Intimation

 彼はにっこりと笑ってこう言った。
「うん、確かに僕の仕業と言われればそうかもしれない。だけどこれでも純粋な好奇……ごほん。熟慮の末のおせっかい、というやつなんだ」
 ふわふわと花の香りを纏わせた青年は本当かと詰め寄る少年少女に対し、詳しいことは話せないと続けて唇に指を当てたまま、そろりとその場を逃げようとする。
 その頭が豊かな胸に当たって。振り返った先に仁王立ちで立ちはだかったのは、絶世の美女の外見に男の中身を持つ天才芸術家である。
「おっと……」
「うんうん。それはわかった。でもそんな言い訳で許されるとでも?」
「うーんそれを言われると……だけど言えないのは本当だよ。特にマスター君にはね」
 僕はどうせならハッピーエンドを見たいんだ。
 そんな風にはにかんで穏やかに告げられてしまっては追求するのも憚られる。
「ふむ。そこまで言うのなら彼らを外して、私と一対一で話し合おうじゃないか。確かにそれが揺り戻しを潰す役に立つことを認めないわけじゃないからね。もちろん言える範囲までで構わないとも」
 にこにこと笑い合うキャスター二人に怯えてマスターである少年がじりと一歩後退する。
 怖い。息だけで零れた言葉は、運悪く傍に居て巻き込まれたスタッフ達の頷きで肯定された。
 にこやかに笑い合ったまま退出していった二人を硬直したまま見守っていた彼らは一斉に盛大な溜息を落としてから冷や汗を拭うところまで見事にシンクロしている。
「今の数分で絶対寿命が縮んだわ……ってのは脇に置いておいて、これ渡そうと思ってた資料な。来てもらって早々妙な展開になっちゃったけど、元々の用はこっちだ。レイシフト先とメンバーの確認をしてほしいってさ」
 パタパタと団扇のように動かしたタブレット端末を示してみせたのは、ジングル・アベル・ムニエルという名のスタッフだ。
 アガルタと名付けられた亜種特異点においてサーヴァント二人をレイシフトに密航させた執念……もとい手腕はまだ記憶に新しい。了解と返した少年はタブレットごと受け取ってそのまま視線を落とした。さっと椅子を転がしながら近寄ってきたマシュが自然な動作で座るように促す。
 人理修復を成し遂げた二人の仲だ。ある意味でこちらも見事な手腕である。
 そこからそっと存在感を消した二人は、少年を見守りながら少し距離を置いた。
 音をたてないように注意しながら、彼女達は少年が見ているのと同じデータを制御卓のスクリーンに映し出す。
「新宿……ですか」
 声を落としたマシュの呟きに頷いたムニエルは画面を分割して、カルデアの霊基一覧を同時に表示させた。
 問題有りの表示が二つ並ぶ。
「セイバーのアルトリア・オルタさんとアーチャーのエミヤ・オルタさん。お二人がレイシフトをした、ということまではわたしも伺っています」
「まあ、脅されて手助けしたのが俺なんだけどね」
 自嘲の後で深く肩を落とした男はまあまあと少女に宥められ、一度力なく首を振ってから視線を画面に戻した。
 許可も取らず勝手にレイシフトした二人の霊基反応はこの瞬間も追跡できている。己の行動を特に隠すつもりもないらしい彼女達は新宿の街を徘徊しているようだった。
 現地での感情を伴った判断をこの管制室から分析する術はない。だが、データ上の座標反応であっても刻々と移り変わるそれを見ていれば予想する程度は可能だ。
 現状で一番問題になっているのは先程から移動を繰り返しているのがアルトリア・オルタのみで、エミヤ・オルタの現座標は不明であること。
 彼の場合、アーチャークラスらしく単独行動スキルもあるため存在情報が追えている限りそこまで心配はしていないが、サーヴァントであることに変わりはない。
 実体化し魔力を消費し続ける以上、マスターなしの活動時間は有限である。予備魔力の残量を考えてもそろそろ目溢しできる期限が近付いていた。
 状況の確認からメンバーの確認に移ったらしいマスターの少年は眉間に皺を寄せてううんと唸った。
「先輩、何か問題がありましたか?」
「問題っていうか……そうだマシュ、聞いてもいいかな」
「もちろんです。わたしでお役に立てることですか?」
 視線を合わせた少年少女は同じ端末を覗き込みながらああでもないこうでもないと意見を戦わせ始める。
「それだと……ああ、少し待ってください。データを出します。たしかここに……」
「すごいね。そんなデータまであるんだ」
 少女の手によって手際良く画面が区切られ、求めていたデータが表示される。
 片方は絞り込み機能付きのカルデアに霊基登録されているサーヴァントのリストで、もう片方はここ最近の食堂のメニュー表である。積極的にデータ化しているというよりは食堂担当者の覚書きという方が正しいのだろう。
 つまりは持ち回りの担当がなるべくメニューを被らせないようにという配慮だ。
 それらを見ながら、今回単独行動をしている二人の行動データを突き合わせる。
 マスターが求めた情報を即座に把握して反映させていくのは、レイシフトに同行できなくなってからの日々で彼女が身につけた、己のマスターを助ける術のひとつだ。
「これは……確かに先輩の言う通りです」
「あんまり当たって欲しくなかったなあ。今のメンバーって多分属性を考えて選ばれてるよね?」
 現状選出されているメンバーは、清姫、アタランテ、玉藻の前にアサシンクラスのエミヤ、というもので、共通点は眺めていればよくわかる。
 行先は亜種特異点の残滓である新宿だ。
 どこまでその影響が残っているかは不明だが、悪性という条件を常にクリアしておくことは憂いを一つ払拭するのに必要なことだろう。
「そうですね。ダ・ヴィンチちゃんは念のため、と言っていました」
 マスターの少年もそれはよく理解している。
 特異点への相性と属性の間でバランスをとって選ばれたのだろうこともよくわかった。
「じゃあこれは俺の直感と我儘、ってことでダ・ヴィンチちゃんの承認待ちにしよう。もう一つ言うと、いざと言う時にセイバー……アルトリア・オルタを正面から止められる人を編成したい。できれば単機で」
 かなりの無茶振りだとわかっていてなお少年ははっきりと言い切った。
 俊敏で上回るアタランテやアサシンクラスのエミヤは撹乱は可能だがどちらも正面からの対決には向かない。正面から攻撃を当てることができる可能性があるのは玉藻の前だが、今度は耐久性が問題になる。
 清姫に至ってはいわずもがなだ。彼女を編成に入れた理由は純粋な力とは別なところにあるのだから当然だろう。
「単機で、ですか」
 自分が同行できればという言葉を彼女は飲み込んだ。
 代わりに絞り出したのはクー・フーリンさんではいかがでしょうかとの提案。
「おそらくオルタのクー・フーリンさんでしたら属性的にも問題ないのではないでしょうか」
 己の思い付きを補足するように言葉を重ねる。なるほどと手を打ったマスターのほうも大きく頷いた。
「確かに。ええと、だとすると諜報用の人選も選び直した方がいいかも」
 ああでもないこうでもないとしながらも出来上がった新たな選出メンバーをダ・ヴィンチに送信し、承認を待つ間に少年は食堂に足を向けた。席を外している間に返事があればマシュが知らせてくれることになっている。
「エミヤ、いる?」
「どうした、マスター」
 カウンター越しに目的の人物の名を呼べば、すぐに応えがあった。同時に香ばしく、甘い香りが漂う。
「緊急のレイシフトがあってさ。ちょっとお願いしたいことがあるんだ」
 すごくいい匂いがする、と。関係のないことまで口をついて出てしまったのは仕方がないだろう。
 苦笑した青年が味見だけだと告げて焼き上がったばかりのウェルッシュケーキの欠片を一つ手渡される。
「おいしい。紅茶欲しくなるね」
「そう言ってもらえるなら成功だな」
 そのために作ったものだからと軽く笑う。
 詳しい話を聞こうとわざと緊張を込めた声を上げることで話を戻したエミヤは、少年を手招いてカウンターの端に移動した。
 まだまだ成長期と言ってもいい年頃である。おいしそうな匂いに我慢ができなかっただけで少年の方も目的を忘れたわけではない。
 周囲に誰も居ないことを確認しつつ少し声を落とし、先にレイシフトした二騎のこと、それを連れ戻すためのレイシフトのことを説明する。
「それで、エミヤにお願いしたいことってのは、ジャンクフードなんだ」
「ジャンクフード」
 鸚鵡返しに繰り返した単語には力強く肯く。
「このところの食堂メニューを確認したんだ。祭りで資源使いすぎたとかいろいろ理由はあるらしいけど、どっちかというとヘルシー志向だったでしょ?」
「否定できんな。確かに、この後のことを考えて節約していたのは事実だ」
 食事の内容と緊急レイシフトがどう繋がるのか首を傾げた弓兵に対し、少年はもう一度ジャンクフードを作って欲しいと口にした。
「ここじゃなくて、レイシフト先の話……って言っても、まだダ・ヴィンチちゃんの許可待ちなんだけどね」
「やれやれ。そんなのであの王が釣れると?」
「多分。いつもの流れとしては多少の八つ当たり程度はあるかなって思ってメンバー選出したんだよこれでも」
 意外とジャンクフードが好きらしいアサシンクラスのエミヤを外したのもそのためだ。苦笑と共に承知したと答えた弓兵は興味で他のメンバーを訪ねる。
「場所が場所だから、念のためにエミヤ以外は属性を考慮して選んであるよ」
 エミヤは調理担当としての選出ではあるが、もちろん遠距離からのサポートと見張りもこなすことが可能であることも織り込み済み。
 アルトリア・オルタと正面対決になった時に矢面に立ってもらうようにクー・フーリンのオルタ。
 スピードを生かした撹乱とエミヤ・オルタが同時に出てきた時の牽制役に佐々木小次郎。
 魔術的サポートを務めるメディアと、斥候と潜入調査役の静謐のハサン。
「静謐の?」
「うん。ここにくる途中で王様に会ってね。彼女を連れて行けって言われたんだよ」
 ここで言う王様とはギルガメッシュのことだろう。彼は千里眼持ちだ。つまりわざわざ口を出す場合、はいかイエス以外の選択肢はない。選出理由が場所によるものか彼女の特性によるものなのかを問うことはできないが、力がものをいう純粋な戦闘ではなく斥候としてであれば実力も十分であることは皆が知っている。
 特異点との相性確認もあるからまだ許可待ちだけどと告げられた面々は、どうにもむず痒く感じるほど薄い縁で結ばれた者達であった。
 戦力のバランスも選出理由も問題なく今の自分に言えることはないと返した弓兵がどこか微妙な表情をしたのに気付いて、少年は首を傾げた。
 どこか調子が悪いのかと問えば曖昧に笑うだけ。
 初期に召喚された彼とはそろそろ長い付き合いだ。こういう時のエミヤが何を言っても教えてくれないことを知っている少年は潔く諦めた。
 軽く肩を竦めて本当にまずい事態になる前に教えてくれとだけ告げて、そろそろ戻ると踵を返す。青年が何かを言う前に置きっぱなしになっていたウェルッシュケーキを数枚攫って駆けていった。
「……やられたな」
 不意を突かれた弓兵の声には苦笑が滲む。
 おそらく管制室で待っているマシュのためだろうと思えるだけに、咎めるつもりもなかった。
 どっちにしろこの後差し入れにいく予定である。彼女だけであれば多少のフライングは許されるだろう。
 自分でも出来上がりを確認して追加分を焼きながら、しかし、と考える。ここ数日、己の身に起こっている現象と関係はあるのだろうか。
 判断材料が少なすぎて結論を出すには早いものの、現実に影響が出始めているのも確かなため、長いこと放置できる事柄でもない。
 マスターの少年に対して口にしなかった理由はなんということはない、単純に昼間から口に出すのが憚られる内容のせいだ。
「悩み事?」
「うわ!」
 突然の声がけに肩を揺らす。
 ごめんごめんと笑ったのはフードで半ば顔を隠した並行世界のアーサー王。男性の騎士王だ。
 相手は気配遮断スキルを持っているわけでもないのにと思ってから、自分が考え込んでいたことを悟る。
「悩み事、というほどのものではないのだが……」
 ここのところ夢見が悪くて、と。詳しい事情は省いて原因を口に出す。
 それは、本来見ないはずのものを見るという意味か、それとも過去の辛い体験を思い出すということか。
 淡々としながらも鋭く斬り込んでくる問いには誤魔化せないと悟り、端的に前者だと返した。
「なるほど。それで、その内容はマスターには聞かせられない……というところかな」
「見ていたのか」
 覗き見るつもりはなかったと前置いてから、引っかかったらしい言葉に首を傾げ、気を取り直したようにゆると頭を振る。
「夢、というと僕がすぐに思い当たる人物は一人しかいないから、力になれそうもないけどね」
 間違いなく人物と言ったはずなのにロクデナシとルビが振られている気がする言葉に苦笑を漏らした弓兵は、内心だけで可能性の高さを考える。
「確かに、マスターとの繋がりに原因がないのなら第三者による介入を考える必要があったな」
 少なくともサーヴァントに対して意図的に夢を見せられる存在など限られている。この件はダ・ヴィンチ女史あたりに相談しよう。
 考えを纏めるように声に出し、盛大な溜息を落とすのはすぐに思考がそこに至らなかった自分に対してのものだ。
「そういえば、君はマスターからレイシフトの準備を頼まれていただろう? わざとではないとはいえ、立ち聞きしてしまったお詫びに僕も捕獲に参加するよ。どうせのらりくらりと追及をかわした挙句、隠れて逃げるに決まっているからね」
 にこりと笑った表情は貴族か王子様かといった具合だというのに、一度決めたことは覆さない頑固さを持ち合わせている。彼だと決まったわけではない、などと言ったところで無駄であることが即座に理解できた弓兵は諦めた。
 退去させない程度にしておいてくれと続けたが、逆に言えばそれ以外は好きにしろと告げたも同然だ。
 この時点での二人は、件の人物がダ・ヴィンチに連行された挙句、途中で姿を眩ませたことを知らない。
 獲物を与えられた物騒な王子様、というのが今の彼を表現するのに相応しいだろうか。フードを被っているために表情が窺えない分、悪役っぽくもあるはずなのだが、彼自身がもつ気品やオーラというものがそれを許さない。
 彼は弓兵の要請を快諾し、笑顔を浮かべたまま振り向いた先で、不運にも飛び込んできた男を捕まえることに成功した。
「君も協力してくれるだろう、ランサー」
「……あぁ? 一体どういうことだよ」
 男の反応はあまりにも真っ当だったが、気にした様子もない騎士王は勝手に確定事項としたらしく、回れ右しようとした男の尻尾髪を鷲掴んで引き止める。
「痛ぇわ!」
「ああ、すまない」
 他にとっかかりがなくてと告げる声音は軽く、気安い茶番のようなやりとり。
 一瞬後に声を落として纏う空気を変えた彼は、どの道逃がす気はないと宣言した。
「影の国の女王と交渉するのなら君が適任だからね」
「なんでここでスカサハの名前が出てくるんだよ」
「それはもちろん、本気で仕留めるつもりだからだとも」
 穏やかな口調だが目はフードの下からちらりと覗いた目は笑っていない。一瞬押し黙った男は、降参というように軽く両手を上げた。
「……君達、その会話はあまりにも物騒では?」
 呆れた声は置き去りにされていた弓兵のもの。
 ようやくここが食堂だと思い出した男二人は笑って誤魔化した。苦笑を落としたエミヤ自身、それ以上咎めることも彼らの話に首を突っ込むこともせず、差し入れ用のバスケットに並べていたケーキの追加分数枚を別の皿に移動させる。
「よかったら彼らを含め皆で分けてくれ。私は厨房を空ける用意をしなければならないからこれで失礼するよ」
「なんだ。気付いてたのか」
「まあ……そこそこ付き合いも長くなってきたからな。今日はトレーニングでもしてきたのかね」
「おう。次回試す予定の連携をちとな。うまくいって大物とってきたらステーキにしてくれるか?」
 男に手招かれた先から現れたのは、予想通り白い大型犬が二頭。本来の主はキャスターのほうのクー・フーリンのはずなのだが、こと食材確保となると手綱を含めて若い方に丸投げらしい。
 姿こそ犬だが、実際のところ魔力で活動しているという点でサーヴァントと同じようなものだ。
 魔力として消化できるものならばなんでも食べられると知っている青年は彼らの分を含めたそこそこ大量のケーキを歳若いクー・フーリンに手渡した。
「美味しそうだね。せっかくだからお茶でも淹れようか」
「おいおい、そんなのんびりしてていいのかよ。それに、騎士王様が自ら茶を淹れるってか?」
「構わないだろう。腰を落ち着けて相談事をするにはぴったりだからね」
 笑顔の宣言は協力するまで逃がさないと脅しているのと同義だ。最初に声をかけられた時から理解している歳若いクー・フーリンも諦めモードで、傍に並んだ犬達の毛並みに力なく顔を埋めた。
 渡された皿はうまく退避させているあたりが彼らしい。
「さて、行くよランサー」
「ぐえ」
 髪を引っ張るなとの叫びがさらりと流されたのは歩き始めてしまえば引っ張られることもなくなり気にならないからだろう。小走りに後ろをついていく犬達が置き去りにされたケーキの皿を運んでいくのにくつりと笑みを零したエミヤは、流れるように片付けを済ませながら吐き出す息に紛れさせるように言葉を落とした。
「ランサー、か」
 その呼びかけ自体は特別なものではないが、随分と気安く響くものだと気付いてしまえば苦笑を隠せない。
 全ての片付けを終え、差し入れのバスケットを手にしたところで白い犬の片割れが戻ってきたのが見えた。
 膝をついてどうしたと問い掛けた瞬間、突撃するように駆け寄ってきた犬はエミヤの腕に触れて霧散する。
 ふわり、花の香りだけが後に残った。それがどうも曖昧な記憶を刺激する。
「幻術……か。これは本気で彼らに捕まえて貰うことになりそうだな」
 妙な夢の作用が自分だけだとは思えない。無断でレイシフトしたという黒の騎士王や己のオルタである彼にもなんらかの作用があったのではないかと思考を巡らせる。
 膝をついたまま思考に沈む弓兵が現実に戻るための問いは唐突に降ってきた。
「何をしているのです?」
「……キャスター。いや、メディア」
「私が声をかけたのがよほど不満のようね……って、なにこの匂い。花?」
 あからさまに不機嫌な声は、どちらかと言えばエミヤにというよりも、その周囲に漂う魔術の残り香に向けられている。
 それが意味するところは一つ。二人は気付いていたがあて口にすることはない。
「さっき、白い犬が近付いてきたと思ったら目の前で消えてこの状態なんだ。状況を整理できていない時に君が来たので反応が遅れた。すまない」
「青の騎士王を呼びましょうか?」
「いや、それには及ばないよ。先程男性の方の騎士王が本気を出していたからね」
 そちら経由で遅かれ早かれ情報は回るだろうと苦笑し、ようやく立ち上がる。先程の出来事は瞬きほどの間だったというのに、体は全力疾走した後のように疲労し、硬直していた。
 そういうことならばこの件は一旦そちらに任せようと溜息を落としたメディアが改めてエミヤに向き直る。
 戦闘で邪魔になりにくい場所を問われた彼は少し考え込んでから足周りか、密着するのなら手首と答えた。
 予想通りだったらしいメディアが持参してきていた小さなポーチから組紐のようなものを取り出す。
「一種の補助礼装ね。属性を偽装することでレイシフトの成功確率を上げるわ。大急ぎで作ったものだから使い捨てになるけれど、何もないよりはマシでしょう。マスターのためにもね」
「そういえば君もメンバーだったな」
「ええ。これを通して現地でもデータを取らせてもらうからそのつもりで。魔力が通るから念話もやりやすいわ」
 予想を超えたありとあらゆることが起きるこのカルデアでは、備えはあればあるほどいい。
 暇を持て余したサーヴァント達が礼装やシミュレーションの改修に乗り出すのは珍しくなかった。もちろん、新鮮な食材の確保などもそれに含まれる。
「感謝する」
「足りないようなら両手両足に括り付けますからね」
 声音にはほんの少しの照れが混じる。
 先に行くと告げて食堂を後にした彼女を見送り、青年は改めてエプロンを外して礼装の上着を編む。
 忘れずにバスケットを抱えると、その場を離れた。
 マスターの依頼を受けてすぐ交代要員のためのメモは作成済み。厨房に誰も居なくとも軽食だけならカウンターに用意されており、飲料ディスペンサーと合わせればそこそこ不自由はしない。
 この後の担当はブーディカだ。突然のことで申し訳ないと思いつつも、彼女ならシフトの変更理由を確認したら少し早めに出てきてくれるだろう。
 大荷物を抱えたまま廊下を辿り、管制室へと足を踏み入れる。直行したのは飲料ディスペンサーのあるスペースの横に作られたささやかなワゴンの上だ。
 ドームカバー付きのスタンドの中に持参してきたケーキを収納してから、マスターの元へと足を向けた。
 おやつ用夜食用を含めて大量に焼いたが、おそらくレイシフトから戻る頃にはなくなっているだろう。
「遅くなってすまなかった」
「大丈夫だよー。無事にメディアさんから補助礼装受け取れた?」
「ああ。世話をかけるな」
 こちらの都合だからと笑った少年はメンバー最後の一人であるクー・フーリンのオルタに手を振った。
 改めて見渡せば先に聞かされた通りの人選が顔を揃えており、ダ・ヴィンチからの許可は無事出たのだと知れる。
 メンバー全員が集まったのを確認し、改めてダ・ヴィンチとマシュから今回の目的と行動が説明された面々はレイシフト準備に入った。
 行き先は東京、新宿。一度特異点化し、今はゆっくりと解消されて消えゆく過程にある名残の場所。
 基本的にレイシフトには相性と適正が必要になる。どんな場所でも居なければ始まらないマスターはともかく、同行するサーヴァントに関しては行き先の特異点の質と規模によって大幅に変わり、任意のサーヴァントによる完全同行が可能なのは比較的軽い特異点およびその残滓であることが多い。特異点そのものとの相性によって決定されるため希望が通らないこともままあった。
 幸いと言おうか。今回の行き先は解決済みの特異点であるため比較的規制は緩いらしい。
 それは、黒の騎士王とエミヤ・オルタがマスターを伴わずレイシフトできていることからも察せられた。
 レイシフト同行のサポート登録を済ませてしまえばあとはマスターの準備完了を待つばかりである。
 アナウンスが処理の開始を告げるのを聞きながらレイシフト酔い防止のために目を閉じた。
 一時的に意識が溶けていく。

  ***

 背中に熱を感じる。
 ゆるりと沁みる青の魔力がわざわざ確認せずとも相手を教えて、青年は力を抜いた。
 瞼も体もひたすら重く、相手を認識はしてもそれを振り払おうという気力はない。
 じゃれるように額を擦り付け、時折思い出したかのように色を纏って頸を辿っていく唇と、居場所を探すように位置を移動させる腕の感触。
 大型犬に懐かれているようだと内心で笑った青年は、胸と腹の中間あたりでぱたぱたと揺れていた手の甲を爪の先で擽って続きを促した。
 遊ぶような手が煽るような動きに変わり、広がる熱に浮かされて掠れた声が相手の名を呼ぶ。
 背中に触れる熱はさらに熱く。相手のてのひらは下衣越しにゆると欲の在処を刺激する。
 頸に触れていた唇が振動だけで己の状態を伝えた。
 零れ落ちる吐息。もどかしいとすら感じる刺激に青年は口端を歪めて堪える。
 背の気配は近く、首筋に触れる息には熱が滲む。肌に吸いつかれれば体は勝手に跳ねた。
 もう少し体を預けろと囁かれ、それでは重くないのかと色のない問いを返す。
 懸念の原因は腰の下から回り込んでいる片腕なのだが、気にしていないらしいと疑問符が返ったことで知る。ゆっくりと半身を開くようにすれば、相手の上に乗り上げるような形になった。
 どこか楽しそうな気配を纏った指先が器用に下衣の前を寛げて潜り込む。遮るものが下着だけになったことで滲む体温はさらに近く、包み込まれるように触れられれば熱いそれを感じて声が漏れる。
 それ以上性急に進める気はないらしい掌はほとんど触れているだけといってもいいほどゆるくそこを撫でるだけ。
 さて、達することもできない弱い刺激の中で欲に耐える状況を拷問ととるか鍛錬ととるか。
 相手が興奮していないわけではないというのはちょうど尻のあたりに当たっているもので判別できた。であればこれも考えがあってのことかと思案する。
 我慢比べとでも思えばいいか、と。
 出した結論を聞かれたならば、おそらくは激怒されていただろう。だが青年はそれを口に出さず、内心を知る由もない相手はひたすら微温湯の刺激を与え続けた。
 お互い逃げる息に欲が滲むのには気付かぬふり。
 暗闇の中、次第に荒くなる息遣いの合間に衣擦れの音が漂っていく。
 接触による魔力の授受はただ優しい。
 この接触自体が本命で、進展もみられない、手淫ともいえない戯れのようなこれは手慰みなのだろうか。多少の快楽が上乗せされれば接触だけでも魔力は巡りやすくなる。
 いや、そもそも。
 いくらこの場所では味方とはいえ、なぜこの男とそんな甘ったるい関係になっているのか。
 ふと湧き起こった疑問は頭に冷水を浴びせかけて冷静さを引き戻し、気付かなかったことを嗤うような花の香りが鼻腔を擽った。
 覚醒する気配にこれが夢だと理解する。
「……悪趣味な」
 呟きは現実に戻る意識に押し流され、散り散りに。
 次に目を開けた時に飛び込んできたのは無事にレイシフトしたと思われるビルの谷間の風景だった。
「エミヤ?」
 心配そうな少年の声が名を呼ぶ。しっかりと己の状態を確認してから青年は口を開いた。
「自分では不調がある感じはしない……が、どう思う」
 問いの先はマスターの隣でこちらを観察していたメディアに向けられている。そうね、と前置きした彼女は何度か視線を往復させてから今のところは問題無さそうだと結論を下した。
「ただ念の為もう一つ渡しておくわ。気休めにしかならないかもしれませんけどね」
「助かるよ。戦闘中に損傷しないとも限らないしな」
「腕を吹っ飛ばすのはできるだけやめてちょうだい」
 データが取れなくなると続けられた言葉にそっちなのかと苦笑したのはマスターの少年だ。もっとも、言葉の裏に純粋な心配が隠れていることを理解している彼は、そっとエミヤと視線を合わせて肩を竦めるだけで話題を流した。
 通信回線を開いてカルデアに残ったマシュと情報交換、現在地からの移動ルートを策定する決断は早い。
「エミヤ、静謐ちゃん、行ける?」
「もちろん」
「はい」
 データ的な索敵とルートナビは管制室のマシュが。
 静謐のハサンは先行しての偵察。エミヤはマスターが移動する間、定点から周囲を観察する役割を担う。
 魔術的な攻撃にはメディアが、直接攻撃は小次郎かオルタのクー・フーリンが対応することになる。
 ビルが乱立する場所ということもあり、俯瞰して観察できる目が必要だと判断されての配置。己のマスターに対して了承を返した二人はそれぞれ同時に地を蹴った。
 エミヤのほうは一度霊体化し、ビルの屋上に移動する。
 少し先ではビルからビルへと飛び移る静謐のハサンの姿が見えた。
 新宿区といっても、このあたりは歌舞伎町に近く、巨大ビル群というよりは中規模のビルが密集している地帯にあたるため、マスター達が駆ける地上との距離がひらきすぎないのはありがたい。
 少しだけ背の高いビルの屋上で青年はぐるりと周囲を見回した。十分に警戒しながらもマスター達の移動に合わせてビルを飛び移り、同じことを繰り返す。
 囲まれる危険があるため大通りを横切る時はさらに警戒を強め、無事に渡り切ったのを確認して次のビルへと移った瞬間に静謐のハサンが慌てて戻ってくるのが見えた。
 敵襲の可能性が高い。
 まだ距離はあるが、こちらが見えていることを理解しているらしい彼女は手振りで三つほど先にある背の高いビルの屋上を示しててから、地上へと身を投げる。
 マスターにはきちんと護衛のためのサーヴァントが付いており、今更駆けつけるよりは遊撃要員として示されたビルに移動するほうがいいだろう。
 すでに戦闘状態になっていることを想定して霊体化は避け、強く地面を蹴って大通りを横切る。
 着地した雑居ビルの突出し看板を蹴ってさらに上へ。
 高さを稼ぐ必要があるため非常設備や屋上の看板も利用して指定されたビルに辿り着いた。
 見下ろした周辺の通りにはコロラトゥーラが溢れ、それを蹴散らすように入り口付近で戦闘を始めているのはオルタのクー・フーリンと佐々木小次郎。
 合流したはずの静謐のハサンは姿が見えず、代わりに裏口から突入していく雀蜂の集団が目に入った。
 マスターが逃げ込んだのは今現在自分が立っているこのビルの中だろう。
「となると……彼女が集団を相手にするために毒を使うのなら階下からの脱出はない。逆に毒が平気なマスターを抱えて一点突破で脱出させるのであれば竜牙兵が量産されるため魔力が大きく動く」
 タイミング的には静謐の警告前にメデイアも気付いている可能性が高い。
 コロラトゥーラを押し留めることでビル内に雀蜂達が入り込むのが想定内ならば消去法でマスターを退避させる役割を負うのはメディア。
 静謐は途中階での足止め役となるはずである。
 そこまで思考したエミヤは、メンテナンスのために設置されている関係者用の通用口に近付いた。きっちりと鍵がかかっていることを確認したものの、躊躇うことなく破壊して扉を開け放つ。
 全速力で階段を駆け上がる音。
 身を引いた瞬間に弾丸のように飛び出してきた人影の腕を掴んだエミヤは、勢いを逃すように回転しながら名を呼んだ。
「無事でよかった、マスター」
「うん、エミヤも」
 驚いた様子がないのはメディアあたりから敵は居ないからと告げられていたのだろう。
 丁寧に扉を直してから振り向いた彼女は、状況は理解しているかと問いを投げた。
「ここに来るまでに目視で確認できた範囲なら」
 青年はちらりと地上に視線を投げ、己が予想した作戦を口にする。
「勢いで突撃して外壁を破壊されると空間に毒を満たす方法では効力が弱まるため、コロラトゥーラを引き離し、他の雀蜂どもは屋内で纏めて足止めをする算段だろう。君がここから逃れるのであれば、さしずめ私はマスターの代わりに敵を引きつけるための囮ということかな」
 基本が人形であるコロラトゥーラにも静謐の毒は有効だが、ドリルのように脚部を回転させながらの突撃は場合によっては床または壁を穿孔しうる。仮にビルが倒壊したとて構わない行動するため外で押し留めることとし、雀蜂達の装備が屋内戦用のものだということを把握済みの選択であった。
「話が早くて助かります。あいつらを引きつけておくために協力してちょうだい」
「言われずとも」
 屋上に居る相手がエミヤであることを察した時からそのつもりで用意していたメディアは即座に組み立てた術を発動させる。光に包まれた青年にそれ以上の変化はないが、うっすらと思考を乱す何かが存在しているのがわかった。
「ふむ……効果時間は?」
「特に時間を定めてはいないわ。術が解けた時にこちらの居場所を一方的に届けるから、他のメンバーを捕まえて移動してちょうだい」
「承知した」
 また後でと告げたマスターは、メディアに抱えられて文字通り空を飛んでいった。魔力の放出に気付かれぬように最低限、隠蔽しながらという器用さである。
 少年がどこか遠い目をして魂が抜けたようになっていた理由をサーヴァントの二人は知らなかったが、彼にとってこの特異点でビルから飛ぶのは二回目であった。
 後日カルデアに帰還した後に少年が己の正式サーヴァントに洩らした泣き言混じりの報告で初めて事情を知ったメディアは土下座の勢いで謝罪したというが、それはまた別の話である。
 取り急ぎ囮役を拝命した青年は、奇妙な物音に気付いてビルの外壁から顔を出して周囲を窺う。
「……正気か」
 思わず声が出たのも無理は無い。眼前に広がった光景はどこぞの低級ホラー映画かとぼやきたくなるようなものであった。
 なにせ、軍勢で押し寄せるコロラトゥーラの一部が外壁に穴を穿ちながら登っている。
 門番役を担っている小次郎が気付いた傍から叩き落としているが圧倒的に手が足りず、オルタのクー・フーリンは数そのものを減らすために戦車の如く駆け回っていて到底援護を求められる状況ではない。となれば自分で叩き落とす以外の道はなく、青年は思案を巡らせた。
 エミヤが所持する長弓は真下への射撃が難しい。
 無理に全身を破壊する必要はなく、何階に居るかはわからない静謐のハサンの元まで辿り着かせなければそれでいいこととしてビルの端から腕を伸ばし、眼前に剣を投影することにした。
 初速を魔力で補助してやれば重力を味方に投槍器の要領で真っ直ぐに落ちていく。投影する段階で方向を決めるだけで広範囲の敵に対応が可能なそれは、いわゆる宝具の限定展開、全投影連続層写の簡易版である。
 いくつかのコロラトゥーラは完全に破壊され、残りは手足を破壊されて落ちて行き、地上でそれに気付いた小次郎が任せたと合図を送ってきたのを認めて了承の意を伝えるために投影する剣を増やした。
 この後マスターと合流する際の憂いを断つためにも全滅させておくという選択はありだ。敵の数は多いが、こちらの戦力も申し分ない。
「……エミヤ様」
「雀蜂は?」
 呼びかけには端的な質問を返す。
「はい、すべて。こちらには霊体化して戻りましたので封鎖されているあの扉は使用しないほうがよろしいかと」
 示されたのはメディアがご丁寧に修復していった屋上に出るための扉だ。
 承知したと返したエミヤの脳内で何かが瞬いた。
 ちかり、ちかり。
 謎のそれが勝手に脳内で鳥瞰図を展開し、一つのビルを指し示す。
「私の役割も終わりらしい。君は一足先に佐々木小次郎と今から告げる場所に向かってくれ。私はあそこで暴れ回っている狂王を捕獲してから向かう」
 知らず溜息が出るのは仕方ないだろう。
 実際問題、小次郎は防衛として周りに気を回している余裕があるため普通に撤収を告げれば問題無いが、己を槍だとして敵を全滅させるほうに比重を置いている狂王を止めるのは骨が折れる。
 敵の数は確実に減っているが、混戦になっているため辿り着くのも難儀な状況であった。
「なにか作戦があるのですか」
「ああ。野蛮な方法ではあるがね」
「わかりました。では後はおまかせします」
 身軽に屋上の端を蹴った彼女はついでに何体かのコロラトゥーラを巻き添えに地上に降り立ち、すぐさま小次郎と共に一点突破で離脱を図った。
 追いかけようと動く一部を直接投影した剣で撃ち抜きながら、流れるように弓に持ち替え、敵集団を柵で囲むように剣を撃つ範囲を広げていく。
 最後に番えたのは夫婦剣の片割れ。
 混戦の中心たる狂王の至近に向けて放った瞬間、弓はもう片割れの剣へと姿を変えていた。
 矢避けの加護を持つ相手に対して中らないそれは、荒っぽい矢文のようなものだ。
 射ったほうの剣は細長く、まるで槍の長さ。
 オルタを避けるように動いて横の地面に突き刺さり、身を震わせた黒の刀身が存在を主張したのに男が気付いたのはたまたまか、武器を振るうのに邪魔だったからか。
 理由などどちらでも構わない。男が槍を持つ手と逆方向で矢を掴んだのを確認し、手繰るように手にしている剣に魔力を込めて引き合わせれば、その体ごと宙に浮いた。
 釣りでもするかのように繋がった魔力の糸を手繰り、勢いよく持ち上げたが、男は動揺する素振りもなく。手にしていた矢をビルの側面に突き立てて上に立つ。
「狂王! 敵は全て檻の中だ」
「了解」
 魔力の高まりと共に矢を蹴った男が真名解放と共に己の槍を振りかぶる。
 抉り穿つ鏖殺の槍。女王の願いにより変転した彼の全力投擲は、無数の流星の幻影を作り出した。
 呪いを帯びた真紅の槍はその性質のまま、範囲内の敵を殲滅し、それを放った本人はエミヤが居るビルの屋上へと着地する。
 隕石が落ちたかと見紛う巨大な陥没は、青年が境界として引いた剣の内側で綺麗におさまっていた。
「さすがだな」
 応えはなかったが、青年は手に戻らないままだった夫婦剣の片方を視界に収めながら苦笑し、残っていた武装を魔力に還す。
 男からの言葉が返ると思っていない彼はマスターと合流するからついてこいと続け、地を蹴った。
 気配で付いてきていることを確認しながら移動を繰り返し駅を越える。そのまま南西に向かって移動し、一見廃墟に見えるビルに入っているカフェの前に立った。
 魔術的に偽装されている外観は結界を兼ねている。ほっとした表情を見せたマスターの少年は、青年の後ろから上がった声に話が終わったら呼べと告げられたことで苦笑を落とした。
「うん、ありがとうオルタ」
 返事を期待しない謝意が背を追いかける。
 彼が見張りに立つ選択をしたのは、話が不要だと思っているというより、己を兵器だと認識しているが故だ。
 思考を放棄しているわけではないが、眼前に示された敵を倒すことに特化するのであれば議論に加わる必要性はなく、結論だけを伝えて貰えれば問題がない。
 納得よりも先に命令に即座に従えるが故にこういった場面では率先して見張りを引き受けることが多かった。
 入り口を潜ったカフェは灯りこそついているものの人気はない。店員の姿もないが、なぜか食材だけは潤沢に揃っていた、念のためとエミヤは厨房側まで確認した上で何らかの理由で放棄されたものだと結論を下す。
 魔術的に周囲を探索していたメディアにも相談し、今のうちにマスターに軽食をとってもらうことに決める。戦闘の後であるから、サーヴァントの面々の魔力補給も兼ねることができるのも大きい。
 多少気は引けるが背に腹は変えられないというやつだ。
「ついでに本来任されていたジャンクフードの作成をここでしても構わないものだろうか」
「問題ないでしょう。使わなければ腐るだけよ」
 指摘は尤もだ。幸い、半オープン型の厨房は席を選べば話を聞く分には支障がない。
 先に始めていてくれとマスターに告げれば、頷いた少年は他に人がいないのをいいことに勝手にカウンターに机を寄せてからカルデアとの通信を開いた。
 机上に展開された画面越しにマシュとダ・ヴィンチの姿が見える。そのまま作戦会議を始めた面々を横目に、エミヤはマスターのための軽食作りにとりかかった。もちろん携帯できる食料はいくつか持参しているが、温かいものが食べられるなら逃す手はない。
「魔力反応をこちらのデータベースと照合して位置を割り出しているから正確さは劣ると思うが、エミヤ・オルタの位置は不明。アルトリア・オルタは先程まで活発に動いていたんだが、今は落ち着いているね。この場所は……おそらくバレルタワーの屋上かな」
「あそこのタワーっていうと、この特異点の決戦だった場所だよね。なんかやり残しでもあるのかな」
 ダ・ヴィンチの声にマスターが応え、そういうことであれば一度確認に行った方がいいかとメディアが口を出す。
 青年も、手を動かしながら耳では会話を拾っていた。
 新宿特異点の顛末であれば報告書の情報程度は頭に入っている。アルトリア・オルタとエミヤ・オルタがマスターを持たないはぐれサーヴァントとして召喚されていたことからも、場所への縁が何らかの異変を感じ取ったということかと思案する。
 似たような例は過去にもあった。
 多くは小さな歪みで、放置しておいても問題ない程度のものであることが多いが、稀に大事になりそうなものも存在する。場合によってはカルデアで契約しているサーヴァントの新たな力となることもあるため、基本的に発見された場合は対処することになっていた。
 話題は現状の確認から、現在地からタワーへのルート選定に移っていく。
「マスター、軽食ですまないが今のうちに少し食べておいてくれ。味見も兼ねてな」
 ありがとうと目を輝かせる少年の前に出したのは一般的なハンバーガーのセットだ。続けていくつかバンズと具を変えたものを並べ、好きなものを選んでもらう。
 室内の面々が選び終わったところで残ったバーガーを包装紙に移し、外ではあるがギリギリ結界の内側という絶妙な位置に陣取っているクー・フーリン・オルタの元へと足を運んだ。
「狂王、魔力の足しにもならないかもしれないが食べてくれると嬉しいよ」
「……ああ」
 素直に受け取った男が包み紙に手をかけた瞬間と、室内から警告音が響き渡ったのが同時。
「対象、急速接近中! 尋常じゃないスピードです!!」
「預ける。落とすなよ」
 悲鳴のようなマシュの声に冷静な声が重なる。
 聞き返す暇は与えられなかった。
 結界から飛び出した男が朱槍を構えたところに、大の男を横抱きにしたまま剣を振りかぶった物体がぶつかる。
 衝撃波が猛烈な勢いで周囲を揺らし、エミヤは慌てて預けられたバーガーを庇った。
「貴様……私がハンバーガーを入手するのを邪魔立てするつもりか」
「ほざけ。あれはオレのものだ。必要なら中で注文するがいい」
 ぎちぎちと盛大に武器が声を上げる中、視線を動かした狂王の意図に気付いてエミヤは音を立てないように後退して店の中に戻る。
 必要がなければ一言も喋らない男が、わざとらしい冗談まで交えて彼女を押し留めているのが時間稼ぎだと即座に理解したのは弓兵だけではない。
 メディアは結界に魔力を回して衝撃波を防ぎ、マスターを含めたその他のメンバーは奥のベンチシートへの導線を整え始めていた。
「やれやれ、まさかこんなに早く釣れるとはな」
「呑気にぼやいてないでさっさと作ってちょうだい。あの王様、ハンバーガーのために人ひとり抱えたままタワー頂上から魔力放出で直線距離をかっとんできたのよ?」
「承知している。下準備済のものがまだあるからそう時間はかからんよ」
 わりと必死で魔力を注ぎ込んでいるメディアの横をすり抜けて厨房に入り、いくつかのバーガーを同時進行で制作していく。
 本人が宣告した通り、第一弾のバーガー達はそう時間をかけずに完成した。あとは盛り付けつつ、ポテトの揚げ終わりを待つばかりである。
「じゃあ次ね。こちらの準備ができたという合図がいるだろうから……貴女、あの王様を席に案内して。マスターはバーガーを運ぶ準備を。佐々木は適当に座っていてちょうだい」
 幾度目かの衝撃にみしみしと音を立てそうな結界を維持しながらも冷静に指示を下す魔術師のご指名に、呼ばれた三人は即座に反応した。
「は、はい!」
「わかった」
「私だけ随分な扱いだが。まあよかろう」
 静謐のハサンが飛び出していき、マスターの少年がカウンター前に立つ。
「いらっしゃいませ、奥のお席へどうぞ」
 生まれてから十何年、現代日本で過ごしてきた日常生活の賜物か。静謐に先導されて入店してきた影を察知した瞬間、少年の口からはお決まりの言葉が飛び出していた。
 雰囲気作りは大事である。
 案内されるまま堂々と奥の席に進んだアルトリア・オルタは少し考え、ベンチシートとなっている座面に抱えていたエミヤ・オルタを下すと、その身を支えたままテーブル前に自らの身を滑り込ませた。
 仕上げとばかりに彼の体を下ろし、満足したように息を吐いた彼女の膝の上には微動だにしない男の頭が綺麗におさまっている。いわゆる膝枕というやつなのだが、その場に指摘できる者はいない。
 狂王は外から戻っておらず、佐々木小次郎は明後日の方向を見て知らんふり。静謐のハサンは固まっており、エミヤに至っては天を仰いでいる。
 盛大な溜息はメディアのものだった。間近でそれを聞いたマスターが続けて正気に戻る。
 小声ではあるがさっさといってきなさいと告げられれば彼に選択肢はなかった。
 用意されていたプレートを手に歩を進める。
「お……お待たせいたしました。こちら本日のスペシャルバーガーセットとなります」
「うむ」
 これでもかとバーガーが盛られたプレートを前に鷹揚に頷いたアルトリア・オルタは即座にもっきゅもっきゅと食べ始める。彼女の食べ終わりに合わせて第二弾を作っていたエミヤの元からは、おかわりの声が上がる前に皿が運ばれて行った。
 そんな時間は黒の騎士王がもうよいと告げるまで繰り返され、唐突に緊張の時間は終わりを告げる。
 途中律儀に預かっていたバーガーを外まで届けに行っていたエミヤは、ついでとばかりに足りなくなりそうな材料の入手を頼んでいたのだが、それらが彼女の食事に対して使われることはなく、代わりに調達に動いてくれた男の腹に消えたのは余談である。