PARTING GIFT

長い、長い。
石段を下っていく。
朱に染まった世界に溶けるように、石段を下るのは仮初に留まった影法師が四つ。
少し先、並んで行くのは長身と小柄の女性二人組。
数歩をあけて青の尻尾を揺らした偉丈夫。
その背後、大分距離をあけて歩を進める黒の上下に身を包んだ褐色の長身は、木々の間から差した夕日に瞳を焼かれて、幾度か瞬きを繰り返した。
刺すようなそれは、遠いはずの出来事を連れてくる。
殺し合いのために現界していたはずの影法師達は、世界の異常にあたって行き場を失い、持て余す時間を人間のふりをしながら使い潰している。
かつてこの場所ではセイバーとアサシンの死闘が行われたはずだ。だが、今辺りに落ちるのは血飛沫ならず、沈みゆく日光を僅かに葉の間から零した朱の欠片のみ。
細く深く息を吐いて、褐色の青年は止まっていた足を動かした。
一歩、二歩。
そこで初めて、一つ前を歩いていたはずの男がこちらを見ているのに気付く。
見上げてくる瞳もまた、遠くの日を固めたような赤。
昼と夜の境、目に映るものすべてが朱に染まる世界で、身に纏う青の色彩を薄めた男は言葉も無くただ追い付いてくる青年を見上げている。
「どうかしたのかね?」
問いには珍しく戸惑いが揺れるだけ。どうやら嫌味は留守にしているらしい。そんな己を内心で笑って。だが、足を止める必要性は感じられないと判断。暮れゆく光と同じ色の視線が自分を追うのを感じながら、ゆっくりと長身を追い越す。
応えがないのは気にしないが、追い抜いた後もずっと追うような視線を感じるのはどうにもむず痒い。
遠くに視線を投げれば、女性陣は石段を下りきり、山に沿って曲がりくねる道に入ったのだろう。すでに姿は見えなくなっていた。
朱の世界に二人。
その状況がますます青年の精神を揺さぶる。
この場に留まるサーヴァント達は、状況が読めない為に避けているだけで、戦闘そのものを忌避しているわけではない。まして、普段は赤の弓兵と青の槍兵として特徴的な色の武装を纏い対峙する彼らは、お互いを決着を付けるべき相手と定めていた。
きっかけさえあればそれは容易に現実になるだろう。
この地の管理者である少女からの介入が確定していたとしても関係ない。
弓兵と少女の契約は切れている。現界するための要石にこそなっているものの、彼女の命令に強制力は無く、サーヴァント同士の本気の戦闘を止める手立てはないだろう。
最も。この場で戦闘を開始した場合は、日々の裏側にある事情をある程度わかっていてなお、目の前の幸福のために黙することを選んだキャスターの逆鱗に触れるだろうことは疑いないが。
青年はもう何段か石段を下り、わざとらしく深い溜め息を落として振り返った。
「言いたいことがあるのなら聞くが?」
「……んー」
曖昧な声に首を傾げる。
普段なら言葉を濁すこともあまりない槍兵にしては珍しい、どこかぼんやりとした応えに、お節介焼きの血が刺激された。そういうことにしておきたい、と自分に言い訳をしながら青年は数段分の距離を戻る。
周辺に漂う朱の気配は徐々に薄くなりはじめ、代わりに闇が腕を広げる時が満ちていく。
木々に埋もれる山中では、夜の気配はより早く周囲を覆い尽くさんとするかのようだった。
「ランサー?」
眼前に立っても身動ぎ一つない相手の名を呼ぶ。それでもなお反応がないのを訝しんで、眉を寄せながら男の肩を揺すった。
「う……おお……おおお?」
「君な……立ったまま寝ていたのかね? 器用なことだ」
ようやく聞こえた声に安堵する己を隠すように、勝手に口から飛び出した嫌味。
きょろりと動いた瞳で目の前の影を認識したらしい男は途端に表情を崩し、別に寝てたわけじゃねぇんだけど、と頭を掻いた。
足場の悪い石段だというのに全力を込めたせいで少しよろけた体を咄嗟に受け止めた青年は、寄せていた眉をさらに寄せ、表情を険しくする。
男は何かを堪えるように瞳を隠して、一段分だけ普段よりも位置が下がった青年の肩に額を預けた。
オマエに言うことじゃないのは分ってるがと前置いて、力のない声が落ちる。
「腹減った……って言ったらなんか食わしてくれるか」
「さっきさんざんお好み焼きを食べていただろう……が」
サーヴァントに本来食事は必要ない。もちろん、摂取不可能なわけではなく、全体から見ればごく少量ではあるものの、魔力として取り込み、活用することもできる。
新都にある一番高いビルは、もはや弓兵の定位置と定められたのではないかと思えるほど。そこから街のあちこちを監視していたために、釣りが趣味らしい彼が、港で釣った魚を自ら焼いて食べていたのを見たことがあった。
そういった経緯から、必須ではないことでも楽しむ性質であることを知っている。でなければ、わざわざアルバイトをして酒代や煙草代を稼ぐ必要などないだろう。
「そ、じゃ……なくて。くっそ……ココはキャスターの陣地だから今のオレにはキッツイんだよ」
わかれと言われたところで前提が不明のままでは頷きようがない。
一人の女であると同時に冷徹な魔術師でもある。
どちらも己だと主張する古代の魔女は、浮かれているように見えても備えを怠る事はない。
ああ、と。
やっと男が主張していることに気が付いて、青年は皮肉を混ぜた息を零した。
「君の現マスターは節約志向と見える。ふらふら出歩く犬に食べさせる餌はないということかな」
「うるせぇ。ありゃ節約じゃなくて嫌がらせって言うんだよ。オレが一体何したってんだ……」
普段ならば真っ先に反応して噛みついてくる単語を使った青年に対し、それを完全に無視した男は、代わりにマスターに対する恨み言を漏らす。
そこに、彼の限界が見えていると言えるだろう。
きついと言いながらも、わざわざ赤の少女の要請に応えてやってくるあたり律儀というかなんというか。おまけに魔術師を含めた人間達はおろか、先ほどまで一緒だったセイバーやライダーにすら不調を悟らせなかった。そんな彼が本来なら絶対にありえないだろう相手に対して弱音を漏らしたのは一瞬気が抜けたところを見られたからという部分が大きい。
本来なら言うつもりなど無かったのだ。
「やれやれ……今日は凛の我儘に付き合ってもらったことだしな。君がその礼がわりに食事を要求するというのなら応えるのに吝かではない。霊体化して付いてくる程度は可能だな?」
新都まで移動するから霊体化して適当に付いて来いと告げ、歩き出す。霊体化してついてくるなら人の道を行かなければいけないという道理もないだろうと判断してショートカットを決意した青年の脚は次第に駆ける速度になり、道路を飛び越えて太めの枝に着地した。
そのまま枝を縫うように跳び移り、人気がないのを確認してひっそりと住宅街の隅に出る。
何食わぬ顔で頭や肩に付いた葉を払い、いつもの黒い礼装を目立たぬシャツに変えてから、バスに乗って新都の駅前まで移動する。
槍兵のものらしい気配はすぐ側にあって、きちんと付いてきていることを確認すると、青年は港に向かって歩き、途中で細い道に折れた。
人通りのない道のさらに陰。
出てこいと告げればすぐ傍に青が形をとる。弓兵の服装に合わせるように、よく見る派手なアロハ姿。即座に辺りを見回すのを目にした青年は、緩みそうになった表情を押しとどめて目を伏せた。
「この辺りはあまり来たことがねぇな」
「……だろうな。こっちだ」
「おう」
青年が男を案内したのは小さな店だ。
狭い店内はテーブル席らしきものは奥にある小さな座敷ひとつで、他はカウンター席があるのみ。存在を主張するかのような水槽が入ってすぐの所に置かれており、中には見知った魚が何匹か泳いでいる。
「いらっしゃい」
重なる男女の声は中年を過ぎた辺りか。それに被さるように、喧騒までいかないが活気はある絶妙な大きさの男達の声が奥の座敷から響いて、店の雰囲気を形作っていた。
座敷から一つ手前のカウンターに座る男二人は別口のようなのに、時折奥の会話に参加しているのを見れば、顔馴染みらしい。おそらくは常連が多いのだろう。
「こんばんは。二名ですが大丈夫ですか?」
入り口近くまで出て来た割烹着姿の夫人に向けられる青年の口調は柔らかく、よそ行きの笑顔が浮かんでいる。
「ええ、もちろん。奥があれだから……申し訳ないけど入り口近くがいいかしらね」
「どこでも問題ありませんよ。それで奥方や大将の料理の味が変わるわけではありませんから」
「相変わらずお上手ね」
ふふ、と。可愛らしく微笑む彼女に好きな所にどうぞと促され、二人は一番入り口側にある席に腰を落ち着けた。
メニューを見ることも無くすらすらと注文を並べる青年に、彼もまた常連に片足を踏み入れてるくらいは通っているのがわかる。
「……申し訳ないのだがご飯と汁物も先に。なにせ今日は五分先には腹と背中がくっつくと言わんばかりに腹を空かせた大食らいが一緒でね」
「おいこら、誰が大食らいだ。別に普通だっての!」
「空腹で倒れそうになった奴が何を言う。腹にものを入れるまでは大人しくしていたまえ」
厳密には空腹ではないが、一般人の前でそんな話題を出すわけにもいかない。
いつもと同じ言い合いを展開すれば、目を丸くした夫人にあらあらと笑われる。瞬間、やってしまったと言わんばかりの表情を見せた青年は、カウンターに突っ伏して頭を抱えてしまった。
明らかに猫被ってたなコイツ、と。男は己を放置して反省モードに入ってしまった連れを見る。
そんな客の姿を全く気にしないらしいおっとりとした夫人は、今し方注文されたものを用意するためにその場を離れていた。
特にやることもなく、槍兵は頬杖をついて先ほど弓兵が大将と呼んでいたこの店の主人らしい男性を見る。
小気味好く動く手は見ていて気持ちがいい。
次々と捌かれていく魚を見ながら待つこと数分。
「よく見たら随分と美形なお兄さんねぇ。はい、どうぞ」
「おお。めっちゃ美味そう!」
本気にはされまいが、さすがに口説くのはまずいかと思うだけの思考は働かせた男は、純粋に目の前に置かれた食事の感想と、礼を告げるに留めた。
大盛りのご飯にあら汁、漬物、煮物、きんぴら、お浸しなど、予め作ってあるものなのだろう。さほど時間をかけずに出来上がるものが並ぶ。
「メインは大将が今作っているが、奥方の煮物も絶品だからな。先に食べるといい」
どうせおかわりをするだろうと言わんばかりの言葉は先程まで撃沈していたはずの弓兵の口から。その前には冷酒の杯と、冷奴、漬物だけが置かれている。
「あ、ずりぃ。テメェばっか飲みやがって」
「たわけ。君の場合、酒は腹にものが入ってからでいいだろうが。さっさと食べろ」
味見でいからと追い縋る男に断ると返した青年は、逆に彼の前に置かれた煮物の芋を一つ掠め取る。
「ふむ。やはりいい味だ」
「テメェ……」
「不要だというならつまみがわりに私が食べるが?」
含むような笑いで揶揄ってくる様子はいつも通り。どうやら猫被りは放棄したらしい。
「食うって!」
慌てて茶碗を持ち、奪われそうになる煮物を死守しながら口に運ぶ。
ん、と。
一瞬詰まった言葉は咀嚼して飲み込まれた途端に純粋な感想となって滑り出た。
「美味ぇ……」
隣の青年は一瞬だけしてやったりといった表情を見せたものの、すぐにそれを手元の酒に口をつけて誤魔化している。ちゃんと見たぞと睨むが、無視を決め込んだ表情がそれ以上変化することは無く、男は内心で舌打ちをしながら次のおかずに手をつけた。
合間に汁物を啜り、ご飯を口に運び。黙々と目の前の皿を空にする。
「はー……うまかったわ」
「多少は腹に溜まったかね」
「おう。まー半分てとこかね」
ご満悦、と顔に書かれた槍兵に弓兵が差し出したのは、小さな玻璃の杯。とくりと注がれた冷酒に、ますます表情が緩む。
「これからが本番だが?」
「問題があるように見えるか? テメェこそ、もう酔ってんじゃねぇだろうな」
「さて……だがまあ、自分の限界くらいは弁えている。問題はないさ」
うわばみに合わせる気はないと告げた弓兵の前にはいつの間にか水のグラスが追加されている。
一応考えてはいるらしい。
「はい。お待ちどう」
「ありがとうございます」
カウンターから提供されたどこか渋い器の中には、敷かれた大葉を布団がわりに、綺麗に小山になった魚の身。
「こりゃなめろうか」
「よく知っていたな」
自分で言っておいてどこで知ったのか首を傾げる男に、青年は目を細めた。
どこで知ったかわからないというのは、サーヴァントの身にはよくあることだと青年は認識している。
ただでさえ、記憶や記録に制限をつけられ、現代知識を無理矢理詰め込まれて現界するのだ。そういうこともあるだろうと特に深く詮索することもなく空の杯を満たす。
「んめぇ!」
「それはよかった」
焼き魚、骨せんべい、つみれ揚げ。さらにはだし巻き卵や酢の物なども追加されて男の前は器でいっぱいになる。
ご飯と一緒でももちろん合うが、酒が進むつまみの登場に槍兵の表情が崩れた。
一緒に居るのがソリの合わない弓兵だということはもはや気にもしていないらしい。
大いに食べて大いに飲み、それでもどこか品のある様子はさすが英雄として語られるものだと頷ける様子で食べ続ける。
店の主人とその奥方ともすっかり打ち解けてしまった男は、他愛のないやりとりでも全力で楽しみ、さっそくオマケをもらって喜んでいた。
適度にアルコールの回った頭で杯を傾けながら少しは足しになったかと思考する青年は、自分の方は流石に飲みすぎたかと、残った水を喉に流し込む。店を出る時に立てないなどという醜態を晒すわけにはいかない。
「さて、ご満足いただけたかね?」
「おう。めちゃくちゃ美味かったわ」
「ではそろそろお暇するとしよう」
店主に声をかけて会計を済ませ、見送りに出てくれた婦人に弓兵は笑顔で会釈をし、槍兵は手を振った。
振られた男の手は、勢いのまま青年の肩に落ちる。
「……離したまえ」
「かてーこと言うなよ。なぁ、オマエ。なんだってあの店の常連になってんの?」
ぐわん。
揺さぶられて視界が揺れる。
やめろという声は形になったのかどうか。
「おい、アーチャー?」
訝しげな声音。
ここまでは思惑通りだ。ならば意識を失う程度の迷惑は許されよう。その方が言い訳にも事欠かない。
かなり酒気の回った頭は普段ならば絶対にしない思考を許して、そのままブラックアウトすることを選ぶ。
「おいおい。オレにテメェを担いで帰れっていうのかよ」
「知……らん」
面倒ならその辺に捨て置け、と。
半ば本気の呟きを残して青年は完全に意識を手放した。
後にはぐったりと脱力した大柄な体を支えたまま、途方に暮れる槍兵が残される。
溜息をひとつ。
「にゃろう……オレがやらないのをわかってて言いやがったな」
この弓兵は、赤い少女の要請に付き合ったランサーへの礼と言っていたが、それならば自ら進んで弱いらしい酒を仰ぐ必要はない。だとすれば酔潰れるところまで計算のうちと考えるほうが妥当だろうと、たらふく摂った食事から多少魔力を補給できた槍兵は思案する。
「ったく……限界は弁えてるってそういうことかよ」
色気の欠片も無く、よっこいせと声を出し、青年を肩に担ぎ上げて歩き出す。
まさか告げられた言葉が、潰れないための量ではなく、あえて潰れるための量とは恐れ入った。
溜息は秋夜の気配に溶ける。
時刻はまだ宵の口と言ってもいいあたり。
霊体化もできない状態で成人男性一人を抱えたまま移動するのは目立ちすぎると判断し、目に付いたホテルに足を踏み入れる。
起きたら嫌がりそうだとは思ったものの、思い留まる気は毛頭なく、存在を主張するパネルから適当な部屋を選んでチェックインした。
部屋に辿り着いてから、よく確認せずに選んだわりには奇抜な部屋でなくてよかったと胸を撫で下ろす。
「よ、っと」
担いで来た体を寝台に下ろし、様子を伺う。
馬鹿なやつだとは常々思っていたが、ここまでとは思わなかった。そんな槍兵の感想は、おそらく赤い少女が居れば確実に同意してくれただろう。
だが、呆れたような評価に異議を唱える者はこの場におらず、呟きはただ似合わぬ部屋に吸われて消える。
さらり。
投げ出された手足を避けるように傍に腰掛けて、少し乱れた白の髪に触れた。在り方を体現する過程で色の抜けたそれは、想像よりは柔らかい。
最初から食事の意味を違えていなかった青年は、二重の言い訳を必要としたのだろうか。
「わかりにくいんだよテメェは」
むに、と。寄せられて皺が刻まれた眉間を指でつつく。聞こえていないだろう文句をぶつけ、僅かに身動ぎしたものの起きる気配はないのを見て取って、苦笑を落とした。
せっかくだからシャワーでも浴びるかと立ち上がる。
そういう用途のホテルに入ったのだから、特段驚くこともないのだが、広い浴槽とシャワーが付いたバスルームの壁面は透明になっていて、今は撃沈している青年の様子を見るのにも苦労はしない。
万が一シャワー中に起きたとしてもすぐにわかるだろうと判断して、男は恥もなくその場で全裸になると、くしゃりと髪をかき回して扉を閉めた。
シャワーを浴びると言っても本来なら不要なことだ。だからこれは気分の問題に過ぎない。
次点としては時間潰しか。
水音に紛れる溜息は本人の耳にすら届かない。
カラスの行水のようなシャワーを終え、備え付けのタオルで雑に水分を拭いながら寝台の傍まで戻る。
はたり。
まだ目を覚まさない顔を覗き込めば、タオルの恩恵を受けられず、飛び出したままだった前髪の先から落ちた水滴が褐色の肌を滑っていった。
「あ、わり……」
聞こえていないのはわかっていたが、謝罪は勝手に口から滑り出る。
涙の跡のようにも見えるが、英霊の生まれないはずの時代に死後を売り渡す決断をして力を手にしたこの青年は、泣くことすら忘れてしまっている。
だというのに。求められるままその身を差し出すことを躊躇わない。そんな歪なことを、息をするよりも自然にできてしまうのだ、この真性のお人好しは。
頬から耳元まで流れた雫をそっと指先で拭う。
唐突に聖杯戦争が再開されたこの街において、彼の正体は関係者全員に知れ渡っていた。それに対するマスターやサーヴァント達の反応は概ね同じ。愚かだとしながらもその決断を否定しきれない彼らは、己が語ることではないと黙することを選んだ。
槍兵もその一人で、彼の正体を知って得た感想は、つくづく難儀な奴だということだけ。
知られているとわかった上で、この弓兵は全く態度を変えず、顔を合わせれば皮肉を投げてくる。
そんな彼が。
「どうせ多少酔ってる方が派手に出血するから楽だろうとか考えたんだろうが……」
さて、どうしてやろうかと零して。
意図して選んだわけではなかったのだが、せっかくそういうことをする場所に入ったのだ。どうせ摂取するなら効率の良い手段を考えるのは自然なことだろう。
なによりも。先に美味しい飯を与えられてしまった舌が血の味を拒否していた。
実体化したままで多少動ける程度まで補給をさせるついでに下準備をしよう程度の飲酒だったのだろう。そんな彼は美味しいものを食べた後の自然な反応を失念している。それでも、自分が与えたものが原因で血液からの摂取を拒否されるというのは計算外だったに違いない。
酔っ払い損だったなと笑ってやって、無防備に腹を晒す体を寝台の真ん中まで押しやる。
普段の礼装より防御の薄い黒いシャツから覗く褐色の肌に興味を惹かれて、ぺろりと端をめくりあげた。
引き締まった腹筋が見えたのと同時。外気に触れたことで無意識に身震いした青年の眉が動く。
「ん……ぅ」
「お?」
うっすらと顔を見せた鋼の瞳が一度、二度と戸惑いながら瞬かれるたびに、怪訝そうな色を濃くしていく。
「ここは……?」
「一番近かったラブホ」
「ら……」
絶句した青年にからりと笑いかけた男は、テメエを抱えてうろうろしてたら不審がられるだろうがと、最もな理由を口に出す。
「人攫いとか言われてケーサツの世話になったらあの女に何されるかわかったもんじゃねぇからな……」
本気で怯えているらしい口調に、絶句したはずの青年の表情が崩れる。
「ランサー。女性マスターをもつ身として忠告するが、どんなことであっても悪口はやめておいた方が懸命だぞ」
彼女達はなぜか野生の勘とも言うべき鋭さで己が貶められている発言を察知する。
「あー……そうするわ」
ぶるり。男は不意に襲い来た寒気に身震いして、そのまま身を倒して厚い胸板に懐いた。
シャツに触れた髪から染みた水が青年の胸元を濡らす。
「きちんと髪を拭きたまえよ」
「言うことそれかよ」
「他に何を言えと? ああ……勝手に腹を満たして捨て置いてくれて構わなかったのだが、余計な手間を取らせたようだ。流石にベッドを汚すのは申し訳ない気がするので浴室に移動するかね?」
シャワーを浴びる時に解いたため、今は奔放に背に流れている湿り気を含んだ青の髪を指先で遊ばせながら落とされる青年の言葉は、当初の予定通りの供給方法を示唆している。
「よくわからねぇが……おまえさん、そういう趣味でもあんのか? どうしてもそっちの方が好いってんなら移動するのも吝かじゃねぇがな。問題はねぇし、面倒だからこのままココでいいだろ」
何を示しているかはわかったが、男はあえて主語を抜いて応えた。余計な手間は少ない方がいいというのには全面的に同意できる。
「趣味とはどういうことだ? いや、君がこの場で問題ないとするのなら構わないが……」
「ま、そのへんは心配すんなや。殺人現場のようなことにはならなねぇよ。多分な」
「わかった。それではこの後は全面的に君に任せよう。必要なことがあったら言ってくれ」
まな板の上の鯉よろしく力を抜いて四肢を投げ出した青年に、男はあえて真面目な声で承知したと返す。
確かめるように心臓の位置に触れればびくりと身を強張らせるが、サーヴァントとなってもなお、そこは弱点であるのだから当然だろう。戦闘状態にないとはいえ本来ならば敵同士なのだから恥じる必要もない反応なのだが、自らの身を差し出す決断をした彼にとっては表に出したくないものだったらしい。
サーヴァントの身からは血が流れるが、一瞬で霊核ごと破壊されれば塵となって消え去る。
先の言動と噛み合う行動を取ってしまったことに気付いて、男は苦笑を零した。
「ああ、悪りぃ悪りぃ。テメェの心臓ぶち抜いて喰らおうなんざ思ってねぇから安心しろよ」
そもそも美味い飯のあとに美味くもねぇ肝食いとか御免被るしな。笑いながらの言葉は本音。
心臓は生き物にとっての重要な器官であり、それはサーヴァントとて変わらない。
いくら仮の肉体と言えど、生物としての致命傷は霊核に深刻なダメージを与えるものと同義。
だからその仕草はただの興味。
「アーチャー。直接見てもいいか?」
「君が気にするようなものは何もないと思うが」
「そいつはオレが決めるさ」
言いながら指先はシャツのボタンを外していく。
はらりと前を寛げて露出させた濃色の肌は滑らかで、特に目につく傷があるわけではない。
先ほどと同じように指先を心臓の位置に触れさせる。今度は特に反応を示さない体に内心苦笑を零した。
安心しろなどという言葉を信じたのだろうか。それが少し面白い。
「確かになんもねぇな」
くつり。思わず零れた笑みに、青年が怪訝そうな顔で首を傾げる。
「……だから言っただろう。気は済んだかね」
「そうさな。まあ、別に傷を探したかったワケでもねぇ」
「ならば余計に無意味だろう。こんな男の体など、見て楽しいものでもなかろうに」
呆れを隠さない溜息には目を細めて応える。
いかにも筋肉に興味がありますといった体で指先を滑らせ、力が入っていないために柔らかいそれを楽しそうにつついた。
「そうでもねぇぜ? 綺麗に筋肉の付いた、イイ体してるからな」
扱うエモノと、戦闘スタイルの違いがよく出てると思わないか、と。丁度良く裸になっている己の体と比べるように寄せて、問いとも感想とも言えない言葉を落とす。
眉を寄せた青年からは、そんなことがしたかったのかと可愛げのない問いが返った。
「まさか。その筋肉があるから、どこから齧り付くのがラクか考えているって話だろ」
かなり適当なことを言ったが、寝台に横たわったままの弓兵はそれで納得したらしい。
こいつ大丈夫かと一瞬本気で思う。
「ふむ。痛みには慣れているし、抵抗するつもりはないのだが、確かに君の言う通り、筋肉の量によっては効率が悪いだろうし、私としても反射による行動はどうにもならない可能性はあるな」
「まー害されるのをわかっていて無抵抗ってのは戦士じゃねぇ。オレにもオマエにも遠い話だな」
それならばどうするか。
どうにも思考が凝り固まっているらしい青年に、別の方法をとるという頭はないらしいと判断する。
「ま、とりあえずは味見といくかね。どれだけ必要かもそれでわかるだろ」
すん、と。わざとらしく鼻を鳴らし、身を伸ばしながらさりげなく乗り上げて動きを封じてから、ぺろりと口の端を舐め上げる。
「何を言っ……」
むぐ、と。予想通りに小言を吐き出そうとした唇を塞いで舌を捩じ込む。
噛まれる危険性を考慮して念のために顎も固定したが、驚いた様子のまま固まっている青年が抵抗を見せるそぶりはない。
瞳を伏せない口付けは甘さを纏わず。別種の生き物のように青年の口内を貪る舌先が、じわりと痺れるような魔力に触れた。唾液に溶けたそれを味わう。
混ざるように仄かに香るのは酒精だろうか。
応えることがない相手の舌は放置して口蓋を擦れば、小さな呻きとともに曖昧な息が零れた。
息をすることすら忘れているのではないかと思う様子を怪訝に思って唇を離せば、はく、と一度開閉したそれが酸素を求めて喘ぐ様子を見てしまう。
そんなに無防備でいいのかと思うが、唇を滑り出たのは全く別の言葉。
「うめぇ」
「な……にを」
乱れた呼吸のままで抗議の声を上げようとした青年は、男の顔を見て絶句する。
熱に浮かされ、燃える色を深くした瞳が、縫い止めている視線と体を射抜いた。
捕らえた獲物を喰らわんとする獣の顔だと認識する。
「……アーチャー」
呼気には熱が篭り、唇から零れる。
再び重なり、思うままに口内を蹂躙して唾液を啜る舌を軽く噛んだ青年の無言の抗議は、獣の欲望を纏う男に対しては、火に油を注ぐ結果になったらしい。
男は味見と言った。確かに、体液という意味では唾液も血液もそう変わらないだろう。
青年の頭は混乱したまま。考える前に疑問が溢れ出る。
血液で提供するという話だったはずが、どうして唾液による授受にすり替わっているのか。
全力で貪りにくる唇をどうにか躱しながら、僅かな合間に問いを投げる。
堪えるような表情で身を引く男が名残惜しそうにそれを舐めた。
はたりと胸元に触れたのは飲みきれなかった唾液か。それすら勿体ないと掬って口に運ぶ男の姿に眉を寄せる。
「いいから、このままもっと喰わせろよ。その方が加減がしやすいだろ」
「……加減をしなければならないほどかね」
「ああ……どうにも予想してたより深刻らしくてな。血液摂取のためにテメェに齧り付いたら最後、理性保てる自信がねぇんだわ」
流石に消滅するまで啜られる気はないだろうという問いには素直に頷くよりなく、青年は少し思案した後に再開された口付けに応えて自ら舌を絡ませた。
驚いたような気配に効率の問題だと返し、体勢を変えることを提案する。
「甚だ不本意ではあるが……私も今離脱するつもりはないのでね」
「ああ。それでかまわねぇよ」
それまで上に乗っていた槍兵はごろりと横に転がり、肘を支えに多少上半身を持ち上げた弓兵が覆いかぶさるように体勢を変え、躊躇いを含みながらも唇を寄せた。
迷いがある分だけ鈍った距離は、待てないと伸びた男の腕に詰められる。
「ん……」
しっかりと頭の後ろに手を回され、歯がぶつかる勢いで合わせられた唇。
飢えをそのまま伝えるかのように入り込んだ舌が反射で溢れる唾液を絡め取っていく。
幾度も角度を変えて擦り合わせ、重力に引かれるままに落とすそれを貪る唇が痺れるまでになって、やっと少し息を吐いた。
「ランサー、まだ正気かね?」
「ああ……いや、結構正気じゃねぇかも。なにせ勃った」
「ふざけているのかね?」
軽い調子の槍兵に対し、弓兵の声音は氷点下の温度。
「いんや、大真面目。あんな情熱的に応えられたら反応しても仕方ねぇだろ」
「ほう。キサマが男も守備範囲とは知らなかった」
生理現象であって決して自分は悪くないという言葉に、弓兵は言葉どころか溜息までも氷点下に落とす。
途端に寄った眉間の皺を楽しそうに見遣った槍兵は、青年の白い髪を掴んでいた手を滑らせると、くしゃりと前髪を乱してやった。
中途半端に落ちた前髪で童顔に見える分、それまでの剣呑さが多少緩和される。
「男ってか……オマエだからだな」
「は……?」
何を言われたのかわからないといった表情。珍しいと思いながらも、男は晒されたままの胸元に額を擦り付ける。
そのままの体勢で彼は口を開いた。
相手が男だろうが女だろうが、その気になるのは相手個人の魅力に付随するところが大きいだろう。
愛を語り、守りたいと思う女性と番うのも、背を預ける戦友に信頼の証として許すのも、戦闘の高揚を発散するために僅かな休息の中で相手を求めるのも。それが男でも女でも変わらない。
したいと思った相手でなければ自らの欲を告げることはないと言い切れば、戸惑いに青年の肩が揺れた。
必要以上に深刻に捉えているらしいと判断した男の唇からは苦笑が漏れる。
「そうさな……特にオマエに関してなら、本気の戦闘を今すぐ再開したいくらいには執着してるぜ? ま、不可能なんだがな」
「君にとってのそれは殺し合いと同義かね」
言葉と共に呆れの割合が多い溜息。
戦闘と性行為を同列に語る男の胸中を見定める術を青年は持たない。
「ああ。だが一応今は休戦中だ。そもそも、この狂った時間軸では十全に魔力を補給することなんぞ見込めん。やりあおうとは思わねぇよ」
そんな状態で対峙していい相手ではないとの告白に、ただの掃除屋風情にその評価は分不相応なのではないのかと揶揄を含んだ声。
男は瞬時に身を起こし、燃える瞳で相手の視線を捉えたまま、怒りを全身に乗せた。
「オレがオレ自身のために決めたテメェの価値にテメェが口を出せることはねぇよ」
本気の怒気に驚いた青年はそのまま動きを止め、長い硬直から脱した後で、一度堪えるように瞼を落とす。
「……すまない。確かにその通りだ。過分だとするのは私の私に対する評価であって君のそれとは別物だ」
一度、二度。
深く息を零す唇が音を紡ごうとして失敗する気配。
槍兵は何も言わず、静かに先を待つ。
「そうだな……君のその評価に見合うよう精々腕を磨くとしよう。この心臓、容易くとれるとは思わぬことだ」
待った時間に見合う、どこか笑みさえ含んだ穏やかな言葉が空気を揺らしたのに、槍兵は上等だと牙を剥いた。
怒気を乗せていたはずの瞳は笑みに塗り替えられ、力を失った体は寝台の上に落ちる。
「まあ、ってもこの体たらくじゃあな……一応オレにもまだ役割ってモンはあるみてぇだし、結果を見届けるまでは消えんつもりなんだが、そろそろ本気で何らかの手段を探すべきかねぇ」
「先ほどのは足しにもならなかった、と?」
「いんや、かなり有難かった。おかげでまだマトモに会話できてるからな」
節約のために霊体化するとしても、そのままだと補給手段に困るのが難点だな、などと。今後の身の振り方を考え始めた男は、何もしていないというのに気怠げに四肢を投げ出してシーツに懐いている。
その姿は裸にタオルを巻いただけのままで、礼装を編み直すのすら面倒だと放置されていた。
現在柳洞寺に居を構えるキャスターならばともかく、ランサーである男に魔力だけを他社から拝借するような便利な能力はない。また、アーチャークラスのように単独行動スキルも持たない彼は、まだ消滅していないのが不思議なくらいギリギリの場所にいるのだろう。
「もう少し魔力を渡しても構わないのだが」
「んー……いや、やめとくわ。そっちだってそう余剰があるわけじゃねぇだろ? 嬢ちゃんとの契約が切れてんのは知ってるぜ」
「彼女はロンドンに行っていたからな……確かに私と彼女の契約は切れている。だが、現界にあたっての楔としては繋がっているし、不足する魔力の補給手段としてこの地の霊脈を使用する許可は貰っている身でね。霊脈からの噴出が強い地点で変換の術式を展開し、数時間ほど籠もれば現状困らない程度には補給も可能だ。君よりはよほどマシな状態だと思うが?」
「なるほど。嬢ちゃんらしいな」
聖杯戦争が終わったはずの世界に留まる己のサーヴァントを、そのまま縛ることをよしとしなかった彼女の苦肉の策なのだろう。
本来なら、聖杯戦争が終結してなおサーヴァントが残るなど、ありえないはずの状況だ。
だが、可能性のひとつとして定義された関係は、誰かを思いやる心根が回りくどく絡まっている。
世界は願いに満ちている。それがどんなに無意味で、悲しい願いでも。
「それにな、ランサー。この事態はおそらく彼女の計算のうちだ。でなければ、あの場にマスターがいるセイバーやライダー、凛と繋がりがある私はともかく、無関係であるはずの君をわざわざ引っ張り出したりはしないだろう」
弓兵の言葉はあまりにも的確に状況を説明していた。
確かに関係ないとも言える集まりに、わざわざ拉致同然に引っ張り出されたのだ。他の思惑を考えて然るべきだったのだろう。思考すら鈍りきってるなと己を笑う。
「ああ……まったく、いい女だな」
「手を出すことは許さんぞ」
男の呟きは純粋な感想だったのだが、それにすら条件反射のように釘を刺してから、少しだけばつが悪そうに視線を泳がせてこほん、と咳払い。
「……というわけだ。遠慮する必要はないぞ、ランサー」
切羽詰まっているところまできているのは確か。
彼女がどこまで知っているのかは不明なものの、今後何が起こるかわからない状況で、なるべく多くの保険をかけておきたいということなのだろう。
槍兵を気遣うのも、そのため。
最後の夜まで離脱は許さないということだと理解する。
結局駒を進める要になっているのはあの少年一人。
「せっかくだ。その好意、受けさせてもらおう」
ただし一つ我儘を言わせてくれと続けて言葉を切る。先を告げた時にこの青年が無条件で受け入れた場合は殴りそうだ、などと。感傷にもならないを心情を吐露したら笑われるだろうか。
「どうした?」
「……血液摂取はナシで頼む」
躊躇った末に絞り出したのはそれだけ。弓兵の眉間に皺が刻まれたのを見て、予想通りだと目を伏せる。
「いや……だがそうすると方法が……」
「さっきと同じでいいさ。まあ、多少まだるっこしいが、理性吹っ飛ばしてテメエを消滅させるよりマシだからな」
逃げるための理由は軽く、笑みさえ含んで困惑したままの青年に届く。頭痛を堪えるような仕草をしながら、一つ尋ねるが、と問いを絞り出した。
「現在の君のマスターは一体どういう供給の仕方をしているのかね」
「そっからか? あー……本人の主張によると、自分は神に祈ることしか取り柄がない普通の人間です。あなたがたがどれだけ有名な英霊かなど私には与り知らぬところですし、同時契約など手に余りますが、必要とあれば仕方がありません。繋がりは最小限に済ませますので、あとは自分達でなんとかしてください……だそうだぜ。素直に頷いた金ピカもなんか意図があるのか、ガキになってることが多いしな……」
おそらく口調を真似ているのだろう。淡々とした声音は気味が悪い。
人類最古の英雄王と、アイルランドでは現代に到るまで国民的な人気を誇る大英雄を捕まえてその扱い。
余程の大物か、はたまた本当に何も考えていないのか。本人を知らない以上、どんなに考えても答えなど出るはずもない。
「なるほど。かの王はアーチャークラス故に君ほど問題がないのか」
「そーいうこったろうな。まあ、あとは役割の違いもあるだろうぜ」
オレは駒を一歩世界の外側に進める役目で、アレの役割は押し掛けの助言者だ。
金の王は本来の能力故か、色々と世界の裏側を把握しながらも黙っている節がある。実際ちょろちょろと動き回ってはあちこちに首を突っ込んでいるみたいだからな。
言いながら、求めに応じて横向きになっていた体を仰向けに変更する。
その上に近付いた青年は、相変わらず頭痛を堪える表情ながらも、頬に張り付いていた男の髪を払った。
「どうにも難儀なことだな」
「まったくだわ」
会話は途切れ。重なり合った唇の隙間からくちゅりと水音が逃げ出す。
絡む舌と、溢れるに任せれられた唾液。こくりと動く男の喉が、言葉よりも雄弁に足りないと告げる。
雛に餌をやっているようだとの感想は、状況を鑑みればごく自然な発想だっただろう。足りないならもっと強請ってもいいようなものだが、この男は相手の負担を考えてそれをしない。
ふと先の言葉の真偽を確かめたくなって、青年は唇を合わせたまま、無造作に片手を男の下肢に伸ばした。
くぐもった悲鳴。おそらくは、罵倒を飲み込んだのだろう。思考と時を同じくして指先に触れたのは、確かに欲の在り処。慌てたように首を振って唇から逃れた男は、いきなり何をしやがると文句を落とす。
「ただの確認だよ。血液の摂取はダメだと君は言ったが、他は聞いていないのでね。試してみる価値はあるかと思うのだが?」
「何言ってんだ。テメェ、そんな経験ねぇんだろうが」
「そうだな。私が生きた時代では、同性同士のそれはあまり公にするものではなかったのでね。それでも皆無というわけではなかったから、多少の知識はある。それに、魔術的な供給手段としては一般的だろう」
「そりゃお互い無理せず可能な場合に限るだろうが」
魔力、あるいは魔術回路。それらを繋げ、効率良くやりとりするための手段として用いられるやり方を仄めかす弓兵に対し、拒否を示す槍兵の態度は、己の状態ではなく相手を気遣うが故。
「私には無理だとでも?」
「さっきの話だと、テメェは男とどうこうって考えたことねぇんだろ。だいたい勃つのかよ」
「私の状態は無関係だ。君のものが用を足せるなら問題はあるまい」
男の腰回りに纏わり付いている大判のタオル越しに触れさせた指先は、確かに主張するものを捉えている。この様子だと問題無さそうだがと告げれば、呆れたような溜息が落ちた。
「あのなあ、弓兵。わかってねぇみてーだからもういっぺん言うぞ? テメェの言ってる手段は、オレだけがどうこうしてなんとかなるものか?」
前提条件を間違っていないかと告げる槍兵に、不穏な動きをする手を止めないままで、青年は首を傾げた。
「なんのことだ?」
「知識はあるんじゃなかったのかよ、この大たわけが」
不穏に下肢を弄ってくる手は放置したまま、軽い罵倒を吐き捨てた男はさっさと相手の下衣に手をかける。
言葉通りなら抵抗などあるはずもなく、案の定、意図を察して自ら腰を浮かせる程度の手助けすらしてみせる青年の欲は全く反応を示していない。
「さっきのテメェの言い分だと、オレが突っ込むことができれば事足りるってことだな?」
「なにか異論が? この身はサーヴァントだ。君に負担を掛けるのは本意ではないが、ある程度強引に進めても大事にはならないだろう」
「なるほど。どこを使うかくらいはわかっているし負担があることも承知の上、と。じゃあ最初からだな」
服を乱した青年の胸にひたりと己のそれを触れさせて、顔を寄せる。
近いとの文句はさっき散々唇を合わせておいて今更だと封じて、べろりと顎先を舐めた。
「今のオレはランサーのサーヴァントだ。細かいことはよくわかってねぇから間違っていたら指摘しろ。テメェもある程度の知識はあるんだろ」
「魔術師を名乗るのも烏滸がましい程度の者だが、それは関係ない話かな。承知した」
青年の了承を得た男は、密着したままふわりと唇を合わせる。触れるだけで深くならないそれは、動作を示すためのものだと気付いて、青年のほうも、何も言わずに次の言葉を待った。
「まず、体液からの直接摂取。これはそこに溶けている分だけそのまま補給できる」
「そうだな。唾液、血液……体液に限らず、肝喰いを含めた生体丸ごとの取り込みや魔力を溜めた物質の直接摂取もこれに含まれる」
「肝喰いまでいくと、元来陰険な連中か、真っ当なやつでもよっぽど切羽詰まっている状況じゃねぇとやらない手だな。そんなことをするくらいなら消えた方がマシっていう奴も多い。ま、このへんは明快だから間違いようもねぇ」
ひやりと。言葉を落としながらも、どこか心臓が冷えた心地がした。
首肯を返す青年の様子を見た男は、次はあれか、と。くるくると指先を回して宙に抜けるような仕草をする。それだけで意図は伝わったのだろう。言葉にする前に弓兵のほうから口を開いた。
「第二に、魔力とは人の生気、生命力そのもの。故に肉体を損傷せずとも、生気だけを効率的に奪う術があるのならそれを糧とすることができる」
「当たりだ。ま、大規模に実施してくださったのがどこぞの引き籠りキャスター様なわけだがな」
「そうだな。ついでにライダーも追加しておくかね?」
穂群原学園で起きた昏倒事件を思い出した弓兵が口を挟む。あの騎兵は存在した時代が古い上にどちらかというと反英霊に属するため、その手段を有している。
「そういやそうだったか。ま、オレらみたいなのにとっては使えない手段だってのは確かだな」
「ああ。そんな器用な真似ができるのならこのような事態にはなっていないだろう」
お互い言葉を切って、本題に入る前に小休止。
ふ、と。どこか気が抜けたような息を零したのを機に、男はすでに密着していた体を固定するかのように足を絡ませた。疑似的に繋がっているかのような体勢で、言わんとしていることは理解するだろう。
「で、だ。残るは正規にしろ疑似的にしろ、パスを繋いで受け渡す方法だ。オレには覚えがねぇが、マスターからの魔力供給に支障がある場合なんかでも使われるな」
パスを繋ぐと一言で言うが、方法は様々。その中でも、繋ぐ、一つになる、という見立てがしやすいことから、性交が手段として用いられる事例は多い。こと人類史において、宗教にしろ民間伝承にしろ、神や魔と結ばれることに用いられて来た例は事欠かず、想像しやすいという背景があるのだろう。つまり、相手と同じものを感じ、己と同じだという認識が、本来己の中でしか生成・貯蔵できないはずの魔力を、他者に渡すことが可能という新たな認識を己の中に作りあげる。
実際のところはそんな単純なものではないのかもしれないが、使役される側であるサーヴァントの身にわかるはずもない。
長広舌に頷く弓兵の様子から、だいたい同じ認識を持っていることが伺えた。
「強い魔術師なら自己暗示の言葉一つで認識を切り替えることができるのかもしれんがね」
「ああ、その手のやつは……もしかしたら柳洞寺のキャスターや、赤い嬢ちゃんなら可能かもしれんな」
「いずれにしろ、我々には無縁の話だ。つまりは基本に立ち返るということになるが……」
溜息とともに押し出された青年の言葉に頷いて、やっと本題だと男のほうも息を吐いた。こんな状況で、呑気に認識を擦り合わせているのが可笑しい。
「じゃあ聞くがな、アーチャー。オマエが提案した方法ってのは、魔力のやり取りをするためにオレとオマエとで擬似的にパスを繋ぐってことをするだろ?」
「ああ。そういうことになるな」
「それに介在する共通認識ってのはなんだ? オマエが、一時的にオレを己の一部と認識して魔力を流せるだけの繋がりを持つものだ」
ただ肉体的に繋がればいいというわけではない。
パスを繋ぐというのは見えない道を作るのと同義だ。合意とはいえ、それを為すだけのものをただ事務的に突っ込まれただけで果たせるのかと槍兵は問う。
「それは……性交を媒介とする以上、快楽ということになるのだろうな」
「おう。んで、その快楽を真っ先に否定しやがったテメェは他に何を使うつもりだって聞いてんだよ」
速攻で叩き落としてやれば、前提が間違っていると言われた意味にようやく気付いたのだろう。完全に沈黙してしまった弓兵を宥めるように何度か軽く背を叩くと、男は性交に見立てていた体勢を解いた。
「ま、そういうこった。義務でするセックスなんざやめとけ。なんも得られはしねぇよ」
「どうにも耳の痛い話だな」
合わせる顔がないというように顔を覆い、背を向けて丸まってしまった青年に苦笑する。
めくれ上がったままのシャツの裾から見える体はしっかりと成人した男性のものだというのに、仕草がまるで拗ねた子供のような印象を与えて、上半身を起こした状態でそれを見下ろした男は、背の中心、心臓の裏側の位置に口付けた。
ふ、と。熱を送るように細く触れさせる息は、祝福と言うには戯れの色が強く、欲を煽るには静かすぎる。
「……私を笑うかね」
「いんや。そうさな……むしろオレとしては、そこで義務じゃないセックスを教えてくれとか言ってくれるほうが燃えるんだがな」
「たわけ。いや……それは私のほうか」
青年が抵抗しないのをいいことに、背にぴたりと張り付いて腰に腕を回した男は、動物のように肩口に懐いた。そのまま落ち着いて瞳を隠せば、じわりと混ざった体温に飢えの気配が滲む。
ランサー、と。
青年は名を呼びながら回されていた腕をとり、指先に口付ける。気配が己に向いたのを感じながら、口付けたばかりの指先に舌を絡めた。
怪訝そうな空気を背に感じながら自嘲気味に薄く笑った彼は、触れている男の体が小さく身動いだのに満足する。
「そもそも私は肉体の欲求も忘れて久しい身だ。だからまずは、君の快楽を教えてくれ」
「テメェの体で?」
「……ああ」
実地のほうが得意だろう君は。
少しだけ調子の戻った声には笑いの気配が滲む。
合わせるようにいいぜと告げた男は、半身を捻って振り向いた青年の唇を舐めた。
「んじゃあまずはそれっぽいキスからだな」
「いちいち言わなくていい……ん」
触れさせるだけの口付けを繰り返し、子供同士の触れ合いのようだと笑った上で舌を滑り込ませる。
差し入れ、絡ませ、時折引いて吸い付き、再び差し入れて溜まった唾液を掬う。本気で仕掛ける男の舌に必死に応える青年は先程とは違い緩く瞳を隠していた。その意識の違いに本気を感じ取った男は、自らも視界を遮断する。
交わされるのはまるで恋人同士のような口付け。
口内で蠢く舌で己の快楽の在処を告げれば把握したと返すように同じ場所を辿って来る相手の舌。触れている時間が長くなるほど、慣れていないせいかうまく呼吸の合間を見つけられないらしい青年の息が乱れる。
「だいぶ飲み込みいいんじゃねぇか?」
「そちらは履修済みだからな。多少の応用くらいはできなくてはつまらんだろう」
弾む息を整えながら放たれる声に乗る嫌味にはいつもの棘が無く、どちらかというと翻弄などされていないという虚勢が見え隠れする。
「上等。んじゃ次な」
このままだとやりにくいかと、再び青年の背を抱く格好で横になった男は前に回した手でゆったりと鍛えられた体の感触を楽しみながら軽く首の後ろを噛んだ。
びくり。大げさなほど青年の肩が揺れる。
「傷付けたりはしねぇよ。ただの甘噛みだ。オレは結構コレ好きなんだが、おまえさんはどうだ?」
驚かせたかと謝罪して、力加減は弁えていると言うように首の後ろから肩口まで、順に歯先で触れる程度の愛咬を繰り返す。
しばらくはされるがままになっていた青年だが、落ち着かないと細い声を零した。
「そうか。ならやめとくかね」
「いや、君が好きなことならそのままでいい。落ち着かないというだけで嫌ではない……と思う」
「わかった。コレも含めてオマエを傷付けないと誓う……が、嫌ならちゃんと言えよ」
すり、と。鼻先を擦り付けて、合間に熱を籠らせる呼気は興奮している証だと己の状態を告げる。
引き締まった腹を辿った手が向かうのは晒されたまま放置されていた青年の陰茎。
まだ柔らかく項垂れているそれに躊躇うことなく指先を絡め、形を確かめるようになぞりあげた。
「人種の違いかねぇ。なんか新鮮だな」
男の胸が触れている背は強張っているが、それは急所を他人に握られているが故の条件反射だろう。
大丈夫だと必死で己に言い聞かせるように息を吐く姿を認めて、しばし思考する。
「アーチャー、手をかせ」
「な、にを」
「流石に自慰したことすらないとは言わねぇだろ? オレはオマエのを触る、ならオマエはオレのものを触ればいいかと思っただけだ。それなら弱点を晒しているのはお互い様だし、実践もしやすいだろうが」
逡巡する間もないままにこっちを向けと告げられ、体を返される。意識は完全に指先。だが、手よりも先に唇が触れたのに気付いてゆるりと瞼を落とした。
完全に隠される直前、色を纏うことを拒んだはずの鋼が正面から捉えた相手の色を写して揺れる。
青年はもう口付けを拒まない。
舌根を擽り、口蓋を舐り、溢れる唾液を啜りながら、男は捕らえた相手の手を自らの性器に触れさせる。
青年のものとは対照的に、すでに芯を持ち始めている男のものは、ひくりと震えてもっと強い刺激を強請った。
「なんで、こんな……」
「んなもん、テメェとすんのが気持ちいいからに決まってるだろ」
「気持ち……いい……?」
疑問と期待が入り混じったような声。言っただろうと告げる男の声には苦笑が滲む。
気持ちいいと思うことをやっているのだから当然だと。お互いのものに触れたまま何度目かわからない口付けを交わせば、そちらのいいところは知っているとばかりに差し込まれた舌が暴れた。
「テメェの行動の結果をちゃんと見てろよ。オレが今興奮してんのは誰かってな」
今、快楽の主導権を握っているのは青年のほうだと告げる言葉。自ら急所を晒してなお自然体で余計な力の入っていない様子は、相手が己を害する気がないことを前提としたもので。青年の悩みなど無関係だと言わんばかりにふにふにと空いた手で胸筋を遊ばれれば、馬鹿らしくなったのか溜息が落ちた。
「……私がうっかり握りつぶしてしまうとかは考えなかったのか?」
「おま……なんつー発想するんだよ」
ぶるりと身を震わせる男を見た目元が僅かに緩む。
「んー……そうだな。さすがに悶絶してのたうち回りそうそうだから勘弁してほしいが……そうなったらそうなっただ。承知で体を許したのはオレだからどうも思わねぇよ」
それでもテメェはやらねぇだろ。
信頼をのせた言葉を紡がれれば、例え話すら馬鹿馬鹿しくなる。
「確かに行動に移すつもりはないが、そう面と向かって言われると……」
「落ちつかねぇか?」
「そうだな。だが、それを言ってしまうとまず私が君にこんな風に触れているというのがそもそも落ち着かない」
難儀な性格だなあと笑う。男は、悪戯をするようにゆるく包まれているだけの陰茎を擦り付けるように動かして、慣れろよと言い放った。
少しだけ握りこめば、鋭い息とともに熱が零れる。
己の行動ひとつで手の中のものが反応するのがわかっただろう。一瞬目を見開いた青年の体からは見るからに余計な力が抜け落ちた。
「君はそういう時だけ強引だな。だがそうか、これは気持ちがいいのか……」
まだ疑問を纏わせながらも穏やかに息を吐く青年に、気の向くままゆるゆると扱かれて、男は堪えるように表情を歪めた。
「ああ。だがな、弓兵。その続きはテメェが実感を持ってからにしろよ」
青年の手に己のものを遊ばせたまま口付けを強請って、自らも手を動かす。
何度も交わしたそれで告げた快楽は、青年の中に丁寧に欲の薪を積み上げ、弱い火を熾した。
根気強く快楽を告げながら刺激を続ければ、少しずつ反応を示した熱は首を擡げ、青年の唇から欲を滲ませた息が落ちる。揶揄の言葉一つ投げただけで即座に欲を手放しそうな危うさに、槍兵は無言のまま肌に吸い付き、首、肩と淡く噛む。さすがに怒られそうだと思った胸元は避け、そのまま手にしていた性器の先に口を付けた。
「な……」
制止よりも先に驚きで固まってしまった姿をちらりと見遣って、抵抗のないうちにと口内に引き込む。
驚きすぎて体を折った拍子に触れていた手が外れたことも気にしていない様子に笑みを零す。すぐに正気に戻らないようにと、含んだものに舌を絡めて丁寧に舐め上げ、手も使いながら水音を掬って擦り付けた。
自分が感じる場所を教えるように触れれば、痙攣したかのような震えが肌に伝わる。力任せに髪を引かれ、切羽詰まった声音が絞り出すように名を呼んだ。
大丈夫だからと告げるように、逆に先端を吸い上げる。
悲鳴に近い嬌声。
解放された欲を飲み下して男は笑った。呆然としている青年が後悔に沈むより早く、髪を掴んでいた手を外させて指を絡める。
「ちゃとできんじゃねーか。だがな、弓兵。掴むものが欲しいなら一言、手を寄越せって言えばいいんだよ。力任せに引っ張られてハゲたらどうしてくれる」
そもそもサーヴァントの身でハゲるのかは知らないが。
先ほどまで欲を煽っていたとは思えないほどの軽口に、うまく切り替えができない弓兵はただ無言で絡められた手に力を籠めるだけの抗議を示した。
正確に意図を把握しただろう槍兵は、揶揄の言葉の一つも落とさずただ笑って流してしまう。
「さてアーチャー。ここまででもキャパオーバーしてそうな感じだが、まだ先に進む意志はあるのか?」
「……実践しろというのなら、次は私の番か」
「あー……それでもいいんだが、今のオレがやたらと出すのはちょっとな。そっちはまた今度、オレの魔力量が十分な時に頼む」
槍兵は次を仄めかすが、おそらくはこの現界でそんな時は訪れないことはお互いが承知している。それでも了承するしかない弓兵は頷いて、では何をすればいいと不安そうな問いを落とした。
「その前に確認するが、おまえさんがオレを受け入れるってのは構わんのか?」
「くどいぞ。でなければ最初から言わん」
「男を相手にしたこともねーくせに強気だなぁオイ」
パスを固定する方法など知らない二人にできるのは、せいぜい体を繋げている間だけの限定的なパスを結ぶ程度。時間と効率を考えれば槍兵が受け手になるほうがいいだろうに、弓兵はそれを拒む。
問えば、考えるだけで死にたくなると告げられて首を傾げた。
「おまえさん、なんかオレを美化してねぇ?」
「美化もなにも……君は実際半神だろう。すまない、私がもっときちんと己を自覚していれば口淫などさせることも無かっただろうに……」
よくわからない方向に拗らせているらしい弓兵は、んなもんしたところで何が減るというわけでもないだろうと告げた槍兵を、殺気すら含んだ目で睨み付けた。
本気のそれに少々呆れるも、これ以上続ければさらにめんどくさい方向に拗れる話題だと把握した男は早々に降参の意を示す。
「わかったわかった。そんじゃ慣らすとこからだな」
「それくらいは自分で……何だ?」
「いや、オマエさぁ……ひとの楽しみを奪うなよ」
かぷりと軽く唇を噛んで文句を落とせば、どういうことだと本気の疑問が返る。そんな状態でも、ここまであれこれやった意図はちゃんと理解しているらしい。
さすがに無理矢理突っ込めばいいだろうと言わなくなっただけマシかと思って男はひそりと息を吐いた。
学習したのはなにも弓兵だけではない。
相手に極力手間を掛けさせたくないと思っているらしい彼を納得させるには自分を理由にするほうがいいと把握した男は、体勢を整えると己の指に唾液を絡めて青年の脚を開かせた。
羞恥はあるのかもしれないが、抵抗らしい抵抗は無い。
「オマエはどうか知らんが、オレはハジメテなら自分でやりたいタイプなんだよ。その方が興奮するだろうが」
そういうものかと納得する青年に、人それぞれだとは思うがと釘を刺すのを忘れず、固く秘された場所に指先を触れさせる。
周囲をほぐすようにゆるゆると刺激して。緊張が戻ってしまった体を宥めるように口付けをひとつ。
絡ませる舌の動きに応える様子を伺い、唇に意識を集中させるように誘導しながら指先を潜り込ませた。
「ん……ぅ……」
本来なら飲食の必要もなく排泄もないサーヴァントの身であるからこそこの程度の反応で済んでいるが、おそらくそうでなければ触れることすら許さないだろうとわかってしまうだけに慎重になる。
何度も唇を合わせ、時には呼吸を許さないほど激しく貪りながらも、後孔に潜らせた指は、快楽の種を育てるように弱く、弱く。少しずつ内を探った。
息が乱れ、酸素を求めて逃れようとする唇が、不意に高い悲鳴を零す。
「な、に……ラン、サー……これ……ぁう」
「ん。ココ気持ちいいか?」
問いに対する答えはないものの、意識せずとも締め付けてくる内壁が誘うように男の指を誘導する。逆らわずに触れた箇所を集中的に刺激すれば、こんなのは知らないと細い声が恐怖を滲ませた。
痛みも孤独も平気そうな顔で耐えるこの青年が、快楽と幸せには心底恐怖するのだと知って。内心でバカだと罵りながら、そんなことを考えられなくなるくらい快楽で埋め尽くして甘やかしてやりたいと、そんなことを思う。
傷付けてなどいないはずなのに、どこか痛みを感じる喘ぎが時間とともに部屋に降り積もっていくのが苦しい。
彼は決して嫌だとは口にしない。だが、もう無理だと何度目かの弱い懇願が耳に届いた。
本番で負担のないようにと執拗に内を解し続ける指は三本に増えており、慣らす間にも何度か達した弓兵はもはや息も絶え絶え。
解放を願うことしかできないと告げる声と熱に浮かされたような瞳。それとは裏腹に痛みを堪えるような表情は望んだものではないけれど。
「悪ぃがまだ解放してやれねぇよ。ここで止めるほうがテメェには屈辱だろうからな」
途中から唾液だけではなく潤滑剤も使っていたため、指を引き抜いた拍子にとろりと零れた液体をもう一度押し込むようにしながら、放置されすぎてとっくに限界を超えている己の欲を宛てがう。
もはや意味を持たない喘ぎを零すだけの唇を己のそれで塞ぎながらゆっくりと熱を埋めた。
時間をかけて解したとはいえ、流石に質量が違いすぎてきつい。ぎりぎり先端から中程までが潜り込んだ状態ではあるが、それでも。
入ったぞとまだ半ば唇を合わせたままで声をかければ僅かに目尻が緩んだのがわかった。むぐ、と。塞がれたままだった唇が言葉を紡ごうとしたのに気付く。
感覚が鈍いのか。どこかふわふわとした動きの手が触れたのは、慣らす過程で何度か精を吐いたために白く汚れた濃色の肌。
何かを確かめるように撫でながら白濁を指に絡め、胸元から腹。さらに下へと手を伸ばす。
過程で触れた、中途半端に勃ち上がっている己のものに一瞬複雑な表情を見せたものの、振り払うようにさらに伸びた指先は目的のものに到達したらしい。
槍兵の楔が埋められ、目一杯広げられた後孔の縁。
ゆるく周りをなぞった後、埋められたものに触れながら繋がっている部分を確かめる仕草に、煽られた欲を慌てて押さえ込んで、男はゆっくりと息を逃がす。
「……か」
「ん?」
散々に喘がせられ、掠れる声は聞き取りにくい。
求められるままに口元に耳を寄せると、熱が絡んだ息が言葉を紡いだ。
長い間弄られすぎて感覚が鈍いのだが、君はちゃんと気持ちがいいのか、と。
思いもよらぬ言葉に、ただでさえ予想外の仕草に煽られていた熱が暴走する。
「……ッ!」
「な……ッあ!」
堪える呻きと、掠れた悲鳴が同時。
「ランサー、きみ……」
「あー……もうほんっと勘弁してくれ」
散々もう無理とか言っておいて、いざ繋がれば気にするところはそこなのか。
男は弓兵の後ろを解す間、己のものは後回しにずっと我慢をしていたのだ。
そんな不意打ちに耐えられるわけがない。
「笑いたきゃ笑え。だが今のはテメェのせいだからな!」
「なぜ笑う必要が? 君のそれは、私の疑問への最上級の答えだと思うのだが」
純粋な疑問を口にする弓兵に頭を抱える。
脱力して倒れ込んだ男の腹との間で押しつぶされた青年のものが、くちゅりと腹の上の白濁をかき混ぜた。
「はー……なんでオレがこんなギリギリの状態で我慢してたと思ってんだよ。やり直しになったら負担が増すのはテメェなんだぜ?」
「らしくないんじゃないか? そもそも負担と言っても、もう多少時間がかかる程度のことだろう。必要なこととはいえ、さっきの地獄のような時間に比べれば些細なことだろうに……むしろ君の反応を直接感じられる状況でなら、さほど苦ではないと思うのだが」
少し掠れが混じるものの、男が一度達したことで圧迫感が減ったからか、青年の唇からは思ったよりも滑らかに言葉が紡ぎ出される。
気を使って損したと思っても仕方がないだろう。無意識に爆弾を放ってくるからタチが悪い。
ああ、と。なんとなく納得する。
この青年は、必要なことだとわかっていても、どんな形であれ、己だけが与えられていると思う状況が許せない。
だからおそらく。
この面倒臭く拗らせた存在に対しては、一方的に暴くのも、抱いてくれと迫るのもうまくいかないのだ。
それは男性はともかく、女性の影すら周囲にチラつかないことでも説明がつく。
赤の少女が契約で縛りたくない理由の一端になっている可能性も高い。
パスを通すだけならどちらが受け入れるかというのはこの際問題では無く、本当に望むならどちらでもいいと言う用意もある。だが、青年は自分がそうするなど想像ができないと告げた。快楽など忘れたと嘯くその裏にあるものを伺い知ることはできない。
実際問題、快楽の在処を告げ、その行為が気持ちいいことなのだと教えてやれば痛みを堪えるような表情をしながらも受け入れている様子ではある。だが、まだ手を取って導いてやらなければ触れようとしない。好きに触れてもいいと言ったとて、相手を良くしようと励むだけだろう。それは、必死に前を行くものを追うのに似ている。
この青年相手では、殺し合いのほうが余程情熱的な性交に近いと言えた。
自分は与えるもの、助けるもので、決して助けられるものではないのだと自らを定めきってしまった純粋すぎる愚かさを笑えるはずもない。
熱の篭った息を零す。
少しだけ納得した思考が、勝手に関係性を決めた。
求めることを放棄した身に相応しいのは、己の行動の結果が相手を煽るという実感。ならば、真実彼自身から出てくる欲でない限り、この身を明け渡すつもりはない。
使えるなら使えばいいと道具のようにその身を投げ出されるのも、求められた奉仕に精を出しすぎて彼自身の快楽を置き去りにされるのも気に食わない槍兵はどちらでもない選択をした。
彼がどんな形でもいいから欲を自覚し、求めること。それが自分にとっての快感であると告げること。
まわりくどくはあるが、その選択は考えられる中で一番マシだろうと認識できた男は溜息とともに目を伏せる。
いつか。
魔力のやりとりなど無関係に、ただ体を重ねて快楽を追うことはあるだろうかと考える。
その想像はどうにも遠く、うまく像を結ばなかったが。
実現させるために前向きに動くのも悪くはない程度には頭の隅に留めて。己の中だけで定めた誓いのために、目の前にあった胸、心臓の位置に口付けた。
「ランサー、その……君に触れても構わないか」
行動に何かを感じたのか。遠慮がちに問われた内容に首を傾げながら身を起こし、目を合わせる。
鍛え上げられた鋼の瞳には今は何の色も無く、それが惜しいとすら思う。
「なんでんなこといちいち聞くんだよ。それ、オレの許可が必要か?」
「……一応必要かと。なにせ私の手は汚れているのでな」
それは今という意味か、それとも。
どこか眩しいものを見るような表情は気に食わない。
「好きなだけ触ればいいだろ。ホレ」
わざとらしく軽い言葉を投げ、あえて汚れているほうの手を取って自らの胸に押し当てる。おそらくは即座に行動に移されたことで吐き出しそこなった文句が、もごもごと口内で咀嚼されていく様子を見下ろして笑った。
「そういうことではなかったのだが……」
「じゃあどういうことだよ」
押し当てられた手をそのままに、反対側の手で流れ落ちてきた槍兵の髪の先を引いて、もう少し近付けと告げる青年に、逆らわずに起こしていた体を倒す。
途中から髪を引いていたはずの手は、邪魔にならないようにと顔に掛かるのを阻止する動きに変わり、頬に添えられて誘導された先は唇。
逆らわずにいれば、青年のほうから伸ばされた舌。無言で受け入れれば的確に官能を引き出す動きをする。
零れ落ちるは何度目かの息と水音。
明確に煽るのが目的の口付けは、唐突に圧迫された下腹部に中断を余儀なくされた。
漏れた悲鳴を噛み殺して、弓兵は己の腹に手を当てる。
「ああ。まだどこか曖昧ではあるが……なんとなくならわかるようにはなったか」
「おま……いややっぱいいわ」
この青年が煽ってくる時は大抵無意識なのだ。追求しても徒労に終わることは目に見えている。
触れていた指先が少しだけ冷えて震えていたのには気付かないふり。
「今のは同意ととるが、構わんな」
「そうとれなかったかね? これでも精一杯誘ってみたつもりなのだが」
「よし、泣かす。ぜってー泣かす」
「やってみたまえよ」
いつも通りの口調の、いつも通りのやりとり。視線だけが逃げを許さずに強く絡む。
相手から仕掛けられた口付けだけで煽られるのをよしとする程度には楽しんでいると。言葉にしなくても伝わっただろうかと、伏せた視界に入った首筋に惹かれて歯を当てれば一拍遅れて同じような仕草を返される。
ぞくりと駆け上った快感のままに腰を押し付ければ、会話の間に多少馴染んでいたのかするりと入り込んで、奥を刺激された青年が悲鳴に近い喘ぎを零した。
唐突に魔力が巡り、視界が歪む。
同じ快楽を感じている、と。
こうも実感を伴って感じられるのは、果たしてこの青年にとっては救いか、それとも。
「ランサー、待ってくれ。意識……が」
もたない。
制止をかけられても、槍兵とて流れ込んでくる魔力で酔いが回っている。
極限まで飢えた身に好みの酒を流し込まれたようだと霞みがかった思考で考えても、喰らい付いた目の前の獲物を逃す選択肢は存在しない。
意味を為さない喘ぎと、荒い息と、粘着質な水音。
なるべく性急になりすぎないように注意しながらも、夢中で腰を打ち付ける。
「……も、う……ッア!」
大きくうねった内部に煽られて、男は抗わずに青年の内へと精を吐いた。一瞬跳ねた体は快楽を受け取ったことを示すように痙攣して、男の腹に擦れていた青年の先端からも欲が散る。
ぱちり、と。繋がった感覚があって、それまでとは比べ物にならないほどの魔力が流れ込んだ。
霞む思考。青の獣の口が牙を剥く。
満足するまで快楽を追い、足りなければ噛み千切って血肉を啜ればいいと告げる本能に、抗うための理性は酩酊し溶けきっていて、辛うじて引っかかった最後の違和感に、なけなしの魔力を通す。
「ぐ……ッが……!」
唐突に弓兵の体を守るように立ち上った光の帯が槍兵を縛りあげ、ぎちりと音がするほど締め上げられた男の唇からは苦悶の声が落ちた。
突然のことに呆けていた青年も正気を取り戻す。
「ランサー!?」
「あ、ぶねぇ……暴走するとこだったわ」
保険をかけておいてよかった、と。ぎちぎちに拘束されて青い顔をしながら安堵の息を吐く。
術の発動のために魔力量がほぼ空まで逆戻りしたことを嘆くものの、最悪の結果にはならなかったことの方を喜ぶ男は、重ねて拘束のための術を己に施した。
「気休めすぎてあまりもたねぇな。アーチャー、オレを拘束できるものを出すか、気絶させろ」
夜中なら人が減って咎められることも少ないだろうから教会の前にでも捨ててきてくれればいいと続ける。
「馬鹿か君は。もうパスは繋がっている状態なのだ。ならば、このまま魔力を回して待つほうが早い」
達した余韻を味わう暇などなく動かされた体は怠いはずだが、怒りがそれを凌駕したのだろう。
暴走しかけている男を拘束できるような武器など咄嗟に出てこないが、原因が魔力の消費にあるならば、多少でもそれを抑えることができればいいと思い至る。
結果、ばさりと広げられたのは鮮やかな赤の布。
「とりあえずそれを羽織っていてくれ。魔力の流出や世界からの干渉に対して多少の防御効果を持つ礼装だ」
「こ、れ……テメェのだろ」
「ああ。他人に渡したことなどないからわからないが、今の君と私なら、魔力が混じりあっている状態だ。それならば、私が普段装備している状態に近い効果が期待できるかと思ってね」
多少はマシになったか。
常に魔力が注がれている状態を維持するなら、出ていく分が減れば自然と回復に傾くだろうという楽観的な考えはどうも否定されなかったらしい。
男の顔色が少し戻ったのを確認して安堵の息を吐く。
徐々に薄くなっていく拘束の光を見た青年は、腕を伸ばして、崩れてきた男の体を羽織らせた布ごと抱きとめた。
魔力を回そうとしている関係で繋がったままの体勢は制約が多くて面倒だと溜息。
股関節の柔軟性を試されている気分だと軽口を落とし、体勢を整えようと身動ぎして墓穴を掘る。
意図せず力んだ拍子に埋められたままのものを締め付けてしまい、色を纏った声が零れた。
実地でと言ったのは己のはずなのに、告げられた快楽を意識するだけで、どろりと魔力が巡る気配がする。
隠しようがない欲を持て余した青年は己の礼装で包んだ男の肩に額を押し当てて逃げを打った。脱力している体が重い。
「もちっと回復したら、退くから……」
「随分と殊勝なことだ。君ならそのまま寝るのも厭わないと思っていたのだがね」
青年の言葉はわかりにくい許可だ。
辛いのなら気を失うくらい構わないということだが、素直に言えばそれはそれで正気を疑われるのだから作り上げられた性格とは難儀なものだと目を伏せる。
「いや、さすがに突っ込んだまま寝たらオマエの足腰立たなくなって殺されそうだし」
誰にとは言わないが。
同じ想像をした青年のほうも黙り込んで、欲を追うための部屋には不似合いな穏やかさが満ちた。
しばらくは無言で魔力が巡る気配を追っていたものの、暇を持て余した槍兵が口を開く。
「そーいや、なんであの店だったんだ?」
オマエが贔屓にするだけあって美味かったけど。
一度は投げたものの、青年が意識を手放したために答えを得られなかった問いを思い出したように投げて、ほんの少し回復した体を持ち上げる。
「ああ……それは、君が魚を寄越すからだ」
「は?」
「なぜ驚く? 魚は、捌かなければ食べられないだろう」
ぽかんとした顔をお互いに晒して首を捻る。
しばらくそのまま向かい合っていたが、思い立ったように弓兵が息を零した。
「君やどこぞの小僧宅の面々と違って、常に実体化して生活しているわけではない私には調理する場所がないんだ。だが食べ物を無駄にするのは信条に反するのでな。あそこを間借りをして捌かせてもらっている」
そうなった経緯までは必要ないだろうと続けてから、間抜け面を晒している男の顔に気付いて眉を寄せる。
何か可笑しなことを言っただろうかと悩むものの答えは出ず、そのまま男の感想を待った。
「……嬢ちゃんとこはどうしたよ?」
「あそこはこの街でも有数の霊脈地だからな。魔力の補給時のみ出入りを許されているが、その場合は霊体だ。何かを持って入ることはできない」
何を言っているんだといわんばかりの口調で語る青年に対し、男は悪かったと力のない応えを返す。
その後でひっかかった会話を反芻した彼は、嬉しそうににかりと笑った。
サーヴァントには食事の必要はない。それなのに、わざわざ捌けるところを探してまで調理したという事実が男の頬を緩ませる。
「ってことはオレが押し付けた魚だけは食ってたってことだよな?」
「君は人の話を聞いていたか?」
「おう。だって迷惑だって言わなかったからな、オマエ」
微妙に会話が噛み合っていないが、男は気にしないらしい。そうかそうかと頷いてぐりぐりと胸元に懐く様子はまるで犬のようだ。
「だいぶ元気そうだなランサー、ならばそろそろいいだろう。抜いてくれないか」
それ以上の会話を放棄し、お互い思考の彼方に追いやっていた行為の名残を指し示す。
忘れてたと言いながら体を起こした男は、そっと埋めていたものを引き抜いた。一緒に零れ落ちた白濁が濃色の肌を染める。
「大丈夫か?」
「ああ。まだ入っている気がするくらいだな。特に痛みもない……どうした?」
「オマエほんと……それ、相手がオレじゃなかったらこのままひっくり返してもっかい突っ込まれてるからな」
頭を抱える槍兵に、何をふざけたことをと返し、開きっぱなしだった股関節を休ませるように足を伸ばす。繋がりは絶たれたはずなのにまだ緩く繋がっているらしいパスがまるで未練のようで、あえて振り切るように横に転がった男に背を向けた。
ベタつく体。こんな状況で改めて快楽を教えられた事実が濃く残る身を持て余して目を伏せても、背にぶつかる気配がにやけているのは振り払いようもない。
もぞりと気配が動いて、触れたのはおそらく額か。
そのまま放置すれば振り払われないとわかったからか、腕が絡んでくる。背の中心に触れる唇の感触に、意図しない溜息が押し出された。
「保険はもう必要ないだろうに」
「なんだ、気付いていたのかよ」
「いいや。発動するまでは気付かなかったさ。だが、あれだけ派手なことをされればな」
男を拘束するために広がった光の帯の中心点がどこか。辿ればすぐにわかった。そこに触れたのは、熱を煽るでもなく、宥めるわけでもなかった静かな唇。
さっきと同じだ。
まあそう言うなと懲りずにもう一度触れて来るのは黙ってやり過ごす。
深く繋げたはずのパスはもうほとんど感じ取れないほどになっていた。声とも息ともつかないものを零して、礼装が効果を発揮しなくなる可能性に気付いた彼は、絡んでいる腕を取って肩越しに振り返る。
「入って出ないのでは怪しまれるだろう。節約のために霊体化するなら外に出るかね?」
「そうだな……っていっても、さっきから消費が格段に緩い。もう少しこのまま休んでいても平気だろう」
結構無理をさせたし、問題無く行動できるようになるまでは、と。律儀にこちらの回復を待つつもりらしい男に少し呆れて。完全なパスの切断を確認した弓兵は、直後よりもさらに色の戻った白い頬に触れた。
「もう繋がっていないはずだが、礼装の効果は保持されているようだな。戦闘をしないのなら十分、か」
「ああ。正直驚いた。かなり変わるもんなんだな」
この状態でなら支障なく過ごせそうだと告げる男に、青年はふむ、と頷いた。改めて体ごと向き直り、赤い蓑虫状態になっている男と目を合わせる。
真っ直ぐに視線を合わせてくる焔色の瞳が語る言葉に偽りのないことを確認して、少しだけ表情を緩めた。
「ではそのまま君が身に着けていてくれ。概念として装備するなら霊体化にも対応できるだろう」
「オマエはそれでいいのかよ」
「ああ。今の私には纏う必要のないもだ。おそらく、その時までな」
世界はまだ回り続け、繰り返しの終わりにようやく一歩を踏み出したかというところ。そして、その一部に関わっているらしい男は魔力不足に足掻いている。
ならば少しくらい手を貸すのは構わないだろうと考えた己を笑いながら、弓兵は手を伸ばした。
途中から相手の手に誘われ、触れたのは心臓の位置。
意図を察して布越しに感じる鼓動に意識を向ける。
重ねられた手を合図に瞳を隠して、己の礼装の形を相手に委ねる想像をすれば、するりと手のひらから布の感触が消えて、直接肌が触れた。
深く吐き出す互いの呼気が交わる。
ゆるりと視界を開けば、白い肌の上に走る赤。
「は……?」
「おー……こりゃまた派手なことになったな」
のほほんと己の体を見下ろして笑う男に苦言を呈するべきだと主張する自分と、似合いすぎて目に毒だと視線を逸らすことを主張する自分がいるのを自覚する。
触れているのは心臓の位置。
その真上にも通っている赤が指先。それは確かに己の礼装が変化したものだと知覚できた。
なんだってこんなことにと疑問を落とす青年に、男のほうもわからないと応えを返す。
「まあでも……いいんじゃねぇか、これで」
「どこがだ!? これでは……まるで……」
勢いで吐き出した声音は尻すぼみ。言わんとして飲み込んだ言葉を正確に把握したらしい男の笑みに腹をたてる。
「マーキングみたいだってか? おっと!」
言いにくいことをはっきりと告げた男の頭を殴りつけてやろうとしたが、予想していたらしい彼に腕をとられて失敗する。言われた通り、鮮やかな刺青の様相で白の肢体に絡まる赤が己のものだと明確なだけにいたたまれない。
「服着れば隠れるし、そんなに気にする必要もねぇだろ」
他に何か気になることでもあるのかと問われて口籠る。
長い沈黙の後に絞り出されたのは、君はそれでいいのかという呻き。ぐいと顔を寄せて視線を捉えた青の獣が裸体を晒したまま笑う。
「心配しなくてもテメェのコレがオレを縛る鎖になんぞならねぇよ」
「そ……ういう、意味では……」
「へいへい。そういうことにしといてやるよ」
からからと笑った男は、次の瞬間まるで犬のように胸に懐く動作を再開して、話題を有耶無耶にしてしまう。
染みる体温の優しさに耐えかねて遠ざけようとしても許されず、汚れると告げても今更だと笑われて諦めた。
繋がりの名残を容易にその身に刻みながらも、囚われることなどないと言い切れる男が眩しい。
ロンドンに行っていたはずの赤い少女が、繰り返しの中で出された手紙によっていつの間にか帰ってきていることがあたりまえになっていたように。
四日目にした約束を、いつしたかもわからないままに一日目の本人が覚えているように。
この繋がりは繰り返しの中で固定化されるだろうかと考える。
閉じた箱庭で行われるいくつもの可能性、そのひとつを選び取ったが故に、その後からはあったはずの事象として認識されるもの。可能性を狭めていくもの。
いや、固定化と表現していいものか。
全部同時に可能性として見せられれば、普通の人間なら気が狂う。
世界は一つではない。それぞれの世界の可能性は同時並行的に起こり得るもの。だが、それを認識することが難しいただの人間に見せるために、あえて繰り返しの体をとって順に再生される世界。
己の精神をただの人間側に分類する青年は、おそらくそれを為している主にとっては気を揉むだろう繰り返しの時間を肯定できてしまう。
彼自身が見たいもののひとつではあるだろう。だが、己のためではなく情を向けた相手のために彼はそれを選ぶ。
可能性は見た。
大筋からは外れているだろう、だがそれでも確かに命を繋ぐひとつを。
かちり。
どこかでパズルのピースがひとつ、埋まる。
「さーて、そろそろ動けるか……シャワーでも浴びてくるかねぇ」
立ち上がって派手に伸びをした男が肩越しに振り返ったのを見る。赤の帯は背にも広がっているのだなとどうでもいい感想を抱くが口には出さず、ただ綺麗に伸びた背に視線が吸い寄せられた。
なんの気負いもない姿は確かに、宣言通り礼装ひとつなどに縛られないと納得できるだけの余裕が感じられて、少しだけ気持ちが上向く。
「先に浴びてきてくれ」
「立ち上がれねぇなら連れていってやろうか?」
「いや、それには及ばない。私はもう少し様子を見たいのでね」
できれば醜態を晒したくないというのは今更のような気もするが、それでも可能なら介護されるような事態は避けたい。
弓兵の心情を察したのか、男はあっさりとそんじゃお先にとバスルームに消えた。
丸見えのはずのそこが湯気で曇っていくのを確認して脱力する。
こぽり。
気が抜けた拍子に内から溢れたものを意識するだけで叫びそうになり、慌ててシーツに顔を埋めてやり過ごした。
宣言通り一切傷付けずに抱かれたことを思えばそれだけで立ち直れなくなりそうだと溜息。
いっそ霊体化して誤魔化してしまおうかとも思うが、逃げたようで嫌だと面倒な矜持が邪魔をする。
あとはもうなるようになるか、と。
散々悩んだ末に全てを放り投げる選択をして、青年は起き上がった。幸い動けないということはなさそうなのに安堵する。
ぱたん。背後で扉が開閉する音。
「お。立ち上がれるようになったのか。なら風呂いってこいよ。お湯貯めてあるから」
「ああ……そうさせてもらう」
わしわしと乱雑に髪を拭く槍兵の動きは大雑把で、完全に頭からタオルを被った形になっている。
普段ならその動きに文句をつけたくなるのだろうが、今の弓兵にそんな余裕はない。
尻尾のように先端だけがタオルの先から出て揺れているが、視界は完全に塞がれているだろう。今なら顔を合わせなくて済むと安堵し、それを表に出さないように注意しながら、彼の横を通り過ぎてバスルームに滑り込む。
言葉通りお湯の張られたバスタブからは湯気が立ち上って、透明な壁を白く烟らせていた。
なぜわざわざお湯など、と。すれ違いざまに考えたのを一瞬で彼方に放り投げたものの、彼の気遣いが、できれば見られたくないという己の心理を把握していたが故らしいと気付いて勝手に腹を立てる。
八つ当たりだとわかっていてもどうにもならず、適当にシャワーで汚れを落として湯船に入った青年はふわりと立ち上った香りに目を見張った。
否。香りならば浴室に入った瞬間からしているはずだ。なれば、どこか晴れた日の空気のような、たっぷり日を浴びた布団のようなそれは香りではないとすぐに気付く。
じわりと身に染みるのは、お湯に溶けた何か。
構えるだけ無駄だと知っている青年はそのまま湯に身をまかせることを選んだ。
体力を使い果たしたというだけで体に傷はなく、痛みもない。だからこれは、ほんの少しだけ回復を助ける程度のものだろう。無駄に広い浴槽に張られたお湯は横たわってギリギリ体が浸かる程度。溺れる心配をしたな、とそれだけで把握できてしまう自分が憎い。
ゆるりと伸ばした手にこつりと硬い感触。
掬って持ち上げれば予想通り、小さな石の表面に文字が描かれていた。
細かい意味がとれるわけではないが、その石が今の状態を作り出しているのだけは直感的に理解できる。
存在に気付かれたことを厭うように形を崩した石は青年の裡に吸収されるかのように溶け消えた。
男が作り出したものというよりは、彼が彼であるが故に保持している礼装のひとつなのだと理解する。
「さてこれは……礼のつもりなのかね……」
ぱしゃりと水音を上げて、もはや何の変哲もないお湯が張られているだけとなった湯船から身を起こすと、青年は軽くなった体を確かめるようにしながらくつりと笑った。