LOST

「助けて!」
のどかだったはずの昼下がり。村長の家で昼食ついでに腕の調整をしてもらい、暇をしている間に奥方に髪を編まれるという、いつもと変わらない日常風景に、緊急を知らせる声が響く。
再度腕をつけてもらい、あとは戻るだけというところで悲鳴とともに駆け込んできた女性を見て、男は瞬時に側にあった刀を反対側に隠した。
続けられた彼女の息子の名前に、嫌な予感がする。呼んだことはないが聞き慣れてしまった名前。
「何があった?」
訪ねるのは村長。
男は容姿のせいか、どちらかというと彼女には避けられている。他にもそういった村人は何人か居たが、彼は特に何も言うことなく過ごしていた。
瞬時に対応できる体勢だけは維持したまま、大人しく縮こまって二人を見守る。
行き先はわかるかと訪ねる村長に、森に行ったとだけしかわからないと泣き崩れたのを聞いて立ち上がった。
「まだ覚えてる」
落とされた言葉に、はっとしたように女性が顔を上げる。モルスは村長と一瞬だけ目配せして頷くと、傍の刃を手に家を飛び出した。
最短で村を抜け、森に飛び込む。感覚を研ぎ澄まして瞳を引き絞る男の嗅覚に獣の気配が触れた。
本来ならばこの森では見かけないはずの強い群れの匂いに眉を寄せる。
続けるように上がった魔法の気配は誰かが戦闘中であることを意味した。
「こいつは……」
わかりやすくて助かるが、下手をすると一刻を争うだろう事態に自然と足は早まる。全力で駆け抜けた先、少しだけ開けた場所から続く緩やかな斜面のあたりで、さらに強く血が香った。
何かが爆発するように煙が上がる。続けて焦げたような不快な匂いが流れてきた。
「この子には手を出させないから!」
悲痛な覚悟を秘めた声には、なんとなく覚えがある。
「エミナ、そっちに……まずい!」
「きゃあっ!!」
聞こえる会話は劣勢。
すん、と。鼻を鳴らしてから刀を抜いて勢い良く飛び込むと、視界の端で一人、血も流さずにその場に倒れるのが見えた。彼の纏うのは黄緑のマント。その情報だけで瞬時に朱雀の候補生、しかも実戦に出る機会が多い者たちだということが把握できるのは、モルス自身の知識と、刃を交えた経験からだ。
さらに巡らせた視界に捉えたのはレッサークァールの集団と、その中心に座し、悠然と髭を揺らす金の毛並みを持つ獣が二頭。
「クァールか」
レッサークァールはあちこちでよく見かける上に白虎では軍用に飼育していることも手伝って交戦する機会も多い。彼らだけなら鋭い牙と爪に気をつければ多少なりとも実戦経験がある候補生がやられることは少ないだろうが、群れを束ねているクァールは、そもそも見かけること自体が少ない。
本来ならこのあたりには居ないはずだが、どこからか流れてきたらしい。
クァールの攻撃で注意しなければならないのは即死攻撃のブラスター。その威力は、戦場に立つ者なら常識として誰でも知っている。
だが、知識としては知っていても、直接目にする機会が少なければ攻撃に対する対処は遅れがちになる。実戦経験があるはずの候補生が対処できなかったのもそれによるところが大きいのだろう。しかも二体となれば危険度は倍以上に膨れ上がる。
面倒だなと、本当に面倒そうに呟いただけで、モルスは躊躇することなくクァールの眼前に飛び込んだ。
速攻が一番有効だとばかりに刀を翻して、駆け抜けざまに一撃。やはり刀ひとつではやりにくいと舌打ちを落とし、返す刃でもう一撃。
綺麗に首を落とされたクァールが倒れこんだ瞬間、もう一体に対して落とした首を蹴りつける。
激昂したそれの周囲に雷撃が散り、続けざまにブラスターが発動したのが確認できた。
合わせて後退したモルスは、周囲のレッサークァールを盾にするように動いて雷球をかわしながら、クァールの移動を待つ。
瞬間的に距離を縮めてくるクァールの出現地点を予測し、一閃。
綺麗に胴の半ばほどで二つに分かたれた獣は、近くにいたレッサークァールも巻き込んで地面に転がった。
「面倒だ。弱ェやつらは纏めてかかってきな」
残ったものたちにかけられる声には、わずかに愉悦が滲む。そこには、かつてまともじゃいられないと言い、笑いながら戦っていた白銀の豺虎の姿が垣間見えた。
あざけられたのがわかったのか、獣たちのほうも激昂して一斉にモルスに襲いかかる。
いい子だ。楽しそうに零された言葉の意図を、彼らが理解するはずもない。
流れるように動きながら繰り出される刃の先は、着地の隙が出来た一瞬を正確に狙って獣たちを屠った。
刀を振って血を落とした彼は改めてあたりを見回す。
「おい、ガキ。無事か?」
「もるす、えみなおねえちゃんが……」
怯えながらもしっかりとした受け答えに、やっぱりこいつ神経図太いなとどうでもいいことを考えながら刃を納めて、少年を庇った体勢のまま意識の無い候補生を抱き起こす。
自分の上の重みが無くなったことで、少年も立ち上がり、心配そうに覗き込んだ。
背中の傷はレッサークァールの爪でつけられたもの。それなりに深いが、特に問題は無いだろう。
その顔に見覚えがある。
「……ああ、あの時の女か」
自分が瀕死のクラサメを引き渡した相手だとすぐ気付く。しかし、それが確かならば気になることがあった。
一応少年を助けて貰った恩もある。
「しりあい?」
「というほどでもないがな……いくぞ。手を貸さなくてもテメェは歩けるな」
今のモルスに、二人は同時に運べない。両手が自由ならばと、こんな時には少し思う。
金属の片手は専用の接続装置で肉体と繋がっており、内蔵された魔力をエネルギーとして動くように出来ているが、細かいことは出来ない。例えば、伸ばそうとしておくことでもたれかかる人を支えることは出来るが持ち上げられないといった具合で、手を繋いだり、頭を撫でたりすることは出来ない。
モルスの声に頷いた少年は、少しだけ周りを気にして振り返った。その心中を察しはしたが、男はあえて冷淡に言い放つ。
「後だ。まずはこいつが先だからな」
「うん」
二人は気付いていた。その場にまだ息のあるものがいたことに。だが、優先順位を決めなければ全員が死ぬこともあるのだと、少年はすでに体験して知ってしまっている。
だからこそモルスは多くを語らない。
少年がエミナと呼んだ女性を背負うと、男はそのまま歩き出した。
「……ごめんなさい」
泣きそうになるのをどうにかこらえながら少年が立ったのはモルスの右側。彼は、モルスの血の通わなくなった腕を握って懸命に歩く。
「それは俺じゃなくてテメェの母親に言え」
「おこってた?」
「さあな。俺もすぐに飛び出してきたからな」
モルスも怒っているかと問われて、男は足を止めないままでわずかに目を細めた。
「俺はむしろ呆れてるな。いいか、無謀と勇敢は違う。テメェの実力でどうにかならない状態なら、うまく誰かを使え」
無茶なことをするくらいなら遠慮せずに頼れと優しく言えばいいものを、男の口調は普段と変わらず荒い。だが、それを知っている少年のほうは泣きながら笑ったために妙な顔になっていた。
帰路は特に何事もなく、無事に村の入り口まで辿り着くと、二人に気付いた誰かが声を上げた。
すぐにに少年の母親が駆けてきて、全力で我が子を抱きしめる。それを見守っていた何人かが、モルスが怪我人を背負っているのに気付いて声をかけた。
「手伝うか?」
「いや……まだ傷の具合を詳しく見ていないからなんとも言えねぇが、とりあえずは問題ねぇよ。連れ帰ってきたことだけ連絡頼む」
「わかった。手が必要だったら言ってくれ」
モルスは医者ではないが、多くの戦場を切り抜けてきたことで自然と身に付いたものがある。
ましてやここは朱雀。どこの家にもポーションのひとつやふたつは置いてある。魔法の力を薬という形に変換したものは、魔力を失った大人たちにとって必要不可欠なものだった。
無事を確かめて安心したのか、気を失ったままの女性を心配そうに見上げる少年とその母親に対しては、落ち着いたら知らせをやるから家に居ろと言いおいて、男は己の家に向かった。
エミナを背負ったまま棚からポーションをひとつ取り出し、浴室に向かう。
床に下ろしてから自らの肩に凭れさせるようにして固定し、破れた服に手をかけようとして一瞬だけ苦い顔を見せた。脱がせたことに対して後でどう説明するか悩むが、非常時だと思ってもらうしかない。
少なくとも他の誰かに見られるよりはマシだろう。
切り刻まれたマントを外し、上着の留め具を手探りで外す。インナーは爪で裂かれたあたりから破って背中を露出させると、大きく走った傷の傍に懸念していたものを見つけた。
滑らかな白い肌をあざわらうように、深く刻まれたそれは、識別番号入りの皇国印。
「大正解、ってところか」
手伝いを断って良かったのだろう。男は苦笑を落としてポーションの瓶を握った。
早く治療すればそれだけ傷は残りにくい。露出させた傷口に遠慮なく中身をかけ、しばらく置いてから治りを確かめる。
幸いと言おうか。傷が集中していたため、瓶一本を使い切った程度で綺麗になった。
エミナは傷が濡れたことでわずかに眉を寄せて声を上げたものの、痛みがすぐに消えたせいか、そのままま再び意識を落としてしまう。
溜め息をひとつ。仕方がないと呟きながら、モルスは彼女の血塗れの服を脱がせにかかった。なるべく見ないようにしながら苦労して脱がせると、自らの肩にもたれさせたままで残った血を洗い流す。そうして綺麗になった背に傷があった気配はほとんどなく、だからこそしっかりと根を下ろした皇国印が痛々しい。
手近に置いてあるタオルを引き寄せて、残った水滴をなるべく丁寧に拭うと、肩に抱えて部屋に戻った。
相手は意識のない美女という状況を考えれば、本来ならば横抱きにでもしたいところだが、あいにく今のモルスには不可能なこと。
寝台まで運んで己のシャツを着せ、毛布を掛けたところでノックの音が響いた。
「モルス、オレだ」
「ああ、ちょっと待ってくれ」
村長である男の声を確認して扉を開く。
対面した第一声ですごい格好だなと言われて苦笑を落とした。
「さっきまであいつの手当てをしていたからな」
モルスの服は血とぬるま湯が混ざり合ったものでぐっしょりと濡れている。
改めて見た己の姿にさすがに酷いと思ったのか、彼はシャツのボタンを外しながら浴室に向かった。
「怪我人の具合はどうだ?」
「見た通りだ。まだ目を覚ます気配もねぇよ。まあ、傷自体はポーションで綺麗に治ったから、体の方は特に問題無いはずだ」
むしろ問題なのは着替えのほうだと笑う。
「着れそうにもないくらいか」
「見ればわかるぜ。そこにある」
浴室の扉から顔を出して中を示したモルスに村長の男が近づいて、隅に放置されていた彼女の服を確認した。
「こりゃまたひどくやられたな……」
「代替え品を用意できるか?」
あのナギが話を通しているくらいだ。この村長が朱雀の諜報部と関わりのある人物であることはすぐに予想が付く。だからこそ遠慮なしに替えを頼んだ。
「さすがにマントは無理だが、制服はなんとかなるだろう。こいつは預かるぞ」
「ああ。ついでに下着も頼む」
なにせ上半身に身につけていたものは全部すっぱりと斬られてしまった。逆に下半身に身につけていたものは流れた血と土とで盛大に汚れてしまったから、念入りに洗う必要がある。そしてそれは片手しか使えないモルスにとってはひどく骨が折れる作業だった。
適当な袋を出して渡す間に、女性ものの下着も一緒に入っているのを見つけた男がにやりと笑う。
「……そいつはラッキーだったな」
「さすがに見てねぇよ」
候補生さまの魔法で丸焦げになるのはごめんだからなと続けて、血と水にまみれた服を脱ぎ捨てる。
そのまま待っている村長に対し、そんなにオレ様のストリップが見たいのかと冗談を飛ばせば、どうせなら綺麗な女性のほうがいいなと大まじめに返されて苦笑を落とした。