可能性の未来

 ざわざわと水の流れる音がする。
 四方から響くようなそれを聞きながら、金の毛並みを持つ小柄な影は空を見上げた。
 彼が居る場所は独特な形の建物がひしめく場所で。水源など無いはずなのに、建物のあちこちから滝のように水が流れ落ちている。
 時折思い出したように吹き抜ける風は潮の香と細かな水滴を纏っていることから、海が近いのだと知ることが出来た。実際、もう少し道の端に行って柵のように作られた壁を乗り越えればその姿を見ることが叶うのかもしれない。そんな連れの様子に、振り返ったもう一つの影が首を傾げる。
 くん、と。風の匂いを嗅いで。それでも理由が分からなかったのか、表情に疑問をのせた彼は、ことりと首を傾げて口を開いた。響いたのは、聞いている者を楽しくさせるような快活な青年の声。
「ジタン、どうした?」
 どこか状況を楽しむような声は潮の香りに混ざって、彼がジタンと呼びかけた小柄な影へと届く。
「んー。いや、単に珍しいだけだよ」
「こういう建物に覚えが無いってこと?」
 聞いてから、おれもだけどと笑う。
 ジタンと呼びかけられた影は、溜め息を吐くふりをして俯くと、こらえきれずに吹き出した。髪と同じ黄金色の尻尾が揺れる。
「なんだよ。同じなら聞かなくてもいいだろ?」
 バッツ。仕方無いと笑ったジタンは、苦笑に溶かして相手の名を呼ぶ。
 連れである青年より少し高めの声は、やはり他人に元気を分けるような余裕と自信に満ちたもので。笑みに緩んだそれに呼ばれた方も思わずつられてしまう。
 名を呼ばれたバッツは、同じように笑ったまま、言ってみただけだろうと返した。
「それよりも……誰か居そうか?」
「いいや、今のところぜんぜん」
 人どころか動物の影すら見えない状況に、二人は顔を見合わせて首を傾げる。
 たしかに光の気配はする。
 だから近くに人が居るのは確実なのだが、その姿はどこにも見えず、お手上げだとジタンは軽く両手を上げてみせた。
「あそこ、先に行ってみようか」
 半分以上諦めかけている相方に、バッツは苦笑混じりに言葉を投げる。示された先は、自分達が居る場所とは垂直に接する一本の道だった。
 現在彼らが居るのは、空中に渡したかのように真っ直ぐに伸びる広い道。その近くからゆるく逸れるように少しだけ細い道が下に伸びていて、彼の指はそこを示している。
「そうだな。下なら別の何かが分かるかもしれない」
 ジタンが同意したのを確認して、バッツはひらりと身を翻す。だが、次の瞬間、そのまま駆けていきそうな彼の目の前にひょいと飛び降りてきた影があって、バッツは驚いてたたらを踏んだ。
「とっとっと……」
「なーにやってんだよ、バッツ」
 軽く手を上げる青年の手が、そのまま倒れそうなバッツを支える。
「ああ、ありがと。ロック」
 でも急に出てくるなよ。
 文句を言う口調は怒るような言葉の割に、笑みを含んでいる。対するロックも、布に包まれた髪をかき回してバッツの肩を軽く叩いた。
 悪い悪い、と。叩かれた肩と同じくらい軽い謝罪が落ちる。
「それで、どうだった?」
 二人だけにしておくと話が進まないと思ったのか、横からジタンが割って入った。
「なーんにも。本当にここに仲間が居るのか、って言いたくなるな」
 肩を竦めて溜め息を吐いたロックは、建物の中を見に行っていた。あまりにも収穫が無いのに嫌気がさして、ジタン達の姿を見つけたことで途中で飛び降りてきたのだろう。
 バッツには悪いが、ジタンは途中から頭上の気配に気付いていたから全く驚きはない。いや、バッツも気配には気付いていただろうが、まさか目の前に飛び降りてくるとは思っていなかったというのが正解だろうか。
 本来、建物の中の偵察はジタンが行くはずだったのだが、行きたいと言ったロックとコインで勝負した挙げ句負けたのだ。
 バッツのお守りはよろしく、と。笑って消えていったロックを思い出して、ジタンの唇には苦笑がのる。
 見上げた空は闇に沈み、無数の星が瞬いていた。それを狭めるように立つ建物は、明かりこそ点いているものの、どれも無人だという。
 どんなに大きな街でも、どれだけ技術が発達した都市でも。そこにある建物はそのままで、住んでいる人が全く居ない世界。最初は異常だと思ったものだが、今はもう疑問が浮かぶことも無い。
 青年達は、まるでそう操作されたかのように、皆一様に戦わなければならないという意志に支配されていき、そして誰もそれに気付かない。
 元の自分がどうだったのか、とか。まるで歯抜けのテキストのように塗りつぶされた記憶は、経験だけが生きていて、思い出が全て消されている。
 そのためか、考え始めるといつしか思考が迷子になってしまのだ。だからこそ、バッツも、ジタンも、そしてロックも諦めてきた。それは他の者とて同じ。
「今からそこに下りようと思ってたんだけど」
「ああ。だろうと思って俺も降りてきたんだ」
 ジタンがひょいと尻尾を振って道の下を示せば、ロックも頷く。
「よし、じゃあ行こうか」
 三人がそれぞれに頷いて、道の先を見た。
 緩やかに続いた先に見えるのはゆらゆらと回る光と、まるで宙に浮いたように見える灯り。少し逸れたところには水面に張り出すようにして伸びた桟橋に一隻の船が繋がれていた。
 建物から離れるようにぽつりと浮いているそれは、少し寂しげでもあり、強く目的の彼方に向かって決意を示しているようでもある。
「なんか気になるよな?」
「ロックもそう思うか?」
 宝を探す嗅覚とでもいうのか。
 ロックが呟けば即座にジタンが声を上げる。
 中を調べてみようかと相談する二人を横目に、バッツは水際まで歩を進めてしゃがみ込んだ。
 覗き込むように周囲の光を映す水の上に顔を出す。
 暗い水面は底が見えない。そんな中、何かが自分を呼んだ気がしてバッツは首を傾げた。
 ロックとジタンは先の言葉通り、気になった船の中に入ってしまったらしい。
 姿の見えない二人に一度立ち上がり、バッツは船の入り口に向かう。
 相変わらず周囲に自分達以外の人の姿は無く、波も時折ちゃぷりと戯れる程度で静かに揺れている。
 開けっ放しになった入り口から中を覗けば、案の定ジタンとロックが珍しそうにあたりを見回していた。
 何気ない風を装ってはいるが、好奇心が押さえ切れていないのはジタンの尻尾を見れば分かる。
 ゆらゆらと揺れる尻尾の向こうに、無造作に置かれた石やガラスの置物。見れば文字らしきものが刻んであるそれらは、何かの記念品らしい。それの間に混ざって、誰かの姿を止めた絵が置かれていた。
 青い世界で余裕の笑みを見せる、少し茶の混じった金の髪の少年。水の中だろうか。考えて、バッツは先ほど自分を呼んだものの正体が分かったような気がした。
「ジタン、これちょっと頼む」
「ああ? うわっぷ!」
 いきなりなんだと抗議の声を上げたジタンに放られたのはバッツが身に付けていたマントと肩当て。突然のことにマントを被ってしまったジタンの代わりに肩当てを受け止めたのはロックで。彼のお陰で辛うじて顔面でそれ受けることを免れたジタンは、マントの波を無理矢理どけて顔を出すと、続けて放られた短剣を器用にも尻尾で受け取った。すっかり軽装になったバッツを不思議そうに見ている間に、彼は最後に腰に巻いていた布を放ると同じように放り投げる。そちらはロックが手を伸ばして掬い取った。
「なんとなくどこに居るか分かったからちょっと行ってくるよ!」
「行くってどこに……ちょっと待てバッツ!」
 人の話を聞け、と。
 ジタンが叫んだ時には既に遅く。バッツはするりと入り口を抜けて桟橋の端を蹴っていた。
 世界の音が一斉に遠くなって、絡み付くような水が全身を包む。
 視界を助けるのは、人の居ない街のあかり。ほとんど利かない視界の中で、バッツはゆっくりと水中の気配を探った。注意して見ればぼんやりと浮かんでくる。小さな、だが確かに存在する光の気配。
 あっちか。
 くるりと身を捻って器用に潜って行くバッツは、迷い無く水の中を進み、底にほど近い場所でそれを見た。
 胎児のように丸くなって、膝を抱える少年。
 ゆらゆらと揺れる髪の色も、閉ざされた瞳の色も分からないが、おそらくは船の家で見た彼だろうと当たりをつける。
 彼の周りに漂っていた虫のような光が揺れた。