Kiss Me Quick

 北米の砂漠地帯に存在する一大都市、ラスベガスを模して造り上げられた特異点は今日も嫌というほど晴天。
 一切の容赦もなく照りつける日差しが乾いた大地をさらに焦がしていく。
 暑い。ただひたすらに暑い。ほぼ同時にぼやいた同じ顔の三人は鬱陶しげに空を睨んだ。
 いくらサーヴァントであっても活動に支障がないことと快不快は別のところにある。
 まして夏だ。
 たとえプールや海に潜って涼んだとしても陸に上がれば変わらない。逆に体が冷えた分だけ日差しが暖かく感じるもので、下手をすれば日焼けという名の火傷まったなしである。いや、これもサーヴァントの身には関係のない話ではあるのだが。
「なんだってこんなところまで来て自分と顔突合せにゃならんのだ」
「だったら逃げとけよ。俺は止めねぇぜ?」
「逃げても無駄だろありゃ」
 もう何度目かのぼやきは順にキャスター、プロト、ランサーと呼ばれる同じ真名を持った男達から発せられたもので、主に彼らをそう呼ぶのはマスターである少女だ。
 その真名をクー・フーリン。
 アイルランドの光の御子とも称される彼らだが、掌をぱたぱたさせてほんの少しの風を汗ばんだ首筋に送りながら指定されたホテルに向かう足取りは重い。
「そいやオルタはどうした?」
 さっきまでいたよな、と。空から周囲に視線を巡らせたキャスターが首を傾げる。
「あー、会話してる間に突然消えたぜ。ありゃおそらく権能による強制召喚だな」
 応えたのは最後尾を歩いていたプロト。
 先頭を歩いていたランサーが、首を動かすのすら億劫そうにしながらも振り返ってオルタだけ呼び出しなら自分達は用済みではないのかと喜色を隠せない声を落とす。
「そうだとしたら楽でいいんだが、どうもイヤな予感がするんだよな」
 溜息とともに吐き出されたキャスターの呟きに反論する声はなく、代わりに諦めたような溜息がふたつ。
 ドルイド様の言葉は重かった。
 彼らはやっとの思いで目的のホテルのロビーまで繋がっているショッピング・グルメエリアの通路に入り、待ち望んだ日陰と冷房を満喫しながら目印として告げられていた場所を探す。
 ほぼ強制とはいえ、約束は約束である。彼らの在り方を考えれば、待ち合わせ場所にちゃんと行ったという事実は必要であった。
「温室……って言ってたがもしかしてアレか?」
 あちこちを見回した先。
 言葉の響きからは首を捻る造形物だが、確かに植物で彩られていることには違いない場所を見つけて歩を進めた。
 どうやら予想は的中したらしい。
 現在位置は階層で言えば二階であるが、敷地が広大であることと、高層ビルを支えている部分にあたるため、内側に入ってしまえばほとんど窓は見当たらない。
 だが、そこは異質なほど光に満ちていた。
 上部は大きくカーブを描いたガラスとなっており、そこを通過したぶんだけ柔らかくなった光が落ちている。
 プレートで確認しても、その下一帯が温室と呼ばれている場所で間違いないらしい。主に造形物と植物を使用して季節ごとのディスプレイを行っている場所だと説明書きがあった。
 現在は妙な形の噴水を中心に石や木の柱に植物が絡み、その間を水が流れる涼しげな展示内容となっている。
 噴水といっても水が噴き出す形式ではなく物体の表面を流れていくタイプのものだ。
 三人の間に本当にここでいいのかという空気が漂う。
 それもそのはず。揃ってメインの展示物の前に立った彼らは黙り込み、顔を見合わせて眉を顰めた。
 遠目に見ても妙な形だと思ったが、近寄ってみればその異質さはより顕著。ただし、誰が作ったのだという問いは野暮だろう。
 なにせここは特異点なのだから。
「すげぇな。どう見ても魔神ちゅ……」
「言うな」
 プロトが口にしかけた言葉を遮り、頭を抱えて溜息を落としたキャスターは軽く眉間の皺を伸ばすように揉んでから顔を上げた。
 視線を転じても特に暇を潰すようなものはなく、同じ顔が三人も並んでいれば目立つことこの上ない。
「肝心の女王サマは来るのかねぇ」
 意識して沈黙を守っているナンパモードの時ならともかく、イケメンと言われる容姿を台無しにするようなおっさんじみた言動と、明らかに待ち合わせとわかる仕草に気後れするのか、近寄ってこようという強者はいないらしい。
 それでも気にはなるのか、遠巻きにこちらを眺めている人垣の向こう側がさざめいた。
 ご登場か。ランサーの呟きと同時に人波が割れる。
「よかったわ。全員ちゃんと来たのね」
 誰か一人でも逃げていたら即座に蜂蜜の権能で呼びつけていたところだと、物騒なことを鈴を転がすような声音でのたまう人物は予想通り、水着姿に霊基を変えた女王メイヴその人である。
 渋々ながら付いてきたらしい狂王とも呼ばれるオルタのクー・フーリンは、つい先ほど彼女の言葉が本気で実行できるものであることを身をもって体験していた。
 揃ったクー・フーリン四人が並んだのを見て満足そうに頷いたメイヴは、拒否は許さないと言わんばかりの満面の笑みで全員を見回す。
 先んじて戦闘に喚びつけてしまったオルタは除外するとしても、他の三人はきちんと指定した通りの正装であることを確認してテンションが上がったらしい。
「ねぇ、クーちゃん。ゲームをしましょう」
 弧を描いた唇から零れ落ちた声はころりと響いて男達の耳を打った。
「ゲームだあ?」
 代表するように返したのはランサー。
 ええと応えるメイヴの唇からちらりと覗いた舌がゆっくりと縁を舐める様子は艶かしくも肉食獣を思わせる。
 絶対にわざとだなと意見を同じくした男達は特に感情を動かされることもなく、どこか投げやりな様子で彼女が手近な噴水の縁に足を掛けたのを見た。
「ええ、ゲームよ。ルールは簡単。マスターが私からあのスカサハを借りている間、この街で鬼ごっこをするの」
 履いているのは高めのウェッジサンダルのはずだが、器用に狭い縁に立った女王は男達よりも高くなった背丈から提案を落とす。
 意図を理解している男達はあえて見上げることもしないが、そのままでは話が進まないことも確かで、代表するようにキャスターがそれはゲームになるのかと声を上げた。
「ええ、もちろん。だってそうじゃなきゃ八つ当たり……もとい退屈しのぎにならないもの」
 蜂蜜酒の権能による強制召喚は使用しない。逃げてばかりでは疲れるだろうから隠れてやり過ごすのは自由だが、一箇所に居続けられるのは最高でも二時間程度でそれ以上は街のどこかにランダム転送。
 ひとつ、ふたつと指を折って挙げられていく条件は確かに本気になれば逃げ切れるだけのものだと判断できた。
 特に強制召喚の有無と、一時的にしろ隠れて休憩できるというのは大きい。
 なにせ魔力も無限ではないのだ。
「そうねぇ……あとはやむを得ない理由で他の誰かに付き合っているところだったら例外的に捕獲しないであげる」
 証拠は示してもらうけどねと可愛らしく告げるも、内容は全く可愛くない。聞きたくはないが聞いておかなければならないと意を決してキャスターはもう一度声を上げた。
「それで、捕まったらどうなるんだ?」
「もちろんその場で私の戦車に招待するわ。この意味、わかるでしょ?」
 今は水着姿のため、本来のライダークラスからセイバークラスに霊基を変えている彼女は、本来ならライダー時の宝具である戦車を持たない。
 だが、その程度で彼女の本質が損なわれることなどないのだ。彼女ができると宣言するからにはクラスの違いなど些細なことで、それこそどうにでもなるのだろう。
 これには特にメイヴに苦手意識を持っていないはずのプロトですら半歩下がったが、それよりも派手に反応を示したランサーとキャスターのおかげで知られることなく済んだ。オルタに至っては無反応である。
 ターゲットとされた男達に拒否の道は残されていなかった。ならばあとは逃げ続けながらスカサハ・スカディがマスターの用事から解放されるのを待つしかない。
 今日中なのか数日かかるのか。期限がはっきりとしないところが恐ろしいおいかけっこの幕が上がる。
「じゃあ早速スタートといきましょう。十数えたら追いかけるからよろしくね」
 語尾にハートマークが見える宣言をした女王に対し、男達の反応は早かった。
 彼女が十の最初の音も言い終わらないうちに素早くアイコンタクトで無言の意思疎通をした彼らは全員が別方向に走り出す。
 余裕の微笑みさえ浮かべてゆっくりとカウントを進める女王の周囲にはその存在と声に魅了された人々が群がりつつあったが、己がそこに存在するだけで落ちる男に興味などない彼女はそれらを綺麗に無視した。
 スリー、ツー、ワン。
 テンカウントが終了する。
「興奮してきたわ……それじゃあはじめましょうか、アルスターのクー・フーリン」
 蜂蜜色の声が狩りの開始を告げる。
 女王は己の直感のまま、最初の獲物を追って噴水の縁を蹴った。

 男は走っていた。
 狭い路地を抜け、汗をきらめかせながらホテル外周通路の屋根を疾走する。
「クッソ……真昼間に外なんか走り回るモンじゃねぇな」
 気分だけでもとジャケットはとっくに脱いでシャツの裾を引き出し袖は捲っているが、それらが慰めになることはほとんどない。
 時折ビルの出入口から吹き出した冷房の名残の風も、ほんの少しの汗をさらっていく程度の働きしかせず、心なしか疲労が蓄積していく。
 それが今回の現界に付随するものなのかこの特異点の特性によるものなのかの判別もつかないが、彼は勢いのままホテルとホテルの間に軒を連ねているショッピングモールに飛び込んだ。
 屋内の施設は強めのクーラーが稼働していて外との気温差がかなりあるが、風邪などとは無縁の身には心地良い。
 歩調を緩め、適当な店で水を調達し一気に呷る。外にいる間に抜けていった水分が満たされた気がした。
「あー……シワになっちまった」
 知らずに握り締めていたジャケットは少しだけよれていて、服装に煩い者に見つかれば小言間違いなしだが、仮にそんな事態になっても男がダメージを負うことはないのだから徒労に終わるだけだろう。
 案の定、男はシワになったことは認識してもまあいいかとそのまま抱え直して少しでも涼しい方へと歩を進める。
 涼めるだけでも御の字だが可能ならば一服したいという思いからだ。
 屋内に足を踏み入れた時からほのかに漂う煙草の匂いを追っていけば、ショッピングエリアを抜け、カジノエリアに入ろうかというところ。あと少しというところでピタリと足を止め、そのまま回れ右をして来た道を引き返す。
 ふふ、と。歌うような笑みの気配が届いたことで、だらけていた歩調は自然と早まり、ほぼ早歩きに近くなったところで予感は確信に変わった。
「見つけたわ。ちょっと若いクーちゃんだったわね。さあて……どこに行くのかしら?」
 ほんの一瞬のことだというのにしっかりと把握されたらしい。声こそ届かなかったものの、悪寒が止まらないことでそれを察して、男は必死に思考を巡らせる。
「逃げきれねぇか……ちとやべぇな」
 歩調はともかく表情は平静を装ったまま。前を見ながらも状況を打開できるものを必死で探す。視界の端で捉えたのはカルデアの食堂で見慣れた姿で、同じ真名を持つランサーやキャスターの自分としょっちゅう戯れあっている存在である。
 決断は一瞬。
 メイヴの戦車に連れ込まれるくらいなら多少の無体を働いて殴られるほうがマシだろう。彼にとっては災難だろうが、背に腹はかえられないと判断して一足で捕獲できる距離を測る。
 サーヴァントを捕まえようというのだ。全てはタイミングが勝負で、失敗は許されない。
 彼が不意に方向を変えて近くの店に入らないことを祈りながら急ぎ足を進めた。
「エミヤ」
「おや、歳若い方のクー・フーリンじゃないか。顔が怖いが何か問題でもあったかね?」
 短い呼びかけはそう響くものではなかったが、知っている顔に気付いた青年が穏やかな口調で疑問符を飛ばす。
 足を止めた彼の手を引いて柱の影に引き摺り込み、問答無用で唇を合わせた。
「……っ……んぅ……なに、を」
 説明は後で。息だけで囁き、急いでお互いのシャツを乱す。一般人への配慮なのか、いつもの礼装ではなく、黒のシャツに同色のボトムスという格好で助かった。黒ずくめの組み合わせにツッコミたくもなるが、今はそれどころではない。
 女王の楽しそうな鼻歌はすぐそこまで迫って来ていた。
 するり。控えめに唇の合わせを舌先で擽れば意図を察した青年は一瞬の躊躇の後で静かに迎え入れる。
 お互い、いい体格の男同士だ。本気で抵抗されればこんな風に受け入れられることはない。
 驚きはしただろうが嫌がってはいないことに安堵する。
 そんな気配が伝わったのか、笑いの振動とともに逆に舌を差し入れられて驚く。青年は唾液を纏わせたそれを深く絡め合わせながら掌で首元から胸元までを辿り、男は仕返しとばかりに尻から腰にかけてを撫で上げてやる。
 お互い喉奥で堪えた笑みを意識的に無視して深い口付けを続ければ、柱の向こう側でわざとらしくかつりとヒールで床を踏む音とともに可愛らしい文句が上がった。
 追い詰めたと思った相手が自分で約束した捕獲対象外の状態になっていたのだ。プレッシャーを与えることだけは忘れずに、それでも潔く踵を返した彼女の足音が遠ざかるのを聞きながら、男は脱力しつつ舌を引く。
「まったく……状況は今のでなんとなく把握したよ。私に対する一連の無礼は不問にしてやるからさっさと行きたまえ。彼女に捕まりたくないのだろう?」
 呆れた様子を隠さず、だが柔らかく笑ってそんな言葉を掛けられれば返す言葉もない。謝罪から入るつもりの言葉を封じられて、男は微妙な表情で眉を下げた。
「……助かった。埋め合わせはする、必ずだ」
「ああ。楽しみにしているよ」
 もう一度穏やかに返された声に奥歯を噛み締める。
 言い訳も謝罪も飲み込んだ彼は、一枚のカジノチップを取り出し、軽く握り込んでから投げ渡した。
「持っててくれ」
 リクエスト券の代わりだと告げたそれにはルーンが刻んであるため、もうチップとして使うことはできない。
 くつと声を殺して笑った青年は、男の意図を正確に読み取って、返す際にしてほしいことは考えておくと笑った。
 手の中でくるりと回してみせたそれが、契約成立と受け取って淡く光を帯びる。
「気をつけて」
「おう。じゃあな」
 その場で別れ、柱に寄り掛かったまま去っていく男の背を見送ったエミヤは、深く吐いた息を追うようにその場に座り込んだ。
 顔を覆う手をしばらく外せそうにない。
「……彼もクー・フーリンだということを、こんなことで実感したくはなかったのだがな」
 改めて溜息とともに言葉を逃して、青年はしばらくその場に身を隠していた。

  ***

 どんな出来事があっても一度引き受けた仕事は待ってくれない。
 柱の陰に蹲ったままでどうにかこうにか思考と感情を立て直し、頼まれていたプールのあるホテルへと向かう。
 マスターは相変わらず忙しく、それこそ特異点中を駆け回っているが、大多数のサーヴァントにとっては特に手伝えるようなことがあるわけでもない。
 ならば少し遠くから見守っている程度の距離感がいいだろうと決めたものの何もしないというのも性に合わず、結果的に日々ささやかなアルバイトをして過ごしているのが今のエミヤの現状であった。
 夏らしくというのもおかしいが、現在のアルバイト内容は広大なプールでのライフセービングである。
 頭を空っぽにしたまま更衣室に入った彼は、水抵抗を減らすためぴっちりと肌に密着した水着に着替え、その上に規定の上下を纏ってプールサイドへと足を向けた。
 水着はともかく、その上に羽織っている規定の服装は支給品だ。遠くから、あるいはそのまま水中に入っても目立つようにと複数の警告色を使った服には慣れないが、必要であることも理解している。
 このホテルは豊富なプールが売りのひとつで、いくつもの趣向を凝らしたプールが点在していた。
 流れるプールと波の出るプールの間にはバーカウンターが設置され、近くのチェアやカバナには飲み物を運ぶ給仕役が忙しそうに行き来している光景もいつも通り。
 エミヤは彼ら彼女らを横目に指定の場所へと登り、プールの中へと視線を移す。
 待機場所はかなり高くにあるが、目のいい彼にとってはむしろ全体が見渡せてありがたい環境であった。
 高台にある待機場所は他のものと違って、よく見かける椅子に屋根がついているような形ではなくある程度の足場と救助用具各種を置いておける広さををもった四阿のような形状となっている。
 柵などは設置されていないため、見晴らしがいい反面安全性には疑問が残るのだが、ここを利用するのはエミヤかそれでなくとも目のいいサーヴァントに限られるため問題にもならないのだろう。
 側面には流れるプールに一秒で直行できるスライダー状の専用通路も付属していた。
 もっとも、魔力放出によるブレーキをかけなければ勢いよくプールの側面に激突しかねない代物なので、欠陥品と言われても反論できない造りではあるがそこはそれ。特異点である場所で真面目なツッコミをするのも野暮かと早々に思考を止めていた。柱に掛けられた温度湿度計付きの時計を見れば一番緊張する時間がもうすぐ。
 エミヤを始め何人かはこの時間のために雇われていると言っても過言ではない。
「……そろそろか」
 徐に準備運動を始めたものの監視業務は怠らず、視線は忙しくあちこちのプールの中に向いている。
 ポーンと高い音が響き、続けてゆったりとした女性の声でアナウンスが入った。
「流れるプールはこの後、名物である激流プールのお時間となります。泳ぎに自信がない方はプールから上がって見学を。カーブ近くは危険ですので近寄らないようにお願いいたします。また、保護用のパネルがせり上がりますのでご注意下さい」
 毎回聞くたびにそれが名物でいいのかと問いたくなるのだが、人間の身には厳しくともサーヴァントの中には楽しんでいる者がいるのを知っているため、水を差すようなことは言うべきではないだろうと口を噤んでいる。
 屋外のために聞こえにくいというのもあるだろうが、遊びに夢中になってアナウンスを聞き逃す者も多い。
 青年は無線機越しに指示を出して、今入っている人達の位置を他の監視員に伝え、水から出るように促していく。
 必要ならば自分も赴くが、色々と試して一番効率的だったのがこのやり方であった。
 作業を終えて最後の確認をしていたところで悲鳴が上がる。給仕スタッフが一人水に落ちた、と。青年の耳に届いた頃にはすでに勢いを増した水が解放されていた。
 視界の端に抱え上げられプールから遠ざけられる少女の長い三つ編みがなびいているのを捉えながらも即座に非常用のスライダーを使い水に飛び込む。しっかりと激突は避けて、深く沈んだ。
 流れに逆らわず、されるがままになりながら強化した視覚で注意深く水中を観察しながら半周ほども流されただろうか。ふと感じた違和感に目を細め、身を捻って下流に足を向けるとそのまま急カーブに突入。
 側壁にぶつかるかと思われた足裏は、想像よりよほど柔らかいものに受け止められて、そのまま何もないはずの空間に引き摺り込まれる。すぐに視界が反転し、ごぼりと空気の塊だけが流されていくのが見えた。
 息継ぎをしようにもこの位置で顔を出すのはまずい。
 下手なことをすれば比喩ではなく首が飛ぶ。
 無駄に冷静な頭が身の振り方を考えた瞬間。背を包み込むようにあたたかいものが触れた。
 抵抗しなかった間に視界は塞がれているが、それが誰かの手であることは感覚でわかっている。かといって水中では問いを投げることもできず、そのままプールの底に縫い付けられる己の体を感じるだけ。
 少し開けとつつかれた気配を感じて引結んでいた唇を緩めると、空気の塊らしきものが入り込む。続けて入り込んだぬるりとした感触は舌だろうか。その頃には視界を塞がれていようとも相手を把握できていた青年はこれも抵抗することなく受け入れた。
 口内で魔力が走る気配。同時に認識が上書きされる感覚があって息苦しさが消失する。
 『あー……上手くいったか? いったよな。オレの声聞こえてるか』
 『聞こえているが、君がプールに落ちた給仕スタッフということでいいのかね』
 最初にそれかと苦笑とともに伝えられて青年は眉を寄せた。ではこの体勢について聞く方がいいかと伝えれば苦笑が爆笑に変化する。
 とはいっても笑い声が響くわけではなく、気配がそうと告げるだけ。
 『普通はこんな水の中で長時間平気なのかじゃねぇの?』
 『息苦しさが消えたからな。君がどうにかしてくれたものだと』
 『あー……まあ、あたりだけどよ』
 会話は脳に直接響く。脳内で勝手に再生される声は聴き慣れたランサーのクー・フーリンのそれ。
 形態は念話に近いが、いちいち感情までもが流れ込むのがむず痒い。
 それで、と。言葉よりも明確な疑念をぶつければ、ばつが悪そうな気配とともにとりあえず説明すると返った。
 『その前に言っとくが、オレの魔力を介して呼吸と会話を両立させてるから非常に不本意かもしれんが体勢はこのままで頼む』
 激流タイムとやらが終わるまで下手に浮上しないほうがいいのだろうと告げられれば頷く他にない。
 最初こそ口付けをしていると言えただろうが、今はどちらかというとランサーの伸ばした舌をエミヤが唇で食んでいる状態に近い。青年側から上がった疑問も、構わないが君は疲れないかという色気のないもので、気配だけで器用に肩を落とした男は適当なところで交代してくれとどこか投げやりな言葉を落とした。
 『承知した』
 口内の舌先を確かめるように己のそれで擽って笑うと、エミヤは男に説明の先を促す。ぐると唸るような音とともに悪態が伝わるのにすら笑って。解放された視界の端で水に溶けるように漂う男の髪の先を追った。
 そのさらに向こう、日の光が透ける水面をいくつもの影が横切って行ったのがわかる。激流をいなしながら華麗に舞う、水上の美姫達の軌跡。
 『本当にプールの底なのだな』
 『まあな。さて、どっから説明したもんか……』
 まず嬢ちゃんは無事だったかと問う男に目を瞬いて、飛び込む直前のことを思い出す。
 自分が把握している限り別の者に水際から遠ざけられたから問題はないだろうと告げれば、良かったと安堵の気配が零れた。
 『彼女を庇って落ちたのか』
 『大丈夫だろうとは思ったんだがな、体が勝手に動いたんだよ』
 自分が一番近かったと応える気配は笑みを纏っている。
 少女の姿をしているが彼女とてサーヴァントだ。運動は不得手だと言っていたが、溺れるということはなかっただろうと思いたい。
 もう一つ理由があると伝えられたところで、青年は己の口内で遊んでいた男の舌を押した。
 唇を開いても水が流れ込んでくることはなく、そのまま相手の口内に受け入れられる。
 確かに外に出した舌には水の気配は触れたのに、呼吸にはなんの制約も感じず、肉体の外側が薄皮一枚で水から守られているような、そんな頼りない感覚だけが残った。
 『君も蜜酒の女王から逃げ回っているクチかね』
 先回りして伝えれば知っていたのかという言葉が返る。
 『午前中、歳若い君が逃げているところに行きあたったからな。彼が逃げているということは他の君も全員そうだろうと思っただけだ』
 これで先に出会っていたのがオルタのほうだったらわからなかったと苦笑する。
 単純な連想だ。オルタのクー・フーリンだけが追いかけられているという事態は想像しやすいが、歳若い彼だけが追いかけられている状況は考えにくい。
 メイヴが彼を追いかけることがあるのならば、他の三人も同じ状況になっているのが普通だろう。なるほどと納得した男は、それなら話は早いと告げてどこかこっそり逃げられる場所を知らないかと、切羽詰まった色を纏わせて問いかける。
 プールに飛び込む瞬間に視界の端に捉えた桃色の髪が、彼女が近くまで来ていることを示していた。
 『……離れた瞬間に会話と呼吸ができなくなる、という認識で合っているかね?』
 『おう。多少の猶予くらいは作れるが』
 『では従業員用の裏口に案内しよう。遅れずに付いてきたまえ』
 くれぐれも水面には顔を出さないようにと警告してから舌を引く。
 唇が離れると同時に戻って来た息苦しさに小さな泡と笑みを零しながらランサーの体を押して流れに身を任せた。
 水流は水面近くよりも底の方が緩やかで余裕がある。
 即座に反応して付いて来た男を確認しながら、プールの全長で言えば四分の一ほどの距離を移動し、大きな岩を模した装飾があるあたりで壁の突起に手をかけて止まった。
 ごうと聞こえるのは滝の音だ。激流の起点でもある。
 掴まるところもないであろう男の手を取ったエミヤは、ほぼ底に張り付く様にしながら滝の裏側へと入り込んだ。少し奥へと進んでから、浮上して構わないと指の動きで示して自らも水を蹴る。
 両者ともに水面に顔を出したところで改めて、声を発してこちらだと告げた。
「こんなトコがあったのか……」
「入り口は魔術的な防御もあって監視員スタッフが一緒でなければ通り抜けられない。激流タイム時に逃げ遅れた者を脱出させる非常通路といったところか。もっとも、私が知っている限り君が第一号だがね」
 濡れて張り付く髪を撫で付けて顔を出したまま泳ぎながらくつと笑う。
「オレだって好きでこんな状態になったわけじゃねぇよ」
「理解しているさ。ああ、そこの梯子から上がってくれ」
 表からは隠された場所であるためか、それとも複数の機械が稼働しているのを冷やすためか。周囲の温度は低い。
 濡れたままで水から上がった二人は軽く身を震わせた。
 支給品も水着と同素材で乾きやすいとはいえ、濡れていれば余計に冷える。潔く上下とも規定の監視員服を脱いで水着だけになったエミヤは、こちらも全身濡れ鼠の男を振り返った。
「知ってはいたがあまり立ち入らないからな……私はとりあえず脱げば済むが、君はどうする?」
「さすがに魔術的な制限がかかってるか……しゃあねぇ。オレも脱ぐわ」
 プールサイドであるためか、制服は水着までセットだったのだと告げて思い切りよく服を脱いでいく。シャツにベストの給仕服は魔力で編まれたものではないらしい。エミヤと同じく支給の貸与品なのだろう。
 服のラインに影響しないようにと考えれば必然的にそうなるといわんばかりのボクサータイプの水着だけになった男は、脱ぎ放った服を全部かき集めて軽く絞り、小脇に抱えた。水着から流れ落ちる水分が内腿を伝って床に広がっていくのはどうしようもないが、服を絞って肌の水気を拭えば多少なりともマシにはなる。
 それもそう置かずに流れきってなくなるから問題ないだろうと諦めた。
「まずは着替えができる場所まで移動するぞ」
「おう、頼むわ」
 ルーン魔術も扱える男のことだ。魔術的制限がない場所であればそれこそ水気を飛ばすくらいは朝飯前だろうと判断してエミヤはそれ以上は何も言わず、奥へと進んだ。

 (中略)

「ふふふ。見つけたわ、私のクーちゃん。そんな格好で変装してもダメよ。私の目は誤魔化せないんだから……ってまたあなたなの?」
「私とて好きで遭遇しているわけではないのだがね」
 床に置かれた水のボトルを掬い上げがてら、さりげなくメイヴとオルタの間に滑り込んで苦笑を落とす。
 なにせ本日三度目の遭遇である。またかと言いたくなる気持ちは青年とて同じであった。
 前方と後方。二方向からほのかに殺気が漂っている気配があるが気にしたら負けである。近くのスタッフに合図をして空のボトルを回収してもらい、改めてメイヴへと向き直った。
「あー……ごほん。この状況で私が口を挟むのは大変申し訳ないのだが」
「……なによ」
「彼は私の用が済むまで待っていてくれた状態でね。どうしてもフロアを通る関係上、お客さんに威圧感を与えるのはどうかと思ってその格好をすることになったんだ」
 ある意味で現在進行形で私の手伝いをしてもらっている状態だから今連れて行かれると困る。僅かに眉を下げて声音を落とすと、メイヴの気勢は削がれたらしい。
 訝しむような表情になった彼女は、エミヤとその背後でメジェド様もどきになっているオルタのクー・フーリンを見比べて首を捻った。
「手伝い?」
「ああ。このお使いが終われば私の本日の仕事は終了だ。ならばオフの間に名物のあれやこれやを研究しておきたいと思ったのだが、どうにもこうにもこちらの食事は量が多すぎるので、私一人だと辛くてね」
 荷物を運ぶのにも手間取っていたから食事を奢る代わりに手伝いを頼んだのだと続ける。
「ふぅん。つまりは食い倒れデートに行く、と」
「いや、そう言うほどのものではないのだが」
「……いいわ。なら納得させてちょうだい。具体的に言うと、キスして。今、ここで」
 話を聞け、という声は届かなかったらしい。
 なんの配慮か、メイヴの背後ではシェヘラザードの指示を受けた小メジェド様達が捲られていた布を戻し、野次馬を散らしにかかっていた。
「そういったことを見られて喜ぶ趣味はないのだが」
「深く考える必要はないわ。クーちゃんからアナタの魔力を感じる事実があればいいだけよ。この状況下で、わざわざ私が見逃すに足る理由が必要なの」
 精一杯の抵抗に対して一歩も引く気がない女王を前にエミヤはやれやれと溜息を落とした。
 彼女は彼女なりのルールに従っている。ならばこれ以上の言葉は無意味だろう。せめて見せ物になるのはと考えたところで、メジェド様もどきの布から伸びた尾がふよりと宙を滑って弓兵に寄り添った。
 ちょい、と先端が揺れて。エミヤにだけにわかる程度に内側に誘う動き。
 即座に意図を察した青年が布の内側に潜り込み、内容量が二倍になったことで不格好になったメジェド様の内側からあからさまなリップ音が上がった。
「ちょっと! まさかそんな子供騙しで私の目を誤魔化せるなんて思っていないでしょうね!!」
 我に返って叫ぶメイヴの言葉に返ったのはぶんと大きく振られたオルタの尻尾だ。それが近寄るなというように激しく揺れて威嚇している間にも、くちゅくちゅといやらしい濃厚な口付けの音が響き、時折堪えきれなかったと言わんばかりの色を纏った吐息が零れ落ちる。
 メイヴはわなわなと体を震わせ、シェヘラザードは視線を彷徨わせ、クレオパトラは盛大に溜息を落とした。

 (中略)

「このままじゃフェアじゃねぇからぁ。誰もいないところまで待ってやっただけマシだと思いな」
 酔いで足元が覚束ない青年が道を外れないようにうっすらと添えられていただけの手は今や深く絡めとられ、背後は壁。
 動く密室の中、逃げる手段も断たれたそこで、肉食獣の瞳が真っ直ぐに鋼の色を射抜く。
 キャスター。呼び掛けようとした言葉は音になる前に相手に喰われた。
 ごく薄く煙草の気配が触れる口付け。
 性急に入り込んだ舌がさりと歯を、口蓋を舐り、溢れた唾液で濡れた音を響かせる。
「こんな、ところで……」
「最上階直通だ。誰もこねぇよ」
 集中しろ。
「そん……んぅ……っ」
 囁きの会話は振動が伝わるほど至近。
 吐息が重なり、抗議の呻きは水音に押されて喉奥に消えた。同時に唾液に溶けた魔力が粘膜を通じて流れ落ちる。
 逃げを打つ体は壁に阻まれ、強く引き寄せられた腰に添えられたままの掌がやけに熱い。
 困って視線を流した先の階数表示は刻々と変化していくものの、確かにその下には余計なボタンがない。少しだけ安心してそっと強張っていた肩の力を抜いた。
 つ、と。男の指が頸を辿り耳裏を擽る。
 両脚の間に捻じ込まれた相手の膝に崩れ落ちそうな己を叱咤しながらも、無意識に伸ばされた手は彼の髪ごとシャツの布地を握り込んだ。
 触れたままの唇が笑みを形作り、擦り合わされた舌は魔力を含んだ体液を掻き回して。
 匂い立つそれに酔いが加速する。
 触れることに慣れてしまったクー・フーリンの魔力が全身を灼いて、流された意識は自然と快楽を拾った。
 口付けはさらに深く。密着したことで衣服越しでも伝わる体温が熱を煽る。
「……ぁ……ん……う」
「逃げんな、アーチャー」
 もっと奥まで受け入れろ。
 深く、ふかく。吐息で紡がれる言葉に意識を傾ける。
 暗示にでもかけられたかのように閉じていく世界に残る快楽を追って青年は自らの裡に沈んだ。