Plaudite, acta est fabula.

 歌が聞こえる。
 狭い壁に反響して幾つも重なる音は四方から囲い込むように回り込んで、男の耳に届いた。
 建物全体が歌っているような低い声は大地がざわめくようで。
 どこか遠い記憶を刺激する。
 歌詞などない。いや、あっても意味があるものとして頭に入らない。
 ただ、その流れが心地よいことだけは分かった。
「オレ様はこの歌を知っている……のか」
 声の先を辿ろうとして覚醒した意識。瞼を押し上げれば、半身が水に潜っているのに気付く。
 波のようにゆったりと旋律を紡いでいるのは、とうに成人しているであろう、男性の声。
「こりゃ……どうなってんだ?」
 歌に誘われている、と思うのは間違いだろうか。
 まだ水に浸かったままの足先を眺めて、ぼんやりと男は考える。
 やがて、情報が足りなすぎて考えても仕方がないという結論に達した彼は、身軽く水から出ると、改めて音を探すように首を巡らせた。
 その場は綺麗に音が反響するのが不思議なくらい不安定に揺らぐ建物で、よくよく見れば、おびただしい光がそれらを形作っているのがわかる。
 ゆっくりと辺りを見回しながら移動すれば、突然不思議な空間に出た。先にある仰々しい扉は無理やり開こうとしたのか、多少歪んでいる。
 よく見れば空間が霞んで、像と自分との丁度真ん中あたり、左右に広がった壁が揺らいでいた。
 その前には、周りの壁と同じように揺らぐ石の像。
 厳しい中にもどこか暖かな表情を持つそれにどこか見覚えはあったものの、名を思い出すことは出来ずに、男はただ黙って向き合った。
 見上げる表情から笑みは消え、どこか切なさを帯びた瞳が揺れる。
 あたりには歌だけが響いていて、無数の光たちが行き場を失ったように渦を巻いていた。
 ざわり。
 男が像から視線を外し、辺りを見回せば、呼応するように動いて、安定しない景色を修復していく。
 一瞬の後にその場にあったのは、変わらず響いている歌と、石と機械が入り混じった荘厳な建物。
 唐突に。見える範囲すべてに一斉に明かりが灯って男は目を眇めた。
 しっかりと光の元に晒されたことで、あたりの景色を認識する。自然と浮かび上がるのは、記憶の中にある名前。
「ベベル……」
 反射的に自らの口から零れた名前に、覚えがあった。
 誰かに教えてもらったという認識が確かに存在する。だが、繋がるはずの記憶は曖昧すぎて繋がらず、男は舌打ちを洩らした。自分が自分であると。辿るべき記憶、己の寄る辺が曖昧なことは、人間にとっては不安を煽るものでしかない。
「オレ……オレ様はジェクトだ」
 ザナルカンド・エイブスの選手であり、ブリッツボール界の王。
 思い出したと言うべきか、己を定義するために与えられたと見るべきか。最初の認識はどこからともなく浮かび上がり、男の胸に落ちる。
 ブリッツは水中でやる競技。水中格闘技とも言われるほど激しくボールを奪い合い、他のメンバーにパスを繋ぎ、時には相手をタックルで薙ぎ倒してゴールを狙う。
 それの王、というのはチームの要でもあり、最も得点に絡み、数多くシュートを決める者ということだ。
 ブリッツボールという競技が己の根幹に深く関わるものであると、知らないのに知っている。ただ、競技そのものがなんであるかを思い出したことで、固く絡まった紐の端がほんの少しだけ解けたような気がした。
 ジェクトは己の体、胸元のあたりを見遣る。ブリッツボールとは何かを思い出したことで、そこに大きく描かれたものが、己の所属するチームのマークであるとすんなり認識できた。
 水面を覗き込めば、紅玉の瞳を持った無精髭の親父面が目に入る。記憶がなくても、その姿は自分のものだと言う認識はちゃんとあって、ジェクトは安堵の息を洩らした。
 ざわざわと揺らめく光は、一瞬だけあたりを光溢れる高層都市へと変貌させ、また廃墟へ。
 そしてベベルと言う名の建物へ。
 瞬間的に感じた違和感は、追うことも出来ずに霧散して、ただ穏やかで柔らかい響きの声が紡ぐ歌だけが強く耳に返った。
 同じ歌だ、と思う。
 好きだと言ったジェクトのために、ベベルで出会った友人達が歌ってくれた旋律。
 歌い手が変わるだけで随分と印象は違うが、間違いなく同じものだ。
 何でも器用にこなすくせに歌は下手なのだなと、からかうように告げられた声まで思い出してジェクトは眉をしかめた。
 自分をからかった声の主は、靄がかかったかのように思い出せない。ただ、穏やかな思いだけが満ちて、現状ではそれでいいかと追うのを諦めた。
 さて、と。首に右手を当てて左右に傾け、その後で肩をぐるりと回すと、男は扉に向かって歩を進める。光で出来ているらしい不思議な景色は、彼の動きに合わせて揺らぎ、色を変えていった。
 一瞬だけ立ち止まって歪んだ扉の表面を撫でると、それをこじ開ける。ジェクト自身は知らなかったが、その扉は、彼の息子が、全身に鮮やかな青の毛並みを持ち、獣の姿をしたロンゾ族という種族の青年と共に、無理矢理こじ開けたものだった。
 扉も、像も。この場の風景が彼の記憶から派生したわけではないことを証明するものではあるが、己の存在すら曖昧な今のジェクトでは、その事実に気付くことができない。そして、今はすんなりと道を開いた扉は、己の中にあるどこかの記憶が期待していたものではなく、唐突に広がった終わりの風景を浮かび上がらせた。
 遠くで己の体に刻んだマークと同じ形をした炎が揺れている。
 扉から真っ直ぐに続くのは、道の果て。
 ジェクトは思わずというように顔をしかめた。
 歌が止む。