獣の右腕

 1

降り立った瞬間、強い魔力干渉に頭が揺さぶられる。
咄嗟に対魔力向上の効果が期待できる馴染みの夫婦剣を出現させて抵抗を試みるが、もはや気休め程度にしかならないかもしれない。
そんな状態なのは赤の弓兵一人ではなかったらしい。
「なに、コレ……」
「うえええ。なんか気持ち悪いんですけどー?」
声を上げたのは現代人で一般人のマスターと、神秘が失われた現代に近い時代に生きていたためか、魔術抵抗が低い部類に入るビリー・ザ・キッド。
まるで空気が重量を持っているかのようだ、という感想には一緒に来た面々も頷かざるを得ない。おまけにカルデアとは連絡が取れなくなっている。
「大丈夫ですか、先輩。顔色が悪いです」
「ああ、うん。マシュは……大丈夫そうだね?」
はい、私は。そう答えた盾の少女が、その場に蹲りかけたマスターの少年を支える。
「マスター、失礼します」
直後に彼の肩に掛けられたのは、青の騎士王ことアルトリアが身に着けているマントであった。魔力で編まれ、本人の一部でもあるそれには、彼女が精霊達から受けている加護がかかっている。
「あ、少し楽になった。ありがとう」
「いいえ。とりあえずはそれを羽織っていてください。空気が淀んでいる……このあたり一帯はどうも敵の工房内のようですね。排他と幻惑の魔術が発動しているようです」
少しずつ魔力を吸われていると付け足した彼女は、相手はだいぶ強い魔術師なのだと告げる。表情の厳しさが、そのまま状況の厳しさを語っていた。
「えー、僕にはー?」
唇を尖らせて抗議の声を上げたのはビリー。だが、無常にも青の騎士王はマスターが最優先だから自力でどうにかしろと斬って捨てた。
ひどいと悲鳴が上がる。
そんな会話を聞いていた弓兵とて他人事ではない。自分の対魔力の低さを楽観視していない彼は夫婦剣を握ったままで冷や汗を浮かべる。
「あー……ちょっともう座が見えるかもー……」
「ち、ちょっと待ってビリー。消えるのナシ! とりあえず一緒に入ろう!」
今離脱されると困るとばかりにマスターの少年は今にも崩れ落ちそうな彼の背後に回ってぴたりと張り付く。
それでなんとか脱したらしい。助かったと零したビリーの口調は軽かったが、その額にはエミヤと同じくびっしりと汗が浮いていた。
今回はキャスタークラスに該当する人物が一人も同行していない。そのため、魔術的な守りは期待できず、己自身でどうにかするしかない。
青年は必死で頭を働かせる。だが、僅かでも気を抜けば慣れてるはずの夫婦剣すら手放してしまいそうだった。
「しかし……困りましたね……」
ちらりと騎士王が弓兵二人の様子を伺い、両方戦力外に分類する。
この場で動けそうなのはマシュと自分だけだろうかと考えたところで、眼前をのそりとした黒の影が通り過ぎた。
彼がいた、と息を吐く。戦力はこれで三人。
「狂王?」
アルトリアの声には反応せず、真っ直ぐにエミヤの前に立った男は、狂王やオルタと呼ばれるバーサーカークラスのクー・フーリン。
「……テメェだけならなんとかなるか」
「一体何をするつもりですか?」
余裕のない青年の代わりに問いを投げたのは騎士王。
「戦力の補給だ。この状況なら必要だろう」
「何か策があるのですね?」
「策なんて立派なものじゃねぇ。だが、多少でも動ける頭数は増えるだろうよ」
面倒そうに言い捨てた狂王は無造作に手を伸ばし、赤の弓兵を引き寄せる。
その体躯とひるがえるマントが、マスターをはじめとした面々から青年の姿を隠した。
抵抗するような余裕もない青年はされるがまま。
半分回転するように抱き込まれたため、片腕に腰を支えられたまま、頬を男の胸に寄せる形になる。
「意識をこちらに向けろ。オレと繋がれ」
テメェならできるだろうと告げる声にはなんの感情も見えない。
「そうは、言われて、も……ッく!」
常ならば。己の身に刻まれた存在を媒介として意識を寄せるのはある程度容易かっただろう。
エミヤが英霊としてあるために必ず存在する因果は鮮烈な青。いまだに鮮やかな存在感を残しており、異質の輝きで身の裡にある。
だが今は、この場の魔力干渉に対抗するため、全てを拒否する形に精神と魔力を展開していた。それの一部に穴を開けるような器用な真似をするには余裕が無さすぎる。
「無理か」
抵抗しているはずの魔力防御さえ吸い上げられて溶かされていく感覚があり、ちりちりと肌が粟立つ。
この場に居るクー・フーリンはバーサーカークラスでの現界のため、狂化の影響で神性は低下している。それでも平然としているのは元来の神性が持つ対魔力というより、おそらくは直接身体に刻んだ身体強化のルーンを元の神性と相乗させて防御の役割を担わせているのだろう。
ならば。
弓兵は繋がれと言われた意味を正確に理解する。
「この状態では、な……外からでは無理だ。防御を緩めた瞬間に保てなくなる」
荒い呼吸をひとつ。このままではどのみちジリ貧なのはわかりきっている。策があるなら乗る以外にない、と考えた彼は僅かに視線を流した。
己の体は狂王の腕の中。すでに限界まで強化された彼の武装は大きく張り出した棘とマントが特徴的なため、すっぽり隠れている格好になっており、マスターである少年や盾の少女がこちらを伺うことはできない。
さすがに教育に悪かろうと、こんな時でもそんなどうでもいいことを考えてしまう自分に苦笑を落として、甘さの欠片も無い口付けを強請った。
ああ、と。簡素に応えた男が即座に青年の唇を塞ぐ。
とろりと流れる唾液は上質な魔力を含んだ彼の一部。喉が僅かに上下して内に落ちたの確認すると、弓兵が纏っている黒のインナーに己の武装の一部である爪を立てた。
胸元を切り裂き肌の一部を露出させる男に対し、青年は口を塞がれたままで、文句を言うこともできない。
「……ッ!」
僅かに口端から溢れた息が痛みを主張した。
露わになった胸元に鋭利な爪で直接保護と強化のルーンを刻み、唾液に乗せて流した魔力と呼応させる。夫婦剣を握ったままの青年は、抵抗の代わりに耐えるようにその柄を強く握りしめた。
無造作に流し込まれる魔力が、青年の心臓の上に刻まれたルーンを発動させる。
オルタのクー・フーリンは、工房内の魔力干渉に対抗するために自らの肉体を強化した。ただそれだけの結果を残して唇が離れる。
「できれば礼装を破くのは勘弁していただきたかったのだがね」
「直せる程度の魔力は渡しただろうが」
「そうだな。それは感謝しておこう」
切られた礼装だけを修復する弓兵はその下に刻まれた傷に触れず、また狂王の方も口を出さない。
実際助かったのだから文句を言える立場にはない。
体は軽くなっていた。目立った魔力の流出もなく、存在を脅かかされるような干渉も感じない。
なるほど、と。苦笑を落とす。
対魔力が高い状態というのは文字通り世界が違うものだとひとりごちて夫婦剣を魔力に還す。代わりに視力を強化して周囲を見渡した。
崩れかけた建物が多い場所だ。
見通しは良くないが、サーヴァントとしての身に宿る鷹の目はなにも実際の視力だけに頼らない。
魔力を視ることによって、細かいことはわからないにせよ、そこに何かがあることくらいは把握できる。
いつもよりもよく視える気がするのは、取り込んだ魔力を媒介に身体強化の恩恵に預かっている故だろうか。
「敵の位置は」
当然のように聞いてくる狂王にクロックポジションで答えを返す弓兵の口調は淀みない。
敵と思わしき魔力反応は二手にわかれていた。
移動の気配がないため、本命がどちらかは接近してみなければわからない。
「同時に仕掛けよう。私は囮になったあと援護に回る」
「ああ」
「はい。ではこちらは私が」
青の騎士王と狂王。それぞれ王の名を冠した身が、正反対の方向を見据える。
「マシュ嬢はこの場でマスターを頼む」
「了解しました!」
マシュの守りは信用しているが、敵が魔術師であるならば時間が経つほど危険度は高い。
行動は迅速に。何も言わずとも理解している全員の行動は必然的に無駄が削ぎ落とされて行く。
少年がまだ苦しそうに吐き出す声が合図。
「マシュもビリーもいるし、俺のことは心配しなくても大丈夫。みんな、行って!」
応と答えた三騎が地を蹴るタイミングは同じ。
この状況では半ば戦力外だろうビリーをも信頼していると言い切る少年に、エミヤは走りながら口元を綻ばせる。
勢いのまま見晴らしのいい場所に登って姿を晒せば、敵意が自分に向くのがわかった。
カチカチと耳障りな音を立てて、そこら中から竜牙兵が湧き出てくる。
どうやらまんまと釣られてくれたらしい。
手には長弓。選ぶ矢は使い捨ての幻想。引き絞って、放つ。青の騎士王が向かう先、魔力を視た場所に叩き込んだのは仕留める為ではなく、すぐに到達するであろう彼女が戦いやすくするためでしかない。
派手に起こった爆発に、向かってくる敵が気色ばむ。
「どうやら向こうが当たりのようだ」
視線を巡らせる端から放たれる矢は、淡い軌跡を残し、的確に敵の行動を阻害する。
強化の恩恵からか、だいぶ軽減されてはいるものの、矢を産むときにかかる負荷が平時に比べて高いのは、おそらく敵の結界内にいるためだと予想は付く。
対魔力がほぼ皆無なビリーは、いつものように戦いに参加することはできないだろう。
自分の矢も、彼の銃弾も、魔力で編まれていることには変わりがない。
だが、生前の癖なのか、予め一定量先に用意してある銃弾を再装填しながら撃ち出す彼がマスターの側にいるのは僥倖だ。その場で矢を産む自分では、コンマ秒ほどの差であろうが、この状況では彼の早撃ちにかなわない。
視界端で断続的に土煙が上がった。
オルタのクー・フーリンが向かった方角であることを把握している弓兵は、そちらは全て任せたとばかりに視線を外し、マスターの方に向かっていく敵を追うように矢をつがえる。次の瞬間、突如右腕に走った激痛に顔を歪めた。
「ぐッ……!」
どおん、と。派手な音が上がって、元から崩れかけていた建物が真実瓦礫に姿を変える。
土煙の切れ間に投げつけられたらしい朱槍が持ち主の手に戻っていくのが見えた。
つがえた矢を暴発させなかったのは奇跡に近い。
仕留め損なったはずの敵は、瞬きの間に、一つに重なって聞こえるくらいの銃声を後に残して姿を崩していた。
「無茶をする……が、やはりいい腕だ」
純粋な賛辞を零しながら右手を握ってみるが異常は欠片も無く、先ほどの痛みは幻か何かだったのだろうかと首を傾げる。だが、現状で結論を出すには情報が足りない。
まずはこの場の制圧が先だろう。
囮の役割は十分に果たしたと判断し、双剣を手にすれ違いざまに敵を葬りながらマスターの元に戻る。原因がわからない以上、再度の暴発は避けたかった。
「予定通り二人が接敵したのを確認した。あとは決着まで持ちこたえるぞ」
「了解です、エミヤ先輩!」
「きっつ……僕はもう役に立たないと思ってほしいなぁ」
それぞれの返事を聞きながらエミヤは弓兵らしからぬ剣捌きで攻撃に転じる。
盾の少女とはお互い長いこと一緒に戦ってきた相手だ。主に防御を担当する彼女と前に出て敵を薙ぎ払っていく青年の息はぴたりと合っていた。
さらには早々にリタイア宣言したにも関わらず、ビリーの手元からは時折銃弾が飛んで、マシュやエミヤの手が回らない敵を退けていく。
やられる前にマスターを落とす作戦だろうか。
敵が騎士王と狂王、どちらを相手にしているのかは不明だが、追い詰められてはいるのだろう。
無限とも思えるほど押し寄せてくる数を捌くのに精一杯で、じりじりと押され始めた頃に、唐突にそれらは崩れて消滅した。
同時に結界も消滅したのか、身動きするのも辛そうだった少年二人の顔色が多少回復している。
「やってくれたか」
まだ警戒は解かず、エミヤは素早く先ほど登った建物の上に跳躍する。
二方向から役目を終えたらしい二人が戻ってくるのが見て取れたが、それ以外に特に変わった様子はない。
ようやく安堵の息を吐くと、青年は地上へと戻った。
「……弓兵か」
「ああ、おつかれさま。怪我はないかね?」
計らずも帰還途中の狂王と合流し、両者とも少しだけ速度を落とす。
「なぜそんなことを聞く」
「なぜと言われても……先程狙撃中に一度邪魔が入ったのでね。私以外への遠隔攻撃の可能性を考えただけさ。気に障ったのならすまない」
実力を疑っているわけではないのだと告げて己の右腕に触れる。
原因に思い当たる節はないが、あの一瞬だけでその後何事も無かったことを考えると、狙撃を邪魔したかった敵の術者の攻撃である可能性が高いだろうか。自分だけだったならばそれにこしたことはないと笑う。
弓兵の言葉を聞いた男は、どこか忌々しそうに舌打ちを落とした。
「テメェはいらんものほど受け取りやがるな」
「どういう意味だ?」
問い返しても応えは無く。それ以上は言うつもりもないとばかりに速度を上げた男の背を追いながら青年は溜息を逃がす。別方向から駆けてくる騎士王ともども、マスターの元に戻ったのは同時。
「みんなおかえり!」
満面の笑顔で迎えてくれる少年にそれぞれ帰還の報告を渡す。
「ただいま戻りました、マスター。大丈夫ですか?」
「もちろん。マシュもビリーもエミヤもちゃんと俺を守ってくれたし」
「それはよかった」
ふわりと表情が溶けて笑顔が浮かぶ。
自分のためだけではなく、周りのために一番に守られることを許容している少年は、どんなに絶望的な状況になっても無茶に飛び出すことはしない。その代わりに自分だけ退くこともしないが、冷静に戦略的撤退を命じられればそれに従う。
基本的には指示をマスターに任せるサーヴァント達が、唯一己の主に発すことができるものがそれであった。
デミ・サーヴァントであり、半分は人であるマシュ以外のサーヴァント達は最悪レイシフト先で霊基が保てなくなるほど損傷したとしても仮初の座として機能しているカルデアのバックアップ機能により強制的に引き戻し、復元することができる。それは、便宜上は目の前の少年ということになっているサーヴァント達のマスターが、カルデアという施設の端末としての立場で契約しているからであり、加えてカルデアのシステムが絶えず全ての霊基を観測しているがゆえである。
そのシステムを通しての霊基復元は、実際のところは再召喚に近いものであろうとも、完全に同じものとして扱われるという点において、感覚的にはピンチになったら自動発動する令呪に近い。登録されている霊基パターンを元に復元された霊基はそれまでの観測結果を渡され、カルデアのサーヴァントの誰々、という識別に紐付いたデータによりひとつづきの霊基として復元される。
最悪の状態でもそういうものだ、というのが保証されているため、ただの一般人で、サーヴァント達を人と同じものとして見てしまう少年の心理的ハードルも多少下がる。
実際に戦闘をしている同行者が必要と判断した撤退指示はそれだけの状況であると確実に告げるため、彼らを信頼する少年が従わないということは無かった。自分だけでなく、マシュも害される確率が高いとなれば猶更。
かといって、戦闘が発生する以上、犠牲を経験していないわけではない。
レイシフト先で出会った、特異点となった土地そのものに召喚されたサーヴァント達や、その時代の人々。
失われるとわかっていて送り出さなければならないことは何度もあった。だからこそ彼は、既に失う覚悟を、悲しみを知っている。
騎士王と少年が会話している横で、カルデアとの通信を試みていたらしいマシュが無念そうに首を振る。
「繋がることは繋がるのですが……ノイズが酷くてとても会話できる状態ではないですね」
こちらの声が声として届いているのかもわからないと彼女は告げた。
「おそらく工房の影響がまだ残っているのだろう。この場に繋がれていた膨大な魔力が霧散しきるまではおそらく無理だろうな。私は移動と休息を提案するが……どうかね、マスター」
「うん。正直そのほうがありがたいかも。ましにはなったけどちょっとまだぐるぐるするし」
「はい、私も賛成です。その……顔色が優れませんから、少し心配です」
提案に少年少女が頷いて、今後の方針が決定された。

 2

この身の裡には獣が棲んでいる。
それは宿主が眠っている時に起き出して好き勝手に体内を泳ぎ回り、霊基のあちこちを味見するように啄んでは、満足したとでも言うようにまた眠りについた。

不思議な気持ちで覚醒する。
サーヴァントは夢を見ない。ではこれはなんだというのだろう。
目を開き、自然の流れで身を起こそうとして、果たせないことに気付く。
体勢はそのままに己の体の状態を探れば、僅かな欠損が霊基内部に認められた。
深く息を吐く。
夢ではなく現実のことだと認識する。
原因に覚えはない。夢だと思っていたものを思い返そうとするもうまくいかず、彼はすぐに諦めた。
代わりに、僅かな熱の欠片だけが思考を灼く。
「……ッ!」
右腕に痛み。声が零れ、同時に謎の拘束は霧散した。
ゆっくりと目を開く。
映ったのは記憶にある通りの白い部屋。カルデアで割り当てられた自室。
右手を握る。
特に変わった様子はない。
息を逃して彼は身を起こした。
マスターである少年に呼ばれていたのを思い出し、一通り己の体を確かめると、部屋を後にする。
指定された場所はシミュレーションルーム。
その扉の前で見慣れた姿と鉢合わせた。
逸らされず、真っ直ぐに合わせられた視線。両者は無言のまま、同時に扉を潜る。
入ってきた人影に気付いて先に口を開いたのは中で待っていた少年。
「あ! オルタ、エミヤ。呼び出してごめんね」
少しだけ眉尻を下げてへにゃりと笑った少年に応えた声は同時。
「問題無い」
「何か気になることでも?」
僅かに視線が絡むものの、それはすぐに逸らされた。
「うん、ちょっと……ね」
少年の手元にシミュレーター起動用のコンソール。
次の瞬間、辺りは一面瓦礫折り重なる灰色の街へと姿を変えていた。その街並みに覚えがある。
先日レイシフトしていた際に戦闘になった場所だと青年が気付いたのと同時。笑いを含んだ声が確かめたいことがあると告げた。
「君はキャスターか?」
シミュレーターが起動し、扉がロックされたのを確認したのか、ゆらりと少年は形を崩した。
代わりに立っているのは青の魔術師。
「おう。先に言っておくが、テメェらを呼び出したのはマスターで間違いないからな」
この状況が少年の許可済みであることを語る魔術師から揺らめく魔力は事前に設定していたであろう点と呼応して周囲を包み、ひとつの結界を作り上げた。
エミヤも、オルタのクー・フーリンも、その瞬間には己の武器を手にしている。
「ぐ……ッ!」
エミヤが呻く。
体が重い。魔力が抜け出て霧散していくようなそれに、覚えがあった。
「コイツは長時間やっていたいものでもねぇからなァ。巻きで行くぜ」
「な、にを……こんな……」
似合わない。あまりにも似合わない、周到に仕掛けられた暗い魔術。
「お前さんにとってはとばっちりだがな。ま、諦めろや」
似合わない魔術を行使しながらも鮮やかに笑う青の魔術師に、黒い風が朱槍を手に肉薄する。
コォン、と。
澄んだ高い音が幾度。波紋のように連続し、重なって響いた。
「おうおう。どこ見てんだよ。テメェの相手はこのオレだぜ?」
「邪魔だ」
力任せに薙ぎ払う穂先。相手の力を受け流して大きく後退するのは、魔術師の影から姿を見せた青の槍兵。
次の瞬間には後退した分の距離を助走に使って攻撃に転じている。
「ラン、サー……」
君まで、なぜこんなことを。
青の魔術師が構築した結界は、身動きを封じられるなどという生易しいものではない。
いつかと同じように防御しようと抵抗する魔力を片っ端から容赦なく剥がれて、その場に立っているのでも精一杯の弓兵は夫婦剣を握ったまま、己の胸にうっすらと残る傷に、礼装の上から触れた。
それは守護を担う意味をもつもの。
刻まれた文字そのものが意味を持ち、一度発動してもなお消えずにそこに残っている欠片に願う。
あの時ほど強くなくていい。矢除けの加護を持つ彼らに当たるとは思わない。だがせめて一矢、引けるだけの余裕が欲しい。
祈るように魔力を巡らせ、いつかの感覚を思い出そうと目を伏せる。そんな中でも容赦無く奪われて行く魔力。堪えきれずに片膝が床に付いた。
ぞわり。裡で何かが蠢く。
噛み殺す悲鳴。
呼応した守りが一瞬だけ魔力の干渉を弾く。その刹那を弓兵は逃さなかった。
両手の夫婦剣は中空に放られ、手のひらには黒い弓。
ぎち、と。つがえられた剣は瞬時に矢へと変じ、躊躇うことなく放たれる。
同時に。
狂王の手からも朱槍が離れた。
真名解放ではないものの、それは間違いなく呪いを孕む槍の一撃。
重なるようにもう一本の朱槍が空間を裂く。
どちらも狙いは。
目を見開いたままで、エミヤは右腕が壊れる音を聞く。
矢をつがえるために放り投げた夫婦剣はその手に戻ることなく、幻の瓦礫に突き刺さった。
「ばっかやろ……!」
声は、青の魔術師のものだったか。
弓兵が放ったはずの矢は、正面から狂王の牙に喰われ、あまりにも呆気なく崩れ去った。
魔術士の手元に強い魔力反応。いつのまにか弓兵の前に立った彼は、中空に幾つものルーンを描く。
無限にも見えるほど幾重にも重なったそれは、極小範囲の盾として連なり、投擲された槍の先端を押し留めた。
時間にすれば僅か数秒といったところだろう。だが、それで十分。
並走していたはずのもう一本の朱槍が狙いを変えて穂先を叩くのと、投擲直後から地を蹴っていた狂王が柄を跳ね上げるのが同時。
高く澄んだ音が悲鳴のように響き、弓兵に迫っていた牙は大きく回転して持ち主の元に戻った。
今の対処で結界が綻びたのか、それとも術者が維持のための魔力を手離したのかはわからないが、魔力干渉はいつのまにか消えている。
膝を付いたまま呆然とする青年の眼前に影が落ちた。
「オイ、テメェまでつられて正気失ってんじゃねェぞ、槍持ち」
「ワリィ……」
言い訳のしようもないとくるりと槍を回し、肩に預けた槍兵が大きく息を吐く。
「まあ、それでも目的は達したからな。事故くらいで済ませてやる。後で一本頂くがな」
最後のはおそらく部屋に置いてある酒の話なのだろう。
苦い表情ながらも反論しない槍兵を横目に、魔術師は弓兵の前に屈み込んだ。
差し出された手の上に一見すると水晶のような氷の欠片がひとつ。
「とりあえずはコレ飲め」
弓兵の喉からは声が出ず、視線だけで正体を問われた男は、軽い調子でテメェの魔力だと告げた。
唇に触れさせられた氷から慣れた気配。
言葉に偽りはないと確認して迎え入れれば、冷たさを感じないほどの一瞬で身に馴染んだ。
急激に戻った魔力に思考をかき回され、唇からは僅かに苦痛を滲ませた息が零れる。
さて、と。冷えた声。
「上脱げ。まさか嫌とは言わねぇよなぁ?」
軽い口調とは裏腹に有無を言わさぬ強さが込められた声音は、瓦礫の中で痛みを堪える青年の精神を撫で上げる。
沈黙は、ゆうに三呼吸ほどあった。
「……何の影響かは不明だが、今は己の礼装ひとつとってもうまく制御できる自信がない」
必要なら勝手に暴いてくれと。投げ遣りよりは悔しさの滲む声に、三対の熱を宿した焔の瞳が揺れる。対する青年は気付かないふりで、振り払うような瞬きをひとつ。
難儀なことだと零す魔術師は、こうなる原因を作った張本人だろうに、面倒そうに青年の胸に触れた。
思案するような空白の間に槍兵はシミュレーターの終了操作をしたらしく、あたりは無機質な箱の風景へと姿を変えていく。
その中央付近で蹲ったまま、荒い呼吸がひとつ。
「先に聞いておくが、右腕は動くか?」
「右腕?」
限定された範囲に疑問符を浮かべながらも腕どころか全身動かすのが億劫な青年は、この状況ならどこも一緒だろうと言葉を返す。
「そうじゃねぇから聞いてんだろ。なあ、オルタ」
呆れたような言葉は魔術師の背後から。
同意を求める相手も弓兵ではなく、さらにその後ろで眉を寄せているオルタのクー・フーリンに対してで、青年の疑問は深まるだけに終わる。
そもそもシミュレーター上の戦闘では、どれだけ派手に損傷しようが、本人には多少のフィードバックがあるのみのはずである。
ならば、先の戦闘の際の負傷など存在しない。
「特に右腕だけ限定して負傷した覚えもないが……」
壊れる音を聞いた。あれはどこからだったか。一矢放つことだけを考えていた弓兵は認識していない。
疑問を口にするくらいならば行動で示したほうが早かろうと己の腕を持ち上げようとして、果たせなかった。
「な、ぜ……」
「いやいい、わかった。脱がすぞ」
頷くことで了承すれば、伸びた指先が眼前で光の軌跡を描き、礼装に絡む。無意識に抵抗しようとする己を押さえつけて瞼を落とし、意識して深く息を吐く。
ふわりと魔力が解ける感覚があって、上半身が外気に触れた。ゆっくりと開いた視線の先、胸の位置に薄く残った傷跡。それ以外は特に外傷らしい外傷は見当たらず、青年は首を傾げた。
「さっき一瞬オレの結界を弾いたのはコイツだな」
「ああ。前回のレイシフトでの名残だ」
本来ならば弓兵が起動させられるようなものではないはずだが、そのあたりを探るのも己の役目かと魔術師は指先を触れさせる。その体勢のまま思案して、前振りもなく槍兵に声を投げた。
「とりあえずは軽くのほうが良さそうだ……千切れねぇ程度で頼むわ」
「あいよ」
軽く、などと言った割にその後に続く言葉が不穏。
風を斬り、軽く宙を舞う穂先を視界の端で捉えた瞬間に右腕から激痛が走った。
悲鳴はなんとか堪えたものの、反射的に痛みが走った場所に左手を伸ばす。だが、穏やかに青年の胸元の傷に触れていたはずの魔術師は、それを許しはしなかった。
視線を右腕に向けたまま、伸ばしかけの左手を掴まれ、押し留められる。
「悪いがそいつはダメだ。傷が見えなくなる」
「傷、など……」
「ああ。外見上はな」
ゆらりと焔の色が揺れ、濃い赤に金が混じったような色味の虹彩を目の当たりにして、青年はもう一度走った痛みとともに言葉を飲み込んだ。
魔術的な視界を付加した瞳。一瞬でそれを認識できたからこそ抵抗を諦めた彼は、呼吸が浅くなる己を自覚し、落ちかける瞼を必死に開く。
はた、はたり。血が落ちる。
裂けた右腕をそのままに佇む狂王は、次の穂先が腹に埋まっても動じずにただ緩く目を伏せた。
掴まれた左手を逆に握り返し、痛みを堪える青年は、何をやっているのかと問うこともできず、僅かに唇を開閉させて呼気を逃す。言葉にこそならなかったが、意図は魔術師に伝わったらしい。
ひとつ頷いた男は、とりあえず侵食は今のところ右腕だけかと実験の結果を読み上げるように告げた。
「おう、オルタのオレ。とりあえずこっち来いや。テメェのソレを治してどうなるかまで確認させろ」
「……ああ」
抜かれた穂先。大きく口を開けた傷から血が流れるのも構わず、告げられるままに近付いた狂王は、魔術師の手が届く位置で膝を落とす。
白い箱に戻った地面に、無造作に行動したことで流れ落ちた彼の血が引かれ、派手な染みを残した。
「とりあえず腹は関係ねぇな。そっちからか」
ちらりと流された視線は、青の槍兵と絡んだのだろう。
描かれる光の文字。
傷を付けられた時と同様に、塞がっていくことにも意識を向けないオルタのクー・フーリンは、ただその場で目を伏せたまま微動だにしない。
それを横目に伺う弓兵の腰を、背後から伸びた別の腕が絡めとった。器用に回され、位置を定める腕と足。体を開かせるような状態で固定されたのは、おそらく右腕に触れるなと先ほど魔術師から言われたことと関係があるだろうとあたりを付ける。
落ち着いてはきてはいるものの、今でも痛みは続いている。声を漏らさぬように唇を引き結ぶ青年には、問いを投げる余裕はない。
「うし。じゃあ次な」
予想だとめちゃくちゃ気持ち悪い感覚だからその場合は無理せず叫んだり噛んだりしていいぞと気休めにもならない言葉を投げられて、弓兵の眉間に皺が寄った。
オルタのクー・フーリンの腕に直接触れる光は保護と回復のルーンの形を成し、口を開けたままだった傷を塞いでいく。
痛みなど感じていないようにふるまう狂王だが、決してそうではないのだと、魔術師も、槍兵も知っていた。
現界する霊基が違っていても己のことだ。わからないはずがない。
彼らの師がかつて北米の特異点で口にしたように、狂王としてあるクー・フーリンは、自らの身が壊れるのを厭わず、ルーンで繋ぎ止めながら戦う。痛みは常に付き纏うもので、避けようとするものではないのだろう。
全力の投擲で壊れた腕は、そう定められた本人のルーンの力で八割方修復されていた。
魔術師の唇から呆れを含んだ溜息が零れ、同じタイミングで弓兵の唇からは苦悶の声が零れる。
槍兵は直感に従って咄嗟に青年の口に自らの腕を捩じ込んだ。
がちりと歯が食い込む。
「ぐッ……!」
流石に加減無しだとイテェな。
一瞬だけの悲鳴も、余裕がないらしい彼には届いていないようだと観察する。痛いと言いながらも平然と弓兵を押さえ込んだままの槍兵は、場にそぐわないほどのんびりとした声を魔術師に向けた。
「なー杖持ち。コイツが今こんなになってる感覚ってどんな感じなんだ?」
「そうさなあ……自分はなんともないって認識なのに、中身が勝手に治ろうとぐっちゃぐちゃに動いてるみたいな状態かねぇ」
「うへ……聞くんじゃなかったぜ」
想像できるものは欠片ほどだが、それでも十分に気持ち悪いことはわかる。
己の腕が突然別物になってしまったかのような違和感もあるだろう。
傷を負っている本人なら己の怪我の程度を己で認識できているため、痛みと不快感はあれど、そこまでの拒否反応はないのだろう。
弓兵がのたうち回る原因になっているのは、本人が己の腕は万全であると思っている、その一点にある。
さらに追加で重ねて描かれたルーンは魔術師が位相をずらしたことにより、表面ではなく腕の中、それこそ骨の内にまで触れて、戦闘のたびに酷使され、少しずつ修復の精度が低くなっている元の術式を強化し、細かいところまでを癒していく。
完全治癒にはまだ時間がかかるだろうが、そこはもう心配いらない。
痛みの因果関係を確認できたからには速やかに繋がりを絶つ必要がある。そう考えて動いた魔術師の白い指先は、見えないはずの糸を手繰るかのように宙を辿って弓兵の腕に触れた。
片手に持ったままの狂王のものと見比べ、いくつかの位置を抑えるように触れて、光を残す。
と、とん。
仕込みを発火させるように合図を送れば、槍兵の腕を噛んだまま耐えていた弓兵の体が大きく跳ね、その体を抑え込んでいた槍兵に体重がかかった。
今の術式の余波で気を失ったらしい。
槍兵は、耐える必要がなくなったために緩められた青年の口元から己の腕を回収する。
「はー……とりあえずこんなモンかね」
細かい術は性に合わないから疲れる、と。文句を零す魔術師が大きく息を吐いてそれぞれ片手ずつで触れていた腕を手放すと、そのままばたりと床に転がった。
軽い言葉に似合わず緻密な作業を強いられたらしい彼はごきりと肩を鳴らして目元を揉み解している。
「おう、おつかれさん」
己の肌をぴたりと覆う青の礼装を捲り上げて噛まれた傷の具合を確認する槍兵は、傍に倒れた魔術師に軽く労いの言葉を投げた。
己の傷に関しては、魔力が十分であるため特に問題にはならないだろうと判断して礼装を戻す。
青年を支えたままに気紛れを起こした彼は、外見上は全く変化が見られない弓兵の右腕をするりと撫でた。
「んで。結局コイツはオルタのオレの痛みだけを受け取ってる……ってことなのか?」
首を傾げながらもすぐに思い付くのは、被虐霊媒体質だと自らの身の異質を語った白銀の修道女。
「テメェが何を想像したのかは予想がつくが、そいつはちと違うな」
さすがは自分自身。考えることなどお見通しと揶揄するも、考えてもみろと流される。
槍兵は思考に身を沈めた。
支え直す際、僅かに傾けた拍子に顎先に当たった弓兵の髪がふわりと控えめに肌を擽っていく。
もぞりと身動ぎして隣に座りこんだオルタの自分を横目に確認してから思いついたことを声に出した。
「あー……そいや腕だけか。もっと深かったはずの腹の傷に関してはなんともなかったもんな」
己が知っている修道女が引き受ける苦痛は部位関係なく全て、という状態だったのを知っている。ならばやはり別物だとする魔術師の言葉は正しいのだろう。
「今のところ、って但し書きがつくかもしれんが、それは置いておくとしてだ。他に気付いたことはねぇのかよ」
「んー……ああ。そいや槍が」
先の戦闘を思い出す。
「引っ張られた。というかあれは……感覚的なもんだから上手く言えねぇんだが、弓兵を喰おうとした……のか?」
考えながら言葉に出せば、そういうことなのだろうと同意が寄り添う。
それはありなのかと問えば、現実なんだからありなんだろうとどこか投げ遣りな言葉とともに溜息が落ちた。
そうかとだけ返した槍兵は傍に放り出したままの朱槍に視線を流した。海獣の骨を元にした呪い孕むそれを、今のところキャスタークラス以外のクー・フーリンは共通して扱う。先の会話の途中で魔術師も告げたが、今のところと但し書きが付いてしまうのは、現在ですら四人も同時現界している現実と、大小関係なくなにか事件があるごとに別側面とやらが増えゆくこのカルデア式召喚の特殊性によるところが大きい。それこそ、クー・フーリンに至ってはほぼ全てのクラスに適正があるのだから、いつセイバーやらライダーやらといった別霊基の自分が増えてもおかしくはない環境なのであった。万が一そうなった場合でも伝承に従うのであれば海獣が混ざり込むことはないだろう。
そんな状況の中で、本来の伝承とはかけ離れた存在で現界したオルタの己を思う。
「この考えに正直自信はねぇが……オレは槍として持つだけだが、オルタのオレの場合、在り方の問題で完全に同化しちまってる面があるから、か?」
狂王として成立しているオルタのクー・フーリンの構成要素の一つが朱槍の元となった海獣自身であるというのは最初に相対した時から把握できた。彼らの直感を肯定するように、彼が持つ宝具は呪いの朱槍ともうひとつ。
真名解放の際に槍の元となった海獣の骨格を纏う姿が示す通り、彼のあり方にはメイヴの願いのままに戦い続ける獣としての側面が付加されている。
理性を喰らい、邪悪な王として戦いに駆り立てる獣が融合していることで、バーサーカーとして現界していながらも本来の伝承とは掛け離れた姿としてこの場にあった。
伝承に即した本来のバーサーカーとして召喚されるくらいならこちらのほうがマシとまで反転していない本人に言わしめた彼は、発端であるメイヴの聖杯への願いから切り離され、当初の予想を裏切る形でマスターの忠実な槍として日々を過ごしている。
一人で戦い続けることは、生前から死後までを含め、どのクー・フーリンにも等しくかけられた呪いだが、近しくなったものを死に導くのもまた、呪いの一種としてそれぞれに紐付いているのだろうか。
一人の戦場。
その呪いに僅かに風穴を空けたのは今のマスターである少年だった。一人のはずの戦場に、他人が寄り添う。
魔術も歴史も神話にすらも疎い一般人の彼は、敵として相見えたオルタを疑うことなく別側面のクー・フーリンとして受け入れてこのカルデアに招き、本来ならありえないはずの、バーサーカーのクー・フーリンという伝承上の存在を上書きしてしまった。
それは燃える冬木の地で、キャスターとして出会った彼にも当てはまる。
クー・フーリンと言えば槍兵、もしくは剣士という前知識など欠片もない彼は、別れ際の言葉を咀嚼できず、そのままキャスターとしてこの場に招いたのだ。
己の体験に基付く、無意識ゆえに言葉にすることもない絶大なる信頼。それに水を差すほど青の魔術師は愚かではなく、おそらくは一度限りだったはずの奇跡の続きを享受することを選んだのは自然の流れ。
自ら存在をもって触れ合った英雄達をそういった在り方の者達なのだと受け入れ、そのままカルデアに召喚してしまう稀有なほどお人好しで柔軟な思考を持った少年は、敵味方関係無く数多の英霊を招いてきた。
その彼は、導く者として最初に呼ばれたキャスタークラスのクー・フーリンが、その役割に則り助言として与えたたったひとつの言葉を常に心に置いている。
「サーヴァントってのは、どんな言い方をするにせよ要するに使い魔だ。それをどう扱うかはマスターであるお前さん次第で、それにオレは口を出さない。ただ、一つだけ覚えておけ」
召喚されたサーヴァントはなんであれ、マスター次第で毒にも薬にもなるような、そんな不確定な存在なのだと。
その意味を違えず実践したからこそ、少年はかつての敵であろうと等しく戦力とすることに成功しているのだと言える。
「そうさな……安直ではあるが、乱暴に言ってしまえば、元になった海獣を取り込み、その力を己の一部として利用してるってこったろ?」
認識が合っているかとオルタの己に視線を向けるも、目を閉じたまま微動だにしない彼は、問いに答える気はないらしい。
代わりに肯定したのは魔術師だった。
「ああ。お前さんとオルタとの違いはそこだろうさ。さっき外から見ていたが、槍による攻撃は両者引っ張られて弓兵を狙ったからな。槍っていう元が同じものがとった反応は同じだったわけだ」
それならあとは本人の中に違いがある。
続く言葉の半分はオルタの自分に向けられてはいるものの、応えがあることは期待していない色が伺えた。
「元は自分と変わっちゃいねぇ。が、クー・フーリンを狂化させて戦場の王として成り立たせるために使われているのが例の獣なんだろ。だとしたら、それが霊基に深く根差しているのは自明だな」
逆に言えば、だからこそクー・フーリンとして存在している男は、ゆっくりと伏せていた目を持ち上げた。
狂気に堕ちたというには足らない。他人に作られ、贈られた設定がその表面に見え隠れする。
「なるほどな。色々腑に落ちたぜ」
常に霊基を獣と奪い合いながら現界してやがんのか。
オルタという存在として主体になっているのは、はたしてクー・フーリンか、それとも海獣のほうか。
「なんのことだ」
「とぼけてんじゃねぇよ。自分のことならそれくらいわかんだろ」
淡々としたオルタの態度に舌打ちを落とした槍兵が苦く言葉を逃す。
別の霊基としてわかたれていたとしても、どいつもこいつも嫌になるくらいクー・フーリンだと、付帯するのは特大の溜息。
「原因が原因だ。槍持ちどもには任せておけんから弓兵はオレが預かるぞ。時間稼ぎにしかならんだろうが追加の措置もしておいてやる。その間にテメェは己を定めろ」
突きつけられた杖の先、しゃらりと揺れた飾りに反射した光が視線を上げたオルタの瞳に写り込んだ。
繋がる先に細められた魔術師の焔の瞳。
無言の警告を自分自身に向けた男は、次の瞬間には表情を崩して口端を上げた。
何か言うことが有るかと問えば否定が返る。
それなら解散だと告げた魔術師の言葉に従い、彼らはそれぞれ立ち上がった。

 3

夢を見る。
中心にあるはいつも特定の姿を持たない黒の獣。
姿を崩したそれは、一陣の風になり、一切の躊躇なく敵を喰らい尽くした。
ぴしり。
腕に、脚に、腹に。
器の制限を省みない戦闘に耐えきれず、悲鳴を上げた肉体は崩れようとする。
それを押し留めるのもまた、黒の影だった。
砕けた骨を固め、千切れた肉を繋ぎ、ばくりと口を開けたひび割れを埋めていく。
存在すら不確かなはずのそれが、己の裡にいるものだという確信がある。
敵を屠り、同時に器の霊基を侵食していくもの。
意識が浮上する気配がする。
ひやり、心臓が冷えた。

目を開けた先にあるは赤く燃える球体と、棺にも見えるいくつものコフィン。耳に届くは機械の駆動音。全体的に抑えられた照明の中に端末のものだろう光が瞬く。
その間にダ・ヴィンチの顔が割り込んだ。
「うん、大丈夫そうだね」
声をかけられて、強制送還されたのだと弓兵は悟る。
「マスターは?」
「心配無い。小さな王様達も含めてちゃんと離脱したよ」
「そうか……くっ……」
気を抜いた瞬間に唇から零れるのは苦痛を滲ませる声。
「霊基パターンの復元自体はできているけど、随分と深く霊基を削がれたからね。今の君は外側を取り繕っただけの状態だ。無茶は禁物だよ」
「……承知した。マシュ嬢が犠牲にならなかっただけよしとしよう」
あの二人はどちらが欠けても世界にとって危ういと感じる。それは予感。
「それに関してはボクからも感謝を」
割って入った第三者の声は僅かに震えていた。
それ以上は口にできないと言うように唇を引き結んだドクター・ロマニの表情は蒼白に近い。
一目で彼が何に耐えているかはわかったが、特に指摘することは無く、エミヤは彼に向き直った。
「すまないがドクター、私が帰還していることはしばらくマスターには黙っていてくれないか」
「それは……!」
一瞬、感情のままに荒げられた声を拳を握りこむことでなんとか逃して、ロマニは眦をきつくする。
「自分と契約してくれているサーヴァントは霊基が保てなくなってもカルデアに戻ることで完全消滅を回避できる。それは彼が戦っていく中で、非情な決断をしなければならない際の一縷の希望みたいなものだ。それを、揺るがせと君は言うのか」
そうなった時の彼の動揺は想像に難くない。
「いや、逆だ。ドクター」
今の私の数値を見て欲しいとエミヤが告げるのと同時。ロマニの眼前にダ・ヴィンチの手とタブレットの画面が滑り込む。
「な、なんだコレ! ぐちゃくちゃもいいとこ……むしろよくこの状態で霊基を維持してられるね!?」
「そういうことだ」
戻っているという状況を伝えれば安心はできるだろう。だが、今の私の状態では彼らが帰還した時に逆効果になりかねない。これが楽観視してた部分のツケということであれば、戦闘に出るのを承諾した私に非がある。
そんな風に理由を告げて苦渋の表情。
確かに。槍を持つクー・フーリンが一緒でなければ戦闘行動に支障はないとしたエミヤを、今回のレイシフトメンバーに選んだのはマスターである少年自身であった。
少年の心中と、それに伴う行動はわかりやすい。
間違いなく強制送還という事態を招いてしまったと悔いながらも残りの戦闘を乗り切らなければならない彼に、あまり心配をかけたくないと弓兵は告げる。
はあ、と。派手な溜息が落ちて、少しだけ冷静さを取り戻したらしい現責任者は、取り乱したことをまず謝罪し、続けて青年の要請を請け負った。
「胃の痛い話だけど、しばらくっていうからにはそんなに時間を置かずに解決するアテがあるんだよね?」
「もちろん。原因になるものの心当たりは一つしかないからな。まあ、これ以上悪化させないうちにドルイド殿の助言を受けにいくとしよう」
助言より先に叱責が落ちそうだが、その程度は甘んじて受けるべきだろう。一人で大丈夫かとの問いには問題無いと返して。逡巡の末に続く言葉を絞り出した。
「ドクター……マスター達を、頼む」
「……もちろん。だからこちらは任せて君は君自身の対処に集中してほしい」
「承知した」
自分はここから動けないのだからできることをするだけだと笑って告げる医師が、素人同然の少年を戦場に送り出すたび、人の身に余るほどの恐怖を抱えながら瀬戸際に踏み留まっていることを知っている。
行動が可能な者と、ただ見守らなければならない者。どちらがより辛いかなど比べる必要などない。どちらもそれぞれに負うものがあり、それ故にどちらも同じだけ辛いのだ。ただその種類が少し違うだけ。
正面から合わせた視線の強さにお互い安堵して、目の端を僅かに緩ませた二人はそれぞれ踵を返した。
ドクター・ロマニは管制室の己のデスクへ。
そして弓兵は廊下に出て、自らが告げた通りキャスターのクー・フーリンの部屋に向けて歩き出す。
まだ夕刻前であるというのに、珍しいほど廊下に人の気配は無く、しんと静まり返っていた。
「く……っ」
半ばまではきた、と思った瞬間。不意に膝が崩れる。人目がないことも祟ったのかもしれない。
辛うじて廊下の端に身を寄せた弓兵はそのまま壁に身を預け、ずるずると体勢を崩して倒れ込んだ。
乱れた息が磨かれた床を湿らせる。闇に落ちていく視界と意識、その端にふわりと花の香りが紛れ込んだ。
『困ったね。調子に乗って少し手を出しすぎたか』
人気の無い廊下に弓兵以外の姿はない。にも関わらず、涼やかな声が彼の意識に届いた。
声は花の香に紛れながらも夢を繋ごうと告げ、それらはますます弓兵の意識を鈍らせる。
ふ、と。
完全に意識を闇に落とした弓兵の隣で、なにかの気配だけが苦笑を落とした。

廊下の隅に倒れている人影はぴくりとも動かない。
固く瞼を落としたままの姿に表面的には苦痛がないのを見てとって足を止めた男は手にした杖で床を鳴らした。
コツ、コツリ。
その行為はノックにも似ている。
「ダメか」
カツン。
一際強く打ち付けて様子を伺えば、ふわりと花の香りが動く。男の目が細められて何もないはずの空間を睨んだ。
『乱暴だな君は。そこまでしなくてもちゃんと聞こえているよ』
「……紳士的な態度がお望みなら最初から相応の態度を取れよ」
『おやおや、随分とご立腹だね』
声には随分と楽しそうな色が滲む。対する青の魔術師はあからさまに不機嫌という声を投げた。
「そうさせてんのはテメェだろうが。ったく……やっと納得いったぜ。どうりで幻を追ってる感覚なわけだ」
影でコソコソするのはやめたのか、と。嫌味を混ぜた問いには、さも当然と言わんばかりにまだまだするけどとの応えが返る。
一瞬遠い目になるのくらいは許されるだろう。直後に大きく息を吐いたのは、仕切り直しの意味を含んでいる。
「んで? そいつになんの用だよ」
『別に傷つけてはいないけど?』
「んなもん見りゃわかるわ。傷付けるのはアンタじゃねぇよなあ?」
言葉には棘。細められた男の瞳には逃げを許さぬ苛烈な焔が宿る。
やれやれ、と。苦笑と呆れを混ぜた声に続くのは、信用ゼロだなあとというのんびりとした感想。
『とりあえず本当に傷付ける意図は無かった、ってのは納得してくれるかい? 確かに最初につついて起こしたのは私だけど、この状況はさすがに想定外なんだ』
だからこそ多少責任を感じてわざわざ出張ってきたのだと告げる。
いいだろうと応えを投げて、男は多少険を落とした視線を空間に投げた。
相変わらず姿はない。それでも少しだけ緩んだ空気がゆるく渦巻いて次の言葉を待つ。
たっぷりと時間を置いた後、気配を探っていた男の唇から溜息が零れた。完全に警戒を消し去った彼は、後ろ髪を掻き回してその場にしゃがみ込む。肩に預けられ、床を撫でた杖の先がからりと音を立てた。
「とりあえずそういうことにしておいてやるさ。で、出張ってきたからには理由くらい言って行くんだろ?」
『うーん……まあ、君相手なら構わないか。今、何かできるような話じゃないからね』
いいよ、と。至極あっさりと頷いた気配は彼には観測者になって欲しかったのだと理由を告げる。
カルデアでの召喚は特殊で、同人物の別側面が現界するのは珍しくない。だが、それはここだけの話だ。
『ここのマスター君の性質もあるとは思うんだけどね。だけど、それを知っているのは今この世界では彼と、それを取り巻く少人数のスタッフだけだ』
そして人間は遅かれ早かれいずれ死ぬ。さらにこの特異性を外に出すわけにはいかないと考える彼らは、たとえ人理を修復できたとしてもそれを周知することはなく、秘匿する道を選ぶだろう。
声が告げる事実にはどこにも不審な点はなく、また同時に問題があるとも思えない。
男は首を捻った。
「それになんの不都合がある? サーヴァントってのは信仰と伝承が力になる存在だ。それならば弱っちい別側面がホイホイ出てこられちゃ困るだろうが」
例えば。たとえ適正があるとされていても、キャスターとしてのクー・フーリンを、多くの人はうまく思い描けない。同じ理由でバーサーカーとして召喚されるなら、伝承にある通りの化け物じみた姿のほうになり、狂王としてある彼にはならない。
『今回に限って言えばそれじゃ困るんだ。私はまだ人が作るこの織物を見ていたいからね』
「……どういう意味だ」
『簡単だよ。君や獣の彼が現界する可能性を上げたい、ということさ』
まるでなんでもないことのように言い放つ声に、男は眉を顰めた。
声は語る。
己に近しい者は特に問題無い。最古の王は自分でなんとでもするだろう。ケルト勢に関してはもはや人の道を踏み外した影の国の女王が第一候補。
『ただね、彼女ではどうしても足りないものがある。それがあの街の存在だ』
たかが極東の、地方都市。だが、それだけのはずの街にしては聖杯への縁が深すぎる。
土地そのものに、そして聖杯と世界に。絡みつくように幾つもの因縁で雁字搦めになっている青年が一人いた。その彼が一番適任だったのだと声が続けて、聞いているだけの男は首を傾げる。
確かに。他と比べても、あれだけあの土地に因縁のある者もいないだろうことはすぐに理解できた。
先に上げた人物を一人ずつ思い返せば、彼らに共通することで、思い当たることがある。
「……この世界の時間軸の外に別側面の具体的な記録を持ち込ませたい、ってコトか?」
ほんの一握り。この箱舟に生き残った人間達だけでは足りないということか。おそらく自分は記録される側だと理解できる男は疑問の声を零す。
くつり。声はなく、気配が笑いを伝えた。
言葉による明確な肯定は無かったが、それ故に確信を突いていることを伝える態度。
おそらくこれ以上は何も言わないだろうとわかってしまう。まためんどくさいことをと溜息を落としながら立ち上がった男は会話の終了を宣言する。
そろそろ構わないかと声を投げれば、続く沈黙。
気配が薄くなったことで目の前の存在が夢に潜っているからだと予想できる。そのまま待てば、何かの合図のようにふわりと花の香りが戻った。
『彼もだいぶ落ち着いたみたいだし、おそらく大丈夫だと思うよ』
「了解。んじゃま、アンタもせいぜい気をつけな」
いかんせんそいつに胃袋掴まれてるヤツが多いんでな。穏便に話し合いをするにしても骨が折れるったらねぇぜ。
ぼやきには楽しそうな笑いと確認のための疑問が返る。
『結界を解いた瞬間が危ないって?』
「自明だろ?」
『あ、やっぱりちょっと待っ……』
「遅えわ」
とん。
軽く振られた杖の先が見えない壁に触れたのと応えとが同時。
その一瞬後には男の横を黒い風が駆け抜けた。
いくら広めに作られているとはいえ、立ち回るには狭いだろうカルデアの廊下の端で、器用にも壁まで到達させることなく朱槍の先が空間を薙ぐ。
ぶわり。何もないはずのそこから白い花弁が散った。
「この気配……以前会ったな」
胡散臭い野郎だ。
黒い武装に朱槍を引き寄せた乱入者から零れる声に熱は無く。獣の直感が即座に対象を特定する。
心外だと告げる、姿が見えない人物の返答は言葉とは裏腹に笑いの気配を滲ませていた。
「オルタの方か。槍持ちはどうした?」
コツリと床を鳴らすオルタと呼び掛けられた黒衣の男の靴底に、悪戯をするように花が咲く。
無言で足元を一瞥した彼は、先程まで魔術師がしていたように誰も居ないはずの空間を睨んだままで、応援を呼びに行ったと告げる。
「あー……ってことは本気でオレの結界破ろうとするくらいキレてたってことかよ」
『なにそれこっわ!』
中での会話は外には聞こえていないはずだ。それでも、彼らは野生の勘とも言えるものをもって中にいる魔術師が何かと会話している空気は見て取っただろう。
後少し結界を解除するのが遅れていれば、本気モードの自分二人に踏み込まれていただろうことを考えればぞっとしない。
同じことを考えたのだろう。本当に会話するのも一苦労だと笑われて、うるせぇと文句を返す。その二人の間に、物騒な朱槍が翻った。
「そいつを返せ。それはオレの獲物だ」
『おや、それは本当に君の意思?』
一切の愉悦を捨てたはずの獣が。
揶揄うような言葉の裏に真意を確かめる鋭さが覗く。
「テメェに答える必要があるか」
ふわり。
唐突に眼前に舞った花弁は素早く動いた槍の先に切り裂かれた。
『怖い怖い。それじゃあ悪い魔法使いは退散するよ。お姫様の呪いの後始末は自力でよろしく』
ころころとした笑い声が花の香に紛れる。待てと言いかけたオルタをキャスターが制した。
「無駄だろ。アレはそういう類だ」
「……ああ」
もはや声の主の気配が欠片も残っていないのを確かめ、朱槍を消したオルタは壁際に倒れている弓兵の呼吸を確認する。次いであちこち触れて負傷の具合を確かめてから、引き上げるようにして担ぎ上げた。
意識の無い相手への動作は丁寧で、戦闘中の激しさは欠片も見てとれない。
黒い獣。メイヴが生み出したクー・フーリンのありえないはずの姿。だが、時折。ああコイツは確かにオレだと思う瞬間がある。自分がそうなのだ。槍持ちのほうも同じだろう。そしておそらくはいつの間にか深い縁を持つようになってしまった弓兵も同じことを思うに違いない。
そこまで考えてしまう自分に対し、溜息とも自嘲とも付かぬ曖昧な声を零して、後髪を掻き回した。
オルタに抱え上げられた弓兵に触れ、霊基を確かめる。
名乗らぬ声だけの人物に告げられた通り、状態は少し落ち着いていた。
ドクター・ロマニと弓兵のやり取りを見ていたらしいオペレーターの一人が、自己判断で一方的な状況説明とデータだけを情報端末に送ってきていたが、ざっと見たところそれよりは格段にマシという状態。
魔術師の素養もあるその人物は、やりとりを見て準備が必要だと判断したのだろう。実際、送られてきた情報を目にした時は頭を抱え、急いで必要になりそうなものを準備した。そこまでしても来るはずの人物が到着しないことに業を煮やして飛び出してきたのだが、用意した追加の処置はしなくてもなんとかなるだろう。
何よりも。連絡を受けていた自分と違い、オルタと槍持ちの彼は自らの直感と意志をもってここに来たのだ。それが何よりも彼らの在り方を示していると知れる。
腹は決めたってことでいいのかと問えば、さあなと他人事のような応え。
だが。声には僅かな苛立ちが滲んだ。
「気に食わん。それだけだ」
「いいさ、それで」
方法は既に伝えてある。ならばあとは彼自身の問題だ。
万が一正体を失うようならぶっ飛ばしに行ってやると軽く請け負い、戻って来るはずの槍兵を待って魔術師はその場に一人。
弓兵を抱えた黒い獣を笑みすら浮かべて見送った。

 4

ゆらゆらと意識が揺れる。まだ夢の続きかと思った瞬間に強烈な痛みが右半身を灼いた。
「……ッ!」
「起きたか」
僅かに目を開いた先に見えたのは白の肌。小さく響く靴音。視界はぼやけて狭く、何度瞬きを繰り返しても変わることはない。
僅かに伝わる振動は移動をしているためか。痛みに支配されているせいで極端に鈍った頭で思考する。
突然ぐるりと視界が回り、ぼやけてはいても見慣れた白い天井が映った。背中に柔らかな布の感触。
は、と。途切れがちの息を吐き出す。
「どの辺りまで侵食されている」
あまりにも熱を孕まない声に、それが問いであることに気付くのが遅れた。
聞き慣れた声。無駄を排した物言いで、それがオルタのクー・フーリンであることを認識する。漏れる苦鳴に荒い息が重なって開閉するだけの唇は、問いの答えを紡ぐまでにもどかしいほどの時間を必要とした。
「さて、な。痛みの範囲で言うなら右半身、だが」
己で把握していないのかと告げられ、右腕が持ち上げられる気配。痛みに眉を寄せ、狭くなった視界に己の指先が映った。濃色の肌ではわかりにくいが、斑らに黒く染まった箇所が見て取れる。それは視界そのものというより感覚で見たという方が正しい。
思わず零れたのは乾いた笑い。
おそらくは。それは、見た目は悪いものの決して不快なものではなく、むしろ己の形を留めるためにそうなっている、ということはすぐに理解できた。
「この霊基がそこまで壊れかけだという自覚は……確かに無かったな」
もともとそれを相談するためにキャスターのクー・フーリンの元に向かっていたはずだ。
痛みに邪魔されながらも記憶を辿るが、花の香が意識を掠めて思考を霧散させてしまう。
「テメェが把握していないなら仕方ねぇ。直接確認するが構わんな」
「私は動けそうにないのだが、任せても?」
「扱いに文句を言わねぇならな」
過去に文句を言ったからだとわかる会話に笑う。痛みを堪えたそれは酷く不恰好だが、男は気にすることなく青年の礼装に手をかけた。
一瞬悩んだらしいそれが赤の外套の留め具を丁寧に解く様子に痛みも忘れて思わず吹き出す。
「破って構わんさ。ここは戦場じゃないからな」
辛うじて上に纏っていた比較的緩い赤の礼装を剥く動作ですら全身に走る痛みは強く、さらに肌にぴたりと張り付くタイプのインナーは、今の状況では真っ当な方法で脱げる気はしない。
かといって己で魔力に還せるとも思えない青年は緊急処置を許可した。
「……相当痛むか」
「そういうことだ。だが特別気を使わなくて構わない」
痛みには慣れている。
特に意識もせずに投げた言葉に手を止めた相手を伺う。どうかしたかと続けて問いを発せば無言のまま伸びた武装の爪が喉元から慎重にインナーを切り裂いていった。
「上は半身ほぼすべてか。下は?」
「確認したければ構わんが……おそらく同じだろう」
青年はそれが必要なことなら拒否する選択肢はないと告げ、男は頷いて下衣に絡むベルトに手をかける。目視で確認したいという意図を察してされるがままの弓兵は、無言のまま痛みに耐えることを選んだ。
衣擦れの音。痛みのせいで反射的に跳ねる体を押し留めようと躍起になる。
そこまでして耐える必要は無いと告げられるが、素直に声を上げられるならこんな風にはなっていないだろう。
「そうは、言っても。不用意な動きは、作業の妨げになるだろう」
合間に息を詰めるため、途切れがちになる言葉は、自らのものだというのに聞き苦しいという感想が先に立つ。
大人しく黙っておくべきかと悩んだところで男の動きが止まった。
下着を残して取り払われた衣服。体を起こせぬ青年には確認しようがないが、検分するように視線を移動させる様子を伺えば、どの程度の状態かは予想がついた。
「予想通りかね?」
「ああ。これは……足りねぇな」
「足りない?」
疑問の声には短い肯定が返り、ぽすんと軽い音と共に落ちて来た円筒状の物体が青年の視界の隅に光の欠片を滑り込ませる。
「狂王……?」
見上げる先の男が、その色合いから上半身の武装を解いていることが察せられた。珍しく髪留めまで一緒に外したらしく、自由になった髪が重く垂れて首元を撫でていく。
そこまでぼんやりと視線で追ってから、先ほど落ちて来たのは髪留めだったかと悟った。
朧げな視界の中、そうして髪を流しているとキャスターに似ている。やはり同じものなのだ、と。完全に働いていない頭が余計なことばかり考えるのに内心で苦笑して同時に痛みに顔を顰めた。
「文句は聞かん。いいな」
耐えると言うのなら動くな。
状況の説明はしない男に疑問符を浮かべたまま頷く青年は次の瞬間に大きく瞳を見開いた。
軽く開かされた脚。影響が無い左の腿あたりを軽く跨ぐようにして身を乗り出している男の手に、見慣れた朱槍が出現する。
無造作に掴まれた夜空を溶かした髪の先がするりと遊んで青年の胸元を擽る。次の瞬間にそれらは根元から切り離されてはさりと落ちた。
「な……」
言葉を発する暇など無く、塞がれる唇。続けて翻された穂先は青年の胸元に寄せられる。
形を崩したそれが男の腕と混ざり、鋭い爪を形作って。いつかのように肌に直接刻まれるのは変化と始まりを告げる文字。
「ッ……あ!」
流し込まれた唾液に含まれる魔力と力を持つ文字に触発された体は熱を持つ。発火したような半身の感覚に、無防備に喉を晒すように仰いてはくりと空気の塊を飲み込み、押さえ込まれた体を痙攣させる。
耐えるのに必死な青年は気付かない。
無造作に胸元に落とされていた男の髪の束が光となって溶け消え、青年の半身を覆うように首元から足先まで絡みついて、連なる朱の模様を描く。
呼応するように浮き出た右腕の模様と同じそれは、以前に青の魔術師が種を撒いたもの。
灼かれるような熱と痛みはしばらく続き、青年の呼気を大きく乱した。
そうして。
過剰な熱が引いていくと同時に強く意識を阻害していた痛みが抜け、ぼやけていた視界が開かれる。
乱れた呼吸はゆっくりと正常へと戻っていくものの、衝撃に耐えきれなかった弓兵の意識は落ちてしまっていた。
「……弓兵。オイ、アーチャー」
「……ぁ?」
「気付いたか」
問いともつかない声が落ち、意識を飛ばしていたことに気付いたものの、まだぼんやりとする頭を振って現実に戻ろうと思考を手繰り寄せる。
「まだ痛みはあるか」
「いや。少し熱をもっている気はする、が……」
痛みはもうない、と。絡むような熱を含んだ息を逃しながら告げる。
体を起こそうとしているのを察したのか、首の裏に回った腕がそのまま背に滑って支えてくれたために、さほど苦労せずに身を起こし、戻った視界で己の体を見下ろすことに成功する。
「……これはまた、随分と派手なことになったな」
右半身、おそらくは首元から腕の先、足の先までを覆うように鮮やかな朱の模様が踊る。左胸、心臓の位置にはまだ乾かぬ血と残されたルーン。
「馴染めば色は消える。気になるならしばらく礼装でもなんでも上に着込んでおけ」
「キャスターと同じことを言うのだな、君は。同じものだと思っても?」
「ああ。杖持ちの術の範囲を広げて活性化させた程度のものだ。そうは保たねぇだろうよ」
だが、先にそれをしなければ会話もままならなかっただろうと続ける男に、青年は目を瞬いた。
「確かに、どうにも思考が霧散していたな。今は……まだ多少は影響があるようだがだいぶマシなようだ」
ゆると気を失う前の記憶を手繰る。
傍に放られたままの己の礼装に手を伸ばせば、どこかで嗅いだ花の香りが鼻腔を擽った。
「夢を……いや、夢と呼んでいいのかはわからないが、ここ最近繰り返し見る光景がある」
黒い獣に食い散らかされる夢だ、と。
語る内容とは裏腹に恐れも焦りも滲ませず、ただ事実を告げる声音が落ちる。
「そいつはオレの姿をしているか」
応える男の声も同じくらい平坦で、熱を感じさせぬ音。
「……そうだな。そうとも言えるし、そうでないとも言える、といったところか」
身動ぎした拍子に乱れた息は熱を孕み、背を支えるためにすぐ傍に寄っていた肌を湿らせる。
腕を取られて強く引かれた先は男の胸の中。
深く背後から抱き込まれるような体勢はどこか気恥ずかしいが、抵抗できるほど体の感覚は回復していない。
じわり。直接触れ合った場所から魔力が染みる。
「アレに何を吹き込まれた?」
「さて、君が言っているのは誰のことだろうか」
思い当たる存在はいくつかある。弓兵が首を傾げる空気を察したのだろう。もふりと頭の上に顎を乗せる気配と器用に尾の先に引っ掛けたシーツを差し出されるのが同時。
「……お姫様の呪いの解除とやらを押し付けていったいけ好かねぇ野郎だ」
「聞き間違いだと信じたいのだが、もしやそのお姫様とやらは私のことかね?」
弓兵の眉間に深い皺が刻まれ、応える狂王の声には楽しんでいるらしい気配が見え隠れする。
「他に誰がいる」
「こんな大男を捕まえてその呼称とは……かの人物はどうにも老眼が進んでいると見えるな」
「違いねぇ。だが」
するりと。
シーツに包まれた胸元に触れていく指先が示すのは確かに存在する呪いの在り処。
早急に必要なことは確かだと静かな声音が先延ばしの限界を告げる。
「一つ、聞いてもいいだろうか」
静かに落とされた弓兵の声は動じた気配を纏わず、仰いた視線で男を捉えた。
絡まった視線に促す色が見えたのに安堵して続く言葉を吐き出す。
君は己の存在のためにかの獣を殺すのか。
問いは、自分を喰らおうとする存在を問うもの。
「いいや。オレがオレである限りありえねぇよ。だが、アレが喰っていいのはオレの霊基だけだ。テメェを喰うのは[[rb:クー・フーリン > オレ]]だからな」
己を戦闘に掻き立てる海獣に明け渡す気はない。弓兵を獲物と定めたのはクー・フーリン自身であって、槍の呪いはその付属物に過ぎないと宣言する言葉。
くつり。青年の口端が上がる。
これはまた随分と。言いかけて野暮かと自ら言葉を飲み込んだ彼は、代わりに自らの胸元に触れている男の手に己の手を添えた。
重なる右手。
「まあ、私も他の者に喰われる予定はないがね」
「知っている」
「では喰らってみるがいい」
もちろん、君の意志がそこに無ければ殺してでも逃れるが。そんな風に、鮮やかに笑う青年の言葉はわかりやすい挑発。
「上等だ」
「私の中の獣を君に返そう。だが一つだけ、我儘を聞いてほしい」
ほとんど息と変わらぬ音でそっと忍ばせる我儘に男は目を見開く。
「それでいいんだな?」
「ああ」
因果のひとつ。彼を彼として呼ぶもののひとつ。
史実も、伝承の中の本来のバーサーカーも知らない。このカルデアで最初に見えたのが彼だった、だからこそ。
バーサーカーのクー・フーリンはこうなのだと、己に定義するもの。その欠片を僅かに。そのままこの裡に留めてくれと彼は願った。

「い、ア! も、う……ッ!」
これ以上の快楽は意識が持たない、と。悲鳴じみた喘ぎが篭った熱が沈む空気を揺らす。
「ああ、いいぜ。全て寄越せ」
エミヤ。
名を呼ばれただけで体が震える。
「ひぅ……ッア!」
絡めた右手はそのままに、腹を掬った尾で腰を上げさせて。躊躇うことなく可能な限り奥まで先端を潜らせる。
「深、ぃ……ん!」
押し付けるようにゆっくりと動く欲望を、すでに感情が受け入れてしまっていた。
解かれていない下肢の装甲がむき出しの肌に触れる。
男の腰に巻き付くようにせり出したそれは爪のような形状で。深くなる動きに合わせて先端が青年の肌を刺す。
快楽と痛みの恐怖の間。それでも決して傷にはならない程度の接触。
ギリギリにある意識が焼き切れそうだと喘ぐ声。
「与えようとするな。ただ、受け入れろ」
オレもそうする。
宣言は、快楽を追う己の在り方を示し、同時に青年にもそれを求めるもの。
自分ばかりではないかとの心配は不意に繋がった気配に否定された。
快楽の共有。
どくりと内で欲が弾ける気配がして、男が達したのがわかる。
意識せずとも擬似的に繋がったパスから奔流のように流れ込んだ青の魔力がエミヤの身にある異質な魔力を喰らい尽くし、押し流していく。
「ひぅ……ん……ッ!」
内から全てをかき混ぜられるような感覚は人の精神には過分にすぎた。青年の無意識は後孔をかき回される感覚へと置き換える事で精神を逃し、守る選択をする。
そんな変化を認識しているのか。一度出した男のほうも動きを止めず、己の体液で動きやすくなった内を搔き回すようにして何度も穿つ。
粘着質な水音が溢れ、それに重なるように掠れた声が願うのは解放。
クー・フーリン。
ただ名を呼ぶだけの音に応えた男は前に指を絡めて首筋に歯を立てた。
どこまでも変わらず、急所を許す青年にもたらされるのは淡い愛咬によるもどかしいほどの刺激のみ。内を奥まで満たしたまま、全身を絡めるように回った尾に押し付けるようにして扱き上げられた青年の前が欲を散らす。
巡った魔力は男の元に喰らい尽くした獣の残滓を齎し、青年の裡には人として受け止めた快楽を残した。
行為にというよりはその後に巡った魔力に散々いいようにされた体は、疲労というよりは酩酊の色を強く纏う。
身を起こすどころか腕ひとつ動かすのも億劫なほど消耗した彼は、諦めてシーツに懐く己を許した。ぼんやりとしたままの視線が勝手に追うのはひょこりと動く尾の先。
淡々と後処理をする男に全てを任せているのは心苦しいが、物理的に動けないのではどうしようもない。
汚れたシーツはすでに取り替えられ、体も拭き清められているが、ふと思い至ったかのように額と首筋に触れた男のてのひらに、息を吐く。
どちらにもまだ熱が篭っていた。

どうしてこうなった、というのが最初の感想。
復帰後の試運転、兼、調整のためのレイシフトだったはずだ。
もちろん、戦闘行動に支障がないことはシミュレーターで証明済み。
今回の同行はマスターをはじめ、ロマニ、ダ・ヴィンチら管制室の面々からもきちんと了承を得ている。
またひとつ、突撃してきた機械仕掛けの敵を薙ぎ払って赤の弓兵は周囲を見渡した。
どうしたって物量に負けている。おまけに相手は疲労も苦痛も、恐怖も感じない鉄の塊だ。
それが大挙して押し寄せているこの状況はどうにもこうにも分が悪い。
今回は、機動力に優れるライダークラスのサーヴァントもいないため、一点突破で離脱をはかることもできない。
戦端は等間隔に三箇所。ちょうどマスターを守るような形で正三角形の頂点の位置。
ひとつは赤の弓兵、エミヤ。手数で薙ぎ払うため、他と比べれば小型ではあるが、圧倒的な敵数がひしめいている位置を選択した。
ひとつはフィオナ騎士団の一番槍。輝く貌の二つ名を持つ槍兵、ディルムッド・オディナ。ひらめく二槍は比較的大型の敵を確実に屠っていく。
最後に戦場の黒い獣。際限なく眼前の敵を喰らい尽くす反転した狂王、バーサーカークラスのクー・フーリン。大小の別なく全てを相手取り、いかにも彼らしく単騎殲滅を想定した戦い方。
視界を転じれば、それぞれの先端からの中心にあたる位置にマスター。その傍には雄々しく盾を掲げるマシュと、キャスタークラスのクー・フーリン。
マシュの防御と、キャスターのルーン魔術に阻まれて、前線で戦う三人がいくつか撃ち漏らしたとしてもマスターの元までは届かない。
だが。包囲されているという状況の上、現在の立ち位置は障害物もない荒野のど真ん中。
加えて相手が生身ではないため、損害を繰り返しても撤退するということをせず、ただ愚直に向かってくる状況では、もはや殲滅しきるしか道がない。
打開のための一手が必要だった。
「エミヤ!!」
警告を孕むマスターの声。他の個体に紛れていてわかり難いが、ディルムッドが相手している群の中にこちらを狙う個体がいるのが見て取れた。
背にある噴射装置を起動しての急接近。さらにそこからゼロ距離で腕の機銃を起動し、相手の無力化を狙う行動が瞬時に予測できる。
青年が把握できる限りでは三体が同様の体勢。
「くっ……!」
大型の機体が飛び上がる。同時に己が相手をしていた小型機械のほうにも攻撃体勢で囲まれているため、移動にも制限がかかった。
すべて捌ききれるか。判断は一瞬。
手にした双剣に魔力を通し刀身を変形させる。短剣としては不恰好に伸びたそれで周囲を薙ぎ、いくつかは破壊。いくつかは逃れて後ずさったのを確かめて、流れるように弓へと持ち替える。
放つ矢は二本。一つ足りない。
こちらへ向かってくる大型機体は三体だが、それ以上は生み出した隙が保たないと判断する。再び双剣を握った弓兵は、己が放った矢が命中したことを疑わず、顧みない。
勢いを盛り返して迫る周囲の機体を牽制し、飛び込んでくる三体目はそのまま双剣で捌く。その影、に。
「な……ッ!?」
四体目がいた。
銃口が上がる。その狙いは弓兵本体ではなく、右腕。
堪えるのも間に合わなかった苦鳴が落ちた。
血の尾を引きながら動いた弓兵は無事な左手で四体目を叩き壊し、蜻蛉を切るように飛び上がった先からいくつかの剣を投げつけて簡易的な壁を作る。
すぐに破壊されるだろうが、時間を稼ぎたい。
着地先は今まで戦っていた場所とマスターがいる場所との中間。
「エミヤ、腕!」
「来るな、マスター。私なら問題無い」
今この場に必要なものは大軍を一撃で葬れるもの。
宝具は封じられている。無理矢理展開することは可能だが、マスターの意志を無視することは本意ではない。
意識して深く息を吐く。
次に唇が紡ぐのは彼が魔術を行使するときのお決まりの言葉。無事な左手に莫大な魔力が集まる。
「これを借りる日がくるとはな」
魔力の中から取り出されたのは見慣れた朱槍。
ひゅん、とひとつ。風を切って、槍が鳴く。
「ああ……こんな贋作でも、その力の一端を託してくれるのか」
ありがたく使わせてもらおう、と。その表情はどこか嬉しそうで。
荒野となっている周囲には強い風が吹いている。
ばさりと弓兵の礼装の端がひるがえるその隣に黒の影が並んだ。
風に嬲られる礼装が二つに増える。
「テメェ、そんな芸当もできたのか」
「おかげさまでね」
最も、あまり出したくはないが。
縁を刻み、魔力を交わし、大元の獣を裡に抱えるがゆえに、贋作といえども真に近く。
苦笑をのせた表情には、それでも自らが作ったものへの自信が見え隠れする。
狂王の瞳が僅かに眇められた。
「杖持ち!」
「わーってる、っての! 坊主、嬢ちゃん、走れ!!」
示す先はディルムッドの戦場。盾を構えたままの少女が先行し、その後ろを少年が駆ける。さらにその後ろに続く魔術師がいくつもの火球を飛ばして一人奮闘するフィオナの槍兵を援護しながら合流。
陣形が崩れたことで押し留められていた敵が混ざり合って迫った。
立ちはだかるは赤と黒の影二つ。その手には全く同じ形の槍がある。
先制は黒の獣。
自らの槍を引いて、真名解放と共に投げつけるそれは対軍宝具として無数の棘に分裂し、押し寄せて来る機械の波を縫い止め、容赦無く破壊する。
その屍を乗り越えて第二波が迫った。
「チッ、足りねぇか」
よこせ、弓兵。
「待ってくれ、私の投影品では……!」
「問題ねぇよ。これで十分だ」
「……承知した。君に預ける」
本来ならば、エミヤの投影品はランクが一つ下がる。だがそれで十分だと彼が判断したならば。
軽く投げられた槍はオルタの手に収まり、弓兵の魔力の高まりに呼応して陽炎のごとく空気が揺れる。
血色の輝きを纏う槍は美しい、と。そんな余裕などないというのに場違いな感想を抱くのは仕方ないだろう。
「上等。真名解放、合わせろ」
「承知」
二人の声が重なる。
贋作とはいえ、使い手は真。そして本来の名とともに撃ち出されたそれは、先のものと同じように無数の棘にわかたれ、残った敵を余すことなく穿ち、縫い付けた。
その真に迫る威力に、むしろエミヤのほうが呆然とした表情を見せる。
損害はあわせて七割。いや、八割ほどか。彼らがもたらした攻撃により、敵はほぼ壊滅と言ってもいい。
双方ともかなりの魔力を消費したが、これならば残りはディルムッドとキャスターでなんとかなるだろう。
肩で息をするエミヤは今更ながら思い出した腕の痛みに顔を顰める。
「片腕を持っていかれたのか」
問う声音は平坦。
いつもと変わらない男の様子に思わず笑みを返す。
本来なら一呼吸も置かない宝具の連射などありえない。投擲のたびに破壊される彼の腕が千切れ飛ばなかっただけ奇跡だと言える。
知っているからこそ、次に紡ぐ言葉は苦い。
「それは君とてあまり変わらない状況だろうに」
「違いない」
痛みの共有はすでにないが、お互い激痛の走る右腕を僅かに触れさせる。
密やかな口付けにも似た行為は誰の目にも入らず。彼らは何事もなかったかのように振り返って、ディルムッドとキャスターが奮戦する戦端を視界に捉えた。
「行けるか」
澄んだ高い音が響き、次の瞬間には狂王の手の中には投擲したはずの朱槍が収まっている。
「誰に対して言っている。アーチャーではあるが、私の扱う獲物は弓だけではないぞ」
弓兵の左手には馴染みの夫婦剣の片割れ。
くつり。笑みを交わした彼らは同時に踵を返してそれぞれ残敵の掃討に移った。
直撃は免れた敵であっても、衝撃波による横転や味方同士の激突は避けられていない。
「敵はすでに限られている。一気に叩くぞ、マスター!!」
「うん! でもエミヤ。その前に、回復!!」
ほんの少し、足しになる程度だろうと言いながらも、少年は自らが纏う魔術礼装の機能を行使する。
エミヤの身に光が絡み、腕の傷が僅かに回復するのがわかった。痛みはまだあるが、剣が握れないほどではないと判断し、夫婦剣のもう一刀を投影。感触を確かめれば、無理はあまり効かないものの問題無し。
勢いのまま前衛に上がるエミヤと交代するようにキャスターのクー・フーリンが下がる。
大部分の戦力を削り取られた機械兵達は、物量で押せなくなったこともあり、勢い付いて暴れまわる三騎の前には為すすべもなく削り取られていく。その後は、さほど時間を置かずに片が付いた。
それぞれ周囲の警戒と武装の確認をこなし、ついでだとばかりに崩壊した部品を選別し、素材になりそうなものを収集する。
「……こんなところか」
「エミヤ、またそんなことして……腕は大丈夫?」
だいぶ派手にやられていたけれど。心配そうに覗く少年に、立ち上がった弓兵は問題無いと笑みを返した。
「ああ。先ほどの回復も効いているからな。あとは魔力が戻れば大丈夫だろう」
「ならいいけど……ああでも、さっきのすごく格好良かったなあ。エミヤの用意した槍を投げたオルタ」
例の件は本当に解決してよかったと。気の抜けた笑顔を見せた少年に素直に同意を示す。
本来ならばあんな使い方はできないはずだとは口にしなかった。次の機会はおそらく無いだろう。
青年は気付かれないようにそっと己の胸に手を添える。
右腕に負った傷はまだ痛むが、戦闘は終了し、魔力の流れも問題ない。回復は時間の問題だろう。
トラブルはあったが、目的は果たした。おまけに素材も手に入った。ならばもう長居をする理由もない。
「帰ろう、エミヤ」
「ああ」
戻り際、風に乗って耳に届くありがとうの言葉に。それはこちらのセリフだと返して。
仮初ではあるが、確かな居場所を感じられるくらい時を過ごした天文台へと彼らは帰還した。