墓香

香うは花か貴方の命か。
暗闇に漂う香が思い出させるのは何時も貴方で。
何度拭っても拭いきれないのは残された言葉とこの手に染み付いてしまった貴方の匂い。
ここにあるのは花の香と貴方の抜け殻と緑の声で。
あの春の熟した温もりがこの頬を伝っていく……

梅の香が辺りを染めていた。
最後の刻を惜しむように。
桜が咲き始めて、もうすぐ色濃く漂うこの香も薄れていくのだろう。
仰いだ空は抜けるような青で、枝をかいくぐって地上に辿り着いた光は我先にと争う下草に吸い込まれて消えていった。
街の喧噪は遥か遠く、この場所までは届かない。
秘密の場所。
その、どこか淫靡な響きに魅了されたのはもう何年前からなのか。
春は貴腐の香、
夏は紺碧い嵐、
秋は黄金の実、
冬は白銀の柩、
この場所にたゆたう四季の顔……
何より……
「こんにちわ」
涼やかな声とともに、羽音が降ってくる。
「こんにちわ」
自分も挨拶を返して彼女が降り立つ様を見守る。
「毎日のように此所に来ているんだね。面白い?」
「面白くはないけど、静かだから……心地良い」
人生を悟り切った老人みたいな事を言うんだね、そう言って彼女は笑った。
少年と女性が混ざったような話し方は僕の時計を昔に戻してしまう。
山の中を一日中駆け回っていたあの頃……
あのころと違うのは、虫取り網も、虫カゴも持っていない事。
ただ、日がな惚けて過ごして……ときたま顔を出す彼女と話をするだけ。
最初は驚いた。
もう、物の怪や幽霊の類いが信じられなくなったこの世の中に、まだこんなモノが居たなんて。
夜を溶かし込んだような闇色の髪。
月光を集めた瞳。
そしてその背を彩る白い翼。
信じなくて構わない、と最初に言った彼女は、今は僕の隣で笑っている。
少しずつ、自惚れが強くなる。
彼女が隣で寛いでいるのを見る度に。
前から聞いてみたかったんだけど、と前置く。
振り向いた彼女を見詰めて言葉を繋いだ。
「僕が君に危害を加えるって考えは無いの?」
彼女の表情に驚きがともる。……これは当然。
次に浮かんだのが笑いの気配。……それは意外。
「あなたが私に危害を加える気があるならとっくにそうしていただろ? そして、これからそんな素振りをみせるなら幾らでも対処の方法があるよ」
空に逃れるのが一番確実な方法かなぁ。
のんびりとした彼女の言葉と笑い声が耳朶をくすぐる。
僕が危害を加えないと信じたい、オロカな君……
「本当にそう思うの?」
「今日はひねくれものなんだね。あなたはあまり危険な人には見えないけど、それでも人間が誰でも持っている黒い部分を見ない振りするほど私は親切じゃないよ。あなたでも例外なく」
僕は笑った。
彼女の言葉は僕が危惧していた事と重なっていたから。
…誰でも黒い部分を持っている。
そこは、
どろどろしていて、
醜くて、
顔を背けたくて、
自分だと信じたく無い場所。
……瞼に踊るのは無数の翅
それを悟られるのが恐いなら嘘をつけば良い。
彼女にじゃなく、自分に。
いつか君を殺してしまいそうだ、なんて。
その綺麗な羽根が欲しい、なんて。
悟らせないで。奥深くにしずめてしまえばいい。
それとも、今叶えてしまおうか?
「じゃぁ君は大丈夫だよね。死んでしまわないよね」
「うん。大丈夫だよ」
笑顔のままで請け負ってくれた彼女を、僕は何回も殺すんだ。
真剣な顔で、研究者ぶって。
……その美しい翼を自分のものにしたくて。
僕は想像の中で彼女の胸に虫ピンを刺すんだ。
ああ、でも彼女は大きいから普通のじゃダメだ。
何がいいだろう。考えなくちゃ。
そういえば乾燥はどうしようか。
羽根だけ、綺麗にとれないかな。
大事に、大事にするのに。
……おしゃべりで気まぐれな生き物より、静かで綺麗な死者がいい。
「どうしたの?」
急に黙ってしまった僕に怪訝そうな顔を向ける彼女。
それに気付いて、僕も思考を現実まで引き戻す。
「なんでもないよ。ちょっと考え事してただけ」
ふうん……そう言って空を見上げた彼女の髪が地面の草を撫でていく。
風が髪の間で鬼ごっこしてる。
彼女が何気なく話す言葉は、風の声。
髪の間で戯れる風は、それに引き寄せられてきた虫達だろうか。
僕もそれらと変わらない。
ただ、理屈を持っているだけ。
野蛮な考えをもっているだけ。
鳥が飛び立つ。
その羽音に僕はまたはっとさせられる。
時間は戻る訳じゃないのに。
この手に触れたモノは、真実だったのだから。
……理由も言い訳も欲しくない。
ただそうしたかっただけだから。
彼女の抜殻は悲しそうに瞳を伏せて、もう僕を見ない。
その彼女の生命が流れ出して僕を染めていくのに身を任せて……
それでも僕は歩いていく。
知らないふりをして。
綺麗に手を洗って、服を着替えて。
何ごともなかったようにまたあの街に戻っていく。
そして数知れぬハネだけがこの場に埋められていく。
……そう、ここは僕が葬ってきた蝶達の墓場だから。

コピー本で出したもの。
名前もない少年と羽もつ少女。こういう系統の話が実は好き。

2005/01/01 【Original】