姿沃

タァン……
一発だけ放たれた銃声が開始の合図だった。
薄寒いコンクリートの廊下の角。ちょうど鉢合わせた相手を問答無用で片付ける。
物言わぬ骸となって床に倒れた彼はおそらく何が起きたかすら把握する間も無かっただろう。それほど放たれた銃弾は速く、正確だった。
銃を撃つ瞬間に身を捻った時に一瞬宙に浮いた長い前髪が目元から頬に沿うように落ちて視界を奪う。
その髪を軽く撫で付けて体勢を立て直したのは夜の色を纏った背の高い男だった。両手に握られた彼の牙はいつでも敵を撃てる状態で辺りを見回している。
彼以外の気配が絶えた空間に突然携帯電話の電子音が溢れた。
普段使い慣れている己の物ではなく、突入する前に預かった同僚の電話。支給品であるそれは普段使っているものと全く同じ型のはずなのになぜか手に持つたびに違和感が拭えない。機械にも所有者があり、自分の物で無ければたとえ全く同じものであってもそれは他人の物なのだな、と意識する瞬間。
「シリルか?」
電波越しの声は本来の所有者ではないはずの青年の名を迷い無く呼んだ。思い当たる相手は一人しか居ない。
「リタか」
つい先ほど別れたばかり。別ルートから潜入を果たしているはずの同僚の声に、呼びかけられた青年は確認するように相手の名を紡いだ。
「どうした。何か問題でも……?」
「いや、問題があるのは私じやない。ジェイドだ」
今、まさに正面の入り口付近で暴れているだろう、シリルが使っている携帯電話の本来の所有者の名を出されて面食らう。
「ジェイドがどうした?」
「隠れてやりすごした集団が正面に向かっていった。すごい人数だ」
タークスに入る前は傭兵をしていたと言う彼女は、自分と相手の実力をきっちりと分析する。また、人数差を甘く見ることも無い。
いくらジェイドが強いと言っても、相手をする人数が多ければ疲労するし、疲労すれば動きは鈍る。
そういった予想がすぐ立つほどだったのだろう。
いつものように冷静に分析したであろう彼女が焦って電話してくるくらいだから本当に文字通り『すごい数』なのだろうと知れた。
「シリルは既に潜入しているんだよな?」
「ああ……」
返事をしながら先立って本部から送られてきた建物の見取り図を頭の中に展開する。
「ここからなら戻るより突っ切った方が早い。ついでに中の連中もこちらに引きつける。あんたは予定通りディスクデータの抹消の方を頼む」
「承知した。それは任せておけ。幸いジェイドが思いっきり派手に暴れてくれたお陰でこちらはガラガラだ」
「ああ」
ジェイドが倒れれば建物内で分断されて孤立し各個撃破されるという事態も有り得る。
何より、この任務の目的は拠点を潰し社長への襲撃を阻止することと、指示されたデータディスクのオリジナルを抹消すること。みすみすその片方を許すようなことが出来るはずも無い。
では、と互いの無事を祈って電話を切る。あらためて銃を構え直すと、シリルはさきほど頭の中に描いたルートを辿るように建物内を走りだした。
「敵だ! 既に侵入され……」
「邪魔だ」
「ぐあっ」
増援を頼もうと声を上げた敵の急所を撃ち抜いて言葉を遮る。それでも繋がったままの回線は、彼の最後を伝えてしまっただろう。
大きく響いた断末魔が何よりも雄弁に緊急事態を告げるサイレンの役割を果たす。もう一発弾丸を撃ち込んだシリルは軽く舌打ちすると次が来るまでの間に距離を稼ぐべく、地を蹴った。
「敵だ! 北側入り口から侵入されたと思われる。正面と併せて必ず通る必要のある北側通路に展開しろ。合流させるな。作戦開始までもうほとんど間が無い」
さっさと片付けろ! と叫び、叩き付ける様に通信を切った所で、男の意識は途切れた。
司令室、とでも言うのだろうか。それよりは単純に通信室だろうか。
目的だったサーバルームに隣接するように設けられた小さな部屋の中に男が一人。
どうやらこの拠点の頭らしい彼を華麗な回し蹴りで壁と接吻させて、金灰色の髪の女性がそれまで男が立っていた位置に着地した。
重力に逆らい、中空に広がっていた長い髪が、後を追うように彼女の肩に落ちてくる。
既にここまで敵が侵入しているのだと教えて注意を向けさせるわけにはいかないため、男が通話を終えるのを黙って待つしかなかった。彼女は耐えるようにわずかに苦痛に似た表情を見せる。
シリルとの電話を切った後もほとんど敵に見付かること無くここまで辿り着いたリタだった。
「ジェイド、シリル。無事で居てくれ」
祈りのような言葉を零し、目的であるサーバルームの入り口を見据える。
当然といえば当然だが、鍵がかかっていることを確認して彼女は息を吐いた。
「壊すしか無いか」
視線を伏せ、呼吸を整える。
「ハッ!!」
気合と共に繰り出されたリタの蹴りに、ドアは蝶番を振り切って飛び、部屋向こうのサーバラックに激突して断末魔の悲鳴を上げた。
どうせ壊すつもりなのだから構わないとはいえ、少しやりすぎたかと苦笑する。
「こちら側一帯はネットワーク用のハブだから、ファイルサーバはこれだな」
近くの調整用端末の前に立ち、ログインを試みたものの呆気なく拒絶され、不正侵入を警告する画面に切り替わってしまう。元より自分の機械に対する知識が高くないことを理解している彼女は、すぐにそれ以上の侵入を放棄した。内側からの消去が無理なら入れ物ごと外から破壊するしかない。
誘爆を計算して持参した爆薬を念のため見えにくい位置に設置し、カモフラージュのために外とハブとを繋いでいる回線の終端装置を破壊する。
そこまで済ませてからリタはサーバルームを出た。