白金の支路

まずい。これはまずい。
目の前に迫る巨体を見ながら、青年は必死に頭をはたらかせる。
潜入の下準備として小さな町に入ったはいいが、まさか白虎の領土の中でもこんな辺鄙なところで事故ともいえる状況に遭遇するとは思わなかった。
「死んだフリなんかしても……見逃してくれる相手じゃねぇよなぁ」
ちゃりり。
ぼんやりとした呟きを肯定するかのように胸元で偽りのノーウィングタグが鳴く。
荒れ狂う風は冷気と一緒に雪の欠片と小さな火の粉を渦にして青年の頬に吹き付けた。
チカラ、ちから、と。うわごとのような声が響く。
近く影が落ちて、青年の体はその闇の中におさまってしまう。急に体感温度が下がった気がした。
逆光と、面頬付きの兜に阻まれて相手の表情を窺い知ることは出来ない。だが、鎧に包まれた大柄な体格と、それに見合った巨大な剣を見れば、相手が玄武の者であることはすぐに分かった。
国は白虎のアルテマ弾によって消え去ったが、玄武の兵すべてがそれで滅びたわけではないだろう。
そう考えれば、存在すること自体はおかしい話ではないのだが、それにしては様子がおかしかった。
ふりかぶられた剣の先で、青年は呆然としたままそれを眺める。
どうにも逃げきれるイメージが沸かない。
渦巻く火の粉と雪。隙間から洩れたような光が鎧の端に灯って、ぼんやりとした残像を残した。
『伏せろ!!』
響く声は機械的なノイズを伴って青年の体を押す。すぐに空を切る音が続いて、その風圧が彼を地面に縫い付けた。
新手に気を取られた巨体の影が遠のく。
「な……っ!」
地面に張り付いたまま、わずかに視線を上げた先で、幾つもの爆発が起こる。爆風に煽られながら、青年は飛来したものの正体を把握した。
なんでこんなところに、と。彼が零したのは無理も無いだろう。
謎の玄武兵と対峙しているのはミリテス皇国の飛行型魔導アーマー・ヘルダイバー。
一機だけとはいえ、他の魔導アーマーに比べれば元々の数が少ない上に操縦が難しい機体は、精鋭部隊にしか配置されていないはずで、辺境に気軽にやってくるようなものではない。
相手を警戒するように慎重に立ち回る様子からは、操縦者も相当な手練だということが分かった。
その機体が、玄武兵を徐々にこちらから離すように動いているのを見てとって、青年はそっと立ち上がる。
ヘルダイバーが単騎で辺境にいるということは考えられない。ならば飛来してきた方向に所属部隊がいると考えるのが正しいだろう。偵察のつもりで飛来したのなら申し訳ないが、あきらかにこちらを逃がす意図を持っている相手に対して遠慮をする必要もなかった。
幸い怪我はかすり傷程度で酷くはない。
己の状態を確認すると、青年は少しずつ後退し、出来る限りその場を離れることに集中する。
足で逃げられる範囲などたかが知れているため、乗り捨てられた車に頼ることも考えたが、壊れた瓦礫が散乱する中ではかえって進めないと判断して彼は己の足でそれを越えた。
「できればこの瓦礫の先に車があってほしいところだけどねぇ」
ぼやきは吹き付ける雪に紛れて風に流される。
そんなささやかな希望は、壊れた壁の下敷きになった車がいくつも横たわり、町の入り口を塞いでいる現実に打ち砕かれた。
深い溜め息を一つ。
仕方がないというように瓦礫の山に挑み、頂上に立ったところで強い風に煽られて後ろを振り返った。
ごう、と。
音を奪うように風が唸る。
「あ……」
視界の先、近付いてくるのが先ほどのヘルダイバーだと気付いて、青年は咄嗟に瓦礫伝いにまだ壊れていない建物の屋根まで移動した。
どこかよろよろと近付いてくるそれは、建物の上に居る青年の姿に気付くと、すぐ近くまで来て空中に停止する。着陸しないのは、それをするための脚部が破損しているためだと分かるが、大きく抉られた前面は、あちこちから火花が噴出し、動いているのが奇跡のような状況だった。搭乗ハッチは半ばから千切れて残りはぶら下がり、そこから伸びる裂け目の向こうに搭乗者が見える。
爆音の中、わずかな仕草だけで来いと告げられて、青年は即座に従った。ここに残っていても、足で逃げても死ぬ確立のほうが高いなら、迷っている暇は無い。
開いた穴から体を捩じ込み、一人用の狭いコクピットの端に無理矢理収まる。中は計器もモニターも破損しているためにさらに暗かった。座席の端に付いた手に触れたぬるりとしたものはきっと搭乗者の血液なのだろう。
なんとか邪魔にならないようにと体勢を捻じった青年に対して、搭乗者の男は意外な声をかけた。
「オレの手ごとでいい。操縦桿を握れ」
「えっ、あ……これか?」
慌てたふうを装って男が示したものを探す青年だが、本当は知っている。さすがに飛行タイプに乗った事は無いが、知識はきちんと頭に入っていた。
そうだ、と。頷いた男は、ゆっくりと握って両方同じだけ前方に倒すように指示する。
「なんで……!」
言いかけて、気付いてしまった。
「……悪いな、オレはもう力が入らん」
自嘲の笑みとともに落とされた言葉は力なく、ただ気力だけで意識を保っているように感じる。
「真っ直ぐ飛べばオレの居た部隊が居る。様子がおかしいことに気付けばどうにかして止めてくれるはずだからそれは気にしなくて良い」
説明のための声には荒い息が混じり、彼が相当無理をしているのが分かった。おそらくは報告するまでは死ねない、と。そう思っているのだろう。
「分かった」
頷いて、青年は改めて操縦桿を握って前に倒した。
ぱちり。
火花が髪の端を灼く。
きちんと左右同じだけ倒さなければまっすぐに飛ばない。ほとんど息だけで告げられた言葉に従って、ゆっくりと前に倒していく。不慣れな者が慎重に操作する分だけ不安定さは増すが、それでも徐々に速度を上げ、雪原を駆けるヘルダイバーは、青年が慣れるに従ってそれなりに安定して風を切った。
振り返ることも出来ないから確認する術は無いが、どうやら玄武兵と思われる巨体が追ってくる気配は無い。
そのうちに、雪の中に唐突に黒い点が見えた。近付くにつれ、魔導アーマーと思われる機体と、軍用テントの集合体だと認識できる。
「あれか?」
問いに返事は無いが、墜落する危険性を考えれば両手は操縦桿を握る手を離せない。
身動きもろくにとれない状態で、それ以上同乗者を動かすことなど出来なかった。
「……ッ!」
ひときわ大きな火花が上がり、咄嗟に目を閉じて眼球を庇う。その間に、何機かの機体が飛び立っていた。
中でも目を引くのは真っ黒な機体。
確かにヘルダイバーを元としているのは分かるのに、その動きは他の機体とは明らかに違う。
急速に近付いた何機かは、青年が乗った機体を囲むように速度を合わせた。
裂け目が酷い右方向、少しだけ前寄りに、先程の黒い機体が寄り添う。
『聞こえますか』
拡声器ごしの声は、風にかき消されながらもなんとか青年の耳に届く。
隊長機だと、それで分かった。
「隊長さん自らお出ましとはね」
皮肉る口調はどこか楽しげ。同乗者が絶対に聞いていないのを把握した上で青年は苦く笑った。
『可能なら速度を緩めてください。返答が無ければ不可能と判断して無理矢理止めます』
「簡単に、言うなよ、なっ!」
操縦桿の傾きを直そうとはするものの、既に意識の無い男の腕が伸び切っているためにうまくいかない。
拡声器のスイッチもどこかにあるはずだが、そこまではさすがに把握してはいなかった。
男の腕を引き剥がすのも難しく、ほんの少し速度を落としたにとどまった機体に、時間切れの声が届く。
『まだ意識があればしっかりと掴まっていなさい……やれ!』
丁寧ながらも厳とした命令に即座に従った二機が、青年の乗った機体の周囲を回り、鋼鉄製のワイヤーで搦め捕る。
「……なんだ?」
狭い視界と音のみの情報しか与えられず、状況を確認する事が叶わない青年は、疑問の声を落とす。
『いきますよ』
青年からは確認出来ないが、先ほどの隊長機が腕を持ち上げた。至近距離からの砲撃は発射の衝撃を利用して後部推進ユニットを破壊し、制御を失った機体は絡め取られた紐に縋ってだらりと垂れ下がる。
「う、わ!」
ぬるり。
衝撃をやり過ごすために掴んだ座席が滑った。
破損した搭乗ハッチは青年の足を支えず、そのまま投げ出されそうになるのを止めたのは、やはり破損した機体の一部。鋭く隆起しているそれが、深く肉に食い込むことで、皮肉にもその場に搭乗者の体を留めた。
悲鳴を上げた青年に、驚いたのは周りの方。
破損したハッチから予想外に民間人の脚が覗けば、誰でも驚く。
『隊長!』
『落ち着きなさい。可能な限り急激な動きを避けて高度を落としながら仮設基地に移動します。五分です。もちますか』
後半は青年に対する問いだった。答える術が無いのを見越して、可能なら右足を振れと続ける。
言われた通り、痛みを堪えて右足を振った青年は、相手をかなり地位の高い将校だと判断した。ゆっくりと動く機体にまだ肉を噛まれたままで、立て直す方法を必死に考えるが、どうしても揺れる機体に振り回され、痛みに思考が拡散する。
統率のとれたヘルダイバー隊は、隊長機が約束した通り、青年が落ちてしまうほど強い衝撃を与えることなく基地に近付いた。徐々に高度を下げ、破損した機体に人の手が届く程度の高さで制止する。
それでも、複数の男達の腕に助けられて地上に降りた時には、彼はだいぶ血を失っていた。
「なか、に……まだ……」
声が掠れる。
途切れながらも、必死に言葉を紡ぐのは己を助けた男をまだ覚えているが故。
「分かっている、任せろ」
請け負う声は強く、肩を抱く腕は温かい。
怪我人として運ばれながら、青年は意図的に意識を手放した。