赦無く追い詰めていく男の舌に可能な限り声は殺しながらも熱の滲む吐息を零す。
一度開かされた膝は行き場に迷って軽く男の頭を挟んだまま、裸足の足先がソファの生地を握り込んだ。
「ぅん、アッ!」
だめだ、と。声になったかどうか判断できないままに身を震わせて吐精する。
溶け込んだ魔力ごと飲み込んだ男は青年が荒い呼吸を宥めている間に丁寧に舐め清め、漸く口を離した。
「強引で悪かったな。とりあえずこれで最低限動けはするだろ。ったく……今のところあれで上手くいってんだからアーチャーを巻き込む必要はねぇだろうに」
「それは違う。これは私の方から言い出したことだ」
「は?」
間抜けな槍兵の反応に、行為の余韻でソファに沈んだままの青年が苦笑する。
「早く解決できるのなら協力すると昨夜キャスターの君に提案したのは私だと言ったのだ」
「……なんか不都合なことでもあったのか?」
「ああ。スタッフの皆が楽しみにしているハーブティーが切れてしまったんだ」
純粋な疑問に一度瞳を伏せながら溜息を落として。再び持ち上がった際の表情で男は気付いた。
このままだと暴動が起きかねないため解決が早まるなら自分の心労も減る。滑らかに続けられた理由は嘘ではないがそれだけでもない。それでも素知らぬふりで男は呻きを上げながら頭を掻いた。
「あー……そいつは確かにこっちのオレにはどうにもならん話だな。とりあえず急ぎたい状況は理解した。一番負担がデカいのはテメェになるのはわかってんだろ?」
「そうだな。自分から言っておいてなんだが、今しがた痛感させられたところだ」
「用事は今日纏めて終わらせておくからこっちの都合は考えんでもいい。テメェが本気ならあとは杖持ちと話し合って決めてくれ」
迷いがあるなら尚更だ。ひそりと付け足された最後の言葉は弓兵に届いたかだどうか。
確認することもなく槍兵は立ち上がった。
疑問を匂わせた名が追いかけてくるが振り返ることはなくひらりと手を振ってそのまま部屋を後にする。
残された青年は一瞬だけ時間を確認して目を伏せた。
マスターに対して詳細に話せるようなことではないが、まとまった時間が必要なことも確かだとひとりごちる。
「効率を求めるのならば犠牲も必要、か」
いつも通りの選択だ。必要なことを優先する、ただそれだけのこと。
喉の奥を震わせて、青年はゆっくりと目を伏せる。
どのみち夜にならなければ進展はない。まずは予定通りに朝食の準備に向かおうと決めて立ち上がった。
己の部屋に戻る手間を惜しんでシャワーを借り、不調がないのを確認してから外へ出る。
光の満ちる畑にキャスターの気配はない。聞いた言葉通りならば、存在はしているが魔術で閉ざした場所で眠っているのだろう。
見上げれば人工の日を遮って影を落とす常緑樹の枝。用があればと告げられたそれにそっと触れて。何も呼びかけることなく青年は踵を返した。