KCK

小さな声がした。
まだ子猫だと思われる声。
なんだ、と。疑問の声は音にならず。
額に傷のある少年は、訝しげな表情で辺りを見回して、近くの樹の上で震えている存在を捉えた。
現在彼が居る場所は、少しだけ樹が密集した林のような場所で。さほど太い樹も、飛び抜けて高い樹も存在していない。声が聞こえたのはそんなうちの一本からだった。周りから見れば低めの枝は、それでもよく葉が伸びて、上にいるものの存在を隠してしまう。
「……猫?」
ぼんやりとした呟きはちいさな声で肯定されて、少年はようやく硬直から脱出する。この場に彼を良く知る人物がいれば、苦笑してその心理を解説してくれたことだろうが、今この場に他に人影がなく、少年はしばらくにゃーにゃーと鳴く姿を見上げて途方に暮れていた。
溜め息をひとつ。
仕方ないなとばかりに首を振って、手を伸ばす。
「来い」
呼びかけには細い声でにゃあと返されて、少年は眉を寄せる。
助けてやると言っている。
そんな風に言っても相手は言葉も通じない動物。仕方ないなとばかりに彼は樹に足をかけた。
気のせいだろうか。一歩近付くたびに心配そうな声が降る。
大丈夫だから、と。自分の唇から自然に零れた声が信じられず、少年は眉間の皺を増やす。
「さっさと来いと言っている」
動こうとしない猫が見える位置まで上がった少年は、降りられなかった理由を悟って苦笑を落とした。樹に巻き付いていた蔦に後ろ足がひっかかってしまっているため、身動きがとれないその猫は、下手に暴れて自らの身を危険に晒すことなく、誰かが上がって来てくれるのをじっと待っていたのだった。
生い茂った葉が姿を隠し、敵には気付かれなかったらしい。
衰弱しているのは明らかなのに、気丈にも頭を上げて少年を見る。
真っ直ぐに向けられた碧の瞳が持つ強さは、まだ諦めていないことを示していた。
「じっとしていろ」
言葉での意思疎通は出来ないが、雰囲気は伝わるものだ。少年が手を伸ばしても、猫は身動きすること無く指の先を見守る。
そろり。
触れる、指先。
割れた枝を慎重に取り除いて、少年は猫の足を救出する。
心得たもので、猫も足にかかる圧迫感がなくなった瞬間にその場でくるりと回って少年の腕から肩へと移った。少しだけ挟んでいた足を引き摺っているのは仕方のないことなのだろう。
片手をそっと背を支えるように添えて、無事に猫の救出に成功した少年は安堵と共に地上に戻る。膝を付き、手を離して促せば、小さな体は転げるように膝の上に降りた。まるで礼を言うようにすりりと身を寄せる猫に、外から見た程度ではわからないほど微かに口端を上げて、彼は完全にその場に腰を下ろす。地面は乾いて固くなっていたが、汚れることを嫌った少年は張り出した樹の根の部分を選んだ。
嬉しそうに鳴いた猫の頭を撫でて。これからどうするかを考える傍らで、あたりの気配を探る。小さな生き物は、自分を助けてくれた少年を信頼するように身を預けてじっとしていた。
少し汚れてはいるが、綺麗に流れる黄金の毛並みは、どこか偵察に出て別れたきりの仲間を思い出させて無下にもできない。少年はそんな自分を笑う羽目になって、溜め息を落とした。
そういえば彼はどうしているだろうかと考えたところで、おおいと声がかかる。
「こんな所に居たのか、スコール……って、その子どうしたんだ?」
よく知った声は伸びやかに明るく。
顔を上げれば、近付いて来る青年は、片手に水を汲んだのだろう革袋を持ち、もう片方の手を大きく振っていた。
仲間のひとり、バッツ。
彼は無頓着に少年の側まで歩いてきて屈み込む。
抱えられた猫の鼻先に指を差し出して匂いを嗅がせ、危険が無いことを教えると、頭をそっと撫でた。
動物の扱いに慣れているらしい青年は、猫の側にとっても心地いい存在だったのだろうか。膝の上の猫がすぐに気を許したように小さく鳴いて頭を伏せた様子を見て、ずいぶん懐いてるなとバッツは笑う。ふいと顔を背けた少年は、その笑みの種類を見逃した。
「樹の上で動けなくなっていたのを下ろしてやっただけだ」
「へえ?」
「何が言いたい?」
バッツは棘を増したスコールの声を笑いとばすように顔の前でひらひらと手を振る。
「なんでそう疑り深いかな。ちょっと嬉しかっただけだよ」
まるで猫にするのと同じように、スコールの眉間に出来た皺をむにむにと伸ばしながら、青年は笑った。