Möbius loop

 世界がぐらぐらと揺れている。
 誰かに声をかけられている。
 自分の後見人として傍に居てくれた人とは違う、それでもひどく懐かしい男の声。
 太い腕が体に回っていて、それが安心出来るものだと少年は無意識のうちに知っている。目を覚ます様子のない体を抱いて水を掻くのは、惜しげもなく肌を晒した大柄な男だった。仕方ねえなと零す声は、まるでくすぐったいとでも言うような笑いを含んでいる。
「ったく……未来のキングが溺れてんじゃねえよ」
 そんなことじゃ俺様に追いつくのは夢のまた夢だぜ。
 時折ちゃぷりと上がるのは水の音。水面を移動するように少年を抱えて移動する男は、あたりを見回し、水面に顔を出していて安定している場所へと腕の中の体を縋らせた。
「……ん……オヤ……ジ?」
 意識の無いままに紡がれた言葉にくしゃりと少年の頭を撫でて、遥か彼方を振り仰ぐ。
「次に会った時には敵同士だろうな。オレに出来るのはここまでだ」
 男が向ける視線の先から、雷鳴が近付いてきていた。もう一度くしゃりと頭を撫でると、男はすべてを振り切るように水に潜って行き、少年はまだ夢の中。
 雷鳴は確実に近付いてきて。ひときわ大きな音で響いた瞬間、弾かれたように少年の体が震えた。びくりと痙攣して起き上がる。
「ど……どこだ!?」
 少年の目にまず目に飛び込んで来たのは、朽ち果てた遺跡のような建物。
 誰も居ない。人の気配もない。
 その事実に少年は怯える。
 誰か居ないかと叫んでみても、返るのは雷鳴ばかり。
「ホントに誰もいないのかよ……」
 絶望的な気持ちで呟く少年は、それでもまだ諦めてはいない。気温も、水温も、決して温かいとは言えない状況で、彼は意を決して水に入った。
 立ち泳ぎの要領で周囲を見ながら進み、廃墟と化した遺跡の中に入る。
「どこなんだよ」
 無意識に落とした呟きが思ったよりも広い天井をもつ空間に響いて、少年は自らの体を抱き締めた。寒いと零してあたりを見回す。
 燃えそうなものをかき集め、苦労して火をつければ、少しだけ余裕が生まれた。
 温もりがあれば、独りの寂しさが和らぐ。
「そういえば……おかしな夢を見たよな。誰でもいいから傍に居てほしい、なんて」
 自分らしくない。
 少年は一人、己を笑う。ぐう、と。盛大に腹の虫が鳴いた。
「あー……ハラへったぁー」
 いくら主張しても、燃やすものを見つけるのもやっとだった場所には、何もないことはわかりきっている。
 やけくそのように地面に仰向けになれば、どこまでも闇の口をあけた天井が視界に入った。
 ぶるり。身を震わせて起き上がり、結局膝を抱えた体勢で落ち着いた少年は、精神的な疲労も手伝ってか、うとうとと船を漕ぎ始めてしまう。
 少年の目の前で暖を灯す焔は、徐々に自らをすべて燃やし尽くして、しぼんでいった。
 少年はまだ気付かない。
 近付く雷鳴はもうすぐ近く。一部が崩れて、水が流れ込む天井近くの穴からその姿を見ることが出来た。紫電が空を駆けて。至近で音が響く。
「うわッ」
 これにはさすがに少年も気付いた。
 急いであたりを見回して、すぐに自分を起こしたのが雷鳴だったと知る。
「驚かせるなっつーの……」
 深く息を吐いて伸びをした彼は、まだ眠そうに欠伸を洩らした。眠った気はほとんどしなかったが、多少余裕が生まれたところを見ると切り替えは出来たということだろうか。自分でそう分析する。
「さて、と。少しは探索しないと、このまま飢え死にしちゃうな……」
 軽く裾を払って立ち上がる。寄せ集めで熾した火はすでに半分が消えかけていた。
 ふと、視界が雷鳴とは違う音を捉える。
 まずいと告げたのは直感。
「なんだ……?」
 とっさに身を低くして、音がしたと思われる方向を見上げる。
 雷鳴に混じって。低い振動を伴って現れたのは、人とも石ともつかぬ、どこか硬質な質感を持った、姿だけは人型をしたものだった。
 全身を鎧に覆わせたそれは生きている気配に乏しく。ただ冷たい存在感だけが漂う。
「勘弁しろよ……」
 ぼやきながらも少年は剣を握った。もっとも、誰にも頼めないこの状況では、そうする以外に手段が無い。
 ぐっと地面を踏む足に力を込めて、体勢を低くする。
 手にした剣は水を写し、振るう度に無数の泡が分離しては消えていく。それが、アーロンと一緒に居たときに渡された剣と違うことに少年は気付いていない。疑問を持ってもいなかった。
 その剣は少年のもので。ずっと傍らにあったものだと柄を握る感覚が語っている。
 大きく弾みをつけるようにして、彼は地面を蹴った。
 這うようにして接近し、剣を振るう。その戦い方は、アーロンの隣で腰が引けていた少年と同一人物だとは思えない。
「くそ……ッ」
 それでも、相手のほうが上手らしい。厚い鎧と、巨大な剣に阻まれて、少年は決定打を与えられないまま、じりじりと疲労を積み重ねて行く。
 もう一度突っ込むか。少年が次の行動を実行に移そうとした時だった。派手な音とともに、斜めに傾いでいた扉が壊されて、人影が飛び込んでくる。すらりとしていながらも、露出した腕や胸元を見れば、綺麗に筋肉の付いた青年だった。鳥の爪を思わせるような肩当てと、短マント。腰布を止めるベルトに差してある短剣。色石をふんだんに使った装飾品。
 ブーツは使い込まれてくたびれて。それでもしっかりと地面を噛んでいる。
「おれが相手だ!」
 ちょいちょい、と。挑発するように人型のものに向かって指先を揺らして。腰だめに拳を握る。鎧に包まれた人型は、乱入してきた青年を新たな標的と定めたようで、完全に注意をそちらに向けた。
「味方!? 助かるッス!」
 思わず声を上げた少年を肩越しに振り返って。器用にもウィンクしてみせた青年は、明るく笑った。
「自己紹介はこいつを倒したらな!」
「了解ッス!!」
 いくら弱そうだからってオレを無視するなよと。少年は剣を片手に突っ込んでいく。合わせるように、青年も横に駆けた。正体不明の敵を前後に挟み撃ちする形にした彼らのうち、最初に斬りかかったのは少年のほう。がきん、と硬質な音にはねられて弾かれた彼を見て、青年のほうは自らの手に装飾が施されてはいるものの、しっかりと戦うための強度を持った剣を握る。
「こっちだ!」
 敵が少年のほうに向き直った直後、青年の剣の先が鎧の隙間に入った。ざらざらとした、耳障りな音を零してそれは崩れていく。
「人じゃ……ないよな、これ」
「どっちかというと人形というか……少なくとも生きている感じはしないな」
 少年の疑問に、剣を納めながら答えた青年は、改めて近付いてきた彼に笑いかける。
「おれ、バッツっていうんだ。怪我なかったか?」
「平気ッス。オレは……」
 一瞬答えに詰まった少年は、何度か唇を開閉させる間に、遙か遠くで紡がれた名を思い出す。
「ティーダ、って言うんだ。助けてくれてありがとな」
「危なかったな。無事でよかった」
 一人なのかと問うてきたバッツに、ティーダは頷く。
「気付いたら水の中に放り出されててさ。なにがなんだか……バッツはここがどこだか分かるのか?」
「いや、おれも気付いたらここに居たから」
 状況はさっぱり分からないのだと告げる。
 敵に踏み荒らされた火はすでに消えてしまっていて、室内は薄ぼんやりとした闇に沈んでいた。